森川許六
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/17 14:31 UTC 版)
エピソード
- 許六百華賦(井伊家史料保存会所蔵)
- 許六百華賦の文章は風俗文選の百華ノ譜に納められたものと同じ。紫陽花図には許六による紫陽花の絵と共に「あちさいの花は 色白に肥ふとりたるが ちかくよりみれば 白病瘡のあとのすき間もなくて 興さめてやみぬ」と言う文が書かれている[5]。狩野派本流の画風で俳画風な味を加味した絵にかろやかに文が記された詩画一体の作となっている。
- 山水の譜
- 風俗文選の山水の譜には唐の王維の画論を基に自説を述べている。「絵をよくするには、まず風雅を知らなければならない。古人が画中の詩、詩中の画と言っているのはこのことを言っている」と記した。絵を描くのは風雅を愛するために行い、風雅を愛するのは絵を愛するためとする「詩画一致」の論理である[5]。
- 蕉門二世
- 自ら「蕉門二世」と称し、「先師(芭蕉)の発句の作り方の前後をよく知り、俳諧の底を抜いて古今にわたる者は五老井一人だ。」と強い自負を抱いていた[2]。
- 奥の細道行脚之図
- 元禄6年(1692年)、絹本著色、天理大学附属天理図書館蔵。『奥の細道』の説明の際にしばしば掲載される代表的な図。笠を手に杖をつく芭蕉、その後ろには随行者の河合曾良。同時代に奥羽を行脚する芭蕉と、容貌を表した資料が少ない曾良を描いた貴重な作例である。
- 龍潭寺襖絵(彦根市指定文化財)
- 井伊家の菩提寺龍潭寺には、許六の作と伝えられている牡丹に唐獅子をはじめとする襖56枚、合計104面に及ぶ障壁画がある[11]。寺伝では、彦根藩士・中野助太夫が制作を依頼し、次代・助太夫の時に完成したという。『五老井記』『山水賦』など許六自身が残した文章から絵筆を取る機会は多かったと推測されるが、遺作は俳画賛などの小品が多く、本作品のような障壁画は珍しい。そもそも許六の絵画作品は真贋の検討なしに紹介されることが多く、印章が長く残されていたことや印影集が早くに出たこと、芭蕉の絵の師として需要が高かったことなどから、贋作が紛れていることが否定出来ない。龍潭寺襖絵も部屋によって力量に差があり、現在許六筆と言えるのは西入側二之間の「四季耕作図」のみとする意見もある[12]。
- ^ a b 『近江の先覚 [第1集]』 滋賀県教育会〈近江文化叢書7〉、1951年、p.169、「森川許六」の項
- ^ a b c d 木村至宏ほか編 『近江人物伝』 (弘文堂書店、1976年)p.15、「森川許六」の項
- ^ a b c d 「森川許六」『滋賀県百科事典』 大和書房、1984年1月、ISBN 978-4-4799-0012-2
- ^ 『古画備考』
- ^ a b c d e f 石丸正運 『近江の画人たち』 サンブライト出版〈近江文化叢書7〉、1980年、p.30、「森川許六」
- ^ 堀切実『芭蕉の門人』 岩波書店〈岩波新書〉、1991年10月、ISBN 978-4-0043-0190-5
- ^ 『侍中由緒帳』第6巻 1999年)
- ^ 国立国会図書館所蔵
- ^ 松村明編 『大辞林 第三版』 三省堂、2006年10月、ISBN 978-4-3851-3905-0
- ^ 加藤周一編 『世界大百科事典 第2版』 平凡社、2005年
- ^ 彦根城博物館編集・発行 『彦根龍潭寺方丈 森川許六の障壁画』 1989年1月
- ^ 高木文恵 「森川許六と絵画 ─俳諧と画との関係─」『二〇〇六年度 鹿島美術研究 年報第24号別冊』、2007年11月15日、pp.75-83。
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