最澄 書

最澄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 00:02 UTC 版)

における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って王羲之十七帖王献之欧陽詢褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った[91]。その書風は空海の変幻自在なのに比べて、楷書と呼ばれるものに近い。真跡として現存するものには次のようなものがある。

天台法華宗年分縁起

『天台法華宗年分縁起』(てんだいほっけしゅうねんぶんえんぎ)は、天台法華宗の年分度者および大乗戒壇設立に関わる文書を蒐集した書。延暦寺蔵。国宝。収録されているのは以下の6通[92]

  • 『請続将絶諸宗更加法華宗表』- 天台法華宗に年分度者2名を認めるよう上奏した書の控え。延暦25年1月3日[92][93]
  • 『賀内裏所問定諸宗年分一十二人表』- 朝廷からの諮問に対して南都の僧綱が天台法華宗に年分度者2名を許可すべきと上奏した書の写し。延暦25年1月5日[92][93]
  • 『更加法華宗年分二人定諸宗度者数官符』- 天台法華宗に年分度者2名が認められた旨を支持する公文書の写し。延暦25年1月26日[92][93]
  • 『天台法華宗年分得度学生名帳』- 大同2年(807年)から弘仁9年(818年)までの12年間に延暦寺で学んだ年分得度学生の名簿と、さらに弘仁10年分の2名を加筆した書。弘仁10年[92][94]
  • 『請先帝御願天台年分得度者随法華経為菩薩出家表』- 大乗戒壇設立を願い出た書。弘仁9年5月21日[92][95]
  • 『天台法華宗年分学生式』- 大乗戒壇設立にあたり僧がまもる規律などを記した書。通称、六条式。弘仁9年5月13日[92][96]

久隔帖

『久隔帖』(きゅうかくじょう)は、弘仁4年(813年)11月25日付で書いた尺牘(書状)で、「久隔清音」の句で始まるのでこの名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは高雄山寺に派遣した最澄の弟子の泰範であるが、実質は空海宛である[97]。心が筆端まで行き届き、墨気清澄・品格高邁で、さながら王羲之の『集字聖教序』を肉筆化したような響きを放つ[98]。大きさは、29.2cm×55.2cm。奈良国立博物館蔵。国宝。文化財指定名称は「伝教大師筆尺牘」[97]

『久隔帖』最澄筆

久隔清音馳
恋無極
傳承安和且慰下情
阿闍梨所示五八詩序中有一百廿禮仏
并方圓圖
并註義等名
今奉和詩未知其礼仏圖者
伏乞
令聞 阿闍梨
其所撰圖義並其大意等
告施其和詩者怱難作
著筆之文難改後
代惟示其委曲
必造和詩奉上 座下
謹附貞聡仏子奉状和南
弘仁四年十一月廿五日小法弟最澄状上
高雄範闍梨法前
(以下省略)

— 『久隔帖』[97]

文面は、「大阿闍梨(空海)の示された五八の詩(『中寿感興詩』)の序に、『一百二十礼仏』『方円図』『註義』という書名がある。その詩の韻に和して返礼の詩を作って差し上げたいが、私は『礼仏図』なるものをまだ知らない。どうかこの旨を阿闍梨(空海)に伝えられ、『方円図』『註義』とその大意とをお知らせいただきたい。(以下省略)」という趣旨の内容である[97]

越州将来目録

『越州将来目録』(えっしゅうしょうらいもくろく)は、最澄が唐から持ち帰った書物等の目録。102部115巻の書物と密教法具が記される。巻尾には越州長官の鄭審則の自筆印可条と州の官印のほか、遣唐大使葛野麿らの連署や遣唐使印もあり、当時の公文書の史料としても貴重。延暦寺蔵、国宝。文化財登録名称は「弘法大師請来目録」[99]

羯磨金剛目録

『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、唐から持ち帰った品々を経蔵に永納した際の総目録。原本はほぼ失われてしまい、残った十数行を繋ぎ合わせた断簡。元は『御教蔵宝物聖教等目録』といったが、現在は文頭にある羯磨金剛に因んで呼ばれる。文書の全面に「比叡寺印」が捺されており、当時の正式寺号が分かる史料。延暦寺蔵、国宝[91]

空海将来目録

『空海将来目録』(くうかいしょうらいもくろく)は、空海が唐から持ち帰った聖教典籍の総目録を、最澄が書写したもの。元来は延暦寺にあったものが、ある時期に『風信帖』と共に東寺に譲られたものと考えられている。東寺蔵、国宝。文化財指定名称は「弘法大師請来目録」[91]


注釈

  1. ^ 最澄に対する称名は「南無宗祖根本伝教大師福聚金剛」である。
  2. ^ 「百枝」は浄足の音をとった「巨枝」を誤ったもので、同一人物とする説もある[6]。また最澄の父が戸主であったとは限らない為、浄足は父ではないとする説もある[5]
  3. ^ 古市郷について『大日本地名辞典』では大津市粟津と考証されている[7]
  4. ^ 新撰姓氏録』には近江には志賀忌寸や志賀穴大村主といった帰化漢人が早くから居住していたことがわかる[7]。また三津首の記述はないものの可能性は否定できないとされる[5]
  5. ^ この鑑真将来の経典について伴国道は東大寺所蔵のものと伝えている[19]
  6. ^ この法会に召集された高僧は、前年に最澄が行った法華十講の講師10人が含まれている。また最澄への招請状から弘世は最澄に帰依していたことがわかる[25]
  7. ^ 還学生(げんがくしょう)は1年程度で戻る短期滞在の学生。対して留学生(るがくしょう)は20年ほどの長期滞在をする学生
  8. ^ 妙澄は後に最澄と空海の書簡に名が見えるが入唐はしていないと考えられる。円基については不明[29]
  9. ^ 詳細な割り当ては、華厳宗2名、天台法華宗2名、律宗2名、三論宗3名(小乗成実宗を含む)、法相宗3名(小乗倶舎宗を含む)である[37]
  10. ^ 天台宗はこの日をもって開宗としている。
  11. ^ 比叡山に総と中、その他に東西南北に各一か所である。安中山城宝塔院(比叡山東塔)、安国近江宝塔院(比叡山西塔)、安東上野宝塔院(上野国緑野郡、浄法寺)、安南豊前宝塔院(豊前国宇佐郡宇佐弥勒寺)、安西筑前宝塔院(筑前国太宰府竈門山寺)、安北下野宝塔院(下野国都賀郡大慈寺[47][48]
  12. ^ 具足戒は僧侶となるために守るべき規範である。を棄てる事は僧の資格を棄てる事と同義であるが、朝廷や南都の僧綱がそのように扱った様子はない[57]
  13. ^ 『天台法華宗年分学生式(六条式)』(弘仁9年5月13日)、『勧奨天台宗年分学生式(八条式)』(弘仁9年8月)、『天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)』(弘仁10年3月15日)の3部からなる書。
  14. ^ この文面について天台宗では「照于一隅」(一隅を照らす)と解釈する。一方で薗田香融威王の「国宝とは国の一隅を守れば他国が侵入できず、将となれば千里を照らす者である」の故事を引いたもので、正しくは「照千一隅」(一隅を守り千里を照らす)とする説を唱えている。ここでは天台宗の解釈に従う[58]
  15. ^ 菩薩戒。天台宗は梵網経に基づく菩薩戒を円頓戒とよぶ。
  16. ^ 正式な僧になるための戒。比丘250戒、比丘尼348戒[60]
  17. ^ 戒を授ける直接の責任者である戒和尚、戒場で白四羯磨(びゃくしこんま)の作法を受け持つ羯磨師、威儀作法を教える教授師の三師と、7人の立ち会いの僧の事[60]
  18. ^ 梵網経に説かれる十重四十八軽戒。
  19. ^ この最澄の最期は『叡山大師伝』を根拠としているが、佐伯有清や張堂興昭は後年の脚色である可能性を指摘している。それによれば『類聚国史』に入滅前日である6月3日に勅許が降りたことが記されており、最澄はこれを聞いてから入滅した事になる[72]
  20. ^ 現代の天台宗ではこれを「四宗相承」(四宗とは円・密・禅・戒のこと)と称するが、この言葉は近世に敬光が唱えた「四宗脈譜」が元で、近代に一般化した[75]
  21. ^ 四種とは常坐三昧・常行三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧を指す[80]
  22. ^ 現存する三昧堂は西塔の法華堂・常行堂(にない堂)のみである[81]
  23. ^ 五性とは声聞種性・独覚種性・菩薩種性・不定種性・無性有情の事[88]

出典

  1. ^ a b なお、最澄自身の撰とされる『内証仏法相承血脈譜』では、13歳で弟子入りし、宝亀11年11月10日作成の「近江国府牒」に“三津首広野年拾五”との記述があり、天平神護2年出生説を採る学者もいる。
  2. ^ "The Sutra of the Sixth Patriarch." Dumoulin, Heinrich. Zen Buddhism: A History, India and China. New York: World Wisdom, 2005, p128.
  3. ^ 塩入良道、「最澄」 -日本大百科全書(ニッポニカ) 、小学館。
  4. ^ 書家101 p.118
  5. ^ a b c d e 田村晃祐 1988, p. 1-7.
  6. ^ a b c d 木内堯央 2020, p. 28-30.
  7. ^ a b c d e 木内堯央 2020, p. 26-28.
  8. ^ 木内堯央 2020, p. 30-31.
  9. ^ a b 木内堯央 2020, p. 32-34.
  10. ^ 木内堯央 2020, p. 34-36.
  11. ^ 木内堯央 2020, p. 42-43.
  12. ^ 木内堯央 2020, p. 57-58.
  13. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 7-19.
  14. ^ 木内堯央 2020, p. 13-16.
  15. ^ a b 木内堯央 2020, p. 48-51.
  16. ^ 木内堯央 2020, p. 44-46.
  17. ^ 田村晃祐 1988, p. 23-25.
  18. ^ a b 木内堯央 2020, p. 51-54.
  19. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 30-33.
  20. ^ 田村晃祐 1988, p. 264.
  21. ^ 木内堯央 2020, p. 59-61.
  22. ^ a b c 田村晃祐 1988, p. 33-38.
  23. ^ a b c 木内堯央 2020, p. 61-64.
  24. ^ 田村晃祐 1988, p. 42-52.
  25. ^ a b c d 田村晃祐 1988, p. 53-59.
  26. ^ 木内堯央 2020, p. 46-48.
  27. ^ a b 木内堯央 2020, p. 69-71.
  28. ^ 木内堯央 2020, p. 67-69.
  29. ^ a b c d e 田村晃祐 1988, p. 66-74.
  30. ^ 木内堯央 2020, p. 72-73.
  31. ^ 木内堯央 2020, p. 73-76.
  32. ^ a b 田村晃祐 1988, p. 74-88.
  33. ^ a b c 木内堯央 2020, p. 76-78.
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  48. ^ a b 天台宗 2009, p. 1.
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  73. ^ 「延暦寺で1200年大遠忌法要、最澄の遺徳しのぶ」朝日新聞デジタル(2021年6月4日配信)同日閲覧
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  97. ^ a b c d 宮坂宥勝「風信帖と久隔帖」(「空海の風信帖」『墨』P.16 - 20)
  98. ^ 寺山旦中「弘法の展開と最も澄んだ書」(「空海の風信帖」『墨』P.54)
  99. ^ 景山春樹 1975, p. 57.
  100. ^ 平野多恵 2014, p. 21.






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