榎本武揚 人物

榎本武揚

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人物

榎本武揚像(墨田区梅若公園)

鳥谷部春汀に「江戸っ子の代表的人物[206]」と評されたように、執着心に乏しく野暮が嫌いで、正直で義理堅く、涙もろい人間であった。親交のあった新門辰五郎の孫を引き取り学校に通わせたり、困っている人がいれば気軽に金を貸していたが[207]、林董は「一度人を信用すれば何でも信じてしまうため、友達としては最高だが、仕事仲間としては困る人だ」と評している[208]

投獄されていた際、市井無頼の徒と交流したこともあり、気軽で無頓着、清元節都々逸など粋な趣味を持った[209]。晩年も力士を座敷に招いて相撲を取らしたり、門付の新内語りを玄関先に呼び入れたりしていた[206]

酒豪で日本酒を「米の水」と呼んでいた[210]。洒落っ気があり、戊辰戦争のときの心境について明治になってから聞かれた際、「今ならあんな幼稚なことはしないが、帰国したばかりで良く判らなかったし、長州人といっても当時はどこの馬の骨だか判らないので抵抗してみた」ととぼけている[211]。また投獄中、重罪人であるにも関わらず、当時の政府を批判する「ないない節」という戯れ歌を作っていた[212]

堂上たちには腹がない 鍋島さまにはしまりがない 参議の者にはいくぢがない そこでなんにもしまらない 今度のご処置はたわいない 官軍朝敵差別ない 死んだ者には口がない 攘夷々々ととめどない 開港してもしまりない 大蔵省には金がない 弾正無茶には仕様がない することなすことわけがない 所々の恋女はつまらない 盗人年中たえがない 世上安堵の暇がない そこで万民命がない とんと日本もおさまらない ないない節 一くだり 榎本武揚酔墨

向島に屋敷を構えていた榎本は向島百花園を気に入り、晩年、朝夕の散歩がてら訪れては四季の草花を眺めていた[213]。植物、特に外国の花については非常に博識で、百花園の主人に教えていたこともあるという[214]。また、将軍家のために造られた御成座敷で酒を飲むのを好んでいた[213]。園内には俳人・其角堂永機の「闇の夜や誰れをあるじの隅田川」という句碑があるが、榎本はこれを見て、拙い句だとして「朧夜や誰れを主(あるじ)と言問はむ鍋焼きうどんおでん燗酒」と詠み直している(燗酒の歌)[215]

政治家としては、実務的大臣を歴任し「明治最良の官僚」と評され[216]、明治天皇からも信頼を得て、大津事件の謝罪使節派遣に際しては一旦辞退したものの、天皇・皇后から役目を受けるよう御諚を賜っている[149]。しかし一方で、幕臣ながら薩長の政府に仕えた「帰化族の親玉[217]」や、藩閥政治の中で名ばかりの「伴食大臣」という批判も受けた。

瘦我慢の説

榎本を大々的に批判した人物に、福澤諭吉がいる。1887年、榎本は清水次郎長らとともに清水・清見寺に咸臨丸の慰霊碑を建て、史記淮陰侯列伝の一節「食人之食者死人之事(人から恩を受けた者は、その人のために死ぬ)」を碑に記した。1890年、清見寺を訪れた際に碑を見て憤慨した福澤は、翌年、「幕府の高官でありながら新政府に仕え華族となった榎本と勝海舟は、本来徳川家に殉じて隠棲すべきであった」と批判する『瘠我慢の説』を書いた。福澤は榎本と勝に本書を送り意見を求めたが、当時、外務大臣であった榎本は、「多忙につき、そのうち返答する」という返事を出した。瘠我慢の説は1900年(明治33年)12月、世間に公表されたが、翌年2月に福澤が死去し、榎本は返答しないまま終わった[218]

逸話

  • オランダ留学中に電信術を学び、帰国時にフランス製のディニエ電信機を持ち帰った。箱館戦争で倉庫に預けたまま失われていたが、明治に入り、沖牙太郎が古道具屋で購入した。榎本が電気学会会長であった1888年に電気学会講演会の場で紹介され、偶然にも再会することとなった。この電信機は現在、郵政博物館に収蔵されている[219]
  • 逓信大臣のとき、逓信省の「徽章(郵便記号)」を決定。1887年2月8日、「今より(T)字形を以って本省全般の徽章とす」と告示した[220]が、2月19日の官報で「実は〒の誤りだった」[221]と変更した。その事情として、徽章が万国共通の料金未納・料金不足の記号「T」と紛らわしいことが判明したため、榎本が「Tに棒を一本加えて「」にしたらどうだ」と提案し、変更したという説がある[222]。郵便記号誕生に関する諸説のうちのひとつ。
  • 徳川慶喜が公爵となったとき(1902年)、旧幕臣が集まり祝宴を開いた。その際、慶喜一家とともに榎本も加わって写真を撮ることになったが、榎本は主君と一緒の写真など失礼なことはできないとして遠慮している[223]

