木更津市
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歴史
地名の由来
木更津という地名の由来については、如月の津が転じて木更津になった、木足らずが訛り木更津になったと諸説あるが、一般的には倭建命(ヤマトタケル)伝承の一説、君不去(きみさらず)が元になっているという説が通説となっている(下記の伝承の項参照)。
木更津という地名が使われ始めたのは、最も古い文章で1353年(文和2年・正平8年)に記された文献で木佐良津と記されている。ただし、当時の江戸湾沿岸を代表する港は木更津の北にある高柳(現在の岩根地区高柳)や富津であったと考えられており、1576年に江戸湾沿岸の諸港に半手(戦国期に領土を争う両勢力が紛争地の租税を暫定的に半分ずつにする事)を認めた北条氏規の朱印状には、内陸化した高柳に代わって江川や葛間(現在の久津間、江川ともに岩根地区)の名前はあるものの木佐良津の名前は無いため、当時は租税を取るほどではない小さな漁港に近かったと推測されている。
古代 - 中世
『古事記』や『日本書紀』によると、倭建命が東征の折にこの地方に立ち寄ったと記されており、この事象が元となった地名が市内随所に見られる。歴史的に考察するとこの地方には倭王権に敵対する勢力が存在していた事を示しているという説がある。事実、小櫃川流域を中心とする地域には支配階級にあたる豪族(国造)が存在していたとされ、それを証明する古墳群が形成されている。奈良時代の文献には小櫃川流域一帯(現在の木更津市、袖ケ浦市、君津市の一部に相当)が「馬来田国」と記されており、この地方を馬来田国造という豪族が支配していたと記録されている。1950年(昭和25年)市内長須賀の金鈴塚古墳(二子塚古墳)の発掘調査が行われる。この古墳は6世紀後半頃に造られたものとされ、馬来田国造の一族のものとされる。この古墳からは大刀や銅容器・武具・古墳名称の元となる純金製の5つの金鈴などが出土されている。
1456年(康正2年)頃上総武田氏の祖である武田信長が上総守護代となり、上総地方進出の足がかりとして真里谷城を築城する。以降、真里谷城は庁南城 (千葉県長生郡長南町)と並び上総武田氏の居城として繁栄する。武田信長の子孫の内、真里谷城を拠点とするものは真里谷氏を名乗り戦国大名化する。真里谷氏は一族の内紛と第1次国府台合戦の末に勢力が衰退し、上総地方の支配者も真里谷氏から里見氏、北条氏へと移り変わる。1590年(天正18年)真里谷城は豊臣秀吉の小田原征伐で侵攻された後、廃城になる。現在、真里谷城跡はキャンプ場(市立少年自然の家)として利用されている。
近世
1614年(慶長19年)大坂冬の陣に木更津の水夫24名が徳川幕府方について戦功を上げる。その水夫の功により幕府は、江戸 - 木更津間での渡船営業権や江戸の日本橋に「木更津河岸」を拝領地として与える等の特権を与える。ただし、その根拠とされている現存文書は史実と矛盾する内容が含まれており定かではない[要検証 ]が、1615年(元和年間)以後に幕府が木更津に代官を置いた記録は確認できるため、これに近い事実はあったと考えられている。幕府は軍事上の目的から主要河川に橋を架けることを禁止し陸路には至る所に関所を設ける政策を採っていたため、この時代の流通手段は水運が主流になる(河岸を参照)この特権により木更津は上総・安房 - 江戸間との海上輸送を取り扱う流通拠点として急激に発展する。運送には喫水が浅く海川両用の五大力船が用いられた。木更津から江戸にやってくる五大力船は通称木更津船と呼ばれ、歌川広重の浮世絵にも描かれている。歌舞伎の演目『与話情浮名横櫛』は江戸期に木更津で実際に起きた事件がモチーフとなっており、当時の港町木更津の様子を垣間見ることができる。
江戸時代末期の1825年(文政8年)幕府の旗本であった林忠英は3,000石の加増を受けたことにより1万石の大名として諸侯に列し貝淵藩を立藩する。陣屋を望陀郡貝淵村に設けられるが、2代目藩主の林忠旭の時代に請西村に移し、以降同藩は請西藩と称するようになる。請西藩は、最後の藩主である4代目林忠崇が藩主自ら脱藩し明治政府の東征軍に抵抗したことが朝敵行為とされ、1868年(明治元年)幕府方諸侯の中で唯一改易処分を受ける。
明治新政府樹立後、1868年(明治元年)改易となった請西藩の替わりに松平信敏が上総国貝淵に移封し1万石で桜井藩が立藩する。1871年(明治4年)廃藩置県施行により 8月には桜井藩は廃藩となり桜井県が設置、11月には桜井県を含む旧安房国・上総国に相当する木更津県が設置される。木更津県設置にあたり県庁が貝淵村に設置される。木更津県が存在したのはわずか2年足らずで、1873年(明治6年)には廃止し、印旛県と合併し千葉県となる。1878年(明治11年)制定の郡区町村編制法に基づき望陀郡、周淮郡、天羽郡の郡役所が設置され、1897年(明治30年)望陀、周淮、天羽の3郡が合併し君津郡が成立した時に君津郡役所が設置されており、君津郡地域において木更津市は政治的中心都市であった。1973年(昭和48年)11月に、木更津県県庁所在地のあった桜井藩邸跡に「木更津県史蹟」の石碑が建てられている。
近代
日本国内が軍国主義にある1930年代、木更津は軍都として発展する。1935年(昭和10年)当時の 大日本帝国海軍は、帝都防衛を目的に、木更津港北側を埋め立てて航空基地の造成を行った。1936年(昭和11年)3月に木更津飛行場が完成、同年4月1日に木更津海軍航空隊の開隊式が行われる。木更津飛行場は太平洋戦争末期に日本初の国産ジェット機にあたる「橘花」のテスト飛行が行われた場所でもある。1941年(昭和16年)同航空隊の北東、君津郡巖根村に海軍工廠(第二海軍航空廠)が設置され[注 3]、木更津町および巖根村には工廠で働く工員とその家族が移住したため、急激な人口増加による住宅不足の問題に直面する。2町村では大勢の移住者を受け入れる住居や新しく家を建てる土地も無く、隣接する清川村にも移住者の受け皿としての役割を求めるようになり、木更津町、巖根村、清川村の3自治体を中心に合併協議が進められる。後に協議に加わった波岡村を含める4自治体の人口の合計が当時の市制施行条件である3万人を越すことが人口調査の結果で判明し、1942年(昭和17年)木更津市として 市制を開始した。1945年(昭和20年)太平洋戦争終結以降は米軍の管理下に置かれ、1968年(昭和43年)より陸上自衛隊の駐屯地、海上自衛隊の補給所として利用されている。
現代
1961年(昭和36年)木更津市に隣接する君津町へ八幡製鐵(当時)君津製鐵所の誘致が決定する。その背景には、1950年(昭和25年)に公布された国土総合開発法において千葉県側東京湾沿岸地域の工業地帯化が計画され、農業から工業への転換を図りたい県との思惑が一致し京葉工業地帯の開発が促進されたことによる。
製鉄所建設に伴い君津地域の東京湾沿岸部で漁業を営んでいた漁家は埋立てによって職を失うことになり、県より漁業補償を受けて漁業権を放棄、転業を余儀なくされた。
漁業組合と漁業権放棄に関する交渉が終了し、木更津港南岸から君津町の臨海部の範囲を埋め立てて製鉄所の建設を開始、1965年(昭和40年)に君津製鐵所の操業が本格的に開始する。君津町への製鉄所進出は木更津市にも影響を及ぼし、木更津市内には同社の系列・関連会社が進出しその社員および家族の転勤による移住が顕著になる。また1960年代から70年代後半にかけて区画整理事業として清見台、請西、畑沢など波岡地区を中心に計821 haの土地の宅地造成が行われる。それにより、市内の人口が1960年には約6万人であったのが80年代中頃には12万人を突破、およそ20年の期間で人口が2倍にまで膨れ上がる。
