朝比奈三代子 朝比奈三代子の概要

朝比奈三代子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/12 06:48 UTC 版)

人物・略歴

中延学園高等学校(現・朋優学院高等学校)時代に日本選手権1500mで優勝。1988年に同校を卒業後、旭化成陸上部入部。同年10月の全日本実業団対抗陸上競技選手権大会では3000mで、増田明美の日本記録を5年ぶりに更新した。その後長距離・マラソンに転向する。

1992年大阪国際女子マラソンでは、ライバルの小鴨由水(当時初マラソン世界記録及び日本最高記録で優勝)・松野明美(2位)らと共にマラソンデビューを果たし注目を集めたが、30km以降で失速し2時間30分48秒で9位に終わる。

その後も1993年1994年と続けて大阪国際女子マラソンに出場するも、やはり30km以降が鬼門となり好記録を残すことができなかった。更に1994年の同大会では、同じ旭化成所属で朝比奈の2年後輩に当たる安部友恵にマラソン初制覇及び日本最高記録樹立(2時間26分09秒)を許し、先を越される格好となった[1]。当時、監督だった宗茂からは「トレッドミルの上を走るマラソン大会があれば世界一」と評されており、増田明美は人に優しすぎる性格の故に最後の踏ん張りに弱いとみていたと記している[2]

しかし安部の優勝が刺激となり、約2ヶ月半後の1994年4月に行われたロッテルダムマラソンでは、2時間25分52秒の当時の日本女子最高記録を達成して、念願のフルマラソン初優勝を果たした。

この記録が出たときには、日本女子の2時間25分突破は時間の問題と思われたが、日本の女子マラソンが記録更新の停滞期に入り、関係者の予想とは裏腹にこの記録は1998年名古屋国際女子マラソン高橋尚子が更新するまで4年近くも日本最高を維持することになった。しかし、その後の朝比奈はレースで好成績を残すことができず、マラソンでのオリンピック世界陸上選手権への出場は叶わなかった。1997年3月、同陸上部を退部。

同じ旭化成所属のマラソンランナーだった高橋浩一と1994年に結婚したが、2006年3月に高橋を胃ガンのため43歳で失う悲運に見舞われた。

主な記録(マラソンのみ)

1992年1月26日 大阪国際女子マラソン 2時間30分48秒 9位(初マラソン)
1993年1月31日 大阪国際女子マラソン 2時間30分58秒 6位
1994年1月30日 大阪国際女子マラソン 2時間27分51秒 5位
1994年4月17日 ロッテルダムマラソン 2時間25分52秒 優勝(当時日本女子最高記録、自己ベスト)
1995年3月12日 名古屋国際女子マラソン 2時間39分58秒 24位(現役最後のマラソン)

関連項目

外部リンク





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「朝比奈三代子」の関連用語

朝比奈三代子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



朝比奈三代子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの朝比奈三代子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS