沖縄戦 沖縄戦についてのアメリカ軍による評価

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沖縄戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 13:22 UTC 版)

沖縄戦についてのアメリカ軍による評価

アメリカ軍従軍記者として沖縄戦の最前線で取材し沖縄戦に関する本も執筆した軍事評論家ハンソン・ボールドウィン

圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評した。「沖縄作戦の主な戦訓」と題されたアメリカ軍の秘密報告書においては「この戦いはアメリカ軍にとって史上最大の激戦のひとつになった」とも評された[436]

アメリカ陸軍省戦史局編集の公式報告書「OKINAWA: THE LAST BATTLE」での総括は「沖縄で支払った代償は高価なものであった。アメリカ軍の死傷者の最終的な対価は、日本軍に対するどの方面作戦で経験したものよりも高かった」「勝利の高い代償は、予想以上の強力な戦力を持って巧みに先導された日本陸軍と戦ったこと、厳重かつ巧妙に要塞化された難しい地形を越えたこと、故国を何千kmも離れて戦った事実によるものだった」「作戦は予想していたより遙かに長引いた」など、苦しい戦いであった事を指摘した上で「だが、アメリカ軍は、希望するどんな土地も最後には日本軍から奪うことができることを沖縄で示した」と激戦を勝ち抜いた自信も示している[437]

またアメリカ海兵隊の公式活動報告書でも「(日本兵は)よく訓練され、統制もとれた陸軍兵士で、特に士気の高さと、身体能力の高さは特筆すべきである」とか「日本軍の兵士は常に頑強で機知にとんだ戦法で戦い、絶対に降伏しなかった」等、その能力を高く評価している[438]。シュガーローフの戦いで名誉勲章を受賞し、のちに在沖縄アメリカ軍司令官となったジェイムズ・L・デイ英語版少将は、自分の経験から「日本軍の将兵は素晴らしい男たちであった。航空部隊による直接の支援もなければ、海軍部隊による支援もなく、事実上何の支援も受けられない状態で戦うには、非常に柔軟かつ巧妙な戦闘指導が要求される」と日本軍将兵および前線指揮官の優秀さを評価している[439]

前線のアメリカ軍兵士も、当初は人種差別と憎しみから「日本兵は、がに股で飛び跳ねながら猿のように金切り声を上げたり、豚のように鳴いたりする奴らと思っていた」という偏見を持つ兵士も多かったが、シュガーローフなどの激戦を経て「日本兵は極めて統率のとれた集団だ」とか「日本兵は実際に見ると落ち着き払っており、アメリカ軍海兵隊員と同じ顔つきだった」という印象に変わっていき、更に日本兵への畏敬の念が行き過ぎて「日本兵を大したことがない、なんて抜かす奴がいたら俺が撃ち殺してやる」と新兵を怒鳴り散らす小隊長もいたという[102]

アメリカ海軍は特別攻撃隊に沖縄戦中終始苦しめられ、アメリカ海軍史上最悪の損害を被ることになった。そのためニミッツは、この後に計画されている日本本土侵攻作戦「ダウンフォール作戦」の展望について悲観的になっており、上官にあたるアーネスト・キング海軍作戦部長に下記の様に報告している[440]

日本軍が準備された防御陣地に布陣し補給が受けられる所では、我がアメリカ軍の最優秀部隊が、従来になかった強力な航空支援・艦砲射撃・砲兵支援のもとに攻撃しても、遅々たる前進しかできないような強力な戦闘力を発揮する事が沖縄の実戦で証明された。日本軍はまとまった人数で降伏したことはなく、わが軍が膨大な死傷者を出すことなく日本軍部隊を撃破する事は不可能である。南九州や関東平野の様な攻撃目標となっていることが明らかな地域が、沖縄の様に堅固に防御されていないだろうと期待することは非現実的と言うべきであろう。

