松本藩 松本藩の概要

松本藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/09 16:49 UTC 版)

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松本城(現存天守

藩の前史

戦国時代、松本は信濃守護小笠原氏の支配下に置かれていた。しかし小笠原長時武田晴信に敗れたため、以後は武田家の支配下に置かれた[1]元亀4年(1573年)4月に信玄が亡くなると後継者の勝頼天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで大敗し、次第に織田信長徳川家康の攻勢の前に追い詰められた。天正10年(1582年)2月には勝頼の妹婿である木曾義昌が離反したこと等により武田家は瓦解し、3月に勝頼は自害して武田家は滅亡。信長は義昌の功績を認めて松本領を与えた[1]

しかし3ヵ月後の6月に本能寺の変が起こって信長が横死[1]。旧武田領では武田旧臣による反乱が勃発し、義昌は松本を放棄して木曽に籠もった。このため松本は軍事的・政治的空白地帯になり、地侍が自立に向けて動き出した[1]。信長没後の信濃は家康・上杉景勝北条氏直ら周辺列強国の草刈場と化し(天正壬午の乱)、松本の地侍は旧主長時の実弟小笠原洞雪斎を景勝の支援を得て府中に迎え、7月2日には深志城に入った[2]。しかし洞雪は主体性がなく、景勝が派遣した上杉重臣の傀儡であったため、地侍は洞雪を見限った[2][注釈 1]

地侍は家康の支援を得て長時の息子貞慶を迎えた[2]。貞慶には多くの地侍が味方し、7月17日に洞雪は抗戦をあきらめて開城した[3]。この時、深志城を松本城と改めた[3]

8月、木曾義昌が家康と手を結んで松本に攻め込んできたため[3]、貞慶は家康から離れて木曾軍を破り、所領安堵状や宛行状を連発して自立の傾向を強めた[4]。だが天正11年(1583年)に貞慶は赤沢氏、塔原氏などを殺害し、三村氏や西牧氏らは粛清を恐れて逃亡した[4]。これらは武田信玄の侵攻の際に小笠原家を裏切った諸氏であり、貞慶の復讐だったとされる[4]。このため、筑北地方で上杉景勝と戦うも大敗した[5]

家康は貞慶の動向を見て、小笠原氏に所領安堵して味方につけ、貞慶も家康に嫡子秀政を人質として差し出し、家康は秀政を重臣の石川数正に預けた[5]。しかし小牧・長久手の戦い後の天正13年(1585年)11月に数正が家康の下から出奔して豊臣秀吉の下に走った際、秀政も貞慶も秀吉の下に走った[5]。ところが貞慶は名族小笠原家の血筋を鼻にかけて秀吉の出自を貶めるような発言をしたため[注釈 2]、家臣らが再びの滅亡を恐れて秀政のみを名代として秀吉と拝謁させた[6]

以後は秀政が事実上の当主となり、天正15年(1587年)3月に秀吉の仲介で家康の下に帰参し、翌年12月に秀政は正式に家督を継いだ[7]。天正17年(1589年)1月には家康より正式に安曇郡筑摩郡の松本領を安堵され、8月には家康嫡子松平信康の娘を正室に迎えて小笠原氏は徳川家での地位を確立した[7]

藩史

石川家の時代

天正18年(1590年)の小田原征伐後北条氏が滅亡し、秀吉の命令で家康が関東に移封されると、秀政も家康に従って関東に移り、下総古河藩3万石の藩主となった[8]

松本藩の藩祖は、徳川家康に仕えた「三河の旗頭」の一人・石川数正である。数正は家康が今川義元の人質だった頃から仕えていた最古参の家臣で、永禄5年(1562年)の織田信長と家康との同盟締結に大きな功を挙げた人物である。しかし小牧・長久手の戦い後の天正13年(1585年11月13日、数正は突如として家康の下から出奔し、当時家康の宿敵であった羽柴秀吉のもとへ降った。この出奔には諸説あり、未だに定説はない。

秀吉は数正を家臣として迎え、和泉に8万石を与えた。天正18年(1590年)、家康が関東に加増移封されると、その後を受けて信濃松本10万石[9]に加増移封された。数正が文禄2年(1593年)に死去した後[9]、その遺領は嫡男・石川康長が8万石(石川氏の家督も同時に継いでいる)、次男の石川康勝が1万5000石、3男の石川康次が5000石とそれぞれ分割して継いだ。数正・康長父子は松本城を近世城郭に改め、城下町の建設に務めた[9]。だが数正没後、跡を継いだ康長はその築城のために過酷な賦役を民衆に課したと伝わっている[10]

