木綿 栽培

木綿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:26 UTC 版)

栽培

コットン・ピッカーによる収穫風景

綿花の栽培には降のない長い季節と、600mmから1200mm程度の降水量が必要とされる。この条件を満たすのは熱帯から亜熱帯にかけての湿潤・半乾燥地帯であるが、現在では灌漑の発達により、ウズベキスタンなどより降水量の少ない地域でも大規模な綿花栽培が行われるようになってきている。生産された綿花はコットン・ピッカーなどの収穫機械により収穫されるが、アフリカなどの開発途上国では手摘みによって収穫されている。収穫された綿花は長方形または円筒形のモジュールと呼ばれる形に固められる。モジュールを作成する専用の機器モジュールビルダーが存在するほか、ジョン・ディアやケースIHの現行機種は収穫とモジュール作成を同時に行えるようになっている。

歴史

14世紀ジョン・マンデヴィルが描いたワタの想像図

Foods and Nutrition Encyclopedia によれば、現在までに見つかっている木綿栽培の最古の証拠はメキシコにあり、約8000年前に遡る。その種類はアメリカ栽培綿 Gossypium hirsutum で、現在世界で栽培されている木綿の89.9%がこの種である。野生の木綿の種はメキシコで最も多様であり、それにオーストラリアとアフリカが次いでいる[1]

旧世界で最も古い木綿栽培の痕跡は約7000年前(紀元前5千年紀から紀元前4千年紀)のもので、インド亜大陸北西の広大な領域(現在のパキスタンと北西インドの一部)で発達したインダス文明の住民によるものである[2]インダス川流域の木綿産業はかなり発展し、そこで生まれた紡績や機織りの技法はインドで比較的最近まで使われ続けていた[3]。西暦が始まる以前に木綿の布はインドから地中海世界、さらにその先へと広まっていた[4]

ギリシャ人アレクサンドロス3世の頃まで木綿を知らず、ほぼ同時代のメガステネスが『インド誌』の中でセレウコス1世に「(インドには)羊毛が生える木がある」と教えている。

コロンビア百科事典』第六版[5] によれば、紀元1世紀にアラブ人商人がモスリン(本来は綿織物)やキャラコイタリアスペインにもたらした。ムーア人がスペインに木綿栽培法をもたらしたのは9世紀のことである。ファスチャン織りやディミティ織りは14世紀にヴェネツィアミラノで織られていたが、当初は縦糸にリンネルを使っていた。イングランドに15世紀以前に輸入された木綿布はごくわずかだが、その一部はろうそくの芯に使われた。17世紀にはイギリス東インド会社がインドから珍しい綿織物をもたらした。アメリカ先住民は木綿を紡いで衣服や染色したタペストリーを作っていた。ペルーではインカ帝国以前の墓から木綿の布が見つかっている。染色や織り方の面で、ペルーやメキシコの綿織物は古代エジプトの墓から見つかったものとよく似ている。

イランペルシャ)での木綿の歴史はアケメネス朝(紀元前5世紀頃)まで遡る。しかし、イスラム化する以前のイランでの木綿栽培に関する文献は非常に少ない。13世紀のマルコ・ポーロはペルシャの主要産品として木綿も挙げている。17世紀フランスの旅行家ジョン・カルダンはサファヴィー朝を訪れ、その広大な綿花農場を紹介している[6]

ペルーでは、モチェ文化ナスカ文化といった海岸に沿った文化の発達の基盤として Gossypium barbadense というワタ属の原生種の栽培があった。綿花を川の上流で栽培し、それを使って漁網を作り、海岸の漁村との交易に使った。スペイン人が16世紀初めにメキシコに到達したとき、原住民は綿花を栽培し、綿織物の衣服を着ていた。