歴史家ジョージ・ファイファーは、アメリカ側の沖縄戦書籍としては、最も詳細なものの一つとなる著書 "Tennozan: The Battle of Okinawa and the Atomic Bomb" の中で「前年の夏にノルマンディを防御した一部のドイツ軍部隊は、極めて多い死傷者にも関わらず、持ち堪え、逆襲すら行って、連合軍指揮官に強い感銘を与えた。しかし、ドイツ軍の兵器の多くは日本軍のものと違って、対抗する連合軍の兵器より優れていた。暗い見通しに関わらず、優れた戦術と忍耐で戦ったドイツ機甲師団も、沖縄で日本軍が示した離れ業には匹敵できなかった(中略)このような状況にくじけることなく、多くの死傷者が出るという悲劇にも耐える事ができたのが日本陸軍だけであったろう(中略)驚くべきことは、組織や軍紀が低下せず、これほど長く保持されていたことである」とノルマンディー上陸作戦のドイツ軍と沖縄戦の日本陸軍を対比し、日本陸軍が夥しい損失にも関わらず、最後まで組織的な戦闘を継続したことに驚嘆している[441]

沖縄戦が終わると、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルはアメリカの大統領ハリー・S・トルーマンに向けて「この戦いは、軍事史の中で最も苛烈で名高いものであります。我々は貴方の全ての部隊とその指揮官に敬意を表します」と慰労と称賛の言葉を送っている[442]

従軍記者としてピューリッツァー賞を受賞し、沖縄戦も取材した経験を持つアメリカの軍事評論家ハンソン・ボールドウィン英語版は沖縄戦を振り返って、下記のように総括している[443][444][445]

その規模、その広がり、その苛烈さにおいて バトル・オブ・ブリテンすら影の薄いものとした。飛行機と飛行機、水上部隊と航空部隊の間で、これほど凄惨な、独特の死闘が行われた事は、後にも先にもない。これほど短期間の内に(アメリカ)海軍がかくも多くの艦艇を失ったことはなかったし、これほど狭い地域でかくも短期間内に、これほどアメリカ軍の将兵の血が流された事もない。おそらく3ヶ月の間に敵(日本軍)がこれほど大きな損害を被った事もかつてなかったであろう。(中略)陸戦としては、もっと大きい会戦もあったし、もっと長期に渡る航空戦もあったが、沖縄作戦は最大規模の統合作戦であり、海上、海中、陸上において仮借のない戦闘が継続されたのである。沖縄戦は人間の忍耐力と勇気の叙事詩であった。日本軍の攻撃は創意に満ち、決死的であった。これに対しアメリカ軍が防衛に成功し、沖縄攻略に成功したのは卓越した補給、作戦計画およびその断固たる実施によるものである。

なお、ボールドウィンは、戦後、沖縄戦の陸軍の司令官、牛島満大将について「太平洋戦争を通じて日本には二人の名将がいる。陸の牛島、海の田中(海軍中将田中頼三提督)」と評している[446]

沖縄戦の作戦指揮に対するアメリカ国内での批判

沖縄戦中に設置された従軍記者のプレスクラブ

沖縄戦には、戦死したアーニー・パイルを含む多くの従軍記者が軍の作戦に帯同しており、現地から詳細な報道を行っていたが、今日でもその記者らが残した写真や映像が大量に残されている[447]

その数はカメラマンや映写技師などのスタッフも含めて「一個大隊」に達した[448] とも言われる大人数であったが、報道の自由はある程度保証されており、軍の指揮に対する批判も容認されていた。

中でもニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の従軍記者ホーマー・ビガードが首里防衛線での攻防でのアメリカ軍の苦戦を報道した際に、第10軍司令バックナー中将が海軍や海兵隊らの防衛線背後への再上陸案を採用せずに、正面からの正攻法を採ったことを、フットボールの試合に例えて「エンド・ランの代わりに、ラインの真ん中に突っ込む様だ」と揶揄した事で、バックナーの指揮への批判が浮上し、ワシントン・スター紙がコラムで「沖縄での軍事的大失敗に関する真実(中略)なぜに揉み消されるのか」と痛切に批判したことから議論が白熱した[449]

連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーも論戦に加わり「バックナーは、日本軍が撤退後に南部を攻撃する必要はなかった。牛島中将の残存部隊を沖縄の一部に閉じ込めておいても、沖縄は日本侵攻の基地として十分使用でき、バックナーのゴリ押し戦略よりも損害は少なくて済んだ」とバックナーを非難している[450]。ヴァンデグリフト海兵隊総司令も 、保守系新聞「アメリカン・デイリー」の社主デイヴィット・ローレンス英語版との対談ではバックナーに批判的な発言をしていた。また、この対談後にローレンスは沖縄作戦を失敗と断じ「真珠湾を上回る、無能ぶりを示した事例」とバックナーを舌鋒鋭く批判している[451]