康長兄弟は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与したため、戦後に家康から所領を安堵された。慶長15年(1610年)に家中で騒動が発生する。筆頭家老の渡辺金内と若手実力者の伴三左衛門との間で、藩政の主導権をめぐって対立したのである。この裏にはかつて数正に煮え湯を飲まされた家康がいたらしい。家康は、あわよくば家中騒動を理由に松本藩を取り潰す気だったのであろう。しかし、康長の縁戚であった大久保長安(長安の長男の妻が康長の娘)がこれを助けた。長安はかつて康長の後見人でもあった宿老・秋山治助をこの内紛に介入させて、三左衛門を石川氏の中枢から駆逐することで、無難に騒動を終結に導いたのである。慶長18年(1613年)4月、大久保長安が亡くなり、長安の死後に起こった大久保長安事件において、康長兄弟は長安と縁戚であるという理由(取り潰しの表向きの理由は領地隠匿罪)から改易されてしまった[11]。他に改易の理由として分限をわきまえずに城普請を行なったことが付け加えられている[11][注釈 3]。他にも家康の意趣返し、福島正則と同じ外様大名外しともされる[11]

小笠原家の時代

石川家改易後の慶長18年(1613年)11月、飯田藩より小笠原秀政が8万石で入った[12]。秀政は古河3万石から関ヶ原後に2万石を加増されて飯田藩5万石に移封されており、今回はさらに3万石を加増されての久々の旧領復帰で一族家中は大いに喜びあったという[12]。秀政は寺社政策、多くの領内法度を制定して年貢制度を整え[12]、前の石川康長時代に人足役や職人役に苦しんで他村・他領に逃散した百姓を帰村させるために百姓還住策をとり、百姓が帰村した場合は自由に住居地を定めて諸役も免除するという寛大な政策を行なった[13]。また地侍の力を弱めるため蔵入地(直轄地)を増やしたり[13]、宿駅制度を整備して北国脇往還(善光寺道)の改修や整備を進めた[13]。しかし秀政は元和元年(1615年)の大坂夏の陣で嫡男・小笠原忠脩とともに奮戦したものの戦死(忠脩は大坂の陣の間、松本城の守備を任されていたが、幕府に無断で出陣し父と合流した)[13]。小笠原家の家督は秀政の次男・小笠原忠真が継いだ[13]。忠真は大坂の陣における秀政・忠脩の軍功により2万石の加増を受け、10万石で播磨明石藩に移封された[14]。この際に地元松本における小笠原家の家臣の多くが従って姫路に赴いた[14]

戸田松平家の時代(第1期)

上野高崎藩5万石より松平康長が2万石加増の7万石で入封する[14]。康長は家康の養妹を妻とする有力な譜代大名であり、寛大かつ温厚な人柄[注釈 4]を第2代将軍徳川秀忠に信任されて第3代将軍家光の補佐を命じられた[14]。藩政においても在地の地侍72名を松本で召し抱え[15]、地方知行(家臣に土地を与える制度)から蔵米制に改めて兵農分離を完成させ[15]、領内を15組に分ける新しい行政区画を創設した[15]。寛永3年(1626年)から寛永8年(1631年)にかけては領内に総検地を実施した[16]。この検地に伴い、村の区画割りも行なわれた[16]。康長は寛永9年(1632年)12月に松本で死去[17]。跡を継いだ康直は寛永10年(1633年)4月に播磨明石へ移封された[17]

松平直政の時代

結城秀康(家康の次男)の3男・松平直政越前国大野藩より7万石で入る。直政は城郭の増改築、天守の造営、多門櫓の築造を行なった[18]。また寛永通宝松本銭の鋳造を行なうなど、7万石の藩にしては行なっていることが大藩並であり、これは徳川家光との懇意、結城秀康の実子という立場によるものといわれる[19]。また直政は地子免除(土地・屋敷にかかる年貢の免除)など税制も定めた[20]。寛永15年(1638年)に出雲国松江藩へ移封された。

堀田正盛の時代

徳川家光のもとで老中を務めていた堀田正盛は寛永15年(1638年)3月、武蔵川越藩3万5000石から6万5000石加増の10万石で入部する[21]。堀田は松本7万石の他、安房と上野の両国に3万石を合わせて10万石である[21]。正盛は春日局の義理の息子で縁戚関係から出世した人物である[21]。正盛自身は老中として江戸で幕政を統括したため、松本に来ることはほとんど無かった[21]。寛永18年(1641年)と寛永19年(1642年)に「巳午の飢饉」と称される飢饉が起こり、その最中の寛永19年(1642年)4月に下総佐倉藩へ移封された[22]。この際、前年の凶作で領内には大量の餓死者が出て年貢の取立が十分にできずに移封しているが、後任の水野家が3年かけて未進分を佐倉に送り届けた[22]

