東映生田スタジオ 主なスタッフ

東映生田スタジオ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/05 16:02 UTC 版)

主なスタッフ

所属・肩書は生田スタジオ参加当時のもの。個別項目がある人物の詳細はそちらを参照。

所長
内田 有作うちだ ゆうさく
初代所長[1][17][26]。東映東京撮影所関連事業室長[1][17][26]
1934年2月3日生まれ[17][26][27]。東京都出身[17][26][27]。父は映画監督の内田吐夢、兄は生田スタジオにも参加する内田一作[1][17][26][27]。妻は浮世絵研究家の内田千鶴子[26]法政大学社会学部卒業[26]
1957年に東映に入社[17][28][26][27]。京都撮影所で助監督を務めた後、1960年に撮影・制作部に転属し、1961年より進行主任を務めた[17][28][26]。父・吐夢が監督を務めた映画『飢餓海峡』(1965年)に制作主任として参加するが、上映時間短縮を拒否したことから更迭され[注釈 9]、興行部で新宿東映丸の内東映・丸の内東映パラスの支配人を務めた[1][17][28][26][27]。1969年に東映東京撮影所管理課長として制作現場に復帰し、『柔道一直線』の制作担当を務めた[17][28][26][27]。その後、関連事業室長に就任し、『仮面ライダー』製作のために生田スタジオを設立した[1][17][26]。『仮面ライダー』では制作担当として、予算・スケジュールの管理や監督ローテーションの采配など現場の統括を行った[17][26]
1974年に東映を退社[1][17][28][26][27]。1976年から現代ぷろだくしょんで制作担当を務めた[28][26]。2011年には自ら実行委員長となり、イベント『仮面ライダー40周年記念 ライダー大集合!』を開催した[28][26]。2011年12月に死去[28][26]
演出(50音順)
内田一作
東京映像企画所属(2代目社長)[1]。内田有作の実兄[1]
梅田 味伸うめた みのる
1946年1月7日生まれ[26]。秋田県能代市出身[26]國學院大學中退[26]
大学在学中は映画研究会に所属し、そのメンバーの紹介で日活で助監督のアルバイトを始めた[26]。1970年、東映から『柔道一直線』へ助監督での参加を求められ、大学を中退し本格的に映像業界に携わる[26]。『キイハンター』『プレイガール』などを経て、『仮面ライダー』に助監督として参加[26]。第11話よりチーフ助監督に昇進した[26]
その後も生田スタジオ作品で助監督を歴任したが、『イナズマン』を最後に生田スタジオを離れ、郷里の能代市で不動産業を創業[26]。1991年からは能代市議会議員を4期務めた[26]
奥中惇夫
東京映像企画所属[1]。『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
折田至
東映所属[1]。『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
北村 秀敏きたむら ひでとし
フリー[26]。1931年5月20日生まれ[26]。高知県出身[26]。日本大学芸術学部卒[26]
宝塚映画富士映画で助監督を務めた後、東映テレビプロのテレビドラマ『特別機動捜査隊』で監督としてデビュー[26]。一方、助監督時代には新東宝で映画脚本の執筆も行っていた[26]。以後、NETのテレビドラマを多数手がけた[26]
平山がプロデューサーを務めた『河童の三平 妖怪大作戦』に監督として参加した後、平山からの要請を受けて『仮面ライダー』にも参加[26]。初期数本を手がけた後、『特別機動捜査隊』にローテーション監督として復帰するが、再び平山の要請により『人造人間キカイダー』でパイロット監督をつとめた[26]。以後、『特別機動捜査隊』と並行して平山プロデュースの特撮テレビドラマで監督を務めた[26]
『がんばれ!!ロボコン』終了後の1977年に体調を崩したため、鹿児島で療養生活を送る[26]。療養が長引いたため、そのまま事実上引退する形となった[26]
田口勝彦
東映所属[1]。『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
塚田正煕
東京映像企画所属[1]。『江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎』などで助監督を務め、内田有作の誘いにより『仮面ライダー』へ参加[29]。助監督の中で最初に監督へ昇格した[29]
長石多可男
東京映像企画所属[1]。『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
福島 孔道ふくしま よしみち
1946年1月18日生まれ[30][26]。神奈川県横浜市磯子区出身[30][26]
テレビドラマ『張込み』でともに助監督を務めた中西源四郎の紹介で、『仮面ライダー』第53話から助監督として参加した後、長石多可男の後任としてチーフ助監督を務めた[30][26]。生田スタジオでは最も長く務めていたとされ、『透明ドリちゃん』まで参加している[30][26]。その後もテレビや映画など多くの現場で助監督を務めていた[26]
前川 洋之
東京映像企画所属[1]。助監督を務めた後、『イナズマンF』で監督デビュー[31]。その後、日本現代企画へ移り、『スーパーロボット マッハバロン』に参加した[1]。1975年には、催事担当の的野屋宗平とともにイベント会社を設立した[26]
山田稔