一方で陸海軍の対立を懸念し、海軍はバックナー批判沈静化のため、フォレスタル海軍長官、ミッチャー第58任務部隊司令など中央から現場までの有力者がバックナーを擁護する声明を発表している。特にニミッツは、沖縄で作戦会議をした際に、バックナーの挑戦的で不遜な態度に激昂し、更迭を匂わす厳しい言葉を浴びせたこともあったが、グアム島で戦時中では異例となる76名の記者との沖縄戦での問題点の公開討議を開催し、その討議でバックナー擁護の姿勢を示し、陸海軍対立の芽を摘み取ろうと腐心している[451]

沖縄戦による大損害は、後にアメリカ議会でも問題となり、議会は軍に作戦指揮に対する調査を指示している[452]

以上の様に、アメリカの沖縄戦に対する軍事的な評価は思いのほか低く、政治学者五百籏頭真は戦後にアメリカの公文書を調査していた際に、アメリカが沖縄戦と先の硫黄島の戦いについては、アメリカの方が敗者意識を持っている事に驚いたと著書に書いている。[453]


注釈

  1. ^ アメリカ軍の基準(現NATO基準)では負傷が原因で後日死亡した兵士、戦闘期間中であるが事故や病気で死亡した兵士は含まれない[14][15]
  2. ^ 本土決戦は1945年(昭和20年)1月の『帝国陸海軍作戦計画大綱』、『決戦非常措置要綱』等を元に同年後半を想定して決戦準備がなされていた。
  3. ^ 日本語の呼称「鉄の暴風」は、1950年(昭和25年)に刊行された沖縄タイムス社編『鉄の暴風』に、英語での呼称the Typhoon of Steel(鉄の台風の意味)はベローテ兄弟の同名の著書にちなむ。
  4. ^ アメリカ軍の戦死者が12,520人という資料があるが[16] これはアメリカ軍の基準(現NATO基準)で、「即死、または医療施設への到着前に負傷が原因となり死亡した、戦闘犠牲者」と定義されているため、負傷が原因で後日死亡した兵士、戦闘期間中であるが事故や病気で死亡した兵士は含まれていない[14][15]
  5. ^ 最低では8,607人説もあり[39]
  6. ^ 独立混成第15連隊は1944年7月に沖縄に到着以来、12月までに7度も配置変更になっている[67]
  7. ^ もともとは、沖縄守備軍長勇参謀長が、八原博通高級参謀や諫山春樹台湾第10方面軍参謀長の前で、台湾や沖縄の島嶼守備軍を評して「われわれは結局本土決戦のための捨て石部隊なのだ。尽くすべきを尽くして玉砕するのほかはない。」と言ったとされる[77] など、日本軍将校達が、大本営の沖縄戦での作戦指導や自らの置かれた立場を表して「捨て石」と言ったことに由来する。
  8. ^ 第9師団の砲兵部隊が75mm山砲36門の装備に対し、第24師団の砲兵部隊は15cm榴弾砲12門、10cm榴弾砲16門、75mm野砲8門であった。
  9. ^ 太平洋戦争前にアメリカに遠征して異種格闘技戦を戦った講道館柔道家の1人が前田光世である[89]
  10. ^ 甲号戦備とは敵の上陸攻撃あれば、直ちに戦闘ができる体制のこと。
  11. ^ アメリカ軍公式記録では機雷による沈没となっているが、戦後しばらく経ってからの調査で甲標的丙型の雷撃による撃沈の可能性も高い事が判明した[135]
  12. ^ 奇しくも誠飛行隊の隊長伊舎堂用久大尉は、同隊が出撃した石垣島の出身で、かねてより故郷を護るために真っ先に出撃する覚悟を決めており[141]、父母の眼前で特攻出撃することとなった[142]
  13. ^ 「インディアナポリス」はこの損害の修理の為にアメリカ本土に曳航され、修理完了後前線に復帰する際、原爆輸送の極秘任務をこなし、原爆を揚陸後に日本海軍の潜水艦「伊58」に撃沈された。
  14. ^ 幕僚会議を主催したのは長参謀長であるが、長個人としては内心反対であり、牛島司令官の攻勢意図や上級司令部に対する体面を察して職責上やむなく方針を変えたとする見方もある[158]
  15. ^ 日本軍推計では4月21日までに艦砲13万発、敵機来襲延べ14,000機に及ぶ[199]