中国への伝来は晩唐とも北宋とも言われている。朝鮮半島へは1364年文益漸が国禁を犯してから伝えたという記録が残されている。

中世ヨーロッパ末期には、木綿が貿易によって北ヨーロッパにもたらされたが、それが植物性だということ以外詳しい製法は伝わらなかった。ウールに似ていることから、北ヨーロッパの人々は羊のなる植物があるのだろうと想像した。1350年、ジョン・マンデヴィルは今となっては奇妙な話だが、「(インドには)枝先に小さな子羊がなる素晴らしい木が生えている。枝はとてもしなやかで、子羊が空腹になると枝が屈んで草を食むことができる」と書き記した(「バロメッツ」参照)。この考え方はヨーロッパ各地の言語での木綿の呼称に痕跡を残している。例えばドイツ語では木綿を Baumwolle と呼ぶがこれは「木のウール」の意である。16世紀末までに、綿花はアジアおよびアメリカ州の暖かい地方全域で栽培されるようになった。

18世紀から19世紀初めにかけてイギリス領インド帝国が確立することでインドの綿織物産業は徐々に衰退していった。これはイギリス東インド会社の植民地運営方針によるものである。インドは原綿だけを供給することを強制され、イギリスで製造した織物を購入することを強制された。

イギリスでの産業革命とその影響

16世紀以降、交易を通じてインド産などの綿が、主にイギリスにもたらされ、18世紀頃にはイギリスの羊毛業を脅かすまでになった。1780年代になると、自動紡績機や蒸気機関が相次いで実用化され、イギリスは綿輸入国から一気に世界最大の輸出国に転換した。この綿産業の発展を主軸にした産業構造の変革は、産業革命ともいわれる。

1738年、バーミンガムのルイス・ポールとジョン・ワイアットが2つの異なる速度で回転するローラーを使った紡績機を発明し、特許を取得した。1764年のジェニー紡績機と1769年のリチャード・アークライトによる紡績機の発明により、イギリスでは綿織物の生産効率が劇的に向上した。18世紀後半にはマンチェスターで綿織物工場が多数稼動し、輸出拠点にもなったため、「コットンポリス(cottonpolis)」の異名で呼ばれるようになった。イギリスとアメリカ合衆国の綿織物生産量は、1793年にアメリカ人のイーライ・ホイットニー綿繰り機を発明したことでさらに増加した。テクノロジーの進歩と世界市場への影響力が増大したことから、植民地のプランテーションから原綿を購入し、それをランカシャーの工場で織物に加工し、製品をアフリカやインドや中国(香港および上海経由)といった植民地市場で売りさばくというサイクルを構築した。

1840年代になると、インドの木綿繊維の供給量だけでは追いつかなくなり、同時にインドからイギリスまでの運搬に時間とコストがかかることも問題となってきた。その頃、アメリカで優れたワタ属の種が生まれたことも手伝って、イギリスはアメリカ合衆国と西インド諸島のプランテーションから木綿を買い付けるようになっていく。19世紀中頃までに綿花生産はアメリカ合衆国南部の経済基盤となり、"King Cotton" と呼ばれるようになった。綿花栽培作業は奴隷の主要な仕事となった。

南北戦争が勃発すると、北軍アメリカ連合国(南部)の港を海上封鎖したため、綿花輸出が激減した。これは連合国側が意図的に輸出を減らしたという側面もあり、それによって主要輸出先であるイギリスに連合国を承認させ、あわよくば戦争に介入してもらおうと考えた結果だった。その後、イギリスとフランスはエジプトの木綿に目を付けた。イギリスとフランスはエジプトのプランテーションに多額の投資をし、エジプト政府のイスマーイール・パシャはヨーロッパの銀行などから多額の融資を獲得した。1865年に南北戦争が終わると、イギリスやフランスはエジプトの木綿から再び安価なアメリカの木綿に戻り、エジプトは赤字が膨らみ1876年に国家破産に陥った。これはエジプトが1882年にイギリス帝国の事実上の保護国となる原因となった。


収穫の様子(アメリカ合衆国オクラホマ州。1890年代)

この間、イギリス帝国ではアメリカ南部から入ってこなくなった綿花を補うため、特にインドからの綿花輸出を推進した。関税や他の制限を加えることで、イギリス政府はインドでの綿織物生産を抑制し、原綿をイギリス本国に輸出するように仕向けた。マハトマ・ガンディーはこの過程を次のように説明している[7]