東京映像企画所属(初代社長)[1]。『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
制作
伊東 暉雄いとう てるお
東映東京制作所所属(契約社員)[26]。1942年生まれ[26]。東京都出身[26]。妻は元女優の八代万智子[26]
1968年にテレビドラマ『怪盗ラレロ』の助監督を務めた後、テレビドラマ『プレイガール』の進行助手となる[26]。しかし、同番組の主演の1人であった八代との交際を週刊誌に報じられ、『柔道一直線』へ異動となった[26]。その後、内田の計らいにより他の『柔道一直線』スタッフとともに『仮面ライダー』に参加し、進行主任を務めた[26]
『魔女先生』『嵐』の進行主任を経て、『ロボット刑事』より制作担当に昇格[26]。生田スタジオ最終作『透明ドリちゃん』まで様々な作品を手がけた[26]
生田スタジオ閉鎖に伴い映画業界を離れ、実家の不動産屋を継いだ[26]
古泉 雅こいずみ ただし
1948年6月20日生まれ[26]。東京都品川区出身[26]。法政大学経済学部卒[26]
大学在学中にエキストラとして『柔道一直線』などに出演[26]。『柔道一直線』の制作担当であった内田有作からコミュニケーション能力の高さを見出され、大学卒業後に制作担当として『仮面ライダー』に参加した[26]
『超人バロム・1』『イナズマン』などの進行主任を務めた後、1973年より催事を担当[26]。東映ヒーロー全般を担当するようになった後、1980年代に東映ヒーローショーをプロデュースするKプロダクションを発足した[26]。その後、Kプロダクションを発展解消させるかたちでエキスプロダクションの八木宏とともに催事会社ビッグフォローを立ち上げるが、東日本大震災の影響により会社を畳む[26]
佐久間 正光さくま まさみつ
東映所属[26]。1935年2月20日生まれ[26]。千葉県市原市出身[26]
1956年に東映東京撮影所の臨時スタッフとなり、1961年の労働争議を経て正社員として雇用される[26]。装置担当を経て、『キャプテンウルトラ』『ジャイアントロボ』『河童の三平 妖怪大作戦』などで特殊技術・操演を担当[26]
『柔道一直線』で制作主任となり、その流れで『好き!すき!!魔女先生』で進行主任として生田スタジオに参加[26]。その後、『仮面ライダー』の進行主任を経て、『V3』から『ストロンガー』まで制作担当を務めた[26]。大道具出身であることから、装置や特撮面でも活躍をみせた[26]
生田スタジオ閉鎖後は東京撮影所に復帰し、『仮面ライダー (スカイライダー)』や『仮面ライダースーパー1』でも制作担当を務めた[26]。1995年に東映を定年退職した[26]
的野屋 宗平まとのや そうへい
東映東京撮影所所属(契約社員)[26]。1932年10月12日生まれ[26]。大阪府出身[26]
東映東京撮影所でテレビドラマの進行助手や車両担当などを務め、内田有作からの招きで『仮面ライダー』へ参加し、初期の制作担当を務めた[26]。その後、番組の人気上昇に伴い催事関連の責任者に任命され、アトラクションショーやサイン会などのイベントを取り仕切った[26]
1975年に生田スタジオを離れ、監督の前川洋之やJACの元メンバーらとともにイベント会社を設立した[26]。1990年にはイベント・レンタル会社森野企画を設立し、後進の育成に努めた[26]。2004年5月5日に死去[26]
技斗
大野剣友会
『柔道一直線』からの流れで生田スタジオへ参加した[1]
ジャパンアクションクラブ
ロボット刑事』からメインアクションを担当[32]
撮影
山本 修右やまもと しゅうすけ
プロダクション・ショット社長[1][26]。妻は元大映の女優であった近藤美恵子[26]
大映テレビ室で撮影監督を務めていた[1][26]。同じく大映で活動していた美術の八木正夫から内田有作を紹介され、技術スタッフを率いて東映生田スタジオに参加[26][33]。技術スタッフをまとめたプロダクションショットを設立し、自身も『仮面ライダー』序盤で撮影を担当した[34][26]
篠原 征夫
プロダクション・ショット所属[1]。『仮面ライダー』や『好き! すき!! 魔女先生』で撮影を担当した[34]
大映で山本修右に師事し、山本とともに生田スタジオへ参加した[1]
龍治かわさき りゅうじ
プロダクション・ショット所属[1][26]。1946年10月12日生まれ[34][26]。鹿児島県出身[34][26][35]。妻は『仮面ライダー』第1クールで記録を務めた藤波マリ[26]
大学在学中に山本修右と知り合い、映画業界に携わるようになる[26]。大映で山本の撮影助手として多くのテレビドラマに携わった後、山本とともに生田スタジオへ参加した[1][26][35]。『仮面ライダー』で撮影助手チーフを担当[34][26]。第3クールから『魔女先生』へ異動した篠原征夫の後任として撮影に抜擢され[注釈 10]、『仮面ライダーストロンガー』第8話まで担当した[34][26]
生田スタジオ離脱後は、アジア映画や『Xボンバー』などに携わった後、映画制作会社トラック・アップを設立し、2時間ドラマや旅番組などを手がけている[26][35]
原 秀夫はら ひでお
プロダクション・ショット所属[26]。1939年9月8日生まれ[26]。千葉県市川市出身[26]。日本大学芸術学部卒[26]
1961年、大学卒業後に大映へ入社し、大映テレビ室で撮影監督の山本修右のもと撮影助手として活動[26]。山本の一番弟子と称される[26]
