正力松太郎 遺訓

正力松太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 00:28 UTC 版)

遺訓

正力は読売ジャイアンツに対して、巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓を残している。遺訓は以下の3つ。

  • 巨人軍は常に紳士たれ
  • 巨人軍は常に強くあれ
  • 巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ

逗子邸宅

旧正力家別邸
情報
設計者 1961年増築:清水一
施工 1961年増築:水澤工務店
構造形式 木造 瓦葺 数寄屋造り
建築面積 200 m²
延床面積 254.48 m²
階数 地上2階
竣工 1931年(昭和6年)以前
改築 1939年(昭和14年)
1961年(昭和36年)
2016年(平成28年)
所在地 249-0007
神奈川県逗子市新宿三丁目
文化財 登録有形文化財(建造物)
指定・登録等日 2022年2月17日(令和4年)
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正力松太郎が1931年から1969年に死去するまで居住していた神奈川県逗子市の邸宅。1939年に増築、1961年に大規模増改築。延床面積254.48平方メートル(蔵除く)。

1965年1月2日に逗子邸宅で新年会が行われ、記念撮影された写真を日刊スポーツ / アフロが所有している。参加者は正力松太郎、正力亨清水与七郎川上哲治柴田勲広岡達朗関根潤三王貞治金田正一長嶋茂雄

正力松太郎の長女梅子(小林與三次)の邸宅が隣接しており、正力の死後、空き家を小林夫妻が管理していたが、2013年に小林梅子が死去。小林梅子の孫で、正力松太郎の曽孫の塚越暁が旧正力邸の管理人兼居住者として名乗りを上げ、2016年に大規模改修。同時期に小林梅子邸は解体されたが、建具や建材は旧正力邸に再利用されている。

2018年9月から、逗子旧邸(応接間16帖、和室10帖、縁側2帖半、庭園)を会議室、イベント、写真撮影の古民家レンタルスペースとして開放している。

2022年2月17日に国の登録有形文化財に登録された。

外部リンク

家族・親族

正力家

元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助が、この地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による[14]。江戸嘉永年間(1848年 - 1854年)に庄助の発案になる鉄の金輪(かなわ)は、河川の氾濫で流れた古橋の抗を抜くための道具として卓効を発した[14]。この功により、庄助は奉行から苗字帯刀を許された[14]。正力という姓は、この金輪(かなわ)に命名された正力輪から始まっている[14]。正力家が土建請負業として大をなしたのはそれからだった[14]

松太郎の両親はもともと本願寺の熱心な門徒だった[45]。父・庄次郎は毎朝毎晩の勤行をかかさなかった[45]。松太郎の両親への報恩の情はきわめて篤かった[45]
  • 前妻・布久子[46]
警視庁の上層部が正力の将来にいかに属目していたかは、当時の警視総監安楽兼道が妻の兄弟の娘、つまり安楽にとっては義理の姪にあたる前田布久子(鹿児島県出身)と見合いさせ、結婚させたことでもわかる[46]。だが、布久子は一女をなしてまもなく亡くなった[46]。その長女も8歳で早世した[46]
  • 後妻・波満
1895年(明治28年)4月生
正力は最初の妻を失って間もなく、千葉県上総湊(後の富津市)出身で精華女学校の和裁教諭の吉原波満と再婚した[47]。波満が教鞭をとったのは、同校創始者の勝田孫弥が、波満の実家と縁つづきという関係からだった[47]。勝田はその一方で、元警視総監の安楽兼道とも縁戚にあり、最初の妻を早くに亡くした正力を不憫に思った安楽が、遠い縁つづきの波満を世話したものだった[47]

長男・亨

  • 長男・ … 波満との子
1918年10月24日 - (2011-08-15) 2011年8月15日(92歳没)〔大正7年 - 平成23年〕
第2代讀賣社主、第2代球団オーナー
  • 長男嫁・峰子[48]
1936年 - 2019年8月17日(83歳没)〔昭和11年 - 令和元年〕
子爵の元貴族院議員梅溪通虎の次女[48]
妹は池坊専永夫人の保子である[48]
1963年11月23日生(60歳)
読売新聞グループ本社、株式所有3045株 4.97%。
1986年、日本テレビ放送網入社。2020年、CS日本(CS日テレ)代表取締役社長。
  • 孫・美緒
読売新聞グループ本社、株式所有3029株 4.94%。

長女・梅子

  • 長女・梅子 … 後妻との間の子
1920年 - 2013年7月30日(93歳没)〔大正9年 - 平成25年〕
1913年7月23日 - (1999-12-30) 1999年12月30日(86歳没)〔大正2年 - 平成11年〕
小林與三次と梅子のなれそめについて小林によると「ジイさん(松太郎)の姉さんが、テロによるケガの具合を心配して、僕に様子を見に行ってくれ、と頼んできた[49]。それがきっかけとなって、僕が田舎に帰るたび、ジイさんの近況を実家に報告するようになった[49]。そんなことからだんだんと正力家と親しくなった[49]。学費を正力家から出してもらったという話もあるようだが、僕は育英金で学費をまかなったので、正力家からは一銭も出してもらっていない[49]。結婚についてはジイさんから直接話があった[49]」という。
小林與三次の実家について佐野眞一によると「要塞のような正力家の屋敷に比べ、庄川の水べりのすぐそばに建つ小林の生家は見るからに貧相だった[14]。その対照的な光景は、当主を“おやっさん”(親方)と呼ぶ、印半纏(しるしばんてん)の人足が何十人となく出入りしていた正力家の羽ぶりのよさと、その正力家の土建資材を運ぶイカダ舟船頭に過ぎなかった小林の父との境遇の違いを、残酷なまでに見せつけている」という[14]
  • 孫・塚越陽子
読売新聞グループ本社、株式所有2804株 4.58%。
  • 曽孫・塚越暁
1978年4月15日生(45歳)
正力松太郎逗子旧邸の管理人兼居住者。
神奈川県逗子市生まれ。山手学院高等学校一橋大学卒業。
2002年4月 - 2013年9月、リクルートに勤務。
2012年4月、個人事業「子ども原っぱ大学」企画運営。
2015年7月、HARAPPA株式会社 代表取締役「原っぱ大学ガクチョー」。

二女・利子

  • 二女・利子 … 後妻との間の子
1923年 - 2007年9月21日(84歳没)〔大正12年 - 平成19年〕[50]
1918年
三菱銀行副頭取関根善作の三男、元衆議院議員、信濃毎日新聞社長小坂善之助
1949年4月17日生(74歳)
読売新聞グループ本社、株式所有4800株 7.83%。
1972年、読売新聞社入社。

二男・武

  • 二男・ … 柳橋の元芸者中村すゞとの間の子
1934年 - 1985年5月(51歳没)〔昭和9年 - 昭和60年〕
日本テレビの副社長に就任したが最初に断行したことは、同社の役員だった弟の武を、傍系のよみうりランドに追放したことだった[51]。正力から認知され、日本テレビ入りしたものの、武の在社期間はわずか2年にすぎなかった[51]。武はその後、二度と日本テレビに復帰することなく、1985年(昭和60年)5月、51歳で死去した[51]。熱望していた結婚は結局叶わず、独身のままの淋しい死だった[51]。武は晩年、自分の人生を呪うように、浴びるほどのをのみつづけた[51]

