水木しげる 人物・エピソード

水木しげる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 03:14 UTC 版)

人物・エピソード

妖怪研究家として

1966年から『週刊少年サンデー』連載の「ふしぎなふしぎなふしぎな話」で妖怪画を発表し始める。やがて、『週刊少年マガジン』増刊の『日本妖怪大全』を経て、1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も「妖怪図鑑」の類を多数執筆している。これら、水木の描く妖怪画は漫画の域を超えた民俗学資料としての要素を持つ。

水木は妖怪を題材にするにあたり、柳田國男井上円了らの先行研究や、古い文献や絵巻などから多くの伝承や妖怪画を蒐集している。鳥山石燕など古典の画が存在する場合は参考にして描き、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」など文字や言い伝えの記録のみで古典の画が存在しないものは、水木によって初めて絵として描かれた。そのため文献記録や伝承上で存在しつつも「形」は水木がイメージ創造した妖怪も多数あり、それ以降の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の作品から大きく影響を受けている。

大衆の中で失われていた多くの妖怪を救ったともされ[103]、水木を妖怪文化の継承者と評す声も多い[104]。一方、創作の可能性も指摘されている出典不詳の妖怪(樹木子など)も何体か描いている[105]。また、2007年8月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明するなど、水木が絵として描いた時点では未発見で、当時は文字で名前や伝承しか記録が無いと判断されていた水木の創作以前の妖怪絵が、水木の執筆以降に新たに発見されている事例もある。1980年代には『水木しげるの妖怪事典』(正・続)、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。

1992年に『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となり、日本の民間伝承上の妖怪への大衆の認知が一段と高まる。1998年からは、1600点以上の妖怪画を収録した『妖鬼化』シリーズが刊行された。

水木の周囲に妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年世界妖怪協会を設立して会長となる。荒俣宏京極夏彦多田克己らが会員となり、「世界妖怪会議」が開催される。1997年からは、世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『』(角川書店)が刊行開始。水木も漫画を執筆している。

それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカマリ共和国ドゴン族マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族オーストラリアアボリジニメキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。その際、祭りなどがあるとビデオ撮影や録音をして、自宅で何度も鑑賞している。旅先で購入した仮面なども蒐集しており、自宅などに展示している。

大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『日本妖怪大全』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。それらの結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えるようになる。

のんのんばあと水木

のんのんばあとは彼が子供の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことである[106]。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていた[106]

景山ふさの素姓について、水木の母・琴江によると「(松江の)士族の娘。貧乏侍。…親父は足軽」という[107]

ふさは子供たちを集めてはお化け妖怪地獄の話をしてくれた[106]。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている[106]。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。

ふさは水木が小学5年生の時に死去した。

幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名が『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。

2015年9月に中四国のTBS系列局とBS-TBSで放送された特番『水木しげる93歳の探検記 〜妖怪と暮らした出雲国〜』では、ふさの出身地でもある島根県出雲地方を訪れた水木が荒俣宏と共に初めてのふさの墓参りを行った。同年11月に水木は死去したため、これが最初で最後の墓参であった。

戦争

戦争を主題とする作品も多く描いており、戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語る。2007年(平成19年)8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜』が放送された。

水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官である砂原勝己軍医大尉に現地除隊を申し込むほどだった。砂原は2004年(平成16年)1月28日に逝去したが、1996年(平成8年)7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。

また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的に1944年以降のラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、1945年以降の圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に、水木にはそのような話を描くことは難しかった。それでも、アドバイスに従い、大戦前期の戦果を挙げた戦闘に取材した漫画も描いたが、題材が敗色濃厚になる末期に移るにつれ、アドバイス通りに売上は落ちていった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた[108]

『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を悼む態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた[109]。片腕を失ったことに対しては「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。

2015年5月、水木が出征前に書いたとされる手記が発見され、文芸誌『新潮』2015年8月号に掲載された[110]