  1. インドの労働者が1日7セントの賃金で摘んだ綿花を、イギリス人が独占的に購入する。
  2. この原綿はイギリスの船に積み込まれ、インド洋紅海、地中海、ジブラルタル海峡ビスケー湾大西洋を経由する3週間の航海を経てイギリスに運ばれる。この貨物輸送で綿花の値段は少なくとも倍になる。
  3. 木綿はランカシャーで綿織物になる。工場労働者にはインドのペニーではなくシリングが支払われる。イギリスの労働者は賃金が高いだけでなく、織物工場を建設したり、機械を納入するといった経済効果の派生がある。これらの賃金や利益はすべてイギリス国内でのものである。
  4. 最終製品は再びイギリスからインドへ船で運ばれる。このときに賃金を得る船長や船員もイギリス人である。このとき利益を得る数少ないインド人は下働きのインド人水夫で、船上の汚れ仕事を1日数セントで担っている。
  5. この綿織物を買うのはインドの王族や地主で、その金は貧しい小作農を1日7セントで働かせて得たものである。

南北戦争の勃発によるアメリカ産綿花の輸入減少は、ロシア帝国にも影響を与えた。当時のロシアは紡績や織物といった木綿工業の成長が著しく[8]、綿花の供給不足は大きな問題となった。イギリスがエジプトからの輸入に切り替えた一方で、ロシアは国内で生産する道を模索し、その産地として併合して間もない中央アジアトルキスタンに着目した。南北戦争後にはアメリカからの綿花輸入も復活したものの[8]、1880年代以降はアメリカから導入したワタの品種改良や灌漑農法によって国内生産量を増やし、1915年にはロシアが必要とする綿花の7割近くをトルキスタンが供給するまでに成長した[9]。一方、綿花栽培の中心地となったフェルガナ盆地では、人手や資金を必要とする綿花栽培が急激に拡大したことによる農民の経済的困窮や[10]、綿花への転作によって地域的な飢饉が発生するなどの社会不安も生じた[11]。中央アジアでの綿花栽培はソビエト連邦時代にも拡大を続け、ソビエト連邦の崩壊に伴い独立したウズベキスタンは21世紀現在も世界有数の綿花生産国となっている。

アメリカ合衆国では、南部の綿花生産が北部の開発の資金源となった。アフリカ系アメリカ人奴隷による綿花生産は南部を豊かにしただけでなく、北部にも富をもたらした。南部の木綿の多くは北部の港を経由して輸出された。

1865年の南北戦争終結と奴隷解放宣言の後も、南部の経済基盤は綿花生産だった。南部では小作農が増え、解放された黒人農夫と土地を持たない白人農夫が裕福な白人地主の所有する綿花プランテーションで働いた。綿花プランテーションでは綿花を手で摘む必要があり、多数の労働力を必要とした。収穫用機械が本格的に導入されるのは1950年代になってからである(それ以前の収穫機械は繊維を切り刻んでしまうという欠点があった)。20世紀初頭になると、徐々に機械が労働者を置き換え始め、南部の労働力は第一次世界大戦第二次世界大戦の間に漸減した。今も木綿はアメリカ合衆国南部の主要輸出品であり、木綿生産量の大部分はアメリカ栽培種が占めている[12]

タンギス綿

1901年、ペルーで「綿立枯れ病」、より正確には「フザリウム立枯病」(Fusarium vasinfectum) が流行し、綿花生産が打撃を受けた[13]。ペルー中に蔓延したこの病害は、菌が根から入り込み、完全に枯らしてしまうものだった。ペルー在住のプエルトリコ出身の農家 Fermín Tangüis は、この病害に強いワタ属の種を求めて発芽実験を繰り返した。10年間の試行錯誤を経た1911年、Tangüis はこの病害に強いワタ属の種を開発した。それまでより40%も長く太い繊維ができ、水が少なくても育つ優秀な種である。タンギス綿と呼ばれるこの種は、今ではペルーの綿花生産量の75%を占めている。