系譜・親族

榎本家の先祖は相模国から武蔵国へ移り住んだ郷士であり、江戸時代は代々御徒士として仕えた家柄であった[6]家紋は丸に梅鉢。

  • 父:武規(1790年寛政2年) - 1860年(万延元年)8月6日[224]
    旧名は箱田真与(しんよ)、通称・良助、源三郎。榎本家に入婿した後の通称は円兵衛、左太夫[225]備後国安那郡箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)の庄屋・細川(箱田)園右衛門直知の次男[226]菅茶山の廉塾に学び、数学を得意としていた。17歳の時、江戸に上り、兄・右忠太(うちゅうた)とともに伊能忠敬の弟子になる[227]。1809年(文化6年)の第1回九州測量以降、実測に随伴し、大日本沿海輿地全図の作成に貢献した[228]。伊能の死後、1818年(文政元年)[注 24]に御家人の榎本家の株を買い、榎本武兵衛武由の娘みつと結婚して婿養子となり、武規と名乗る[229]。1826年(文政6年)12月1日、天文方に出仕[225]。1833年(天保4年)7月23日に西丸御徒目付、1840年(天保11年)5月17日に右大将御付、同年8月8日に本丸勤務、1844年(弘化元年)に勘定となり、1846年(弘化3年)に小普請入りとなった[230]
  • 母:琴(? - 1871年(明治4年)8月26日[224]
    武規の後妻。一橋家馬預・林代次郎正利の娘[231]
  • 妻:たつ(多津、1852年(嘉永5年)6月1日 - 1892年(明治25年)8月2日[224][232]
    林洞海とつる(佐藤泰然の長女)の長女で、林研海の妹。妹に赤松則良の妻となった貞、弟に西周の養子となった西紳六郎、母方の叔父に松本良順、および林洞海の養子となり弟となった林董、叔母に山内作左衛門(山内提雲の兄)の妻となったふさがいる。
  • 長男:武憲(1873年(明治6年)1月1日 - 1924年(大正13年)11月6日[233]
    幼名・金八。黒田清隆の長女・梅子(1882年(明治15年)1月24日 - 1934年(昭和9年)2月26日[233])と結婚。2人の娘・千代子(1905年(明治38年)1月5日 - 1969年(昭和44年)11月7日[234])は、黒田清隆の養子・常清に嫁いでいる[122]。1908年(明治41年)11月10日に子爵位を継承、貴族院議員。東京農業大学客員教授の榎本隆充は武憲の孫。
  • 長女:きぬ - 幼少時に死亡[224]
  • 次男:春之助(1880年(明治13年)1月20日 - 1966年(昭和41年)6月21日[233][注 25]
  • 三男:尚方(1883年(明治16年)11月8日 - 1954年(昭和29年)11月25日[224]
  • 次女:不二子 - 石川章雄に嫁ぐ[224]
  • 三女:多賀子 - 幼少時に死亡[224]
  • 長姉:端清 - 母は武規の最初の妻・みつ。御徒・安香助次郎民堯に嫁ぐ[225]
  • 次姉:らく(観月院) - 鷹匠・鈴木金之丞経正に嫁ぐが若くして未亡人となる。武揚が慕っていた[231]
  • 兄:武与(與)(たけとも、1832年(天保3年) - 1900年(明治33年)7月13日[224]
    幼名・鍋太郎。通称・勇之丞。大番格歩兵指図役を務めた[30]
  • 妹:歌 - 目付、外国奉行等を歴任した江連堯則に嫁ぐ[235]



注釈

  1. ^ 兄・鍋太郎(榎本武与)とともに、があれば食うには困らないという意味で名づけられた[1]
  2. ^ 出生地である「柳川横町(近所に柳川藩邸があった)」にちなむ。但し柳川では柳川鍋に通ずるため、梁川としたとされる[2]
  3. ^ 本名・村瀬誨輔。幕臣、儒者[7]。外交官・田辺太一の父。
  4. ^ 「甲」「乙」は名前が公表されるが、榎本の名前が無かったことから、「丙」とみられている[9]
  5. ^ 榎本は入学願を出したが却下され、昌平黌の学友・伊沢勤吾の父である大目付・伊沢政義に頼み込み、伝習所頭取となった勤吾の同行者として入学を許された[11]。なお赤松則良は、榎本は矢田堀景蔵の従者扱いで員外の者として講義を受けていた、と記している[12]
  6. ^ カッテンディーケ『長崎海軍伝習所の日々』「榎本釜次郎氏のごとき、その先祖は江戸において重い役割を演じていたような家柄の人が、二年来一介の火夫、鍛冶工および機関部員として働いているというがごときは、まさに当人の勝れたる品性と、絶大なる熱心を物語る証左である。これは何よりも、この純真にして、快活なる青年を一見すれば、すぐに判る。彼が企画的な人物であることは、彼が北緯59度の地点まで北の旅行をした時に実証した。」[14]
  7. ^ 同行のオランダ軍士官から洋服ではインド人と間違われる可能性があると指摘され、打裂(ぶっさき)羽織・裁付(たっつけ)袴に二刀差しの姿で観戦した[21]
  8. ^ 当時、榎本は神田和泉町に屋敷があったことから、和泉守としたといわれる[31]
  9. ^ 榎本は大坂城への登城途中に、負傷兵を保護していたプロイセン公使マックス・フォン・ブラントから、負傷兵の面倒を見ることを要請されている[37]
  10. ^ うち3万両は榎本に下賜され、オランダに残った留学生(伊東玄伯、林研海、赤松則良)の滞在費に充てられた[39]
  11. ^ 「軍艦・銃砲を引渡し、追ってふさわしく(相当)差し返すこと」と定められていた[44]
  12. ^ 新政府は榎本の脱走を忠義によるものと賞して、開陽ほかを榎本に預けたままとした[47]
  13. ^ 回答状の追伸にある『海律全書』の贈答に関する部分は以下の通り。「別本二冊、釜次郎和蘭留学中、苦学致候海律、皇国無二の書に候へば、兵火に付し、烏有と相成候段痛惜致候間、「ドクトル(注:高松凌雲のこと)」より海軍「アドミラル」へ御贈可被下候」[76]。なお、陸海軍参謀の山田顕義や海軍参謀の増田虎之助ではなく、交渉相手であった陸軍参謀・黒田清隆が本を受け取った。
  14. ^ 糾問所の建物は幕府の大手前歩兵屯所として使用されていたものであり、牢獄は大鳥圭介が歩兵頭のときに歩兵取締のため建てられた[83]
  15. ^ 黒田は箱館総攻撃直前の時点で既に、知人宛の手紙で「榎本は得難き非常の人物で驚かない者はなく、彼と生死を共にすべしと一同が奮発している」と記し、増田虎之助、曽我祐準とともに敵が降伏してきたら助命しようと約していた[87]
  16. ^ このとき榎本は薩長が支配する政府に仕えることに難色を示したが、大鳥圭介らが薩長ではなく朝廷に仕えるのだといって榎本に仕官を促した[96]
  17. ^ 開墾の際、樹木に火薬を付けて爆破する「爆破開墾」を行っている。なお、榎本農場は1918年(大正7年)、長男・榎本武憲により小作人に解放された[104]
  18. ^ 北辰社は土地管理のほか、東京・飯田橋から九段にかけての土地で牧場を経営していた[105]
  19. ^ 当時の外交慣例で武官公使の方が交渉上有利と判断されたためで、伊藤博文の建言によるものといわれる[108]
  20. ^ 総裁は三条実美[128]
  21. ^ このとき、榎本は山縣に「自分を罷免するのは、職務不十分なためか、それとも閣内人事の事情からか」と質したのに対し、山縣は後者だと言い放ち、榎本が憤慨している[138]
  22. ^ 移民課長(兼通商局長)は安藤太郎[169]。移民課は榎本の大臣退任後の1893年、通商局長・原敬の主張により廃止された[170]
  23. ^ 官報では10月27日薨去[187]
  24. ^ 榎本家に入婿したのは1822年(文政5年)との説もある[228]
  25. ^ 近代日本の万能人・榎本武揚, p. 331によれば明治41年(1908年)[224]となっているが、これは「昭和41年」の誤記と判断される。榎本隆充編「榎本武揚未公開書簡集」p225、榎本家家系図(2003)による。
  26. ^ 海軍大佐。フランスの法学者ジョセフ・ルイス・エルザー・オルトランの弟[242]

出典

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