松平信綱 人物・逸話

松平信綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/20 08:48 UTC 版)

人物・逸話

才智と評価

  • 幼少の頃より才知に富んでおり、官職の伊豆守から「知恵伊豆」(知恵出づとかけた)と称された[37]
  • 家光は「いにしへよりあまたの将軍ありといへども、我ほど果報の者はあるまじ。右の手は讃岐(酒井忠勝)、左の手は伊豆」(『空印言行録』)と評し、忠勝と信綱が幕府の確立に大きく寄与したことを評価している。また「伊豆守のごとき者を今1人持ったならば心配は無いのだが」と小姓の三好政盛に語った[38]
  • 柳生宗矩春日局と共に家光を支えた「の脚」の1人に数えられた。
  • 酒井忠勝は阿部忠秋に「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。あれは人間と申すものではない」と評している[39]
  • 阿部忠秋は「何事にもよらず信綱が言うことは速い。自分などは後言いで、料簡が無いわけではないが、2つ3つのうちいずれにしようかと決断しかねているうち、信綱の申すことは料簡のうちにある」とその才智を認めている(『事後継志録』)[40]
  • 行政では民政を得意としており、幕藩体制は信綱の時代に完全に固められたと言ってよい。また、慶安の変や明暦の大火などでの善処でも有名で、政治の天才とも言える才能を持っていた。幕政ばかりではなく藩政の確立・発展にも大きく寄与しており、川越を小江戸と称されるまでに発展させる基礎を築き上げ、のちの大正11年(1922年)12月に埼玉県で最初の市制を布かれるきっかけになった。信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である[41]
  • 政治の取り締まりに関して信綱は「重箱を摺子木で洗うようなのがよい。摺子木では隅々まで洗えず、隅々まで取り締まれば、よい結果は生まれないからである」と述べている。それに対してある人が「世の禁制は3日で変わってしまうことが多い」と嘆いていると「それは2日でも多いのだ」と言ったという(『名将言行録』)[42]
  • ただしこれだけ多くの人々に評価されていながら、人望は今ひとつで「才あれど徳なし」と評されてもいる。老中首座時代には同僚であった堀田正盛の子・堀田正信にその幕政を批判されてもいる。これは信綱が茶の湯や歌会、舞、碁、将棋などを好まず、くそ真面目に政務を行なっていたためともいわれている。また信綱は下戸で酒を嗜まなかったといわれており、ここにも一因している。信綱の好きなことは暇なときに心を許した者を集めて政治などの話を問答することだったという[40]
  • 明暦の大火の際、信綱は老中首座の権限を強行して1人で松平光長ら17人の大名の参勤を免除した。徳川頼宣は信綱が勝手に決めたことを非難したが、「このようなことを議すると、何かと長談義に日を費やし無益です。後日お咎めあれば自分1人の落度にしようとの覚悟で取り計らいました。今度の大災害で諸大名の邸宅も類焼して居場所も無く、府内の米蔵も焼けました。このようなときに大名が大勢の人数で在府すれば食物に事欠き、飢民も多くなるでしょう。よって江戸の人口を減少させて民を救う一端となります。万一この機に乗じ逆意の徒があっても、江戸で騒動を起こされるより地方で起こせば防ぐ方策もあろうかとこのように致しました」と述べた。頼宣は手を打って感嘆したという。ちなみに飢民救済のため、信綱は米相場高騰を見越して幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。そのため江戸で大きな利益を得られると地方の商人が米を江戸に送ってきたため、幕府が直接に商人から必要数の米を買い付け府内に送るより府内は米が充満して米価も下がったという[43]
  • 明暦の大火の時、大奥女中らは表御殿の様子がわからず出口を見失って大事に至らないように信綱は畳一畳分を道敷として裏返しに敷かせて退路の目印とし、その後に大奥御殿に入って「将軍家(家綱)は西の丸に渡御された故、諸道具は捨て置いて裏返した畳の通りに退出されよ」と下知して大奥女中を無事に避難させたという(『名将言行録』)[42]
  • 慶安の変丸橋忠弥を捕縛する際、丸橋が槍の名手であることから捕り手に多数の死者が出ることを恐れた信綱は策を授けた。丸橋の宿所の外で夜中に「火事だ」と叫ばせた。驚いた丸橋が様子を見ようとして宿所の2階に上ってくると、その虚をついて捕り手が宿所内に押し寄せて丸橋を捕らえたという(『名将言行録』)[42]