日本

日本へは799年延暦18年)三河国(現代の愛知県東部[14])に漂着した崑崙[15]によってもたらされ栽培が開始されたが、1年で途切れたという。この崑崙人は各地を廻り、栽培法を伝えたとされている。 主にこの後、綿は朝鮮からの輸入に頼ることになり、故に長い間高級品であった。その後、連続して栽培され一般的になるのは、16世紀以降とされる。戦国時代後期からは全国的に綿布の使用が普及し、三河などで綿花の栽培も始まり、江戸時代に入ると急速に栽培が拡大。各地に綿花の大生産地帯が形成され、北前船の下り荷用商品増加に応えた「ぐろ田法」などの発明もあり特に畿内大阪近郊などにおいて生産が盛んになった。木綿問屋も形成され、綿花産業は大きくなり、綿を染める染料のや綿花栽培に欠かせない肥料となる干鰯鰊粕製造などの関連産業も盛んとなった。

明治以降、政策により綿布の生産が強化されたこともあり、1930年代には綿布の輸出量が世界一となった。ただし、両税廃止運動などを通じて安い原料が日本に入るようになり、日本の綿花栽培は衰退する。第二次世界大戦時は綿布の輸出は停止したが、戦後復活し、再び世界一になった。ただしその後は安価なアジア産の綿布に押され、生産量は減少している。個人やグループ単位での生産はあるが、統計上の国内自給率は0%となっている。

和綿生産の復活や国内でのオーガニックコットン栽培という価値を生かし、紡績・染色・タオルなどのコットンを使う第二次産業企業自らその地場などでの栽培を団体化した「全国コットンサミット」がある。またNPO法人渡瀬エコビレッジなどを利用し各団体による手芸の糸紡ぎやエコ活動と連動した栽培。東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の津波による塩害耕作地などで、東北地方の民間による農業復興事業として、アパレルなどが発起人となった企業複合体の「東北コットンプロジェクト」の栽培などがある。

合成繊維との競合

人造繊維は1890年代にフランスで開発されたレーヨンから始まった。レーヨンは天然セルロースからできているので合成繊維ではないが、製造工程は複雑化しており、天然繊維より安価だった。その後、合成繊維が次々と開発され、産業化されていった。アセテート繊維は1924年に開発された。石油化学による最初の合成繊維はデュポンが1936年に開発したナイロンである。その後1944年には同じデュポンがアクリル繊維を開発した。これらの合成繊維は女性用靴下などに使われたが、木綿と合成繊維が本格的に競合するようになったのは、1950年代になってポリエステルが出回るようになってからのことである[16]。1960年代にはポリエステルを使った衣類が急激に広まり、木綿輸出に依存していたニカラグアで経済危機が発生し、安い合成繊維と競合することでニカラグアでは木綿生産額が1950年から1965年の間に10分の1に低下した。木綿生産量は1970年代に回復しはじめ、1990年代初めには1960年代以前のレベルに戻った[17]


