桓武天皇 諱・諡号・追号・異名

桓武天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/05 07:33 UTC 版)

諱・諡号・追号・異名

山部(やまべ)[注釈 2]崩御の後に和風諡号として日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてりのみこと)が贈られた。また山陵の名をもって柏原(かしわばら)天皇)、天国押撥御宇(あめくにおしひらきあめのしたしらす)柏原天皇とも呼ばれた。

在位中の元号

陵・霊廟

桓武天皇陵

(みささぎ)は、宮内庁により桃山陵墓地内にある柏原陵(かしわばらのみささぎ)に治定(京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎)されている。宮内庁上の形式は円丘。

上記とは別に、伏見区深草大亀谷古御香町にある宮内庁の大亀谷陵墓参考地(おおかめだにりょうぼさんこうち)では、桓武天皇が被葬候補者に想定されている[8]

在世中に宇多野(うたの)への埋葬を希望したとされるが、不審な事件が相次ぎ卜占によって賀茂神社の祟りであるとする結果が出され、改めて伏見の地が選ばれ、柏原陵が営まれた[注釈 3]。これとは別に4月に柏原山陵に葬られた(『日本後紀』大同元年4月7日条)と記されているにもかかわらず、10月に改葬に関する記述があり(『類聚国史』巻35引用大同元年10月2日条及び『日本紀略』大同元年10月11日条)、天皇が崩御したその年のうちに最初の陵とは別の陵が築かれて改葬された可能性が指摘されている。これについて同年起きた水害による影響とする説(『大日本史』平城本紀)、山陵とは別に殯宮が設けられていた説[注釈 4]、記事の誤りもしくは埋葬の延期があったとして改葬自体が自体を否定する説、桓武天皇との関係が思わしくなかった平城天皇が亡き父の祟りを恐れて完成した山陵を放棄して改葬を実施した[注釈 5]説などが上げられている。

延喜式』に記された永世不除の近陵として、古代から中世前期にかけて朝廷の厚い崇敬を集めた。柏原陵の在所は中世の動乱期において不明となり、さらに豊臣秀吉の築いた伏見城の敷地内に入ってしまったため、深草・伏見の間とのみ知られていた。元禄年間の修陵で深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳が考定され、その後幕末に改めて桃山町の現陵の場所に定められた。もっともその根拠は乏しいと見られ、別に桃山丘陵の頂き付近に真陵の位置を求める説もあるため[12]、確かな場所は不明とするほかない。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の一つ)において、他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。なお、後述するように平安京への遷都を行い、かつ同京最初の天皇となったことにちなんで、明治28年(1895年)に平安遷都1100年を記念して桓武天皇を祀る平安神宮が創祀されている。

百済との関係

百済王氏等への厚遇

桓武天皇の生母である高野新笠の出身は、百済渡来人氏族で和氏であり、中央政権に顕官を出す氏族ではなく、また新笠の母方の土師氏も有力な氏族ではなかった。光仁天皇の皇后の井上内親王が廃され、山部親王(桓武天皇)が皇太子となっても、新笠は皇后にはなれず、従三位夫人の位までであった。

桓武天皇は即位間もなく、天応元年(781年)4月に母・新笠を皇太夫人とし、従兄弟にあたる和家麻呂は異例の出世を遂げ、祖母方の土師氏も、大枝(大江)朝臣菅原朝臣などの姓を賜った。延暦8年12月28日(790年1月)に母・新笠が薨ずると皇太后位を贈り、延暦9年(790年)1月に新笠を葬る前日、和氏は百済武寧王の子孫であり、百済王族の遠祖である都慕王(東明王)は河伯の娘が日光により身籠ったものであるとして、これにちなんで新笠に「天高知日之子姫尊」の諡号を贈った[13]。さらに、同年2月に「百済王氏は朕の外戚である」と詔を発し、百済王氏の位階を進めた[14]。百済王氏を外戚と称することで、母・新笠の出身氏族を名目上高貴なものにし、その結果母の身分を上昇させようとした、と考えられる。在位中、百済王氏が本拠としていた交野にたびたび狩猟のため行幸し、百済王氏を重用した。また、後宮に百済王氏の教法・教仁・貞香を召しいれ、百済王明信尚侍としている[15]

天皇明仁の発言

平成13年(2001年)12月18日、天皇誕生日前に恒例となっている記者会見において、天皇明仁は翌年に予定されていたサッカーワールドカップ日韓共催に関する「おことば」の中で、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると、『続日本紀[13]に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。」との発言を行った[16]

この発言は、テレビ各社のニュースでは重ねて報じられたが、日本の新聞各紙の報道は簡素だった[注釈 6]。韓国では大きな反響を呼び、「皇室韓国人の血筋を引いている」、「皇室百済起源論」「日王が秘められた事実を暴露」などの発言意図から逸脱した報道も多く行われた[17][18]ほか、当時の金大中大統領が年頭記者会見で歓迎の意を表するほどだった[19]。なお、天皇明仁は平城遷都1300年記念祝典の挨拶でも、百済とのゆかりについて同様の趣旨を発言している[20]


注釈

  1. ^ 天皇は後年、「緒嗣の父(百川)微(な)かりせば、予豈(あ)に帝位を践むを得んや」との詔を発している[4]
  2. ^ 当時の皇子女の諱は乳母名(うじな)が採用される慣例であったため、「山部」という諱も山部氏の女性が乳母であったためと思われ、その場合の乳母は山部子虫であったと推定される[7]
  3. ^ 山田邦和によれば、桓武天皇は生前に埋葬を希望したのは宇多野ではなく深草山であり[9]、平城京にならって都の北側に陵墓を築こうとしたのは皇太子(後の平城天皇)の意向であったとする。ところが、宇多野は賀茂神社を祀る賀茂県主氏などの在地勢力の勢力圏に近いために彼らの反発を招き、それが宇多野への埋葬断念につながったとされている[10]
  4. ^ 黒板伸夫森田悌編 訳注日本史料『日本後紀』(集英社、2003年)、pp. 1198: 補注「柏原山陵」の解釈。
  5. ^ 西本昌弘によれば、『扶桑略記』に大同元年11月頃の話として、平城天皇が神野親王(嵯峨天皇)の皇太弟廃位を画策し、これを知った親王が父が眠る柏原山陵を遙拝したところ、平安京中を烟気が覆って昼なお暗い状態になった。驚いた天皇が占いを命じたところ、柏原山陵の祟りという結果が出たために、これを恐れた天皇が企てを断念したという逸話が載せられている。西本は『扶桑略記』が記すよりも少し前の時期に実際に廃太子の計画が存在しており、廃太子計画の失敗とそれに伴う父帝の祟りの可能性を危惧した天皇が改葬によって祟りを鎮めようとしたとしている[11]
  6. ^ 主要全国紙で本文において「ゆかり発言」を取り上げたのは『朝日新聞』のみであり、『毎日』『読売』『産経』の主要諸紙は「おことば」を全文掲載したものの、この「ゆかり発言」は掲載せずに愛子内親王の話題を取り上げるのに留まった。

出典

  1. ^ 村尾 1987, p. 46.
  2. ^ 村尾 1987, p. 1.
  3. ^ 村尾 1987, p. 248.
  4. ^ 続日本後紀承和10年7月庚戌(23日)条
  5. ^ 西本昌弘「長岡京前期の政治的動向」『平安前期の政変と皇位継承』吉川弘文館、2022年 ISBN 978-4642046671 P75-104.(初出:『条里制・古代都市研究』36号、2021年)
  6. ^ 吉川真司「馬からみた長岡京時代」(初出:国立歴史民俗博物館 編『桓武と激動の長岡京時代』山川出版社、2009年/所収:吉川『律令体制史研究』岩波書店、2022年 ISBN 978-4-00-025584-4)2022年、P102-103.
  7. ^ 佐伯『新撰姓氏録の研究』
  8. ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。
  9. ^ 『日本紀略』延暦11年8月4日条
  10. ^ 山田邦和 著「平安時代前期の陵墓選地」、古代學協會 編『仁明朝史の研究 承和転換期とその周辺』角田文衞監修、思文閣出版、2011年2月。ISBN 978-4-7842-1547-8http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784215478 
  11. ^ 西本昌弘「桓武改葬と神野親王廃太子計画」『平安前期の政変と皇位継承』(吉川弘文館、2022年), pp. 145-156:初出:『続日本紀研究』359号(2005年)
  12. ^ 山田邦和『歴史検証天皇陵』新人物往来社〈別冊歴史読本 78〉、2001年7月、134頁。ISBN 4-404-02778-8 
  13. ^ a b 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)正月壬子【十五】(#延暦八年(七八九)十二月附載)》壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉諡焉。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
  14. ^ 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)二月甲午【廿七】》○甲午…(中略)…是日。詔曰。百済王等者朕之外戚也。今所以擢一両人。加授爵位也。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
  15. ^ 山下剛司「百済王氏存続の要因」(『佛教大学総合研究所紀要』 21号、2014年)35-54
  16. ^ 宮内庁. “天皇陛下のお誕生日に際しての記者会見の内容”. 2008年11月7日閲覧。
  17. ^ 朴正薫 (2001年12月23日). “日王、朝鮮半島との血縁関係を初めて言及”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。
  18. ^ 金基哲 (2001年12月24日). “「日王は百済の末裔」韓国人学者の主張”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。
  19. ^ 『毎日新聞』2002年1月15日
  20. ^ 金剛学園出演「歌垣」が結ぶ韓日中 平城遷都祭「花いちもんめ」一緒に (民団新聞) [1]


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