栃ノ海晃嘉 栃ノ海晃嘉の概要

栃ノ海晃嘉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/31 13:18 UTC 版)

栃ノ海 晃嘉
技能賞を受賞し表彰される栃ノ海
(1961年5月場所)
基礎情報
四股名 花田 茂廣 → 栃ノ海 晃嘉
本名 花田 茂廣(一時期宮古姓)
愛称 ハチナナ横綱
生年月日 (1938-03-13) 1938年3月13日
没年月日 (2021-01-29) 2021年1月29日(82歳没)
出身 日本青森県南津軽郡光田寺村(現在の田舎館村
身長 177cm
体重 108kg
BMI 34.47
所属部屋 春日野部屋
得意技 左四つ、押し、上手出し投げ、両前褌、おっつけ
成績
現在の番付 引退
最高位 第49代横綱
生涯戦歴 478勝261敗104休(64場所)
幕内戦歴 315勝181敗104休(40場所)
優勝 幕内最高優勝3回
十両優勝1回
幕下優勝1回
敢闘賞1回
技能賞6回
データ
初土俵 1955年9月場所
入幕 1960年3月場所
引退 1966年11月場所
引退後 年寄・中立春日野竹縄
備考
金星1個(朝潮1個)
2019年7月8日現在

名字が「花田」で同じ青森県出身ではあるが、若乃花幹士貴ノ花利彰との血縁は無い。また、現役引退後に年寄・春日野を襲名した際に姓を「宮古」としたが、停年(定年。以下同)退職後は再び「花田」に戻っている。

来歴

同級生の出会いから角界入り

1959年、四股名が「花田」時代の栃ノ海

1938年3月13日青森県南津軽郡にてリンゴ園の一家の子として生まれた。6歳の時に父親を亡くしていたために父親の記憶は姿かたちを除いてほとんど残っていないという。中学校進学後は母親とも死別したが、兄弟が多かったことで面倒を見てもらうことができ、高校進学も果たせた[1]1955年(昭和30年)8月に千代ノ山雅信栃錦清隆らの一行が青森県大鰐町を巡業で訪れた際に、既に春日野部屋へ入門していた中学時代の同級生・須藤良一に出会い、力士へ憧れる[1][2]。直ちに若者頭津軽海伝蔵と栃錦を通して春日野部屋を紹介してもらい、弘前商業高校を3年生の夏で中退して入門、同年9月場所に本名の「花田」で初土俵を踏んだ。なお、花田の高校時代は2年生まで野球部で4番を打ち、3年生から相撲部に転部したといい、本人曰く活躍していたというレベルではなかったとのこと[1]

新弟子検査時点では身長176cm・体重72.3kgしかなく、しかも体重測定に関しては担当の親方から「もうちょっとだけ足りないからお前、もう一回水を飲んで来い」と再計量を命じられ、これに応じてやっと通過した。このようにあまりにも身体が小さいことから入門そのものを家族から反対され、事後承諾を当てにして須藤に帯同する形で家族や高校に無断で入門を画策した[1]。高校の関係者は突然登校しなくなった花田を心配し、花田が角界入りして前相撲で一番出世を果たしたことを知って驚くが、快く送り出されたという。また、この時代は就職難があり、後年になって本人は「私が通っている高校は商業高校で、進学校でも無かったし、高校を卒業して就職しても、今みたいに大きな会社も少なかったものですから、卒業生のほとんどは個人の小っちゃなお店に就職して、帳面を付けるとかがせいぜいでした。(中略)力士になって東京へ行けば、力士がダメでもまた何か仕事があるだろうって、当時はその程度の考えですよ」と述懐していた[1]。当初から相撲に自信は無かった一方で「少しくらいは通用するんじゃないか?」という気持ちで角界入りしたものの、いざ稽古を行うと実力差を思い知らされて気落ちしたという[1]。また、当時は洗濯が手洗いで、巡業に行ったら寝る間もなく、昼間立ったまま寝る力士が出るほど、生活は過酷だったという[2]

幕内優勝~大関同時昇進

それでも、1958年1月場所で負け越した以外は十両昇進まで全て勝ち越しており、1959年1月場所で新十両昇進を果たした。同年10月に春日野が亡くなると、部屋は二枚鑑札栃錦清隆が継承した。栃錦の現役時代は、雪や北風が吹き荒れる露天興行の土俵でも休まず稽古を続ける姿を見たことで責任感の強さを感じ、本人曰く「よい教育になった」という[1]。また、序ノ口時代は同部屋の力士が50~60人ほど在籍していたことから、稽古土俵を取られないように午前4時半には起床していたという。しかし、声を出して四股を踏んでは近所迷惑になるため、それには困ったと苦笑しつつ述懐していたという[2]

