江田五月 江田五月の概要

江田五月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/04 17:58 UTC 版)

江田 五月
えだ さつき
内閣広報室より公表された肖像
生年月日 (1941-05-22) 1941年5月22日
出生地 日本 岡山県上道郡財田村(現・岡山市中区
没年月日 (2021-07-28) 2021年7月28日(80歳没)
死没地 日本 岡山県岡山市
出身校 東京大学法学部第3類卒業
オックスフォード大学大学院法学部法律証書科修士課程修了
前職 裁判官
弁護士(岡山弁護士会登録)
所属政党 (社会市民連合→)
社会民主連合→)
日本新党→)
新進党→)
無所属→)
民主党→)
民進党菅G)→)
旧立憲民主党→)
立憲民主党
称号 従二位
桐花大綬章2021年
法学修士(オックスフォード大学・1971年
親族 父・江田三郎
公式サイト 江田五月 新たな出発

第27代 参議院議長
在任期間 2007年8月7日 - 2010年7月25日
天皇 明仁

第86代 法務大臣
内閣 菅直人第2次改造内閣
在任期間 2011年1月14日 - 2011年9月2日

第16代 環境大臣
内閣 菅直人第2次改造内閣
在任期間 2011年6月27日 - 2011年9月2日

内閣 細川内閣
在任期間 1993年8月9日 - 1994年4月28日

選挙区全国区→)
岡山県選挙区
当選回数 4回
在任期間 1977年7月10日 - 1983年7月10日
1998年7月26日 - 2016年7月25日

その他の職歴
衆議院議員
(1983年12月19日 - 1996年9月27日
第2代 社会民主連合代表
1985年2月10日 - 1994年5月22日
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衆議院議員(4期)、参議院議員(4期)、科学技術庁長官第50代)、法務大臣第86代)、環境大臣第16代)、参議院議長(第27代)、社会市民連合代表社会民主連合代表、民主党参議院議員会長、民主党・民進党最高顧問などを歴任した。

父は日本社会党委員長代行を務めた元衆議院議員江田三郎[1]

経歴

生い立ちと裁判官時代

1941年岡山県上道郡財田村長岡に生まれる。岡山県立岡山朝日高等学校卒業後、1960年、東京大学文科一類に入学。

東京大学教養学部自治会委員長時代、大学管理制度改革に反発し、全学ストを決行。このストを指揮したため、1962年11月、退学処分が下った[注釈 1]

翌1963年9月、学生運動からの絶縁を宣言し、東京大学に復学

法学部丸山眞男の薫陶を受け、吉野作造の研究に従事しながら法律を勉強し、東大在学中の1965年司法試験に合格(全受験者中席次は10番)。

1966年、東大法学部卒業後、第20期司法修習生。同期には横路孝弘高村正彦神崎武法村井敏邦らがいる。

司法修習を経て1968年、判事補に任官し、東京千葉横浜地方裁判所で判事補を務めた。

1969年人事院留学制度により、黒田東彦林康夫らと共にオックスフォード大学大学院法学部に留学し修士課程を修了[2]

国会議員へ

1977年5月22日、自身36回目の誕生日に父・江田三郎が急逝[3]。江田三郎は1977年3月に日本社会党を離党し、菅直人安東仁兵衛らを誘って社会市民連合を結党したばかりだった。三郎は当時落選中で、第11回参議院議員通常選挙に立候補する腹積もりであったが、公示日直前の5月22日に急逝した。そのため五月が代わりに担ぎ出されることとなり、同年5月24日、依願免官。その後、社会市民連合公認で全国区から立候補し、参議院議員に初当選する。

社民連時代

1978年、社会党を離党し社会クラブを結成していた田英夫楢崎弥之助秦豊らが加わり、社会民主連合(以下、社民連)を結党。社民連の代表には田が就任し、江田は副代表に就任。

1983年6月26日の第13回参議院議員通常選挙には出馬せず、同年12月の第37回衆議院議員総選挙旧岡山県第1区から社民連公認で出馬し、衆院に鞍替えした。

1985年には社民連代表に就任した。代表を務めた社民連では自由民主党一党の保守政権に代わる野党連合政権の樹立を志向し、社民連を結節点にした社会民社3党での「ブリッジ会派」構想や、公明党を加えた「社公民連合政権」構想を唱えた。

しかし、1986年衆参同日選挙で自民党が304議席を獲得して圧勝したため、連合政権構想は遂に日の目を見ないまま終わった。

1992年、自民党内では羽田孜小沢一郎らを中心に改革フォーラム21が結成されたほか、大前研一平成維新の会細川護煕日本新党が相次いで誕生。

江田は政策集団シリウスを結成し、社会党右派も巻き込んだ改革派勢力の結集を図る(社会党内でも赤松広隆ら、若手改革派の台頭の兆しが見え始めていた)[注釈 2]

1993年第40回衆議院議員総選挙では、自民党を離党した羽田孜小沢一郎らの新生党武村正義田中秀征鳩山由紀夫新党さきがけ細川護煕小池百合子日本新党が大きく議席数を伸ばし、「新党ブーム」が巻き起こる。

科学技術庁長官時の江田

その結果、自民党の議席は過半数を割り込み、宮澤喜一首相は退陣に追い込まれた。宮澤内閣の退陣により、非自民・非共産8党派による細川内閣が誕生し、江田は科学技術庁長官に就任した。

日本新党→新進党→知事選挙落選

1994年、社民連が解党し、江田・阿部昭吾は日本新党に入党。同党副代表に就任する。しかし、同年4月に細川首相は8か月で辞意を表明し、続く羽田内閣も社会党の連立離脱によって少数与党に転落し、6月に64日で退陣に追い込まれた。同年末、新進党結党に参加する。

1996年岡山県知事選挙立候補準備のため、衆議院議員を辞職、新進党を離党。知事選では同じ岡山選出の加藤六月農林水産大臣や、新進党を支持する創価学会からも支援を受けたものの、東大の後輩である自民党推薦の元建設官僚石井正弘に敗れた。

民主党時代

民主党入党

知事選挙の後は新進党に復党せず、弁護士を経て民主党に入党。

1998年第18回参議院議員通常選挙岡山県選挙区から民主党公認で立候補し、2年ぶりに国政に復帰した。

2003年衆議院東京都第6区補欠選挙では、元NHKアナウンサーで、参議院議員からの鞍替えを目指す小宮山洋子の選挙対策副本部長を務める(選対本部長は羽田孜)。なおこの補欠選挙は、かつて江田の公設秘書であった石井紘基が殺害されたことに伴うものであった。

2004年、改選議席数が2から1に改められた岡山県選挙区で再選。

2006年3月31日、民主党代表の前原誠司が、堀江メール問題の責任をとり辞任を表明[4]。前原の辞任に伴う代表選挙(4月7日実施)では菅直人の推薦人に名を連ねた[5]

参議院議長として

2008年4月、参議院議長公邸での江田五月
2009年10月27日、(左から)江田と松野頼久官房副長官原口一博総務大臣福地茂雄NHK会長
2010年12月7日、NPO議員連盟共同代表として菅直人内閣総理大臣
2012年6月1日、歴代環境大臣小池百合子斉藤鉄夫小沢鋭仁環境副大臣横光克彦

2007年第21回参議院議員通常選挙で民主党が大幅に議席を増やし、与党は参議院では過半数を割り込んだ。そのため、8月の臨時国会で全会一致で参議院議長に選出される(副議長は山東昭子)。野党から参議院議長が選出されるのは1955年の自民党結党以来初めての出来事であった。

2007年8月30日に日本記者クラブで行った講演で、衆議院議決法案を参議院が修正か否決(または60日間未議決)しても衆議院で再議決できるとする日本国憲法第59条第4項について、「例外中の例外の規定だ」と述べた[6]