信綱の忠義

  • 慶安4年(1651年)の家光の死の際に殉死しなかったことを江戸市民は非難し、「伊豆まめは、豆腐にしては、よけれども、役に立たぬは切らずなりけり」と皮肉ったという。他にも「弱臣院前捨遺豆州太守弱死斟酌大居士」と称され、「仕置きだて、せずとも御代は、まつ平、ここに伊豆とも、死出の供せよ」と皮肉られている。ただし信綱が殉死しなかったのは、家綱の補佐を家光から委託されていたためであり、信綱は「二君にまみえず」とは違う家中に仕えることを指しており、先代に御恩を蒙っている者が皆殉死したら誰が徳川家を支えるのかと反論している[44]
  • 甲州流軍学を教える小幡景憲と学問の話をしたとき、信綱は「武田信玄は名将であっても、終に天下を取る人ではなかった。家康公は古今の名将である。よって信玄の兵法を習はんより聞かんより権現様の御武略の事を聞、四書五経をきかんより御代々の御法度を知たる人に聞給はば差当りて身の徳と成へし」と言った[45]
  • 家光の小姓の時代のとき、他の小姓が務めをさぼりがちだったのに対し、信綱は常に詰所にあって主君の御用に間に合わないことは無かったという[46]
  • 家光が竹千代と名乗っていた頃、将軍の秀忠の寝殿の軒端でスズメが巣を作り、子がかえった。当時は11歳だった三十郎こと信綱は家光から「巣を取ってまいれ」と申し付けられたので、日が暮れてから寝殿の軒に忍んだ。ところが巣を取るとき、誤って足を踏み外して中庭に落ちてしまい、寝殿にいた秀忠に気づかれてしまった。秀忠は刀を手にして「誰の命令でここに来た?」と問い詰めたが信綱は「自分がスズメの巣が欲しかっただけでございます」と答えるのみであった。秀忠は誰の命令か事情を察していたが強情な信綱を見て、「年齢に似ず不敵な奴だ」と信綱を大きな袋に入れて口を封じて縛りつけた。秀忠の正室で家光の生母である於江も事情を察して、夜が明けると侍女に命じて密かに信綱に朝食を与えた。昼に秀忠は再び誰の命令か言うように問い詰めたが、信綱は前と同じように答えるだけだった。秀忠はその態度を見て怒るどころか今後を戒めた上で解放した。のちに秀忠は江に向かって「(信綱が)今のまま成長したら、竹千代の並びなき忠臣となるだろう」と言って喜んだという[47]

その他

  • 比企郡川島町には「出丸」(いでまる)という地名がある。一説によれば、その由来は、信綱の政治手腕に感激した当地の農民たちが信綱のことを「いでまる(伊豆丸)」と呼びそれがそのまま地名になって定着したという。
  • 幕府の実力者として諸藩より評価されており、依頼を受けた場合は幕藩関係で事前の根回しや指南を行う取次の老中となってその藩の指導をおこなった。