注釈

  1. ^ 同級生に河合良成小松製作所会長)、品川主計読売ジャイアンツ代表)など
  2. ^ この時、団体戦で四高は三高に押されて負けムードが漂っていたが、大将である正力が巴投で二段の相手から逆転の一本勝ちをし、四高は優勝した。なお、この時正力自身は白帯だった
  3. ^ 巴投げを防がれた所からの送襟絞とする説あり[16]
  4. ^ 河合、品川のほか、重光葵(外相)、芦田均(首相・外相)、石坂泰三(経団連初代会長)などが同級。柔道と参禅に打ち込んだ。学業の方はまったく振るわず、試験前になると級友のノートを借りるのが東大時代の正力のならわしとなっていた。品川をはじめとする級友たちの間では、「正力があんなにノートを借りまくるのは、自分が勉強するためではなく、ノートを貸した人間の成績を下げるためなのではないか」という悪評が広がった[17]
  5. ^ 巣鴨の正力は、娑婆にいる時と変わらぬ傍若無人ぶりで、同房者や収監者たちを閉口させていた。同房者を迷惑がらせたのは、まず正力の大イビキだった。そのイビキは雷鳴以上で、たまりかねた同房者が下駄で正力の枕下の床板を叩いても一向にやむことはなかった[21]
  6. ^ 『支倉事件』は、甲賀が正力の新社長就任に際して1927年に『読売新聞』に連載したもの。なお、登場人物名は仮名となっており、正力は「庄司利喜太郎」、また、被告人の弁護にあたった布施辰治は「能勢弁護士」となっている。
  7. ^ OSS出身で説明会と最も深く関わったのは、X-2部長の ジェイムズ・マーフィ である。1000万ドル借款をアメリカ政府から取り付けるための交渉など全般を担当する弁護士として、日テレに雇われていた。説明会にも主催者として直接関わり、出席もしていた[39]
  8. ^ 日テレで初の地方完全系列局で、務臺光雄が設立に関わった讀賣テレビ放送(読売テレビ。大阪市)の初代会長も務めた。
  9. ^ 2013年5月31日に地上デジタル放送の完全移行に伴い、NHKと他の在京キー局の基幹送信所は東京スカイツリーに再移転した。なお東京タワーは予備送信所としての機能に移行している。
  10. ^ カール・ムント米上院議員は、「VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)」構想を打ちたて、世界中で広まりつつあった共産主義の撲滅に乗り出した「プロパガンダの雄」である。1951年(昭和26年)8月13日、ムントは「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表した。その翌年、正力はテレビ放送免許を取得、1953年(昭和28年)8月28日、日本テレビが開局した[43]