2007年11月30日、額賀福志郎山田洋行事件に関して民主党が野党単独で証人喚問を議決したことについて「円満にできるように取り計らってもらえないか」と慎重な対応を呼びかけた[7]

2010年7月の第22回参議院議員通常選挙では、参議院議長ながら民主党公認で岡山県選挙区から立候補し、3選。通常、中立性を守るために衆参両院の正副議長は所属する会派から離脱するのが1971年以降からの慣例であり、会派を離脱している議長が政党の公認を受けて参議院議員選挙の選挙区(旧地方区)に立候補するのは1971年以降では初の出来事であった[注釈 3]

第22回参議院議員通常選挙後、参議院議長を退任(後任は西岡武夫)。

参議院議長退任後

参議院議長を退任後、民主党最高顧問・倫理委員長に就任した。

同年9月29日、中国建国記念レセプションに出席した[8]

2011年1月14日、菅直人再改造内閣法務大臣に就任し、18年ぶりに2度目の入閣。三権の長である国会の議長経験者の入閣は、第2次田中角栄改造内閣で法務大臣に就任した元衆議院議長中村梅吉以来、実に38年ぶりの出来事であった[注釈 4]

同日の法相就任時の記者会見において「死刑というのはいろんな欠陥を抱えた刑罰だ。国民世論や世界の大きな流れも考え、政治家として判断すべきものだ」「もともと人間はいつかは命を失う存在だ。そう(執行を)急ぐことはないじゃないかという気はする」などと述べたが[9][リンク切れ][10]、同年1月26日のインタビューで「欠陥というとちょっと言葉がきつすぎるので訂正したい」と撤回。その上で「どんな命も大切にということが世の中になければ、温かい人間社会はできない。そういう意味で、取り返しのつかない死刑にどう向き合うかは本当に悩ましい」と述べた[11]。なお、江田は在任中、一度も死刑執行の署名はしなかった[12]

法相就任まもない2011年1月18日、2009年第45回衆議院議員総選挙で掲げたマニフェストの見直しを民主党が表明したことに関し、江田は記者会見で「(あのマニフェストは)われわれが政権にいないときに、霞が関(の官僚)が民主党には十分な情報を提供しない中で、『心眼で見るとこうじゃないか』ということで作った部分がある」と発言した[13][14]。またそれに続けて「実現するには、いろんな隠れた障害があった。実際に政権を担当して、いろんなことが分かってきている。世の中の状況の変化もあり、マニフェストについて一度きっちりと点検をし、より成熟させる部分があればそうしていく」と発言した[14]。マニフェスト見直しの背景として、政権交代前に民主党は「天下りの斡旋を全面禁止して特別会計独立行政法人公益法人の仕事を徹底的に見直す[15]」「国家公務員の総人件費2割削減[15]」「ひもつき補助金廃止[15]」「衆議院の比例代表定数を80削減[15]」などの行政改革と予算の組み換えによって16.8兆円の新しい財源を生み出すとしていたが[15]、そのあてが外れ、このままあのマニフェストを掲げていたのでは2012年度の予算が組めなくなるという事情があった[13]。そのような状況でなされたこの「心眼マニフェスト発言」に対し、産経新聞阿比留瑠比は、江田の発言を「釈明」とし[13]、「官僚が手取り足取り教えてくれないからテキトーにつくったでは、政治主導の看板が泣く[13]」「御都合主義ここに極まれり[13]」と批判した。

大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件の反省に立って作られた法相の諮問機関である「検察の在り方検討会議」は、警察検察官による被疑者取り調べの可視化(録画・録音)[16]について「直ちに充分な検討を行う場を設け、検討を開始するべきである」との表現にとどめていたが、江田は2011年4月8日、地検特捜部による被疑者取り調べ時の可視化試行を検事総長笠間治雄に指示した[17]。指示を受けた笠間は、録音・録画の試行を実施した。8月8日、江田は可視化の範囲を裁判員裁判のすべての対象事件に拡大するよう指示した[16][18]