水野家の時代

堀田正盛の後は三河吉田藩より水野忠清が7万石で入封した[23]。忠清は大坂の陣で先陣争いをして戦功を立てた古強者であったが、松本に在任してから5年後の正保4年(1647年)5月に死去している[23]。なお、忠清は徳川家康の従弟に当たる。

第2代は息子の忠職が継ぎ、慶安検地を実施して財政基盤を確立し[24]、この検地は明治時代の地租改正までの土地の基本台帳となった[25]。この検地高は11万2000石余りになったが評判が悪く、検地のやり直しや検地が終了しない内から再検地の要請が相次ぐなど混乱し、場合によっては永引地として減税になるなど混乱が相次いでいた[25]。また忠職は年貢納入制度を定め、稲の品種改革や川除普請、百姓訴訟法の制定など[25]、民政の確立に勤めた。しかし寛文6年(1666年)から4年をかけて飢饉が起こり(寛永の飢饉)、忠職は酒造の制限や酒売買の禁止、雑穀売りの制限から7か条の倹約令、奢侈禁止令を出すなどして対応した[26]。ただし一方では代官など支配する側の不正を許さず法令化して厳しく取り締まった[27]。こうして松本藩政は忠職の下で確立した。また忠職の弟忠増に5000石が分知され旗本に列し、後に幕府から加増をうけて忠増の子忠位が1万2000石の大名となる。その子忠定は笹部に陣屋を置き信濃1万石、丹波2000石を領したが、北条藩に転封となる。

忠職の跡を継いだ第3代忠直は、父の時代から続く寛文の飢饉の時期に襲封したためという理由もあるが[28]延宝期にも飢饉が相次いで[28]財政が逼迫した。このため、貞享3年(1686年)に年貢を増徴して、貞享騒動と呼ばれる一揆が起こった[29]。騒動そのものは松本藩が一揆側の要求を受け入れて鎮定したが、松本藩は一揆側と交わした約定を破棄し[30]、首謀者は兄弟子供を含めて28人を磔獄門に処した[31]。また忠直は寺社参詣、松茸狩り、川干し漁、祭事、能狂言など遊興に熱中して[32]藩政を省みなかった。忠直は諸芸の名人を召し抱えて松本は江戸や京都に倣って風俗や文化的には発展を遂げている[33]。だが財政的には困窮し、忠直時代から御用金策が開始された[34]。また幕府より神田橋藩邸の上納を命じられ、日本橋浜町に替地を下賜される。

第4代忠周は忠直の息子で、父とともに遊興にふけった[35]。しかし一方で忠直時代の放漫財政を改めようと[36]財政改革に着手し[37]、江戸家中の者に御定法91か条による日常生活の切り詰め[37]、家臣の減給[38]、倹約令から人員削減などに着手したが[38]、在任5年で没した[35]。また日本橋浜町の江戸上屋敷が火災で焼失し、田安門に移転した。

第5代忠幹は才智に優れた人物と伝わるが、在任5年で25歳の若さで没した[39]

このため第6代には忠幹の実弟忠恒が就任する[40]。幕府より田安門藩邸の上納を命じられ、筋違御門外に替地を下賜される。だが忠恒は遊興にふけり酒好きであり[40]、短慮の上に悪食で気性も荒いという兄と正反対の暗愚の人物であった[41]。その暗愚ぶりは享保9年(1724年)7月の犀川熊倉橋前の川干し漁で1975人を動員し、さらに8月23日には鷹狩、9月3日には松茸狩りとして現れていた[41]。そして享保10年(1725年)7月29日、将軍吉宗の拝謁を無事終えて帰る時、江戸城中の松之大廊下長府藩の世子毛利師就とすれ違った際に小刀を抜刀して斬りつけるという事件を起こした[42]。忠恒は直ちに取り押さえられ、取調べでは自らの不行跡により領地が召し上げられて毛利に与えられるものと思い切りつけたと答えたが[42]、そのような事実は全く無く忠恒の被害妄想であり、幕府は毛利に咎めなく忠恒は乱心したとして所領没収・改易とした[42]。ただし水野家は幕府に強い影響力があり、「勲旧の世家、全く廃すべからず」として断絶だけは免れて川越藩に預けられ、叔父の水野忠穀に信濃佐久郡において7000石、また忠穀の兄水野忠照に2000石を与えて存続は許した[42]。忠恒は医師2人をつけて川越藩に預けられた後[42]、叔父の下で蟄居した。松本藩水野家の引き払いは9月26日までに行なわれ[43]、忠毅の下に仕えた者以外は浪々の身となり悲惨な生活を送ったと伝えられる[44]。筑摩郡は坂木代官に、安曇郡は飯島代官に預けられた[45]

戸田松平家の時代(第2期)