人柄・性格

  • 晩年の一人称は「水木サン」だった。「私」や「僕」、「俺」または「小生」を使っていたこともある[注 4]
  • 子供の頃は自己紹介の折に「しげる」という名前が上手く発音できず「げげる」になってしまった事から「ゲゲ」と言われており、墓場鬼太郎がアニメ化の際に「ゲゲゲの鬼太郎」に変更されるきっかけになった[111][112]
  • 「胃が丈夫だった」と称し、幼少時から大食漢で「ズイダ」というあだ名(雲伯方言で「何でも食べる浅ましい者」という意味)で呼ばれていた[113]。90歳を過ぎても食欲は非常に旺盛で、特に病気もなく健康そのものだった。自身のツイッターでも食事や間食の様子がたびたび書かれていた[114][115]。数多い友人の中でも大食漢やよく太った人を喜び、荒俣宏とはよく一緒に旅行しては旅先でグルメを競い合っていた[116]。好物はすき焼き
  • 座談が面白いことで有名で、多忙な水木のために水木プロには「面談30分」という貼り紙があったが、実際には水木自身がそれを無視して来客と何時間も会話を楽しんでいたという。また、テレビ番組に出演したこともあったが、ダイナミックに左右に体を動かして話すため、テレビのフレームからはみ出して喋っていたこともあった[117]
  • 家を改築するのが好きで、気が向くままに自宅を改築した結果、トイレ5つ、風呂場3つ、階段5ヶ所の2階建て、しかも一部分は3階建てという迷路のような家になってしまったという[118][119]。また、『東西奇ッ怪紳士録』には「二笑亭主人」「フランスの妖怪城」(郵便配達夫シュヴァルの理想宮)の建築道楽の2篇が収録されている。
  • 『ゲゲゲの鬼太郎』の主題歌そのままに朝寝を好んでいた。NHKの『あさイチ』で水木プロダクションから生中継が行われた際も、当初から妻の布枝だけが出演する約束になっており、水木本人は普段通り就寝していた。
  • 水木自身、長生きの秘訣として普段から睡眠の重要性を説いており、自分はどんなに忙しくても1日10時間は寝ると語っていた。逆に、自分より年下の手塚治虫石ノ森章太郎徹夜ばかり続けていたために早死にしてしまったと、手塚治虫文化賞の受賞スピーチで語っている[120]。また、水木と同じく長生きの漫画家として知られたやなせたかしも水木の意見に賛同している[121]。とはいえ、水木家はもともと父が88歳、母が94歳、兄が97歳、弟が96歳でそれぞれ没した、かなり長命な家系であったことも事実である。水木の93歳にせよ一種の事故死であり、前述の転倒事故がなければもっと長生きしていた可能性は高いと考えられる。
  • 評論家の呉智英は、「ひょっとしたら、水木しげるの最高傑作は水木しげるかもしれない」と評した[122]
  • アシスタントであったつげ義春が水木に最後に会ったのは2009年から2010年頃で、場所は地元の神社であった。水木がいきなり「つまらんでしょ?」と話しかけたので、つげも「つまらんです」と相槌を打つと、「やっぱり!」と答えたという[123]

