桜田淳子 桜田淳子の概要

桜田淳子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 17:15 UTC 版)

さくらだ じゅんこ
桜田 淳子
生年月日 (1958-04-14) 1958年4月14日(65歳)
出生地 日本 秋田県秋田市新屋表町
身長 161 cm
血液型 O型
職業 女優歌手
ジャンル テレビドラマ映画舞台
活動期間 1973年 - 1993年2013年 -
活動内容 1972年:『スター誕生!』決戦大会で25社からスカウトされ最優秀賞
1973年:「天使も夢みる」で歌手デビュー
同年:「わたしの青い鳥」で多数の新人賞を受賞
1978年:舞台『おはん長右衛門』
1979年:映画『病院坂の首縊りの家
1980年ミュージカル『アニーよ銃をとれ』
1985年:『澪つくし
1988年:『ニューヨーク恋物語
配偶者 あり(1992年 - )
 
受賞
第15回日本レコード大賞最優秀新人賞
第4回日本歌謡大賞放送音楽新人賞
(いずれも「わたしの青い鳥」にて)
第35回芸術祭優秀賞
ミュージカル『アニーよ銃をとれ』にて)
詳細は「受賞歴」を参照
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生い立ち

父親は十條製紙に勤めたサラリーマン[2][3][7]。一男二女の末っ子[2][7]。幼少の頃、東京大森に住んでいた綺麗な叔母が秋田に帰ってきて喋る、聞きなれない東京弁が流暢で耳に心地よく東京に憧れた[2]。このため上京後も訛りの矯正には苦労しなかったという[4]。幼稚園に上がった頃から人前で何かやるのが好きで、小学校では学芸会の常連だった[2]。小さい頃から「せっかく生まれてきたんだから、秋田にいて平凡な人生は送りたくない。東京へ行きたい」とずっと考えていた[7]。小学校6年のとき、将来何になりたいかというアンケートに"女優"と書いた[2]。中学では演劇部を創設し部長になる[7]。中学2年のとき、毎週観ていた『スター誕生!』で森昌子がグランプリに輝いた[2]。自分と同じ年齢の合格者に驚き、乗り出すように画面を観ていると、秋田地区でオーディションをするので応募したい人はどうぞと字幕スーパーが出た[2]。瞬時のためらいもなくハガキを出し、両親にも学校にも言わずオーディションに向かった[2]。その日は夏台風の接近で交通機関の運休があり、応募7000人のうち、会場に集まったのは5000人だった[2]

秋田市立日新小学校[3]秋田市立秋田西中学校[4]品川女子学院中等部・高等部(転入)[4]国本女子高等学校(編入)卒業(1977年)[4]聖トマス大学卒業。

歌手として

1972年(昭和47年)7月19日(放映は8月6日)、中学2年生(14歳)の時に日本テレビの人気オーディション番組『スター誕生!』の秋田県民会館で行われたテレビ予選[注 1]牧葉ユミの「見知らぬ世界」を歌い[注 2]、番組史上最高得点となる573点で合格[注 3]。『スター誕生!』の金谷勲夫ディレクターは「予選に参加した560人の中で彼女だけ白い帽子を被ってニコニコしていた。誰が見てもあの子が本命と直感したほど煌めく笑顔が印象的でした。ちゃんと声さえ出してくれれば合格と誰もが思っていましたね」などと述べている[4]。同年9月6日(放映は9月17日[4]後楽園ホールで行われた第4回決戦大会で、これも番組史上最高の25社から獲得の意向を示すプラカードが上がり[6]、審査員からの評価も圧倒的で最優秀賞(グランドチャンピオン)を受賞した[8]ホリプロ創業者の堀威夫の自伝『いつだって青春』によれば、当初、桜田はホリプロ入りの意向を示していたが、ホリプロには既に同番組出身の森昌子が所属しており、(スター誕生!の出身者が)同じ事務所ばかりに偏るのはどうかとの日本テレビ側の配慮もあって、サンミュージックに所属することになったという。桜田本人は、芸能界の悪いイメージの中にあって、森田健作はさわやかで清潔な印象があり、森田さんの所属事務所なら間違いないという、ただ一つの理由で、秋田にやってきた日本テレビのプロデューサーに「森田さんの事務所に行かせて下さい」と言ったと話している[2]。サンミュージックの相澤秀禎社長はスカウトマンに「うちは、森田健作と野村将希牧村三枝子のいる家庭的な事務所です、とそれだけ言え」と指示したという[6]。1972年(昭和47年)10月中旬[2]、先の大森の叔母宅に寄宿し、私立品川中学校(現・品川女子学院中等部)2年生に転入した[2]。3年時に同じクラスに山口百恵が転入してきて、よく似た境遇でもあり、すぐに打ち解け親しくなる[2]。高校進学の相談なども電話でよく話した[9]。同年3月23日に二人で卒業するも高校は別々になった[10]

1973年(昭和48年)2月25日ビクター音楽産業より歌手デビューキャッチフレーズは“そよ風の天使”[8]。デビュー曲「天使も夢みる」は、オリコンチャートでも12位につけるなど好スタートを切った。また、歌う時に被っていたキャスケット(2枚目のシングル「天使の初恋」まで)も桜田のトレードマークとなり、当時「エンジェルハット」と呼ばれて話題になった[9]。この時点で既に人気アイドルの仲間入りを果たしていたが、その後、同じ『スター誕生!』出身で、同世代の森昌子山口百恵と共に花の中三トリオ(当時)と呼ばれるようになり、国民的な人気を集める[1][8]。トリオとしての名称は3年後の「高三トリオ」まで続いた。3枚目のシングル「わたしの青い鳥」のヒットで、第15回日本レコード大賞新人賞、第4回日本歌謡大賞放送音楽新人賞を受賞。さらにその年の大晦日には第15回日本レコード大賞最優秀新人賞にも輝いた[8]

同年11月にリリースされた4枚目のシングル「花物語」で初めてオリコンチャートのベストテン入りを果たす。続く「三色すみれ」「黄色いリボン」「花占い」も順調にベストテン入りし、8枚目のシングル「はじめての出来事」ではオリコンチャート第1位を獲得[8]。その後も「ひとり歩き」「十七の夏」「夏にご用心」「ねえ!気がついてよ」「気まぐれヴィーナス」「しあわせ芝居」「リップスティック」「サンタモニカの風」などなど、数々のヒットを飛ばし、トップアイドルとしての地位を不動のものにした[8]シングルは累計で600万枚近くを売り上げ、トータルで18曲をオリコンチャートのベストテンに送り込んでいる。デビュー3年目の1975年(昭和50年)には、オリコン・シングルレコード年間売上、マルベル堂のブロマイド売上、『月刊明星』の年間人気投票において、いずれも女性歌手部門の1位を獲得するなど(「マルベル堂」『明星』『平凡』『近代映画』首位の4冠は美空ひばり・吉永小百合に続くもの)で、名実共に1970年代を代表するトップアイドルのひとりであった。1974年6月、後に大きな影響を及ぼす姉が上京し同居する[9]

人気絶頂の時から「たかがアイドル、人気は今だけなんだ。歌手の自分は短命だろう」とずっと考えていた[6][11]。学校では「淳ペイ」「淳ちゃん」と呼ばれて友達と対等でいられるのに、一歩仕事の世界に入ると10代の子供に大人から頭を下げられる世界。あるとき、車もあまり走ってないような地方に公演に行ったら、駅に着くと外車が待っていて、迎えの人から『先生』と呼ばれた。私のためにわざわざ外車を用意してくれたんだと思うと、イヤでイヤで、タクシーで行くと言い張ったが、結局説得された。挨拶させている自分が許せなくて、そのようなギャップにいつも迷っていた[6]。「周りによく思われたい、生意気に思われたくないという意識が強く、ずっといい子でいさせてしまった」[6]「周囲から歌手に向いてないと言われていたし、自分でもそう思う」[11]などと話し、1983年に歌手活動を停止した[11]


注釈

  1. ^ テレビ予選・決戦大会の映像は現存していないが(写真と決戦大会の音声のみのテープは存在)、秋田での1次審査(司会者の萩本欽一が直接現地に出向いた)の模様を撮影した映像(16mmフィルムで録画)は現存している。
  2. ^ 後に『スター誕生!』に挑戦した山口百恵も牧葉の「回転木馬」を歌った。
  3. ^ 挑戦者は7人で、合格ラインは250点。会場が500点、プロは各自100点の計500点で、合計が1000点満点。
  4. ^ 霊感商法の被害額が最大となったのは、桜田らが合同結婚式に参加した翌年の1993年であった[15]

出典

  1. ^ a b c 桜田淳子 女優・歌手 さくらだじゅんこ”. NHK人物録. NHKアーカイブス. 2022年8月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n 早瀬圭一『僕の出合った女』文化出版局、1987年、113-127頁。ISBN 4-579-30274-5 
  3. ^ a b c 「桜田淳子 AKITA ARAYA」『月刊明星』1974年10月号、集英社、88–89頁。 
  4. ^ a b c d e f g 「インサイド 売り出し双六 桜田淳子」『週刊サンケイ』1980年10月2日号、産業経済新聞社、33頁。 
  5. ^ 月刊平凡・1976年9月号より
  6. ^ a b c d e f 三浦弘子「TALK 三浦弘子野次馬インタビュー ゲスト 桜田淳子 『本当に好きな人いないの?って聞かれるのがイヤで、母から逃げ回っているんです、ウフフ』」『週刊平凡』1986年2月14日号、平凡出版、62–65頁。 
  7. ^ a b c d e f g h i 「スペシャル・インタビュー 第69回 桜田淳子」『週刊明星』1982年12月2日号、集英社、50–54頁。 
  8. ^ a b c d e f 桜田淳子 プロフィール- ビクターエンタテインメント
  9. ^ a b c d e f g h 「わからなかった? 笑顔の中の悲しみを… 桜田淳子・25枚の恋のメモ」『月刊明星』1979年3月号、集英社、96–99頁。 
  10. ^ 週刊平凡1974年4月11日号"晴れて卒業できました"
  11. ^ a b c d 「話して聞かして 桜田淳子 大女優に?それともあっさり結婚!?」『週刊平凡』1985年3月29日号、平凡出版、128頁。 
  12. ^ 光言社出版企画部(編) 『誰も書かなかった国際合同結婚式』(光言社 1993年3月1日) ISBN 978-4876560301
  13. ^ 통일교 합동결혼식 - KBS NEWS(韓国放送公社(韓国語)(KBS9時ニュース現場、1992年8月25日)
  14. ^ 세계 각국 통일교 신도 3만여쌍 합동 결혼식(韓国語)(MBCニュースデスク、1992年8月25日)
  15. ^ a b c d 「週刊文春」2022年7月28日号
  16. ^ 桜田淳子さん、16年半ぶり公の場…相澤さん通夜[1]
  17. ^ 桜田淳子さん 16年半ぶり報道陣の前に 1時間近く…相澤会長に別れ”. スポーツニッポン. 2013年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日閲覧。
  18. ^ 雑誌「明星」募集歌。






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