この頃、君津製鐵所の進出に伴い、固定資産税の税収が急増した君津町では同町の人口が少ない場合、一部が千葉県の収入となる部分が生じるため、同町の収入を減らさないためには合併して人口を増やすことが急務であった。そこで君津郡市広域市町村圏事務組合は1970年(昭和45年)3月に君津郡域全体での合併を提案し、木更津市と君津町、小糸町、清和村、小櫃村、上総町の6市町村で合併協議が行われ、新市名も「君津木更津市」になることが提案されていた。その後、木更津市は合併協議から事実上離脱した。なお、合併協議自体は残りの5町村で進められ、同年9月28日に新「君津町」が成立し、翌1971年(昭和46年)9月1日に市制施行が行われ「君津市」となった[6]。
1983年(昭和58年)千葉県において千葉新産業三角構想が策定される。木更津市およびその周辺都市(君津、富津、袖ケ浦)は新産業三角構想の基幹プロジェクトの一つであるかずさアカデミアパーク構想において、研究開発拠点の母都市に位置付けられる。研究開発拠点の形成を目標としたかずさアカデミアパーク構想に基づき、国際水準に対応した研究機関が集約する研究都市の整備および各拠点とを結ぶ道路網の構築が進められる。
上総丘陵に整備されることが決定し、1991年(平成3年)に鎌足地区に第一期区画整備が進められ、1994年(平成6年)にはDNA専門の研究所としては世界初となるかずさDNA研究所が開設する。1996年(平成8年)第一期区画整備で計画されていた278 haについては基幹整備がほぼ完了し、民間の研究所を中心に立地が進められる。1997年(平成9年)に中核施設であるコンベンションセンター「かずさアカデミアセンター」(通称「かずさアーク」)が完成し、1999年(平成11年)観光庁より国際会議観光都市の認定を受ける[7]。
かずさアカデミアパーク構想および木更津業務核都市構想に基づき、木更津市を業務核都市として他の都市との道路網の整備が行われ、1995年(平成7年)館山自動車道が木更津南ICまで開通し、千葉市との間を高速道路で結ばれる。1997年(平成9年)東京都心部および神奈川県とを結ぶ東京湾アクアラインが完成。2007年(平成19年)館山自動車道が全線開通したことにより、富津館山道路と直結して南房総市まで結ばれた。2013年(平成25年)圏央道が東金JCTまで開通して千葉東金道路と直結し、新産業三角構想の内の「国際物流拠点」を担う成田空港(成田市)と結ばれるようになった。アクアライン関連による経済効果で大きな転機となった。
年表
- 1871年(明治4年)11月13日 — 木更津県が設置され、木更津県の県庁所在地となる
- 1873年(明治6年)6月15日 — 木更津県廃止
- 1889年(明治22年)4月1日 — 布令により木更津町および9村が発足
- 1912年(大正元年)
- 1920年(大正9年)10月1日 — 第1回国勢調査実施。木更津町の人口は8,551人
- 1924年(大正13年) — 児童雑誌『金の船』12月号にて童謡『証城寺の狸囃子』発表
- 1936年(昭和11年)4月1日 — 木更津港北側を埋め立て海軍航空隊を設置
- 1942年(昭和17年)11月3日 — 市制開始。全国で197番目、県下で6番目の市となる。当時の人口は33,817人
- 1948年(昭和23年)8月14日 — 第1回港まつり開催
- 1965年(昭和40年)4月1日 — 木更津港 - 川崎港および木更津港 - 横浜港(1972年廃止)のカーフェリーが就航
- 1968年(昭和43年)
- 1970年(昭和45年)3月18日 — 房総西線楢葉駅(現・袖ケ浦駅) - 木更津駅間が複線化。24日には君津駅まで複線化
- 1972年(昭和47年)
- 1974年(昭和49年)1月20日 — 笹子地内の休耕田から出火。山林に延焼して山火事となった[8]。