2011年6月27日より環境大臣松本龍が同内閣において東日本大震災復興対策担当大臣に専任大臣として就任したため、後任の環境大臣を兼務した。同年9月、野田内閣発足に伴い退任。民主党最高顧問に再び就任した。10月21日に行われた参議院憲法審査会の会長選挙では22票を獲得したが、23票を獲得した自民党の小坂憲次に敗れた[19]

2013年12月18日から20日に戦後補償を考える議員連盟の団長として訪韓した。

2016年第24回参議院議員通常選挙には立候補せず、政界を引退した。

議員引退後

2016年11月3日に発令された秋の叙勲では、「参院議長などとして国会の円滑な運営に寄与した」として、桐花大綬章を受章[20]。引退後は立憲民主党の岡山県連顧問を務めた[21]

2021年7月28日、肺炎のため岡山市内の病院で死去[22][23][24]。80歳没。日本国政府は同年8月20日、死没日付をもって従二位に叙した[25][26]

2022年7月18日、「故江田五月さんを偲ぶ会」が開催され、菅直人海江田万里石田美栄泉房穂熊谷裕人藤末健三などおよそ500人が集まった[27][28][29][30][31][32]

発言

  • 2002年鈴木宗男事件が発覚した時は「利権政治の代表的存在[33]」「金にまつわる黒いうわさの人[34]」と鈴木宗男に批判的なコメントを発表した。一方で、2010年9月に民主党が告発に賛成した偽証罪を含めた4つの罪で鈴木の実刑が確定した時は「魅力的なキャラクターで北の大地の輿望を担い、民主党会派に所属して活動しており、(実刑確定による国会議員失職は)残念な結果[35]」と鈴木の議員失職を惜しむコメントを発表した。

注釈

  1. ^ 全学自治会中央委員会議長だった今井澄(のち民主党参院議員)も退学処分、副委員長の中島義雄は一年間の停学処分を受けた。
  2. ^ グループの名称は父・三郎が第2次人民戦線事件に関与して服役中、面会に訪れた妻・光子にかけた言葉「シリウスは見えるか」に由来する。シリウスは夜明けの訪れを意味する。
  3. ^ 1971年の議長会派離脱慣例化以降で現職参議院議長が参院選の選挙区(旧地方区)に立候補した例は1977年の河野謙三(神奈川県)、1980年の安井謙(東京都)、1989年の土屋義彦(埼玉県)、1998年の斎藤十朗(三重県)があるが、いずれも無所属候補として立候補し当選をしている。なお、比例区(旧全国区)では1983年の徳永正利自由民主党の名簿第1位に搭載され、当選している。
  4. ^ 日本国憲法下における衆議院議長経験者の閣僚就任は大野伴睦(1953年3月14日議長退任・1954年1月14日北海道開発庁長官就任)、松永東(1955年1月24日議長退任・1957年7月10日文部大臣就任)、益谷秀次(1958年4月25日議長退任・1959年6月18日副総理就任)、中村梅吉(1973年5月29日議長退任・1973年11月25日法務大臣就任)の4例がある。

出典

  1. ^ “江田五月さんが死去、80歳 参院議長や法相を歴任”. 朝日新聞DIGITAL. (2021年7月28日). https://www.asahi.com/articles/ASP7X3K3KP7XUTFK007.html?iref=comtop_7_05 2021年7月28日閲覧。 
  2. ^ 江田五月 活動日誌 2015年9月29日
  3. ^ 昭和52年5月 中日ニュース No.1219_1「江田三郎氏急死」 中日映画社
  4. ^ “前原代表ら民主執行部「偽メール問題」で総退陣”. J-CASTニュース. (2006年3月31日). https://www.j-cast.com/2006/03/31000846.html 2021年11月30日閲覧。 
  5. ^ 2006年4月7日 民主党代表選 推薦人名簿”. 江田五月 - 新たな出発 (2006年4月7日). 2010年9月6日閲覧。
  6. ^ 日本記者クラブでの講演公式サイト 2007年8月30日
  7. ^ 額賀財務相の証人喚問、中止が決定日テレNEWS24 2007年11月30日
  8. ^ 中国建国記念レセプション 日本の議員50人出席もあいさつなし - MSN産経ニュース
  9. ^ 死刑「欠陥抱えた刑罰」=世論踏まえ執行判断-江田法相時事ドットコム 2011年1月15日
  10. ^ YOMIURIONLINE2011年1月14日
  11. ^ asahi.com2011年1月26日
  12. ^ 「死刑、問題提起した」 江田法相、執行せず辞任”. 日本経済新聞 電子版 (2011年8月30日). 2018年12月21日閲覧。
  13. ^ a b c d e 阿比留瑠比 (2011年1月22日). “【菅政権考】「マニフェスト詐欺」の反省を示せ(1/3ページ)”. 産経新聞. オリジナルの2011年1月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110124065836/http://sankei.jp.msn.com//politics/news/110122/plc11012207010056-n1.htm 2012年6月14日閲覧。 
  14. ^ a b “江田法相「マニフェストは(野党時に)心眼で作った」見直しへ”. 産経新聞(ウェブ魚拓). (2011年1月18日). https://megalodon.jp/2011-0120-1804-56/sankei.jp.msn.com/politics/news/110118/plc11011812440065-n1.htm 2012年6月14日閲覧。 
  15. ^ a b c d e 民主党 (2009年07月27日(2011年06月28日)). “民主党の政権政策Manifesto2009”. 2012年6月14日閲覧。
  16. ^ a b 中日新聞2011年9月25日
  17. ^ 東洋経済オンライン2011年4月11日
  18. ^ 共同通信2011年8月8日
  19. ^ 時事ドットコム2011年10月21日
  20. ^ 秋の叙勲4055人 江田元参院議長に桐花大綬章 - 日本経済新聞 2016年11月3日(同日閲覧)
  21. ^ “新「立憲民主」県連が発足 岡山市内で結成大会 代表に難波氏”. 山陽新聞. (2020年11月15日). https://www.sanyonews.jp/article/1071839 2021年8月7日閲覧。 
  22. ^ “江田五月氏が死去 80歳 参院議長、法相など歴任”. 山陽新聞. (2021年7月28日). https://www.sanyonews.jp/article/1157158 2021年7月28日閲覧。 
  23. ^ 元参院議長の江田五月氏が死去…80歳」『讀賣新聞』、2021年7月28日。2021年7月28日閲覧。
  24. ^ 江田五月氏が死去、80歳 参院議長や民主党政権で法相を歴任”. 日刊スポーツ (2021年7月28日). 2021年7月28日閲覧。
  25. ^ 故江田五月氏に従二位 - 時事ドットコム 2021年8月20日
  26. ^ 『官報』第564号、令和3年8月30日号
  27. ^ 岡山市で元参議院議長の江田五月さんをしのぶ会”. 日本放送協会 (2022年7月18日). 2022年7月19日閲覧。
  28. ^ 江田氏の功績たたえ別れ惜しむ 岡山でしのぶ会”. 山陽新聞 (2022年7月18日). 2022年7月19日閲覧。