  1. ^ 『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』は武家の京都巡見にあたり提出された書物である[33]。方広寺は江戸時代に武家の京都巡見地の一つになっていたが、巡見に際しては事前に妙法院に方広寺の由緒を記した書物を提出するよう求められた[33]。そこに記された内容は妙法院の公式見解とされている。『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』は稲垣重富の巡見に際して提出された書物とされ、大仏再建の経緯などが綴られている[33]。妙法院日次記の元禄16年5月27日条に、巡見にあたり提出した書物控があり、その中の「釈迦心柱ノ書付」が『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』と題されている[33]。上記は『妙法院日次記』2巻に収録されている[33]
  1. ^ 10月29日説もある(『信綱記』(『改訂史籍集覧』第26))
  2. ^ 遠江国徳利里が出生地とも伝わる(『大河内家譜』2)
  3. ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P20。『名将言行録』。朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P936
  4. ^ (『豊橋市史』第6巻。『大河内家譜』2)
  5. ^ ただしこれまでの扶持米は幕府に収公された。なお、この500石は家光が信綱を特に評価して与えたという
  6. ^ 『信綱記』『明良洪範』『家乗附録』
  7. ^ 『寛政重修諸家譜』に記録がある。ただし『神奈川県史』通史編2などは相模に当時与えられるほどの領地の余裕は無く否定されており、寛永10年(1633年)といわれる
  8. ^ 『徳川実紀』第2篇
  9. ^ このとき細川忠利が信綱に祝儀の品を贈っている
  10. ^ のちの若年寄
  11. ^ 『江戸幕府日記』
  12. ^ これは家光が行政事務の停滞に苛立って老中の任のみに専念させるためといわれる
  13. ^ 重昌の嫡男・板倉重矩が父と共に出陣を信綱に嘆願したが信綱は拒絶した
  14. ^ 11月28日付の土井利勝阿部忠秋ら連署による水野勝成宛の老中奉書では「今度嶋原天草きりしたん蜂起之儀今程は相済み申すべく候。然れば彼の跡以下御仕置として、上使松平伊豆守ならびに戸田左門これを差し遣はされ候」とある(『下総結城水野家文書』)
  15. ^ 信綱には実戦経験が無く、九州の地理も事情も詳しくなかったためといわれる
  16. ^ 熊本藩主の細川忠利には日本の恥辱であると批判された。ただし信綱は城内のキリシタンに衝撃を与えるために行なったのである。だがオランダ側も2人が戦死し、城内の一揆側からも矢文で誹謗されて中止を余儀なくされた(『通航一覧』第6)
  17. ^ 杉山頼母、西村半三郎、野間市兵衛、ほか3名。
  18. ^ 信綱は井伊直孝、阿部忠秋、酒井忠勝らと協力して補佐した(『徳川実紀』第4篇)
  19. ^ 中根正盛 江戸時代前期の幕府のCIA長官で、“密事”を嗅ぎ出し、探索 /『歴史くらぶ』
  20. ^ 第4回 綱吉は練馬に御殿を持っていた〜その4 / ニュースサービス日経 江古田
  21. ^ 山内忠直書状
  22. ^ 1月26日付の忠直書状
  23. ^ 忠直書状、2月6日付
  24. ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95
  25. ^ a b 村山(2003) p.148
  26. ^ a b 井上和人『新編日本古典文学全集64 仮名草子集』注釈書 1999年 p.22-24
  27. ^ a b 丸山俊明『京は大火!大地震‼そのとき京人は、どうふるまったのか』2019年 p.12-14
  28. ^ 妙法院史研究会編「妙法院史料」1巻 尭恕法親王日記 p.28
  29. ^ a b 三上(1996) p.101
  30. ^ 『甲子夜話 三篇5』平凡社(東洋文庫) 1983年 p.84-85
  31. ^ 佐藤清彦『贋金王』1997年 p.65
  32. ^ 東京大学地震研究所『新収日本地震史料補遺』p.175
  33. ^ a b c d e 張洋一『東京国立博物館保管「京都大仏雛形」について 寛文期方広寺大仏の再興に関連して』(『Museum』1998年6月 収録)p.27
  34. ^ 「毀仏鋳銭の謬伝」『三田村鳶魚全集』第六巻 1975年
  35. ^ 三上(1996) p.102
  36. ^ 齋藤努・髙橋照彦・西川祐一「近世銭貨に関する理科学的研究―寛永通寳と長崎貿易銭の鉛同位体比分析―」2000年
  37. ^ NHK Eテレの番組『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)』の名称は、この別名にちなむ。
  38. ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P285。
  39. ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P285。
  40. ^ a b 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P286。
  41. ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P287。
  42. ^ a b c 朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、937頁。
  43. ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P242、P243。
  44. ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P216、P217、P286
  45. ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P42
  46. ^ 『名将言行禄』。朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P936
  47. ^ 『名将言行禄』。朝倉治彦 三浦一郎 『世界人物逸話大事典』 角川書店 平成8年2月、P936、P937






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