出典

  1. ^ 時事通信社 1920.
  2. ^ 『官報』第5781号、昭和21年4月25日。
  3. ^ . 読売巨人軍公式サイト. https://www.giants.jp/G/museum/g_history/+2020年4月6日閲覧。 
  4. ^ 「プロ野球の父」正力松太郎氏 「原子力の父」という一面も│NEWSポストセブン、閲覧2017年6月30日
  5. ^ a b 正力松太郎(しょうりきまつたろう)とは”. コトバンク. 2020年1月1日閲覧。
  6. ^ 梨本宮・平沼・平田ら五十九人に逮捕命令(昭和20年12月4日 毎日新聞(東京))『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p341-p342 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  7. ^ CIA Records - Name Files
  8. ^ Research Aid: Cryptonyms and Terms in Declassified CIA Files Nazi War Crimes and Japanese Imperial Government Records Disclosure Acts
  9. ^ ティム・ワイナー「CIA秘録」文藝春秋
  10. ^ 角間隆 (1979). ドキュメント日商岩井. 徳間書店 
  11. ^ 川端治 (1963). 自民党 その表と裹. 新日本出版社 
  12. ^ アメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管)で正力とCIAの関係が明らかに週刊新潮2006年2月16日号参照
  13. ^ 杉山隆男『メディアの興亡』(文藝春秋、1986年)349ー350頁。
  14. ^ a b c d e f g h i j k 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』19頁
  15. ^ 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』23頁
  16. ^ 嘉納治五郎師範の教え、講道館の殿堂、正力松太郎、講道館HP、閲覧2017年11月14日
  17. ^ 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』25頁
  18. ^ 記憶を刻む: 正力松太郎(震災当時・警視庁官房主事、後に読売新聞社主)
  19. ^ a b c 激動の昭和 1989, p. 28.
  20. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、52頁。
  21. ^ 『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』517-518頁
  22. ^ a b CIA Operative Daniel Stanley Watson and CIA Informant Hidetoshi Shibata Richard Krooth, Morris Edelson, Hiroshi Fukurai共著"Nuclear Tsunami: The Japanese Government and America's Role in the Fukushima Disaster" Lexington Books, 2011年, p18-
  23. ^ a b 日本 原発災害はCIA冷戦戦略から始まった ハンギョレ新聞、2011.10.01
  24. ^ 後藤田正晴 (1998). 情と理<上>. 講談社. pp. 156-157 
  25. ^ 名誉市民”. 高岡市. 2022年8月14日閲覧。
  26. ^ 射水市の名誉市民”. 射水市. 2022年8月14日閲覧。
  27. ^ 日本テレビ放送網株式会社社史編纂室 編『大衆とともに25年 沿革史』日本テレビ放送網、1978年8月28日、195頁。NDLJP:11954641/110 「第3章 激動期の日本テレビ放送網 9.正力会長の急逝」
  28. ^ a b 読売サッカークラブ~東京ヴェルディ40周年記念誌発行委員会 編『クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ~ヴェルディの40年』東京ヴェルディ1969フットボールクラブ、2010年、3,8-12,15,31,54,55頁。 
  29. ^ a b 成田十次郎『サッカーと郷愁と 戦後少年のスポーツと学問の軌跡』不昧堂出版、2010年、105-107頁。ISBN 978-4-8293-0481-5 
  30. ^ a b 高校サッカーと民放テレビ - サロン2002オフィシャルサイト-7頁、3月例会報告 -「サロン2002in岡山」 - サロン2002オフィシャルサイト(archive)
  31. ^ a b スポーツナビ|サッカー|トヨタカップを呼んだ男たち 第2回 坂田信久(archive)
  32. ^ 正力松太郎が囲碁殿堂入り―第15回囲碁殿堂表彰委員会で選出― 日本棋院
  33. ^ 木村愛二. “(8-2)「朝鮮人暴動説」を新聞記者を通じて意図的に流していた正力”. www.jca.apc.org. 2019年7月31日閲覧。
  34. ^ ナターシャ・スタルヒン著「ロシアから来たエース」(PHP文庫)
  35. ^ NHK「こだわり人物伝
  36. ^ 『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀』(文藝春秋、1994年)
  37. ^ 読売新聞社長、暴漢に襲われ重傷『中外商業新報』昭和10年2月23日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p287 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  38. ^ 襲撃犯人に懲役3年の判決『中外商業新報』昭和10年6月13日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p288)
  39. ^ 有馬哲夫 『日本テレビとCIA-発掘された「正力ファイル」』 新潮社 2006年10月 pp.14-31.
  40. ^ http://www.f.waseda.jp/tarima/NTV%20and%20CIA.htm
  41. ^ Truman Library - Truman Papers: Psychological Strategy Board Files
  42. ^ Foreign Relations of the United States, 1964–1968, Volume XXIX, Part 2, Japan - Historical Documents - Office of the Historian
  43. ^ ベンジャミン・フルフォード『ステルス・ウォー』 講談社 2010年3月 ISBN 9784062161244, Page238
  44. ^ 有馬哲夫『日本テレビとCIA』、新潮社、2006年
  45. ^ a b c d 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』21頁
  46. ^ a b c d 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』27頁
  47. ^ a b c 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』175頁
  48. ^ a b c 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』447頁
  49. ^ a b c d e 佐野眞一著『巨怪伝 上 正力松太郎と影武者たちの一世紀』445頁
  50. ^ 関根利子さん死去 よみうりランド社長関根達雄氏の母 共同通信47News 2007年9月25日閲覧
  51. ^ a b c d e 佐野眞一著『巨怪伝 下 正力松太郎と影武者たちの一世紀』394頁






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