執筆関係

  • 自身を漫画のキャラとして登場させることが多いが、『コミック昭和史』のような自伝的作品を除いて、「左手はある」ように描かれている事が多い。また水木の自画像は「現在の顔」と比べると細長く描かれているが、実際に貸本漫画家時代の水木は貧しくて十分な食事が取れなかった事情もあり、やせて細い顔をしていた。
  • 売れない貸本漫画家時代から、膨大な「絵についての資料」をスクラップ・ブックにしてコレクションしていた(貸本漫画家時代は100冊。晩年は300冊を超えるという)。また、「ハヤカワ・ミステリ」などの書籍も「ネタになる」と、多数購入していた。妖怪関連書も神保町の古本屋で、古いものまで集めていた。それを見た桜井昌一は、「この人は絶対、世に出る」と感じたという。また、長井勝一は「貧乏していても資料を丹念に集めるという点では、類のない人だった」と回想していた[124]。なお、若き時代の呉智英などが、その資料の整理を手伝った。
  • 初期の作品には、海外の短編小説等からストーリーを転載したものもあったが、当時はまだ著作権に対する認識が浸透していなかった時代であり、特に問題とはならなかった[125]。ただし、1966年に朝日ソノラマから刊行された『猫又』に収録された短編「太郎稲荷」は、星新一作品「福の神」[126]とのストーリーの類似が指摘され、水木は盗作を認めて謝罪。朝日ソノラマが和解金を星に支払い、単行本『猫又』は「太郎稲荷」が削除された版が刊行された[127]。「太郎稲荷」は水木しげる漫画大全集の『「忍法秘話」掲載作品〔全〕』が2013年に刊行された際に、そのまま収録されてしまい、星新一の遺族からの抗議をうけ、第3刷から『原作・星新一「福の神」(新潮文庫刊『妖精配給会社』所収)』と作品内に表記することで対応した[128]
  • 水木作品では資料写真のみならず、国内外の絵画や彫像などの創作作品を模写したものが多数使用されている[129]。なお、『水木しげる漫画大全集』の出版にあたり、海外のものも含めて一つ一つ著作権者を探して許諾を得ていった[125]
  • ある日長女に「手塚治虫先生の漫画には夢がある。お父ちゃんの漫画には夢がない」と言われ「馬鹿野郎!俺は現実を書いているんだ!」と激昂したという[130][注 5]
  • 年下の手塚治虫にはライバル心を抱いており「屈折した思いもあった」と語る。それだけに、手塚治虫文化賞の内定を受諾した際、妻と二人の娘も「え?もらうの?」と驚いたという[131]
  • 美人画や色っぽい絵を描くのが苦手で、よく担当の編集者からダメ出しをされていた[132]

境港市・調布市との関係

水木プロダクション中国支部(境港市入船町)
境港本町アーケード商店街
境港市
故郷の鳥取県境港市に「水木しげるロード」がある。ロードに沿って妖怪オブジェが並び、水木ロード郵便局(既存局を改称)もある。なお、境港郵便局をはじめ市内7郵便局の風景印は全て鬼太郎らのキャラクターがデザインされている
設置されていた86体の妖怪を100体にするために1体100万円としてスポンサーを募集し、2009年現在、合計120体となった。このオブジェの「目玉の親父」は度々盗難に遭うため現在は台座に固定されている。合わせて「水木しげる記念館」も開館している。また同市では世界妖怪協会による「世界妖怪会議」の第1回、第2回も開かれた。
米子駅境港駅を結ぶJR境線では「鬼太郎列車」が運行されている。また、同線の沿線16駅には「ねずみ男駅」(米子駅)「鬼太郎駅」(境港駅)の他、全国各地の妖怪をモチーフにした愛称が付与されている。
境港市の観光協会による「第1回妖怪人気投票」で水木本人が3位になっている。
2007年3月22日、妖怪のブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」の振興に役立てて欲しいと水木プロダクションは境港市に2000万円を寄付した。水木プロは2004年にも200万円を市に寄付している[133]
調布市
『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターが描かれた、調布市ミニバス「鬼太郎バス」の車両(京王バス東・L20623)
水木が50年近く住んだ東京都調布市は、市を挙げて水木の顕彰に努めており、2008年に水木は名誉市民に選ばれた[134]。調布市内の名誉市民となるのは本多嘉一郎に続き2例目[135]。市内にある水木やその作品ゆかりの地を紹介する聖地巡礼マップを発行するなど[136]、観光面での地域振興にもつなげている。
調布市は2016年に、水木の一周忌を前に命日の11月30日を「ゲゲゲ忌」とすることを決め、スタンプラリーなどの追悼事業を実施すると発表した[137][138]
調布駅南口にある「調布市文化会館たづくり」1階には、調布が登場する水木作品を紹介する「ゲゲゲギャラリー」が設けられている[139]
調布市のコミュニティバス調布市ミニバス」には『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターが車体に描かれ、愛称「鬼太郎バス」として3路線4ルートが運行されている[140][141]
『ゲゲゲの女房』がテレビドラマ化された2010年には、京王電鉄から調布市内の京王線5駅と京王バスの乗車券をセットにした「ゲゲゲ記念切符」も発売された[142][141]
2003年10月には「深大寺そば」で有名な調布市深大寺の門前に「鬼太郎茶屋・深大寺店」が開店した。「妖怪舎」(株式会社きさらぎ、本社:鳥取県米子市)が経営している[143]。(なお、元祖「鬼太郎茶屋」は境港の「水木しげるロード」内にあり、「妖怪舎」とは無関係。境港の「本店」店長は「鬼太郎音頭」の作詞者である。)
京王線調布駅北口の布多天神社参道にある「天神通り商店街」には、ゲゲゲの鬼太郎を始めとする代表的な妖怪のオブジェが並んでいる。商店街入り口の目印は街灯に腰掛けた鬼太郎である。
鬼太郎茶屋
天神通り商店街
自宅近くの覚證寺には、鬼太郎などが彫刻された墓[注 6]と、水木が描いた「二河白道図」が置かれている。