水野家改易後の10月、かつて松本藩主であった松平康長の系統を継いでいた志摩鳥羽藩主の松平光慈が6万石で入り、以後戸田松平家9代の支配を経る[46]。松平光慈の移封に関してはこの2ヶ月前の8月(あるいは9月)に光慈が老中松平乗邑に鳥羽の地は領分が狭くて収納も少なく勝手向も甚だ難渋して家来の撫育も行き届かず、公務も甚だ心許ないとして自ら請願して松本への移封を望んだといわれる[46][注釈 4]。だが入封直後の享保12年(1727年)閏1月1日には本丸御殿が火災に見舞われた[47]。光慈は戸田十五郎を登用して[48]享保の財政改革を行なった[49]。既に戸田松平家は前の火災をはじめ、引越し費用に合計2500両の借財も重ねており[49]、財政難はこの時から始まっていた。光慈は自ら藩財政の危急を家中に訴え[50]、倹約やリストラを推し進めた[51]。一方で領民に対しても法度を制定して治世の基本法とした[52]。光慈は早世して弟の光雄が第2代藩主となり、彼は武芸を重んじて奨励した[53]。だが光雄も若死し、2代の藩主が連続して早々に不幸が相次いだ物入りのため、借財は1万8000両に膨らむことになった[54]。このため宝暦7年(1757年)から家臣の俸禄減知が行なわれ[54]、その後も明和から文久まで3年から5年の期間で減知が繰り返された[55]。このため領民からの御用金、いわゆる拝借金への依存度が高まり、以後廃藩まで戸田松平家は御用金頼みの財政が続いた[55]安永期にも財政再建を目的とした藩政改革が第5代藩主光悌により行なわれたが[56]、あまり効果はなかった。

第6代藩主光行は幕府老中の松平定信の影響を受けて財政再建を主とした厳しい倹約令を出すなどした寛政の改革を行なう[57]。また藩校崇教館が創設された[58]。文化・文政期にも藩政改革は行なわれている[59]

幕末になると、安政2年(1855年)より、藩主松平光則によって財政・軍制を中心とした藩政改革が行なわれた[60]天狗党の乱では元治元年(1864年)11月に松本藩兵は諏訪藩兵と共同して中山道和田峠で天狗党と交戦したが、敗北している(樋橋戦争)[61]長州征討でも両次に幕府方として参戦しているが、いずれも後揃えでの参加であったため戦闘には至っていない[62]。だがこれらの戦争で松本藩財政はいよいよ逼迫した。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争においては佐幕勤王かでなかなか藩論の一致を見なかったが、東征軍の松本到着の直前になって勤王を選択し3万両を献上して帰順した。その後は新政府軍の一員として宇都宮城の戦い北越戦争会津戦争に参戦した。最後の藩主松平光則朝廷への版籍奉還上表は明治2年(1869年2月25日のことであった(同年6月に許可)。明治3年(1870年)には藩知事となり、その下に大参事以下の役職が置かれた。




注釈

  1. ^ 『信濃史料』15巻では洞雪は梶田と八代の言いなりでないがしろにして邪曲のこと多く、輿望に違いければとある。
  2. ^ 信府統記』では凡下卑賤の人、彼の猿冠者と貞慶が発言したとある。
  3. ^ 『信府統記』
  4. ^ a b 戸田家の事跡書『世々のあと』
  5. ^ 現在では日本銀行松本支店が建つ

引用元

  1. ^ a b c d 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P10
  2. ^ a b c 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P11
  3. ^ a b c 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P12
  4. ^ a b c 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P13
  5. ^ a b c 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P14
  6. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P15
  7. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P16
  8. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P18
  9. ^ a b c 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P19
  10. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P20
  11. ^ a b c 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P22
  12. ^ a b c 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P29
  13. ^ a b c d e 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P30
  14. ^ a b c d 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P31
  15. ^ a b c 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P32
  16. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P33
  17. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P34
  18. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P35
  19. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P36
  20. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P37
  21. ^ a b c d 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P38
  22. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P39
  23. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P42
  24. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P44
  25. ^ a b c 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P45
  26. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P46
  27. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P47
  28. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P48
  29. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P50
  30. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P52
  31. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P53
  32. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P55
  33. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P57
  34. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P58
  35. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P61
  36. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P62
  37. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P63
  38. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P64
  39. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P65
  40. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P67
  41. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P68
  42. ^ a b c d e 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P69
  43. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P71
  44. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P72
  45. ^ 松本市史第2巻、P160
  46. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P76
  47. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P77
  48. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P80
  49. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P83
  50. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P85
  51. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P86
  52. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P88
  53. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P105
  54. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P117
  55. ^ a b 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P118
  56. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P120
  57. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P128
  58. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P129
  59. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P137
  60. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P175
  61. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P186
  62. ^ 田中『シリーズ藩物語 松本藩』、P189


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