『仮面ライダー』へは立ち上げ時に山本から誘いを受けていたものの、一旦辞退[26]。しかし、撮影中の事故で入院し、見舞いに訪れた山本から再び説得されプロダクションショットへ合流[26]。『仮面ライダー』第60話・第61話から撮影監督を務めた[26]。その後も生田スタジオ作品の多くに携わったが、1974年にプロダクションショットが解散したためフリーへ転身[26]。多くのテレビドラマで撮影監督を務めている[26]
照明
太田 耕治おおた こうじ
プロダクション・ショット所属[1][26]。1936年12月4日生まれ[11][26]。東京都港区出身[11][26]。立教大学理工学部中退[26]
大学中退後、照明助手として大映東京撮影所に入社[26]。テレビドラマ『東京警備指令 ザ・ガードマン』で撮影監督を務めていた山本修右と意気投合し、その後、山本とともに生田スタジオへ参加した[1][11][26]。『仮面ライダー』から『仮面ライダーX』序盤まで照明を担当した[11][26]
その後はテレビドラマやCMなどで活躍[26]。2015年8月15日死去[26]
記録
藤波 マリふじなみ マリ
プロダクションショット所属[26]。1946年2月1日生まれ[26]。大分県出身[26]。現名は川崎マリ[26]
大映テレビ室で『ザ・ガードマン』などのスクリプターを務めた後、東映に移籍し『キイハンター』『プレイガール』などを歴任[26][36]
内田有作の要請で『仮面ライダー』初期のスクリプターを務めたが、大映時代から交際していた川崎龍治と結婚し引退した[26][37]
美術
三上陸男
エキスプロダクション所属[5]。『仮面ライダー』の立ち上げに携わるが、多忙のために離脱した後、『好き! すき!! 魔女先生』から生田スタジオ作品へ復帰した[5]
高橋章
エキスプロダクション所属[5][注釈 11]。三上陸男の後任として『仮面ライダー』の美術を担当[5][12]。菊地潔が参加するまでは火薬の仕込みなども行っていた[12]
八木功
エキスプロダクション所属[5]。高橋章の助手として『仮面ライダー』に参加[5]。第80話から美術としてクレジットされた[5]
前澤範
エキスプロダクション所属[5]。『仮面ライダー』の時に高橋章とともに三上陸男に声をかけられていたが、他の契約があったことから参加できず、その後は三上とともに『好き! すき!! 魔女先生』から生田スタジオ作品へ参加した[5]。その後、体調を崩して造形部へ異動し、工場長を務めた[5]
メイク
小山 英夫こやま ひでお
エキスプロダクション所属[26][注釈 12]。1947年8月28日生まれ[38][26]。東京都調布市出身[38][26]。父親と兄が大映に務めていた[38][26]
美容師として働いていたが、大映のメイクスタッフの紹介で『仮面ライダー』に参加[38][26]。『仮面ライダーストロンガー』までメイクを担当した[38][26]。オートバイを扱えたため、バイクの移動やスタントに駆り出されることもあった[38][26]
1979年に『ストロンガー』に出演していた岡田京子と結婚するが、1986年に死別[38][26]
特殊効果
菊地 潔きくち きよし
大平特殊効果所属[39]。『仮面ライダー』の途中から特殊効果を担当した[39]
1941年9月28日生まれ[39][26]。茨城県出身[39][26]。18歳の時に行川映画研究所に入所し、1960年、大平特殊効果に設立時から参加[39][26]
元々生田スタジオの近所に住んでいたうえ、以前から顔見知りのスタッフも少なからずいたことから現場に顔を出すことがあり、他の番組で使用する予定であった火薬を横流しして免許を持たないスタッフに使わせていたが、番組が人気となって制作本数も増えるに伴い火薬の必要性が増したことから、正式に参加したという[39][26]。怪人の爆発や『仮面ライダーV3』のオープニングなど、作品を印象づける特殊効果を数多く手掛けた[26]
カースタント
大橋 春雄おおはし はるお
室町レーシング所属[40]。1948年3月5日生まれ[40]。栃木県出身[40]。250㏄クラスのオートレーサーであったが、試合中の事故でレースを断念し、室町健三が主宰する室町レーシングでスタントマンを募集していたことからスタントマンとなる[41]。『仮面ライダー』ではシリーズ前半のオートバイスタントを担当[40]。その後、室町レーシングを退会しカーレーサーを経て、タイヤの耐久テスト用ドライバーとなった[40]
熊沢 敏明くまざわ としあき
城北ライダーズ所属[42]。1951年生まれ[42]。東京都出身[42]。学生時代よりモトクロスレーサーとして活躍する[43]。『仮面ライダー』には手伝いとして数回参加していたが、大橋春雄の後を継いだスタントマンが本業があるため降板することとなり、『仮面ライダーV3』より正式にカースタントを担当することとなる[42]。以降『仮面ライダー』シリーズに参加するが、『仮面ライダーストロンガー』第6話のオートバイアクションの撮影中、川の中に仕掛けた火薬による水柱で吹き飛ばされてしまい、事故直後は一時心肺停止となるほどの重傷となり『ストロンガー』を降板する[44]。完治後もオートレースに出場するが、再度重傷を負ったため、オートレースから引退した[45]
タイトル
浅野 竜あさの りゅう
漫画家。1946年生まれ[46]。静岡県出身[46]。多摩美術大学卒業[46]。「浅野ポチ」のペンネームで漫画家としてデビューするが、生活費に困っていたことから生田スタジオの夜警を紹介してもらい、生田スタジオの警備員となる[47]。一方、美術大学出身だったため内田有作の紹介により『仮面ライダー』『超人バロム1』などのロゴデザイン、および各話クレジットのレタリングも行う[48]。生田スタジオには約2年間在籍し[49]、その後は絵本作家として活動した[46]



注釈

  1. ^ その後、実際に1971年4月17日から27日にかけて銀座の東映本社で賃上げ交渉に伴うロックアウトが実施された[1]。また、翌1972年も労働争議の影響で大泉撮影所が使用不能になっており、東映テレビ・プロダクション制作の『人造人間キカイダー』や『どっこい大作』などの撮影に支障が出ている[9]
  2. ^ 平山は、スタジオの維持には打ち切りの対策も兼ねて最低でも3本は必要であったと証言している[18]
  3. ^ 設立当初は、東映本社からCFの仕事を請け負うなどしていたが、作品によっては人気カメラマンであった立木義浩の演出が条件であったため、内田はギャラが高くスタジオの収入には繋がらなかったと述べている[4]
  4. ^ 書籍『変身ヒーロー大全集』では1976年4月に閉鎖したと記述しているが[15]、1977年の『大鉄人17』では生田スタジオ内に特撮専用ステージが組まれている[20]
  5. ^ 書籍『全怪獣怪人 下巻』では、「(裏山で)火薬を使うと苦情が来るようになった」という平山の証言から、宅地開発が進んだことを撤退の理由として考察している[3]
  6. ^ アクマイザー3』では、『仮面ライダーストロンガー』と『秘密戦隊ゴレンジャー』の撮影が先行していたため、両番組が撤収した夜中から早朝にかけて撮影をしなければならなかった[21]
  7. ^ 「三栄土木」は正確には稲城周辺の開発を担当していた土木業者の名前だが、スタッフ間では撮影場所の通称として用いられていた[23]。爆薬も使いやすかった赤土の崖が、後年には「聖地」と称される[24]。この地域は後に造成され、京王相模原線稲城駅とその周辺地域となった[3][23]
  8. ^ 裏山は後に整備され、多摩美児童公園となった[3][1]
  9. ^ 詳細は飢餓海峡#製作経緯を参照。
  10. ^ 当時、撮影は30歳を過ぎてから独り立ちすることが一般的であったため、25歳での抜擢は異例のことであった[34]
  11. ^ 高橋自身は正式に所属したことはないと述べている[12]
  12. ^ 生田スタジオでは個人スタッフとの契約は行っていなかったため、便宜上の所属であったとされる[26]
  13. ^ 『KODANSHA Official File Magazine 仮面ライダー Vol.11』では途中で東映東京制作所に移行したとしている[51]

出典

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  13. ^ OFM2 2004, p. 31, 早川優「仮面ライダー音楽考 第7回 映広音響のサウンド・メイキング術」.
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  45. ^ 受け継がれる魂Ⅱ 2003, pp. 127-128.
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  48. ^ 受け継がれる魂Ⅱ 2003, p. 157.
  49. ^ a b 受け継がれる魂Ⅱ 2003, p. 163.
  50. ^ 受け継がれる魂Ⅱ 2003, p. 160.
  51. ^ OFM11 2004, p. 33.


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