注釈

  1. ^ 水木が境港に戻った年齢は、「2歳ぐらいのとき」[7]、または「生後1ヵ月」[8][9]と記されている。
  2. ^ のち砂原国立加古川病院名誉院長。なお、名前の「勝巳」表記は誤り。
  3. ^ 『ラバウル戦記』では、機銃掃射ではなく原住民ゲリラの襲撃としている。
  4. ^ 実写版『悪魔くん』のプロデューサーによると、水木は「自分」という一人称を使うことが印象深いとコメントしていた。妻によると、「漫画家・水木しげる」を演じるために使っているようで、家族に見せる顔と、ファン・編集者らに見せる顔は違うという[73]
  5. ^ 他方、手塚の長男の手塚眞は水木漫画の愛読者で、後年の監督作品『妖怪天国』につながっている。
  6. ^ 水木の存命中に、生前墓として建てられた。
  7. ^ 平成22年7月吉日・鳥取県境港市長中村勝治
  8. ^ エンドロールでの表記は『傷痍軍人 (水木しげる)』。
  9. ^ 1980年代後半までは、一般書店でも購入できた。現在は古本市場で高値を生んでいる。

出典

  1. ^ a b “漫画家の水木しげるさん死去93歳 「ゲゲゲの鬼太郎」”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2015年11月30日). オリジナルの2015年11月30日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2015-1130-1315-21/www.asahi.com/articles/ASHCZ45BRHCZUCLV002.html 2015年11月30日閲覧。 
  2. ^ 水木しげる記念館 トップページ、2022年3月8日閲覧。
  3. ^ a b c d e 水木 2007, p. 33.
  4. ^ a b c d e 足立 2010, p. 70.
  5. ^ a b c d 『鳥取県人名録』(企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年 583頁)
  6. ^ “水木しげるさん死去 妖怪物で新分野 神戸・阪神間で下積み”. 神戸新聞. (2015年11月30日). オリジナルの2015年11月30日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/55zuZ 
  7. ^ 水木 2007.
  8. ^ 水木 2002.
  9. ^ a b 足立 2010.
  10. ^ 水木 2007, pp. 43–44.
  11. ^ a b 水木 2007, p. 48.
  12. ^ 水木 2007, p. 50.
  13. ^ a b c d 水木 2007, p. 55.
  14. ^ a b 水木 2007, p. 56.
  15. ^ 水木 2007, p. 57.
  16. ^ a b 水木 2007, p. 58.
  17. ^ a b c 水木 2007, p. 59.
  18. ^ a b c 水木 2005, p. 480.
  19. ^ a b 水木 2007, p. 61.
  20. ^ 水木 2002, p. 18.
  21. ^ 水木 2007, p. 64.
  22. ^ 丸木美術館学芸員日誌
  23. ^ a b 水木 2007, p. 65.
  24. ^ 水木しげる『ほんまにオレはアホやろか』新潮社、2002年8月、23頁。ISBN 978-4-10-135731-7 
  25. ^ 水木しげる『水木しげるの憑物百怪』学習研究社、1995年、122-123頁。ISBN 978-4-05-400514-3 
  26. ^ a b c 水木 2007, p. 68.
  27. ^ a b 水木 2007, p. 69.
  28. ^ 水木 2007, p. 70.
  29. ^ 水木 2007, p. 71.
  30. ^ 水木 2002, pp. 68–70.
  31. ^ a b c 水木 2007, p. 77.
  32. ^ 水木 2007, p. 7.
  33. ^ 水木 2007, p. 76.
  34. ^ 水木 2007, p. 79.
  35. ^ a b 水木 2007, p. 81.
  36. ^ a b c 水木 2007, p. 8.
  37. ^ 水木 1994, p. 15.
  38. ^ 水木 2002, p. 84.
  39. ^ a b c 水木 2007, p. 86.
  40. ^ 「漫画で伝え続ける戦争体験」 - NHK戦争証言アーカイブス
  41. ^ 水木 1994, pp. 141–153.
  42. ^ 水木 2007, p. 96.
  43. ^ a b 水木 2007, p. 97.
  44. ^ 水木 2007, pp. 98–99.
  45. ^ 水木 2007, pp. 100–101.
  46. ^ a b 水木 2007, pp. 102–103.
  47. ^ 水木 2007, p. 104.
  48. ^ 水木 2007, pp. 109–110.
  49. ^ 水木 1994, p. 225.
  50. ^ 水木 2007, p. 113.
  51. ^ 水木 2007, p. 114.
  52. ^ a b c 水木 2007, pp. 116–118.
  53. ^ 水木 2007, pp. 119–120.
  54. ^ 水木 2007, p. 120.
  55. ^ 水木 2007, p. 124.
  56. ^ 水木 2007, p. 125.
  57. ^ a b 水木 2007, pp. 126–127.
  58. ^ a b 水木 2007, p. 131.
  59. ^ a b c 水木 2007, pp. 134–135.
  60. ^ 水木 2007, p. 136.
  61. ^ 水木 2007, p. 137.
  62. ^ 布枝 2008, p. 30.
  63. ^ 布枝 2008, p. 39.
  64. ^ 建築マップ 「灘町後藤家」”. 米子建築塾.Web. 2015年11月30日閲覧。
  65. ^ 水木 2007, p. 144.
  66. ^ 水木 2007, p. 149.
  67. ^ 水木 2007, p. 148.
  68. ^ 水木 2007, p. 150.
  69. ^ 水木 2007, p. 151.
  70. ^ 講談社漫画文庫、水木しげる著、『完全版 水木しげる伝』、2005年1月12日発行、59-64頁。
  71. ^ 水木 2007, p. 153.
  72. ^ 水木 2007, p. 155.
  73. ^ a b c d e 布枝 2008.
  74. ^ 水木 2007, p. 156.
  75. ^ 水木 2002, pp. 212–213.
  76. ^ 水木 2007, p. 160.
  77. ^ 水木 2007, p. 157.
  78. ^ 水木 2007, pp. 162–163.
  79. ^ a b 水木 2007, p. 166.
  80. ^ 水木悦子 『お父ちゃんと私』 やのまん、2008年3月、p.159-165。
  81. ^ 水木 2007, p. 167.
  82. ^ 『The New York Times』2011年3月20日
  83. ^ 水木しげる:93歳“ご長寿”マンガ家の連載が“突然”最終回 MANTANWEB 2015年11月30日閲覧
  84. ^ a b 「ゲゲゲの鬼太郎」水木しげるさん死去 93歳 スポーツニッポン 2015年11月30日閲覧
  85. ^ a b “水木さんの死因は多臓器不全 事務所が訂正”. 共同通信. (2015年11月30日). オリジナルの2015年11月30日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/PKwuU 
  86. ^ 漫画家の水木しげる氏が死去 93歳、「ゲゲゲの鬼太郎」”. 日本経済新聞 (2015年11月30日). 2020年11月23日閲覧。
  87. ^ “水木しげるさん死去 通夜は自宅近くの寺で 涙声「父ちゃん、父ちゃん」”. 毎日新聞. (2015年12月2日). オリジナルの2016年2月2日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/pc4Cm 2016年2月2日閲覧。 
  88. ^ “水木しげるさん 近親者のみで葬儀「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」追悼放送”. 毎日新聞. (2015年12月3日). オリジナルの2015年12月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151210183743/http://mainichi.jp:80/articles/20151203/spn/00m/200/002000c 2016年2月2日閲覧。 
  89. ^ a b c “水木しげるさんお別れの会に7800人参列 追悼の声続々”. Oricon style. (2016年1月31日). http://www.oricon.co.jp/news/2066158/full/ 2016年2月2日閲覧。 