- 1975年(昭和50年)5月 — 中の島大橋完成
- 1976年(昭和51年)9月10日 — 市の人口が10万人を超す。千葉県で9番目の10万人都市となる
- 1988年(昭和63年)3月 — 木更津駅西口にアインスビル(現・スパークルシティ木更津)が開業、旧ビルから移ったサカモトそごう(木更津そごう)を核テナントとし営業を開始
- 1990年(平成2年)3月10日 — 京葉線が東京駅まで全線開業したことで京葉線直通列車が運行を開始し、特急さざなみが京葉線経由に
- 1992年(平成4年)3月
- 「木更津業務核都市基本構想」が同意され、木更津市が業務核都市に位置づけられる。
- きみさらづタワーが完成
- 1997年(平成9年)2月 — かずさアカデミアパークの中核施設「かずさアカデミアセンター(かずさアーク)」が開設
- 1997年(平成9年)12月18日 — 東京湾アクアライン開通。それに伴いカーフェリー木更津 - 川崎航路が廃止する
- 1999年(平成11年)7月12日 — 国際会議観光都市に認定
- 2000年(平成12年)7月13日 — アインスビルの木更津そごうが閉店
- 2002年(平成14年)1月18日 — 木更津キャッツアイがTBS系列で放送開始
- 2004年(平成16年)4月28日 — アインスビルが「アクア木更津」として営業開始
- 2009年(平成21年)8月1日 — 社会実験として東京湾アクアラインでETC普通車の通行料が800円に
- 2011年 (平成23年)
- 2012年(平成24年)4月13日 — 金田地区に三井アウトレットパーク 木更津がオープン(2014年7月17日に、第2期拡張部オープンし全248店舗に)
- 2012年(平成24年)7月2日 — 市制70周年を記念して市のマスコットキャラクター「きさポン」が誕生[10][11]。
- 2015年(平成27年)
- 2016年(平成28年)7月1日 — 金田地区のアウトレットに隣接するエリアに木更津かんらんしゃパークKISARAPIAがオープン
- 2020年(令和2年) — コストコ木更津倉庫店が開業
- 2022年(令和4年)8月 — コストコ日本法人の本社機能を川崎倉庫店から移転
伝承
木更津市には倭建命と源頼朝に関連する伝承が伝えられている。『古事記』や『日本書紀』、『風土記』の一説において倭建命伝説が扱われており、木更津市は倭建命が上総国に渡る場面の舞台として記されている。源頼朝伝説は、源頼朝が伊豆で挙兵したものの平氏との合戦に敗れて安房国に逃れ、房総半島の諸勢力の力を得て再起したという歴史的経緯[注 4][注 5]の中から派生したものである。また、童謡『証城寺の狸囃子』のモチーフとなった、市内の證誠寺に伝わる『證誠寺の狸伝説』が知られている。
倭建命の東征
- 倭建命の東国征伐のこと。船で上総国に渡ろうとした時に一行は海上で嵐に襲われる。そして倭建命の妻、弟橘姫は海に身を投じることで嵐を静めようとする。弟橘姫の祈りが通じたのか嵐が収まり一行は無事に上総国に渡ることができた。それから倭建命はこの地にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。
- (和歌)
- 君さらず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき
- この歌の一節君さらずが転じて、木更津という地名となったと伝えられている。
- 市には吾妻という地名があるが、倭建命が弟橘姫を偲んで「吾妻はや(我が妻よ)」と言った故事に由来するとされている。市内には吾妻神社という神社が存在し倭建命と弟橘姫が祀られている。またこの地域には吾妻、我妻を姓とする人がおり、これも倭建命伝説に由来しているとされている。
源頼朝伝説
- 石橋山の戦いで平家に敗れた源頼朝がこの地方に立ち寄った際に見かけた竹林があまりにも立派だったため、この竹を源氏の旗竿にすることにした。以降この地を「旗竿村」と呼ぶようになった。伝承では波岡地区の畑沢という地名はこの旗竿村に由来するとされている。また、鎌足地区の草敷という地名についても頼朝が刈草を敷いて休息をとったという言い伝えが元になっている。
- 源頼朝が鎌倉幕府開府にあたり、市内の八剱八幡神社に神領を寄進して社殿を造営したという伝えがある[13]。
證誠寺の狸伝説
- 「證誠寺 (木更津市)」も参照
市内の證誠寺に伝わる伝説で、童謡『証城寺の狸囃子』はこの伝説を元に作られた。童謡は『しょ しょしょうじょう寺〜♪』と軽快なリズムの明るい曲だが、昔話として伝わる狸伝説は「秋の夜に和尚と何十匹もの狸が寺の庭で囃子合戦をした挙句、夜が明けたら調子を取っていた狸の親分が腹を破いて死んでいた」という面白くも悲しい話である。
-
弟橘媛(『前賢故実』より)
-
畑沢川にかかる橋に掲げられた
源頼朝伝説にまつわる銘板
神奈川県:川崎市 | 袖ケ浦市 | |||
(東京湾) | 市原市 | |||
木更津市 | ||||
君津市 |
注釈
- ^ 距離情報はGoogle Earth(Ver4.0.1565)のルーラー機能を用いて概算を求める
- ^ 旧上総国の台地の部分をテーマにする場合、共通の要素があまり無いので一括りにした呼び方ではなく、市原台地、袖ヶ浦台地、木更津台地のように個々の呼び方をする(参考:産総研-丸茂研究室-土壌・地質汚染評価基本図~5万分の1姉崎)。
- ^ ピーク時には工員数が17,000人に達する。
- ^ 源頼朝が安房に逃れてから鎌倉に至るまでの経路は定かとされておらず、木更津を通過したか否かは推測の域を出ない。
- ^ 文献に見られる頼朝の経路として、『吾妻鏡』によれば安房勝山から鴨川に出て、長狭街道を西に花立峠(木之根峠)を越えて上総国入りしたとされ、この経路を辿れば富津市に出ることになる(『木更津市史』頁1056より)『義経記』では富津市の地名の後「きさうとの浜(木更津と思われる)」「開発(貝淵と思われる)」と木更津市と関連するだろうと思しき地名が記述されている(『角川日本地名大辞典 12千葉県』頁1014より)
- ^ 平成6年次が商店数1,721件に対し、平成16年次には1,435件に減少それに伴い年間販売額も減少の傾向が見られる(『市政の概要平成18年度版』頁114より)
- ^ 木更津市は工業都市の性質よりも商業都市としての性質の方が高い。工業地域に含まれる他の近隣市町村では工場群立地による税収が見込まれ、財政力指数が地方交付税不交付団体の条件である1.00を越えているのに対し、木更津市は0.81である。
- ^ 個別記事が作成されているもの
- ^ 市の大字の中から『難読・異読辞典』を参考に抜粋
- ^ 羽田空港再拡張に伴い、飛行ルートの再検討が行われている(国土交通省提示『羽田再拡張後の飛行ルート案』 [1])
出典
- ^ a b 千葉県. “平成30年度消費者購買動向調査(千葉県の商圏)”. 千葉県. 2019年5月31日閲覧。
- ^ 『木更津市史』頁10「第一節地理」より
- ^ 『角川日本地名大辞典 12千葉県』頁1013「立地」より
- ^ 市域の延長は木更津市公式ホームページ「市のプロフィール」より
- ^ “木更津 過去の気象データ検索”. 気象庁. 2024年2月13日閲覧。
- ^ “合併のひみつ(後編)”. 君津市公式ホームページ (2021年10月30日). 2022年6月15日閲覧。
- ^ 木更津市 市政情報『国際会議』より
- ^ 8時間燃える 木更津で山火事『朝日新聞』1974年(昭和49年)1月21日朝刊、13版、19面
- ^ 木更津市 『おしらせ』より
- ^ きさポンの公式サイト
- ^ 市制施行70周年(平成24年)
- ^ “9月24日(木曜日)より市役所庁舎が移転しました”. 木更津市. 2015年11月10日閲覧。
- ^ 『木更津市史』頁1056 「木更津における源頼朝伝説」より
- ^ 『木更津市統計書 2016年度版』頁7「7.人口と世帯の推移」よりグラフ化
- ^ 木更津市 「市政情報」の『業務核都市』より
- ^ a b 木更津市 『木更津市 財政事情(各年11月告示分)』より
- ^ 『Newsweek 日本版 2002年11月6日版』のSpecial Report(頁22-25)において「バブルと銀行破綻の傷跡に苦しむ木更津市は日本経済の未来の縮図」と表現して紹介されている
- ^ 木更津市地域再生計画 (PDF) - 内閣府地方創生推進事務局(2019年の第51回地域再生計画認定を受けた「電子地域通貨『アクアコイン』 普及推進プロジェクト ~官民連携×地域一体による普及率向上へのチャレンジ~」の説明資料)
- ^ albert (2019年2月20日). “木更津市の土地価格|上昇・下落した理由|今後の見通し”. イエ&ライフ. 2019年5月22日閲覧。
- ^ 木更津市『木更津市統計書 2014年版』頁12より抽出
- ^ 木更津市『木更津市統計書 2014年版』頁37より、平成21年度の情報から算出
- ^ 木更津市『木更津市統計書 2014年版』頁12、"12.産業(大分類)年齢別就業者数"より
- ^ 木更津市『木更津市統計書 2014年版』頁37、"46.事業所の推移"より
- ^ 木更津市『木更津市統計書(2014年版)』頁24、"23.経営耕地の種類別農家数及び面積"より
- ^ 木更津市『木更津市統計書(2014年版)』頁23、"21.農家の推移"より
- ^ 木更津市『木更津市統計書 2014年版』頁36、"44.年度別海苔養殖状況"、"45.年度別アサリ生産状況"による
- ^ 木更津市『木更津市統計書 2014年版』頁44-45 "52.工業の産業(中分類)別概況(4人以上の事業所)"より
- ^ 木更津市『木更津市統計書 2014年版』頁46、"53.商業の推移"より
- ^ “コストコホールセールジャパン株式会社の情報”. 国税庁法人番号公表サイト (2022年8月30日). 2022年9月2日閲覧。
- ^ 千葉県『千葉県市町村別大規模小売店舗名簿(平成27年12月末)』より。大規模小売店舗立地法で、大規模小売店に該当する店舗をアイウエオ順に並べたもの
- ^ 千葉県総務部市町村課ホームページ「市町村合併支援室」より
- ^ a b 千葉県. “千葉県保健医療計画(平成30年度~平成35年度)”. 千葉県. 2019年6月14日閲覧。
- ^ 千葉県. “災害拠点病院の指定について”. 千葉県. 2019年6月14日閲覧。
- ^ “クルーズ・オブ・ザ・イヤー2018 国土交通大臣賞決定” (pdf). 国土交通省. 2020年9月24日閲覧。
- ^ “千葉)木更津港にクルーズ船入港 和太鼓・吹奏楽で歓迎”. 朝日新聞デジタル. 2019年2月27日閲覧。
- ^ 千葉県. “木更津市の国・県指定および国登録文化財”. 千葉県. 2019年6月21日閲覧。
- ^ タレントキャスティング>大坪奈津子 - ホリプロ公式サイト。2024年5月17日閲覧。
- ^ “博物館資料のなかの『富士山』: 山梨県立博物館 -Yamanashi Prefectural Museum-”. www.museum.pref.yamanashi.jp. 2020年12月24日閲覧。
- ^ “ヤツルギが木更津ご当地ヒーローに認定!”. 『鳳神ヤツルギ』公式サイト (2011年4月1日). 2011年4月4日閲覧。
固有名詞の分類
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