有坂秀世 有坂秀世の概要

有坂秀世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/18 21:57 UTC 版)

有坂 秀世
人物情報
生誕 (1908-09-05) 1908年9月5日
日本広島県呉市
死没 1952年3月13日(1952-03-13)(43歳)
日本
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 言語学(日本語学)、国学
学位 文学博士
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経歴

  • 1908年(明治41年)9月5日:広島県呉市大字荘山田村字三番地二丁目七十三番地に、父有坂鉊蔵、母敏子の五男として生まれる。
  • 1914年(大正4年)4月:学習院初等科入学
  • 1920年(大正10年)3月:同上卒業
  • 1920年(大正10年)4月:東京府立第一中学校入学
  • 1924年(大正14年)3月:同上卒業
  • 1924年(大正14年)4月:第一高等学校文科乙類入学。(同学年の文甲に服部四郎
  • 1925年(大正15年)9月-11月:肺結核で約1ヵ月半欠席
  • 1928年(昭和3年)3月:上校を卒業
  • 1928年(昭和3年)4月:東京帝国大学文学部言語学科入学(服部四郎は英吉利文学科)
  • 1931年(昭和6年)3月:同上卒業(服部四郎も同学科卒業)
  • 1931年(昭和6年)8月:肺結核で鈴木療養所(神奈川県鎌倉郡)に入所
  • 1932年(昭和7年)7月:同上を退所
  • 1933年(昭和8年)7月:同上へ再入所
  • 1935年(昭和10年)4月:洗礼を受ける(於東京牛込の「いのち」の支社)
  • 1935年(昭和10年)10月:上所を退所
  • 1939年(昭和14年)4月:大正大学専任講師[1]。「国語学史概要」「国語学史」を担当。
  • 1940年(昭和15年)2月:肋膜炎を患う
  • 1940年(昭和15年)4月:大正大学講師辞任
  • 1941年(昭和16年)8月:西浦海浜病院(神奈川県三浦郡)に入院
  • 1942年(昭和17年)10月:同上を退院。以後は自宅療養。
  • 1943年(昭和18年)5月:文学博士の学位を取得
  • 1952年(昭和27年)3月13日:逝去(満四十三歳。戒名:明了院叡譽秀世居士)

(慶谷壽信『有坂秀世研究 : 人と学問』 pp.278-289)

受賞・栄典

研究内容・業績

  • 大学卒業後、矢継ぎ早に論文を出し、当時の学界の第一線に立った。しかし、その活躍は卒業後のわずか10年間のみであり、その10年もほとんどの時間を病院・診療所で過ごしている。33歳以降は論文の数は激減し、闘病の末43歳で没した。橋本進吉から、東京帝大の国語学主任教授の後任と白羽の矢を立てられながら、辞退したのも病身の故であった。

卒業論文

有坂が昭和5年12月に東京帝国大学へ提出した卒業論文は、言語学科主任教授の藤岡勝二教授ひとりが目にしたと思われ、現存はしないようである。東京大学文学部保管の記録には成績は記入されているが題目は記入されていない。没後出版された『上代音韻攷』所収の「略年譜」には「奈良時代に於ける国語の音声組織について」とあるが、これは疑わしく、正しくは「奈良町時代に於ける国語の音韻組織について」であったと思われる。また、その内容は、後年『上代音韻攷』で目にする事になる論考の原型であったと推測される[2]

上代特殊仮名遣に関して(「音節結合の法則」)

有坂の国語学上最大の業績は、上代特殊仮名遣における「母音調和」又はその痕跡を発見したことである。 まず「国語にあらわれる一種の母音交替について」(昭和6年12月)において、甲・乙類の仮名に関して、「甲類の仮名に用ゐられた漢字の音は主として明瞭な後舌母音を含み、乙類の仮名に用ゐられた漢字の音は主として中舌的又は前舌的(殊にUmlaut的)の母音を含んでゐる。」と指摘した。 その後、「古事記に於けるモの仮名の用法に付いて」(「昭和7年11月)において、さらに分析を深めて、以下の如き「法則」を発表した。

  1. オ列甲類音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することはない。
  2. ウ列音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することは少ない。特に2音節の単位結合については例外がない。
  3. ア列音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することが少ない。

しかし、この論文の一ヶ月前の同じ雑誌「国語と国文学」昭和7年10月に、池上禎造がほぼ同内容の論文「古事記に於ける仮名『毛・母』に就いて」を発表していた。この「先陣争い」は、原稿の日付と雑誌の出版月が「ねじれ」ており、やや複雑である[3]。しかし、二人の間に争う気持ちのなかった事は、註のとおり明らかである[4]

  • 有坂秀世: 昭和7年8月1日(原稿日付)、昭和7年11月(出版)
  • 池上禎造: 昭和7年8月2日(原稿日付)、昭和7年10月(出版)

重紐

  • カールグレンの説に異を唱え、韻図の三・四等にあらわれる「三・四等両属韻」及び「三等専属韻」のうち、唇音・牙音・喉音において介音[ï]を想定したもの。有坂が中国音韻学においても当時の水準を上回っていたことを示している。

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 62頁。
  2. ^ 慶谷pp.319-332
  3. ^ 慶谷p.273
  4. ^ 「此の法則に関し、池上禎造は同じ事実を私とは独立に発見せられ、且その発表(私の「国語にあらはれる一種の母音交替について」の所説中の関係部分を引用しては居られるが)に於て私の「古事記に於けるモの仮名の用法について」より一ヶ月先んぜられたにも拘わらず、去る昭和十六年六月の日本諸学振興委員会国語国文学会の研究発表に於て、此の法則を私の研究として引用されたことは、まことに恐縮に存ずる所である。ここに特に記して、感謝の意を公にする次第である。(「国音韻史の研究増補新版」P.681)
  5. ^ ただし、これは金田一の記憶違いらしく、金田一は担当した授業の全てで有坂に「甲」評価している。(慶谷、上掲書、p.100)


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