  90. ^ a b “水木しげるお別れの会、夫人らが「丸い輪」の向こう側の水木サンを偲ぶ”. コミックナタリー. (2016年1月31日). https://natalie.mu/comic/news/174361 2018年7月9日閲覧。 
  91. ^ 光益公映 (2016年2月17日). “水木しげる先生お別れの会参列記 一反木綿の握り寿司や目玉おやじのマカロン…「本当にありがとうございました」”. TOCANA. 2019年3月11日閲覧。
  92. ^ “水木しげる「東京アニメアワードフェスティバル2016」アニメ功労部門を受賞”. コミックナタリー. (2016年2月4日). https://natalie.mu/comic/news/174951 2018年7月9日閲覧。 
  93. ^ 水木プロダクション2016年2月19日
  94. ^ オイ鬼太郎!ワシの幸福論を聞いてくれ~未公開 水木しげるの日記~”. クローズアップ現代+. NHK (2017年1月5日). 2017年1月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年7月9日閲覧。
  95. ^ “水木しげるさん命日を「ゲゲゲ忌」に 調布市”. 朝日新聞デジタル. (2016年11月10日). オリジナルの2020年1月28日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200128130528/https://www.asahi.com/articles/photo/AS20161109003700.html 2020年1月28日閲覧。 
  96. ^ “水木しげるさん命日「ゲゲゲ忌」 鳥取・境港で記念品配布”. サンスポ. (2019年11月30日). https://www.sanspo.com/article/20191130-CWGSEDQGFRMLTJZYJO47QA3ORM/ 2020年1月28日閲覧。 
  97. ^ “「追悼水木しげる ゲゲゲの人生展」が名古屋に、今後は沖縄&島根にも巡回”. コミックナタリー. (2018年4月8日). https://natalie.mu/comic/news/277095 2018年7月9日閲覧。 
  98. ^ 水木しげるロード、25年で新装 妻の武良さん出席し記念式典”. 西日本新聞 (2018年7月14日). 2020年12月3日閲覧。
  99. ^ 鳥取県「水木しげるロード」がリニューアルオープン”. ねとらぼ (2018年7月8日). 2020年12月3日閲覧。
  100. ^ 水木しげるさんが描いた“アマビエ”SNSで話題に 「神々しい」「疫病が収まりますように…」”. ORICON NEWS (2020年3月18日). 2020年12月6日閲覧。
  101. ^ 水木しげるさんアマビエの予言 病流行の時、私の写しを人々に見せよ”. 東京新聞 TOKYO Web (2020年5月21日). 2020年12月6日閲覧。
  102. ^ 水木しげるの妖怪 百鬼夜行展 ~お化けたちはこうして生まれた~2022.07.08
  103. ^ 京極夏彦・宮部みゆき 「妖怪と心の闇をのぞく」『対談集 妖怪大談義』 角川書店〈角川文庫〉、2008年6月。
  104. ^ 小松和彦 「水木しげると現代の妖怪文化」『妖怪まんだら』 世界文化社、2010年7月。
  105. ^ 京極夏彦、多田克己、村上健司『完全復刻 妖怪馬鹿』新潮社、2008年、341-344頁。ISBN 978-4-10-135351-7 
  106. ^ a b c d 水木 2007, p. 39.
  107. ^ 足立 2010, p. 331.
  108. ^ 梅本浩 『ビルマ航空戦:日英米の資料を対照して描いた「隼」の戦闘記録』下巻 大日本絵画、2002年12月。[要ページ番号]
  109. ^ 2004年8月28日放送『NHK土曜インタビュー』より
  110. ^ “水木しげるさん出征前の手記…戦争へ20歳の苦悩”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2015年7月6日). オリジナルの2015年7月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150713054836/http://www.yomiuri.co.jp/culture/news/20150702-OYT8T50048.html 2015年7月12日閲覧。 
  111. ^ 実写映画版「ゲゲゲの鬼太郎」のパンフレット記事より(目次・ページ付共になし)。2007年4月17日発行。
  112. ^ 『神秘家 水木しげる伝』、205頁、角川文庫2010年3月25日発行。