  1. ^ The Biology of Gossypium hirsutum L. and Gossypium barbadense L. (cotton)
  2. ^ Stein, Burton (1998). A History of India. Blackwell Publishing. ISBN 0631205462. page 47
  3. ^ Wisseman & Williams, page 127
  4. ^ The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition. cotton.
  5. ^ "cotton". The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition. 2001-07.
  6. ^ Encyclopaedia Islamica Foundation. بنیاد دائره المعارف اسلامی Archived 2009年6月30日, at the Wayback Machine., Retrieved on 28 February 2009; The original Persian text: تاریخچهٔ پنبه در ایران احتمالاً به دوران هخامنشیان بازمی گردد، اما دربارة کاشت پنبه پیش از دورة اسلامی ایران اطلاعات معتبر اندکی در دست است. ] به نوشتة مؤلف حدودالعالم (ح ۳۷۲)، در مرو، ری و ناحیة فارس کشت پنبه رواج داشته‌است (ص ۹۴، ۱۳۰، ۱۴۲). همچنین اشارات متعددی به پنبه در آثار شاعران، بویژه شاهنامة فردوسی (کتاب سوم، ج ۵، ص ۱۴۷۵ـ ۱۴۷۶، کتاب چهارم، ج ۶، ص ۱۹۹۹، ۲۰۰۴) وجود دارد. در قرن هفتم / سیزدهم، مارکوپولو به محصولات عمدة ایران از جمله پنبه اشاره می‌کند (ج ۱، ص ۸۴) [. ژان شاردن، جهانگرد مشهور فرانسوی در قرن یازدهم / هفدهم، که از ایران دورة صفویه بازدید کرده، وجود کشتزارهای وسیع پنبه را تأیید کرده‌است (ج ۲، ص ۷۱۲).
  7. ^ Fisher, F.B., 1932 That Strange Little Brown Man Gandhi, New York: Ray Long & Richard Smith, Inc., pp 154–156
  8. ^ a b 坂本勉『トルコ民族主義』(講談社現代新書、1996年)p.132
  9. ^ 坂本勉・鈴木董(編)『新書イスラームの世界史<3> イスラーム復興はなるか』(講談社現代新書、1993年)p.178
  10. ^ 坂本(1996)、pp.133-135.
  11. ^ 坂本・鈴木(1993)、p.182.
  12. ^ Stephen Yafa (2004). Cotton: The Biography of a Revolutionary Fiber. Penguin (Non-Classics). pp. 16. ISBN 0-14-303722-6 
  13. ^ Boletin Archived 2008年9月25日, at the Wayback Machine., (スペイン語) Retrieved July 17, 2008
  14. ^ 西尾市天竹町(てんじく=天竺)と言われるが、『日本後紀』には三河国としか書いてない。
  15. ^ 現在のインドを指すとも考えられるが、真偽・詳細は不詳。「天竹神社」参照。
  16. ^ Fiber History
  17. ^ Land, Power, and Poverty: Agrarian Transformation and Political Conflict, Charles D. Brockett, ISBN 0813386950, Google.com p. 46
  18. ^ Liese M. Perrin (2001). “Resisting Reproduction: Reconsidering Slave Contraception in the Old South”. Journal of American Studies (Cambridge University Press) 35: 255–274. doi:10.1017/S0021875801006612. http://www.jstor.org/stable/27556967. 
  19. ^ "Out of Africa: Cotton and Cash", article by Usain Bolt in the New York Times, 14 January 2007
  20. ^ a b National Cotton Council of America - Rankings
  21. ^ Three largest producing states of important crops (PDF)”. 2008年4月6日閲覧。
  22. ^ Jasper Womach (2004). [http://www.nationalaglawcenter.org/assets/crs/RL32442.pdf “Cotton Production and Support in the United States”]. CRS Report for Congress. http://www.nationalaglawcenter.org/assets/crs/RL32442.pdf. 
  23. ^ Siebert, JB et al. (1996). “26”. Cotton production manual. ANR Publications. p. 366. ISBN 9781879906099. https://books.google.co.jp/books?id=TllcVXmnLlEC&pg=PA366&lpg=PA366&dq=&redir_esc=y&hl=ja 
  24. ^ <震災7年半>実れ 復興の綿花(上) 生産者/前例なき栽培に挑む河北新報
  25. ^ United States — Subsidies on Upland Cotton, World Trade Organization, accessed 2 October 2006
  26. ^ United States - Subsidies on Upland Cotton, World Trade Organization, accessed 2 October 2006
  27. ^ The Environmental Justice Foundation. "Environmental Justice Foundation: Reports on Cotton" retrieved February 22nd, 2010
  28. ^ Market: Cotton, UNCTAD, accessed 2 October 2006
  29. ^ Transportation Information Service of Germany, Gesamtverband der Deutschen Versicherungswirtschaft e.V. (GDV), Berlin, Transport Information Service (TIS) - Cargo, Packaging, Containers, Loss prevention, Marine insurance, 2002-2006






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