  16. ^ 日本軍が「馬乗り戦法」と名付け恐れた戦術であり、まずは日本軍陣地の出入り口を見つけると、戦車の支援と激しい集中射撃で日本軍を陣地の中に追い込み、歩兵が通気口を見つけそこからガソリンやナパームジェルを流し込むか、壕入口から火炎放射器で攻撃し、火炎で日本兵を弱体化させた後、最後に大量の爆薬で陣地ごと吹き飛ばすといった、圧倒的物量を誇るアメリカ軍ならではの戦法であった[200]
  17. ^ バックナーは、父親も南北戦争で南軍の将軍として従事した軍人家系の家に生まれ、その厳格な性格はウェストポイント陸軍士官学校校長時代から定評があり、圧倒的物量により正面突破する戦術を好んだ[214]
  18. ^ その形状から、皿にもったチョコレートドロップに見える事から、アメリカ兵にチョコレート・ドロップと名付けられた。
  19. ^ 攻撃前にはアメリカ海軍はかつてない規模で、念入りに膨大な量の艦砲射撃を加えたため、兵士たちはこの山を「100万ドルの山」と呼んでいた[271]
  20. ^ アメリカ軍は小祿での海軍部隊の激しかった抵抗を「(装備・訓練が足りず勝利の見込みもないが)アメリカ軍に高い犠牲を払わせるために自陣を死守するという強い意志を持っていた敵軍の物語」と抒情的に表現している[287]
  21. ^ バックナーの牛島に対する投降勧告は、士官学校の校長経験という共通の経歴も踏まえた内容であり、「閣下の率いる軍隊は、勇敢に闘い、善戦しました。歩兵の戦略は、閣下の敵であるアメリカ軍から、ひとしく尊敬されるところであります。閣下は本官同様、長年学校と実戦で経験を積まれた立派な歩兵の将軍であります。従って、本官が察するところ閣下もすでにご存じのことと思いますが、全日本軍がこの島で壊滅することは、いまや既に時間の問題であります。」というものであった[325]
  22. ^ 八原は、のちに司令部内部の出来事の貴重な証言をしているが、自ら立案した作戦が多数の住民の死を招いたことから自責の念に駆られ、知人の招きでも再び来島することはなかった。
  23. ^ 沖縄戦の降伏文書には、リーガル版の厚手の用紙が使用されており、米軍側は青インクで署名をしている[363]
  24. ^ 1944年8月31日、第32軍牛島司令官は「軍民一体の戦闘協力」について「現地自活ニ徹スヘシ」、「現地ノ物資ヲ活用シ一木一草ト雖モ之ヲ戦力化スヘシ」と訓示している[366]
  25. ^ 婦人雑誌にも「一億一人残らず忠誠の結晶となり、男女混成の総特攻隊となって敢闘するならば、皇国の必勝は決して疑ひありません」との文字が躍っていた[367]
  26. ^ この長参謀長の新聞談話には、「戦闘激化で食料供給が滞った場合に、住民が餓死するからと軍に食料を求めても軍は応じられない」旨を述べた部分もあったが、特高警察の検閲で一部伏字にされている[371]
  27. ^ ただし、戦時遭難船舶遺族連合会によれば、32隻という遭難船舶数は疎開船に限らず、沖縄県民が乗船中にアメリカ軍の攻撃で犠牲になった船舶の数であり、トラック島空襲で民間人乗船中に沈んだ「赤城丸」や疎開開始前に沖縄定期航路で沈んだ貨客船「湖南丸」「宮古丸」などを含んでいる[384]
  28. ^ バルジの戦いのアメリカ軍人的損失には諸説あるが76,000人~81,000人、ただしこの中には20,000人弱の捕虜を含む[39][468]
  29. ^ ヘンリー・スティムソン陸軍長官の依頼でウィリアム・ショックレー博士らのシンクタンクが行った試算[471]
  30. ^ 富山丸沈没により撤収。一部残余は第2歩兵隊に編入
  31. ^ 旅団の海没による損失を受け、1944年7月に空輸により急遽補充された。
  32. ^ 加えて1945年3月初旬より850名を現地から防衛召集)
  33. ^ 戦車第2師団師団捜索隊を改編し、1944年7月に第32軍編入。1個中隊は宮古島。

出典

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