  113. ^ 水木 2004, pp. 20–21.
  114. ^ “【ゲゲゲ】水木しげる先生(90歳)はハンバーガーが大好きだった! マクドナルドもフレッシュネスも食べまくる(笑)”. exciteニュース. (2013年3月4日). https://www.excite.co.jp/News/net_clm/20130304/Rocketnews24_300494.html 2018年7月9日閲覧。 
  115. ^ “漫画家水木しげる先生が92歳にして『とんかつマックバーガー』にチャレンジ! そして「がいにうまい!」と完食”. ロケットニュース24. (2014年12月2日). https://rocketnews24.com/2014/12/02/516652/ 2018年7月9日閲覧。 
  116. ^ ワールド・ミステリー・ツアー 東欧篇[要文献特定詳細情報]
  117. ^ 水木ほか 2002, pp. 90–98.
  118. ^ 水木 2005, pp. 109–113.
  119. ^ 布枝 2008, pp. 166–168.
  120. ^ 足立 2010, pp. 410–411.
  121. ^ 「箱入りじいさん」の94年。(その6)および(その7)
  122. ^ 水木ほか 2002, p. 182.
  123. ^ “向井理さん、つげ義春さん…悼む声続々 水木さん死去”. 朝日新聞. (2015年11月30日). オリジナルの2015年11月30日時点におけるアーカイブ。. https://megalodon.jp/2015-1130-2145-11/www.asahi.com/articles/ASHCZ5K6YHCZUCLV012.html 
  124. ^ 呉智英、梅原猛『水木しげる―鬼太郎、戦争、そして人生』新潮社、2015年、64頁。ISBN 978-4-10-602261-6 
  125. ^ a b 「実はコスモポリタンだった水木サン」空前絶後の大全集、秘められた裏側を初めて語る!”. クーリエ・ジャポン. 講談社 (2018年5月15日). 2018年7月9日閲覧。
  126. ^ 「忍法秘話」掲載作品〔全〕
  127. ^ 『THE ART OF 新書版コミックス サンコミックス編』(まんだらけ)P.12,P97
  128. ^ お詫びと訂正のお知らせ”. 水木しげる漫画大全集. 講談社 (2013年9月10日). 2018年7月9日閲覧。
  129. ^ 「水木画のひみつ 水木しげるにとって「引用」とはなにか?」『アックス』第109号、青林工藝舎、2016年2月、66-73頁。 
  130. ^ 水木悦子赤塚りえ子手塚るみ子『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』文藝春秋、2010年、19頁。ISBN 978-4-16-372050-0 
  131. ^ 水木 2007, p. 171.
  132. ^ 水木悦子『ゲゲゲの娘日記』KADOKAWA、2017年、120-121頁。ISBN 978-4-04-106355-2 
  133. ^ 日本海新聞[要文献特定詳細情報]
  134. ^ 「水木しげるさんを名誉市民に」名誉市民顕彰式が開催される 調布市公式サイト(2018年1月19日閲覧)。
  135. ^ “水木しげるさん、調布名誉市民に”. MSN産経ニュース. (2008年2月28日). オリジナルの2008年3月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20080302071017/http://sankei.jp.msn.com/region/kanto/tokyo/080228/tky0802280314003-n1.htm 2022年10月6日閲覧。 
  136. ^ 調布市「ゲゲゲの鬼太郎」第6期聖地巡礼マップVOL.1発行(2018年9月17日閲覧)。
  137. ^ プレスリリース (2016年11月9日発表) ゲゲゲ忌 調布市公式サイト
  138. ^ 「ゲゲゲ忌」調布市名誉市民・水木しげるさん追悼|調布市”. 調布市. 2016年11月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月3日閲覧。
  139. ^ ゲゲゲギャラリー 調布市文化・コミュニティ振興財団(2018年1月19日閲覧)
  140. ^ 調布市ミニバス(コミュニティバス) 調布市公式サイト
  141. ^ a b 沿線おでかけ情報 ゲゲゲ散策マップ 調布駅周辺コース 京王グループ公式サイト