1960年3月場所で新入幕を果たすが、まだこの当時は身長177cm・体重88kg程度で、2場所で陥落。しかし、十両に陥落した同年7月場所は14勝1敗で十両優勝を果たし、9月場所に四股名を「栃ノ海」と改めて再度入幕すると、10勝5敗の好成績を挙げた。1961年5月場所は2日目に横綱朝潮太郎から金星を挙げるなど10勝5敗、新三役(小結)に昇進した同年7月場所では11勝4敗と先場所に続いて二桁勝利を挙げた。9月場所には関脇に昇進して8勝7敗と勝ち越してからは関脇の座を譲らず、1962年5月場所では横綱柏戸剛に敗れたのみの14勝1敗で初の幕内最高優勝を果たした。この場所は新大関として佐田の山晋松がいたが、新大関の在籍場所で関脇以下の優勝は、戦後の15日制下では史上2例目だった[3]

場所終了後、13勝2敗だった兄弟子・栃光正之と共に大関へ昇進した[4]。同じ部屋から2人同時の大関昇進はこの組み合わせを最後に約60年間出ていないが、同部屋であるためか昇進伝達式はまとめて行われた。

横綱昇進~大鵬の難敵として

1963年11月場所では大鵬幸喜柏戸剛をなで斬りにし、14勝1敗で二度目の優勝を成し遂げた。この場所14日目の大鵬戦では低く当たって左差し、右から絞ってもろ差しを果たすと、両差し手を返して大きくなり、がぶって一気に寄り立てた。両上手を取れない大鵬は剣ヶ峰で右小手投げを打つと、栃ノ海が右ハズ、左を返して体ごとぶつけるようにして寄り切った[5]

1964年1月場所は13勝2敗の好成績を挙げ、横綱昇進先陣争いと言われた佐田の山、豊山勝男に先行して場所後の横綱昇進を果たした[4]。しかし、この場所は優勝した大鵬が15戦全勝、次点に東前頭13枚目の清國勝雄が14勝1敗で続いており、昇進直前場所が優勝次点ですらない成績での昇進は疑問の声もあった。理事会や横綱審議委員会においても「小兵が横綱を務めるのは困難」との意見が多数出たものの、春日野が栃ノ海を強く推薦したことで昇進に繋がった。しかし、その外部の声は春日野にも届いており、「もう、あとは『引退』だけだよ。ダメならすぐ辞めなきゃいけないんだよ」と言い渡し、栃ノ海は昇進を決めた直後だったにもかかわらず、引導を渡されたように感じたという。これには、春日野が横綱に昇進した当日も、先代・春日野から「今日からは毎日、辞める時の事を考えて過ごすように。『横綱』とは桜の花の散る如く引退するものの、追い詰められて引退するものでは無い」と言われて浮ついた気持ちが一気に引き締まったと語っている[1][注 1]。昇進時の口上は「謹んでお受けいたします」のみで[6]、横綱2場所目の1964年5月場所では、千秋楽に大鵬との対戦を制して13勝2敗で3度目の優勝を果たしたが、同場所が栃ノ海にとって最後の優勝となった。

その後の栃ノ海は椎間板ヘルニアを発症して坐骨神経痛となって著しい不調に陥り、3場所連続で8勝7敗に終わったことから「ハチナナ横綱」と揶揄されるなど苦渋を味わった。その後は回復して10勝5敗の成績を挙げるが、今度は右上腕の筋肉を断裂するアクシデントにも見舞われた。これは患部が見た目でもわかり(断裂部分がへこんでいる)、押せば肌が直接骨にあたるほどの重傷だった[注 2]。これは力士として致命傷となり、出場する場所で毎回金星を献上するなど厳しい土俵が続き、1966年11月場所を最後に現役引退を表明した。昇進当初は「私はあまり(身体が)大きくない。だからせめて、30歳までは現役を務めたい[1]」と目標を立てていたが、引退時の年齢は28歳8ヶ月で、当時の横綱最年少引退記録を作る結果となった。全休場所を除いた全ての場所で金星を配給するという、歴代横綱で唯一の不名誉な記録も作ったが、大鵬にとってはかなりの難敵で、幕内での対戦成績は大鵬16勝に対して栃ノ海7勝と健闘したほか、自身が横綱在位中に3場所連続で8勝7敗の不名誉な成績だった間にも大鵬を撃破したことがある。また、幕下から十両にかけて栃ノ海は大鵬(当時の四股名は「納谷」)にとってどうしても勝てない強敵で、幕下時代に初めて対戦してから大鵬が新十両の場所まで4連勝していた(翌場所、大鵬は初めて花田に勝った)。また、栃ノ海の横綱土俵入りはキビキビとしていて、相撲ぶりがよく表れており評価は高かった。

