業
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仏教
仏教用語 業 , カルマ | |
---|---|
パーリ語 | kamma |
サンスクリット語 |
karma (Dev: कर्मन्) |
チベット語 |
ལས། (Wylie: las; THL: lé;) |
日本語 | 業 or ごう |
英語 | karma |
業は果報(報い、果熟)を生じる因となるので、業のことを業因や因業ともいう[2][注釈 3]。
業による報いを業果や業報という[2]。業によって報いを受けることを業感といい、業による苦である報いを業苦という[2][注釈 4]。過去世に造った業を宿業または前業といい、宿業による災いを業厄という[2]。宿業による脱れることのできない重い病気を業病という[2]。自分の造った業の報いは自分が受けなければならないことを自業自得という[2]。
- 自分のもの(kammasakkā)- 死によって失われるものではなく、来世についてくる所有物[12]。
- 相続する(kammadāyādā)- 身・口・意の三業から引き継がれる[12]。
- 生まれる(kammayoni)- 生命を生み出すのは、自ら行った行為からで、すべて業より生まれる[12]。
- 切り離せない(kammabandhu)- 生命は業との繋がりを切ることはできない[12]。
- よりどころとする(kammapaṭisaraṇā)- 生命のよりどころである[12]。
- 優劣をつける(Kammaṃ satte vibhajati yadidaṃ hīnappaṇītatāyāti) - 生命に優劣をつける要素の一つである[12]。
分類
仏教における業は、様々に分類される。ここでは主に部派仏教ないし上座部仏教の諸経典に基づいて記す。中観派、密教等の大乗諸宗派では教義における比重、意味合いが異なる可能性に注意すること。[要出典]
三業
業は一般に、身(しん)・口(く、もしくは語)・意(い)の三業(さんごう)に分けられる[2]。
- 身業(しんごう, 梵: kāya-karman[14]、カーヤ・カルマン) - 身体に関わる行為[15]。身体的行為[14]。
- 口業(くごう, 梵: vāk-karman[14]、ヴァーク・カルマン) - 言語に関わる行為[15]。言語表現[14]。語業(ごごう, 梵: vāk-karman[19]、ヴァーク・カルマン)ともいう[20]。
- 意業(いごう, 梵: manas-karman[14]、マナス・カルマン) - 意志に関わる行為[15]。心意作用[14]。十悪業が分類される意の三業は貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚痴(愚かさ)となる[18]。
思業と思已業
ものごとは、意(manas)が先行し、意が最大の原因であり、意をもとに作りだされる(=意業)。
もしも、けがれた意によって、話したり(=語業)、行動するならば(=身業)、苦しみがついてくる。 荷を運ぶ牛の足跡に車輪が従うように。—法句経 第一章 1
業は、意志の活動である思業(しごう, cetana karma)と、思業が終わってからなされる思已業(しいごう, cetayitva karma)との2つに分けられる[21][2]。思業は意業であり、思已業は身業と語業である[21][2]。
阿含経では、行為が行われる場合は、①第一段階:思(意志の発動)の心作用、②第二段階:実際の行為(身業・口業・意業)があるとしている[16]。ここでは、(第二段階の意業だけでなく)、第一段階の思をも業のなかに含めて理解している[16]。そればかりでなく、第一段階こそが業の本質的なものだとして重要視している[16]。
一方、説一切有部では、①第一段階を意業(思業)とし、②第二段階は身業・口業のみ(思已業)とした[22]。なお、経量部や大乗仏教は、三業すべての本体を思(意志)であるとする[2]。
表業と無表業
説一切有部は、身業と語業には表(ひょう)と無表(むひょう; 梵: avijñapti[23]、アヴィジュニャプティ)とがあるとし、これらは表業(ひょうごう; 梵: vijñapti-karman[24]、ヴィジュニャプティ・カルマン)と無表業(むひょうごう; 梵: avijñapti-karman[23]、アヴィジュニャプティ・カルマン)ともいわれる[2]。表業は、「知らしめる行為」[25]、外に表現されて他人に示すことができるもの[2]、行為者の外面に現われ他から認知されるような行為[25]を意味する。無表業は、他人に示すことのできないもの[2]、善悪の業によって発得される悪と善を防止する功能(習性)[26]、行為者の内面に潜み他から認知されないような行為[25]を意味する。また、無表業は無表色(むひょうしき、梵: avijñapti-rūpa)[27]ともいう。
阿毘達磨倶舎論において、業を起こした時の心が善心ならそれと異なる不善あるいは無記の心を乱心といい、業を起こした時の心が不善心ならそれと異なる善あるいは無記の心を乱心という[28]。また、無想定や滅尽定に入って心の生起が全くなくなった状態を無心という[28]。この上で無表色は、 阿毘達磨倶舎論 の分別界品第一においては、これらの「乱心と無心等(この2つに不乱心および有心を含めた4つを四心という[29]。著者の世親はこれによって全ての心の状態を示し得たと考えている[30]。)の者にも随流(法が連続生起して絶えない流れをなすこと[28]。なお、随流は相続(梵: pravāha)ともいう[31]。)であって、浄や不浄にして、大種(四大種)によってあるもの」と定義されている[32]。分別界品第一の定義は四分随流ともいう[26]。なお、無表色は四大種の所造であるが極微の所成ではない[33]。また、法処、法界に属しながら色法であり[33]、五根の対象とはならず、ただ意根の対象である[33]。