  142. ^ 調布駅など3駅で「ゲゲゲ記念切符」-京王電鉄が5,000セット販売 2010年09月10日 調布経済新聞
  143. ^ 調布市深大寺 鬼太郎茶屋 妖怪舎
  144. ^ 水木 2007, p. 73.
  145. ^ 山口信二 『水木しげる貸本漫画のすべて』 やのまん、2007年5月。
  146. ^ 水木 2007, pp. 138–139.
  147. ^ 児童文化功労賞”. 日本児童文芸家協会. 2022年9月17日閲覧。
  148. ^ 平成15年秋の叙勲 旭日小綬章等受章者 東京都” (PDF). 内閣府. p. 3 (2003年11月3日). 2003年12月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月25日閲覧。
  149. ^ 朝日賞 2001-2018年度”. 朝日新聞社. 2023年1月6日閲覧。
  150. ^ 県民栄誉賞・県民功績賞・名誉県民”. 鳥取県. 2022年7月22日閲覧。
  151. ^ 安藤・三宅氏ら7人に文化勲章 ノーベル賞2氏も”. 日本経済新聞 (2010年10月26日). 2023年3月21日閲覧。
  152. ^ 東京都名誉都民顕彰者一覧(令和3年10月1日現在)”. 東京都. 2022年7月22日閲覧。
  153. ^ 第43回ギャラクシー賞受賞作品”. 放送批評懇談会. 2019年3月21日閲覧。
  154. ^ a b c 「水木しげるの妖怪 百鬼夜行展」とおもな関連番組 NHK広報局、2022年6月22日 (PDF)
  155. ^ 100分de水木しげる NHK『100分de名著』
  156. ^ 「境港・米子〜思わずゲゲゲ! “鳥取のしっぽ”は不思議だらけ!?〜」 NHK『ブラタモリ』公式サイト、2022年8月24日閲覧
  157. ^ 水木 2007, pp. 37–38.
  158. ^ a b c 水木 2007, p. 37.
  159. ^ 水木 2005, p. 479.
  160. ^ 水木 2002, pp. 14–16.
  161. ^ 『境港市史 上巻』(昭和61年)370頁
  162. ^ 水木 2007, p. 222.
  163. ^ 水木 2007, p. 36.
  164. ^ 『境港市史 下巻』1986年(昭和61年) 788頁
  165. ^ 水木 2002, pp. 104–107, 201–203.
  166. ^ 水木 1999, pp. 14–15.
  167. ^ a b 水木 2007, p. 201.
  168. ^ 水木 2005, p. 492.
  169. ^ 水木 2007, p. 47.
  170. ^ 足立 2010, p. 72.
  171. ^ a b c 水木 2007, p. 35.
  172. ^ 水木 1999, pp. 15–16.
  173. ^ 水木 2007, p. 213.
  174. ^ 水木 2007, p. 212.
  175. ^ 水木 2005, p. 497.
  176. ^ 水木 2002, pp. 250–251.
  177. ^ Web NDL Authorities
  178. ^ 水木プロダクションtwitter告知 2017年11月27日
  179. ^ Web NDL Authorities
  180. ^ 水木プロダクションtwitter告知 2021年4月9日
  181. ^ a b 足立 2010, p. 73.
  182. ^ a b 米子商工会議所・米子商業史編纂特別委員会 『米子商業史』 米子商工会議所・米子市商店街連合会、1990年、76頁。
  183. ^ 米子市(編) 『米子自治史』 米子市、1939年、27頁。
  184. ^ 水木 2007, p. 199.
  185. ^ 水木 2007, p. 200.
  186. ^ 日本海新聞2004年9月2日 23面
  187. ^ 水木 2002, pp. 108–112, 203–205, 360–362.
  188. ^ 『ガロ』1994年9月号
  189. ^ 矢口高雄 『9で割れ!』[要文献特定詳細情報]






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「水木しげる」の関連用語

水木しげるのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



水木しげるのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの水木しげる (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS