桑名藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/05 08:12 UTC 版)
社会
産業
桑名は藩の成立前から楽市制が敷かれ、「十楽の津」と呼ばれて繁栄していたが、藩が成立して本多忠勝が慶長期に周到な町割を実施すると、商工業者が呼び集められて城下が経済的に発展することを最重要事とした[95]。鋳物師や瓦師、陶工などには住居が与えられて税は免除、名字帯刀が許されるなどの保護特権が与えられ、商工業者は町割りの際に同業者を集めてそのまま油町、紺屋町、鍛冶町、鍋屋町、魚町、船馬町、風呂町、伝馬町が誕生し、その町名がそのまま現在まで続いている[95]。
桑名で商業が盛んになった理由は、東海道の要衝であることと船便の良さに求められる。農業に関しても桑名米は品質優良で、桑名は船便で全国有数の米集散地でもあったが、江戸時代になると米取引所まで開かれて、その相場は江戸や大坂にも大きな影響を与えた。また桑名米は近隣諸国の酒造には欠かせず、争って使用されたため、その価値は大変高かった。江戸時代中期に江戸が大消費都市になると、桑名米や幕府領の年貢米(美濃など)は桑名に運ばれた上で江戸と大坂に運ばれている[96]。
松平定綱が藩主になると、定綱が地場産業を奨励して自ら何度も巡視に訪れたこともあり、果樹に醸酒、銘茶などの特産が新たに生まれた。これらも桑名が交通の要衝地であったためで、木材などは木曾や飛騨、伊勢南部に紀伊から集められて集散地となっている[96]。
幕府による参勤交代が定められると街道が整備されたが、桑名も例外ではなく、陸上・海上交通が盛んになった。御船奉行が設置され、桑名には大小の回船(御座舟)が10数艘があった[97]。他の漁船や大小の船を合わせると300艘は優に超えていた[98]。このため桑名には、諸大名が逗留するための定宿の本陣や脇本陣が造られ[98]、一般の旅客が宿泊する旅籠も120軒もあり、東海道でも有数の賑わいとなった(同じ伊勢国内でも、亀山は旅籠が21軒しかなかった)[99]。
特産物
桑名の名物として有名なのは海産物の蛤である。富田の焼き蛤など、桑名藩領の蛤は殻が大きく、肉厚で極めて美味であった。これは木曽川や揖斐川の河口が淡水と海水の交じり合う場所で栄養豊富であり、かつ深い泥砂があって蛤の成長に適した場所だったためである。そのため桑名蛤は徳川家康をはじめ歴代将軍にも献上された。当時は焼蛤が主流であり、街道沿いの茶屋では必ず売られて旅人は必ず焼蛤を食したといわれるほどであり、殻の形や色合いも見事で貝合わせや膏薬の容器としても珍重された[100]。また時雨蛤(煮蛤)は美味な保存食として有名となり、販路も広かった[101]。
陶器では万古焼が主流となったが[101]、これは製品に万古あるいは万古不易の烙印を押したためであり、幕府の御用も務めたほどで江戸万古となり、その後も各地に技術が伝わってそれぞれの地名を冠した万古焼が誕生した[102]。
刀剣では徳川家に祟りをなしたとされる村正が伊勢刀鍛冶の元祖である[102]。村正は切れ味抜群で比類無しと称えられたが、この祟りのために徳川時代には冷遇された。ただし幕末には、志士からその伝説のために愛用された[103][104]。
他に現在に伝わる名産品として、安永餅やたがね煎餅、地ビールとして上馬、清酒では上馬にかれかわ、久波奈がある[105]。
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