  29. ^ 故 #江田五月 さんを偲ぶ会に日帰りで出席。岡山県の内外から所縁のある人たちが多数参加して執り行われ、私の師事した #石田みえ 元参議院議員も来賓挨拶。私もすっかり秘書時代に戻って色々とお世話役をさせていただきましたが、岡山に関った8年間は濃密だったと改めて思いました。#くまがい裕人”. くまがい裕人@参議院議員(りっけん・埼玉県選挙区) (2022年7月18日). 2022年7月19日閲覧。
  30. ^ 岡山での『故 江田五月を偲ぶ会』に行ってきた。20代で出会い、私の国会議員時代には「国会内の後援会長 兼 保証人だから」と言っていただき、市長当選後も、霞が関の関係省庁との橋渡しなど、随分とお力になっていただいた。尊敬する政治家のお一人だった。ご冥福を心からお祈り申し上げる。”. 明石市長 泉 房穂(いずみ ふさほ) (2022年7月18日). 2022年7月19日閲覧。
  31. ^ 昨年7月28日に80才の生涯を閉じた『故江田五月さんを偲ぶ会』に出席のため岡山を訪れました。江田五月先生は、お父上である江田三郎先生の遺志を継ぎ、裁判官から政治家への道を歩まれ、法務大臣や参議院議長など数々の要職を歴任されました。(続く)”. 海江田万里(事務所) (2022年7月18日). 2022年7月19日閲覧。
  32. ^ 江田五月先生のご冥福を心よりお祈りいたします”. 藤末 健三オフィシャルブログ (2022年7月18日). 2022年7月19日閲覧。
  33. ^ 鈴木宗男議員逮捕について(談話)
  34. ^ 参議院本会議2002年7月31日
  35. ^ 江田五月 メールマガジン第995号
  36. ^ 第145回国会 1999年8月9日 投票結果 2015年1月11日閲覧。
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  38. ^ 第147回国会 法務委員会 第17号
  39. ^ 朝鮮新報 国会議員、市民団体ら 参院議員会館で集会 「慰安婦」解決促進法、早期制定を [1]
  40. ^ [2]
  41. ^ a b 第3回 韓国訪問報告書 [3]
  42. ^ 聯合ニュース日本語電子版「韓国女性家族部長官が日本議員と面談=慰安婦問題で」
  43. ^ 女性家族部長官、日本政府に日本軍慰安婦被害者問題解決要求
  44. ^ [4]NPO法人日中国会議員書画展実行委員会
  45. ^ 7月29日(金) 横山先生葬儀、渋谷君、紘子さん訃報”. 江田五月活動日誌 (2016年7月29日). 2023年10月9日閲覧。
  46. ^ 10月21日(日) 敬老会、庭、上京、大賀さん金婚祝賀コンサート”. 江田五月活動日誌 (2007年10月21日). 2023年10月9日閲覧。
  47. ^ 会長あいさつ公益財団法人日中友好会館
  48. ^ [5]『6月29日(水) 勉強会、伝達式、那佐さんら、枝野長官、本田さん、法制審特別部会、ブルガリア、中国研修団、今井議員通夜』
  49. ^ [6]『江田五月 日程表 2011年6月』
  50. ^ [7]『6月30日(木) 就任挨拶まわり、中国青年、新聞協会、特区、取材、レセプション』
  51. ^ [8]『「民主党でいじめられた」~敗軍の将、兵を語るDigital版:日経ビジネスDigital』
  52. ^ [9]「第177回 衆議院 法務委員会 平成23年3月9日 第2号|国会会議録検索システム」
  53. ^ [10]『江田五月会の解散式に出席いたしました。 江田五月さんの最後の...』[リンク切れ]
  54. ^ [11]『元参議院議長の江田五月さん、京子さんご夫妻を我が家にお招きし...』[リンク切れ]
  55. ^ a b 民主5議員団体:「行きたいという後援者がいて…」 毎日新聞 2009年9月30日 [リンク切れ]
  56. ^ a b 民主5議員団体:クラブ、キャバクラ…政治活動費で飲食 毎日新聞 2009年9月30日 [リンク切れ]
  57. ^ “政治活動でキャバクラ利用 江田議長ら民主5議員団体”. 47NEWS/共同通信. (2009年9月30日). https://web.archive.org/web/20091004144131/http://www.47news.jp/CN/200909/CN2009093001000451.html 2012年6月14日閲覧。 
  58. ^ https://www.eda-jp.com/katudo/2014/04/24.html
  59. ^ 役員人事”. 東京オリンピック・パラリンピックに向けて 受動喫煙防止法を実現する議員連盟. 2019年6月6日閲覧。


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