無表業とは、説一切有部の伝統的解釈によれば「悪もしくは善の行為を妨げる習性」で、具体的には律儀、不律儀、非律儀不律儀の三種であり(これは阿毘達磨倶舎論の分別業品第四の所説であり、この所説が無表業全体を解明しているという考え方がある[26] 。)、いわゆる「戒体」と同じものである[26]。 また、無表色は身無表と語無表の二種に分けられ、殺生、偸盗、邪淫の三つの身業と妄語、綺語、離間語、悪口の四つの語業を合わせた七支に関わるものである[29]。明治大正期より、近代仏教学者によって経部の種子説との混同や[34]、大乗仏教の立場から有部の無表業を誤謬として規定したり[35]、「仏教元来の無表」を想定することによって、無表色を「業の結果を生ぜしめるもの」とする理解が流行したが、文献学的に論証されたものではなく、根拠に乏しい[35]。
身表と身無表、語表と語無表の四つに意業を加えて五業という[2]。
引業と満業
総体としての一生の果報を引く業を引業(牽引業、総報業、引因とも)という[2]。これは人間界とか畜生界などに生まれさせる強い力のある業のことを指す[2]。他方、人間界などに生まれたものに対して個々の区別を与えて個体を完成させる業を満業という[2]。引業と満業の2つを総別二業という[2]。
共業と不共業
山河大地(器世間)のような、多くの生物に共通する果報をひきおこす業を共業(ぐうごう)といい、個々の生物に固有な果報をひきおこす業を不共業(ふぐうごう)という[2]。無著「大乗阿毘達磨集論」においては、共業による影響は、これを結果に対する増上縁 (adhipati-pratyaya) と考え、直接的な結果、すなわち異熟 (vipāka) とは考えない[36]。
三性業
善心によって起こる善業(安穏業)と、悪心によって起こる不善業(悪業、不安穏業とも)と、善悪のいずれでもない無記心によって起こる無記業の3つがあり、この3つを三性業という[2]。
三時業
業によって果報を受ける時期に異なりがあるので、業を下記の3つに分ける[2]。この3つを三時業という[2]。三時業の各々は、この世で造った業の報いを受ける時期がそれぞれ異なる[2]。
- 順現業(順現法受業、じゅんげんぽうじゅごう[要出典]、dṛṣṭadharma-vedanīya-karman[37]) - この世で造った業の報いを、この世で受ける[2]。
- 順生業(順次生受業、じゅんじしょうじゅごう[要出典]、upapadya-vedanīya-karman[38]) - この世で造った業の報いを、次に生まれかわった世で受ける[2]。
- 順後業(順後次受業、じゅんごじじゅごう[要出典]、aparaparyāya-vedanīya-karman[39]) - この世で造った業の報いを、次の来世より先の世で受ける[2]。
三時業は報いを受ける時期が定まっているので定業といい、報いを受ける時期が定まらないものを不定業(順不定業、梵: aniyata-karman[40])という[2]。三時業に不定業を加えて四業という[2]。
業因と業果との関係
善悪の業を造ると、それによって楽や苦の報い(果報、果熟)が生じることを、業因によって業果が生じるという[2][注釈 5]。この業因と業果との関係について諸説がある[2]。
説一切有部は、業そのものは三世に実在するとし、業が現在あるときにはそれが因となっていかなる未来の果を引くかが決定し、業が過去に落ちていってから果に力を与えて果を現在に引き出すとする[2]。
経量部は、業は瞬間に滅び去るとするが、その業は果を生じる種子(しゅうじ)を識の上にうえつけ、その種子が果をひきおこすことになるとする[2]。
業道
業がそこにおいてはたらくよりどころとなるもの、あるいは、有情を苦楽の果報に導く通路となるものを業道という[2][注釈 6]。業道には十善業道と十悪業道の2つがある[2]。
業識、業障
業識(ごっしき)とは、業を縁として生じた識、または無明のために動かされた識のこと[41]。業障(ごっしょう)とは、業の障りのことを指し、業識障(ごっしきしょう)ともいう。善業および悪業を含む前世からの宿業により様々に生まれつくこと[42]。また、業識性(ごっしきしょう)は、惜しい・欲しい・憎い・可愛いという煩悩妄想を指す[43]。
仏典や宗派ごとの扱い
パーリ経典
大四十経においては釈迦は八正道を説き、十事正見として、果報の否定を「邪見」と断じている。阿毘達磨発智論においても五悪見のひとつとして排している。
阿毘達磨
『総合仏教大辞典(1988)』によれば、阿毘達磨では[どこ?]、十二支縁起の第十支の「有」は業を意味するものと解釈されている[2]。これを業有という[2]。
浄土教
一般に、念仏して阿弥陀仏の浄土に往生しようと願うことを浄業という[2]。
密教
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注釈
- ^ 原語の karman は、サンスクリットの動詞語根「クリ」(√kṛ)、為す) より派生した[1]。羯磨(かつま)と音写する[2]。
- ^ 原始仏典である阿含経典(二カーヤ)において、ウパニシャッドは言及すらされておらず、まったく存在していなかったと考えるからである[要出典]。登場するヴェーダも三つまでである[要出典]。
- ^ ただし、業因には、煩悩などの「業を起こさせる原因」という意味もあり、因業には「因と業」すなわち「主因と助縁」という意味もある[2]。
- ^ 業とその苦である報いのことを業苦という場合もある[2]。
- ^ 非善非悪の無記業は業果を引く力がない[2]。
- ^ 経量部や大乗仏教では、身・語を動初(どうほつ)する思(意志)の種子(しゅうじ)のことを指して業道という場合もある[2]。
出典
- ^ 宮元啓一『インドにおける唯名論の基本構造』、RINDAS ワーキングペーパー伝統思想シリーズ19、龍谷大学現代インド研究センター、2014年、pp.6-8。
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- ^ 大田 2013. 位置No.1173/2698
- ^ 大田 2013. 位置No.1165/2698
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