春日野部屋の継承

現役引退後、大鵬や柏戸らかつてのライバルが揃って部屋持ち親方となる中で、栃ノ海は年寄・中立として春日野部屋の部屋付き親方となり、春日野を支えた。協会の職務としては主に審判部と巡業部を担当し、自身が幕内時代に1日50番の申し合いをこなしていたこともあって[7]、日頃から「稽古しない力士には勝ってほしくない」と発言するなど、稽古態度によって力士の好き嫌いがはっきりと分かれる性分だった[注 3]。春日野が停年退職後は部屋を継承することも内定していたが、春日野が停年目前に急逝した1990年平成2年)1月に春日野部屋を継承した[4][注 4]。この時、栃錦の直弟子の筆頭弟子である玉ノ井との間に確執が生じたとも言われる。1998年には自身の還暦を無事迎えたが、現役時代の負傷による後遺症によって還暦土俵入りは行わず、作成された赤い綱を受け取るだけだった。横綱昇進後に発生した傷病に苦しみ不成績場所が多かったことで評価を落としたが、相撲の技能に関しては栃錦以上、と再評価を望む声は現在も多く、引退後の審判委員としての説明も明快であった。解説者としても解説が一級品で、受け答えを一度も外す事がなかった。

晩年

2017年4月27日出羽海一門で鎬を削った佐田の山晋松(出羽海)が79歳で死去したことで横綱経験者の中では最年長者・最古参となり、戦前・戦中生まれでの横綱経験者の存命は栃ノ海と北の富士勝昭の2人だけとなった。

2020年8月29日には若乃花幹士の年齢を抜いて歴代2位の長寿横綱となった。

2021年1月29日誤嚥性肺炎のため死去した[8]。82歳没。

存命者・物故者を通して歴代横綱経験者を含めても梅ヶ谷藤太郎 (初代)に次ぐ2番目の長寿で、年6場所制に移行した後で入幕を果たした横綱経験者としては最高齢である。


注釈

  1. ^ 栃錦自身も、ライバル・若乃花幹士との千秋楽全勝対決に敗れた翌場所に初日から連敗すると即刻引退を表明したほか、栃木山も3場所連続優勝を果たした翌場所にあっさり引退を表明するなど、いずれも「桜の花の散る如く」引退している。
  2. ^ 自身は年寄・中立時代に「腰はまだいい時もあったから何とかなったけど、右腕の筋肉が切れて離れたのはどうにもならなかった」と証言した。
  3. ^ 巡業でもほとんど稽古しない金城興福板井圭介などには手を焼いたとされる。
  4. ^ 栃錦は夫人に先立たれ、子供もいなかったため、栃錦の葬儀では栃ノ海が喪主を務めた。
  5. ^ のちに日の出海は東京神田で「相撲茶屋 栃ノ海」を経営した。
  6. ^ 2019年1月場所限りで稀勢の里が引退するまでは、年6場所制定着(1958年)以降昇進した横綱の中で唯一の勝率5割台であり、なおかつ年6場所制定着以降の横綱最低勝率であった。
  7. ^ 左足首関節捻挫により初日から全休
  8. ^ 左腰部打により10日目から途中休場
  9. ^ 右鎖骨骨折・椎間板ヘルニアに伴う坐骨神経痛により3日目から途中休場
  10. ^ 右大腿部挫傷により11日目から途中休場
  11. ^ 椎間板ヘルニアにより11日目から途中休場
  12. ^ 椎間板ヘルニアにより初日から全休
  13. ^ 右上腕二頭筋ヘルニアにより4日目から途中休場
  14. ^ a b 右上腕二頭筋ヘルニアにより初日から全休

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 光文社
  2. ^ a b c d e f 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p45-47
  3. ^ 『相撲』2018年10月号99頁から107頁
  4. ^ a b c d e 『大相撲名門列伝シリーズ(1) 出羽海部屋・春日野部屋 』p29
  5. ^ 『大相撲ジャーナル』2017年12月号p43-44
  6. ^ Sports Graphic Number (文藝春秋)2019年2月28日号 p63
  7. ^ 大相撲:第49代横綱・栃ノ海の花田茂広さんに聞く 毎日新聞 2013年03月30日 11時02分
  8. ^ “元横綱・栃ノ海が死去 82歳 誤嚥性肺炎で”. スポニチアネックス. スポーツニッポン. (2021年1月29日). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/01/29/kiji/20210129s00005000225000c.html 2021年1月29日閲覧。 
  9. ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p77
  10. ^ a b 雑誌『相撲』別冊菊花号 創業70周年特別企画シリーズ(3)柏鵬時代 柔の大鵬 剛の柏戸――大型横綱たちの君臨(ベースボールマガジン社、2016年) p78-83
  11. ^ “口上に入れたかった「親方」栃ノ心会見詳報”. 時事ドットコム. ス時事通信社. (2018年5月30日). https://web.archive.org/web/20180530075649/https://www.jiji.com/jc/article?k=2018053000653&g=spo 2018年5月31日閲覧。 
  12. ^ “元横綱栃ノ海も感無量 自身以来56年ぶり大関誕生「いいね」”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2018年5月31日). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/05/31/kiji/20180530s00005000394000c.html 2018年5月31日閲覧。 
  13. ^ Tochinoumi Teruyoshi Rikishi Information” (English). Sumo Reference. 2007年7月24日閲覧。


「栃ノ海晃嘉」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「栃ノ海晃嘉」の関連用語

栃ノ海晃嘉のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



栃ノ海晃嘉のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの栃ノ海晃嘉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS