曲亭馬琴 曲亭馬琴の概要

曲亭馬琴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 05:04 UTC 版)

曲亭 馬琴
曲亭馬琴
(『國文学名家肖像集』より)
誕生 明和4年6月9日1767年7月4日
死没 嘉永元年11月6日1848年12月1日
墓地 深光寺東京都文京区
職業 戯作者、読本作者
国籍 日本
活動期間 1791 - 1848
ジャンル 読本合巻黄表紙歳時記随筆
代表作椿説弓張月』『南総里見八犬伝
デビュー作 『尽用而二分狂言』
配偶者 会田百
子供 1男4女
親族 土岐村路
ウィキポータル 文学
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代表作は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』。ほとんど原稿料のみで生計を営むことのできた日本で最初の著述家である[1]

名前について

幼名は春蔵のち倉蔵くらぞう、通称は左七郎さしちろう瑣吉さきち。号は、笠翁りつおう篁民こうみん蓑笠漁隠さりつぎょいん飯台陳人はんだいちんじん玄同げんどうなど、多くの別号を持った。多数の号は用途によって厳格に使い分けている[注釈 1]。「曲亭馬琴」は、戯作に用いる戯号である[注釈 2]

滝沢馬琴たきざわばきんの名でも知られるが、これは明治以降に流布した表記である。教科書や副読本などで「滝沢馬琴」と表記するものがあるが、これは本名と筆名をつなぎあわせた誤った呼び方であるとして近世文学研究者から批判されている[5]

曲亭馬琴という戯号について、馬琴自身は「曲亭」は『漢書陳湯伝に「巴陵曲亭の陽に楽しむ」とある山の名[6][注釈 3]、「馬琴」は『十訓抄[注釈 4]に収録された小野篁(野相公)の「索婦詞」の一節「才馬卿に非ずして、琴を弾くとも能はじ」[6][注釈 5]から取っていると説明している[7]。「くるわでまこと」(廓で誠)、すなわち遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という意味の俗諺をもじったという解釈もある[8]が、青年期に武家の嗜みとしておこなった俳諧で用いていた俳号の「曲亭」と「馬琴」が戯号に転じたもの[注釈 6]で、「くるわでまこと」を由来とするのは妄説であるという反駁がある[9]。「曲亭馬琴」と組み合わされて明記されるのは、寛政5年(1793年)の『花団子食気物語はなよりだんごくひけものがたり』に付された、山東京伝による序文である[8]

生涯

生い立ち

明和4年(1767年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれる。ただし、兄2人が早世しているため、三男として育った。滝沢家には長兄・興旨、次兄・興春、妹2人があった。

馬琴は幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだという。安永4年(1775年)、馬琴9歳の時に父が亡くなり、長兄の興旨が17歳で家督を継いだが、主家は俸禄を半減させたため、翌安永5年(1776年)に興旨は家督を10歳の馬琴に譲り、松平家を去って戸田家に仕えた。次兄の興春は、これより先に他家に養子に出ていた。母と妹も興旨とともに戸田家に移ったため、松平家には馬琴一人が残ることになった。

馬琴は主君の孫・八十五郎やそごろうに小姓として仕えるが、癇症の八十五郎との生活に耐えかね、安永9年(1780年)、14歳の時に松平家を出て母や長兄と同居した。

彷徨期

天明元年(1781年)、馬琴は叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗った。俳諧に親しんでいた長兄・興旨(俳号・東岡舎羅文)とともに越谷吾山に師事して俳諧を深めた。17歳で吾山撰の句集『東海藻』に3句を収録しており、このときはじめて馬琴の号を用いている。天明7年(1787年)、21歳の時には俳文集『俳諧古文庫』を編集した。また、医師の山本宗洪、山本宗英親子に医術を、儒者・黒沢右仲亀田鵬斎に儒書を学んだが、馬琴は医術よりも儒学を好んだ。

馬琴は長兄の紹介で戸田家の徒士になったが、尊大な性格から長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々とした。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送っており、のちに「放逸にして行状を修めず、故に母兄歓ばず」[10]と回想している。天明5年(1785年)、母の臨終の際には馬琴の所在がわからず、兄たちの奔走でようやく間に合った。また、貧困の中で次兄が急死するなど、馬琴の周囲は不幸が続いた。

戯作者としての出発

寛政2年(1790年)、24歳の時に山東京伝を訪れ、弟子入りを請うた。京伝は弟子とすることは断ったが、親しく出入りすることをゆるした。寛政3年(1791年)正月、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「京伝門人大栄山人」の名義で黄表紙尽用而二分狂言つかいはたしてにぶきょうげん』を刊行、戯作者として出発した。この年、京伝は手鎖の刑を受け、戯作を控えることとなった。この年秋、洪水で深川にあった家を失った馬琴は京伝の食客となった。京伝の草双子本『実語教幼稚講釈』(寛政4年刊)の代作を手がけ、江戸の書肆にも知られるようになった。

寛政4年(1792年)3月、版元蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになった。商人に仕えることを恥じた馬琴は、武士としての名を捨て、通称を瑣吉に、に改めた。

滝沢馬琴邸跡井戸
東京都千代田区九段坂下

寛政5年(1793年)7月、27歳の馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目)世継稲荷(現・築土神社)下で履物商「伊勢屋」を営む会田家の未亡人・百(30歳)の婿となるが、会田氏を名のらず、滝沢清右衛門を名のった。結婚は生活の安定のためであったが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の家守(いわゆる大家)をして生計を立てた。加藤千蔭に入門して書を学び、噺本・黄表紙本の執筆を手がけている[11]。寛政7年(1795年)に義母が没すると、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめた。

結婚の翌年である寛政6年(1794年)には長女・さき、寛政8年(1796年)には二女・ゆうが生まれた。のちの寛政9年(1797年)には長男・鎮五郎(のちの宗伯興継)が、寛政12年(1800年)には三女・くわが生まれ、馬琴は合わせて1男3女の父親となった。

旺盛な執筆活動

『椿説弓張月』の葛飾北斎による挿絵

寛政8年(1796年)、30歳の頃より馬琴の本格的な創作活動がはじまる。この年に耕書堂から刊行された読本『高尾船字文』は馬琴の出世作となった。より通俗的で発行部数の多い黄表紙合巻などの草双紙も多く書いた。ほぼ同時代に大坂では上田秋成が活躍した。

享和2年(1802年)5月から8月にかけて、馬琴は関西地方を旅行した。大田南畝の紹介状や、山東京伝の書画(売却して旅費に当てる)を受け取り、関西の文人と交流した馬琴は、物語ゆかりの名所をめぐり、また井原西鶴の墓を訪れたりし、私的な旅行記『羇旅漫録』を記している。

享和3年(1803年)には、俳書『俳諧歳時記』を出版した。2600余の季語を収集・分類して解説した事典(季寄せ)であり(俳諧連歌に関する考証や作法に関する叙述も含む)、こうした季語集を「歳時記」と称した最初の例である。馬琴の『俳諧歳時記』は、従来の季語集が京都中心の記述であったのに対して江戸中心の解説となっているという特色がある。後の嘉永4年(1851年)、『俳諧歳時記』に藍亭青藍が増補した『増補俳諧歳時記栞草』は、広く用いられた。

文化元年(1804年)に刊行された読本『月氷奇縁』は名声を博し、読本の流行をもたらしたが、一方で恩人でもある山東京伝と読本の執筆をめぐって対抗することとなった。文化4年(1807年)から刊行が開始された『椿説弓張月』や、文化5年(1808年)の『三七全伝南柯夢』によって馬琴は名声を築き、他方京伝は読本から手を引いたことで、読本は馬琴の独擅場となった。文化11年(1814年)に『南総里見八犬伝肇輯じょうしゅうが刊行された。文化13年(1816年)、恩人であり競争相手でもあった京伝が没する。

八犬伝

外神田三丁目にある滝沢馬琴居住跡の案内(2018年2月3日撮影)

『南総里見八犬伝』の執筆には、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし、馬琴のライフワークとなった。

一人息子の興継は、山本永春院に就いて医術を修め、文化11年(1814年)には宗伯と名乗ることを許された。文政元年(1818年)、馬琴は神田明神下石坂下同朋町(現・千代田区外神田三丁目、秋葉原の芳林公園付近)に家を買い、ここに滝沢家当主として宗伯を移らせた。文政3年(1820年)には宗伯が陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となった。馬琴の愛読者であった老公・松前道広の好意であった。宗伯が俸禄を得たことで、武家としての滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いの半ばは達せられたが、宗伯は多病で虚弱であった。

文政7年(1824年)、58歳の馬琴は、神田明神下の宗伯宅を増築して移り住み、宗伯と同居した。馬琴は隠居となり、剃髪して蓑笠漁隠と称するようになった。長女・幸に婿養子を迎え、清右衛門と名乗らせて元飯田町の家財一切を譲り、分家させたのもこの時である。

文政7年(1824年)から翌8年(1825年)にかけ、馬琴は、山崎美成とともに文人を集めた「耽奇会」「兎園会」を主宰した。しかし、山崎美成とは「耽奇会」に出品された道具の考証をめぐる対立がエスカレートし、ついには絶交するに至った(けんどん争い)[注釈 7]。これらの会の記録として馬琴は『耽奇漫録(5巻本)』『兎園小説』を著し、また独自に集めた奇談を『兎園小説』の外集・別集・拾遺・余録として編纂した。

天保4年(1833年)、67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむようになる。天保6年(1835年)、宗伯が死去するなど、家庭的な不幸も相次いだ。馬琴は孫の太郎に滝沢家再興の希望を託し、天保7年(1836年)には四谷鉄砲組の御家人株を買っている。御家人株購入のため、馬琴は蔵書を売り、気の進まない書画会を開いた。神田明神下の家も売却して四谷信濃仲殿町(現・新宿区霞ヶ丘町)に移住することとなった。

天保10年(1839年)、73歳の馬琴は失明し、執筆が不可能となった。このため、宗伯の妻・お路が口述筆記をすることとなった。馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路に対して妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかった。そのお百も、天保12年(1841年)に没した。

天保12年8月、『八犬伝』の執筆が完結し、天保13年(1842年)正月に刊行される。馬琴は「回外剰筆」において、読者に自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記の辛苦を書き記している。

終焉

曲亭馬琴の墓

馬琴はお路を筆記者として『傾城水滸伝』や『近世説美少年録』の執筆を続けたが、これらの完結を見ないまま、嘉永元年(1848年)82歳で死去する。命日の11月6日は「馬琴忌」とも呼ばれる。

法名著作堂隠誉蓑笠居士。墓所は東京都文京区の深光寺にある。


注釈

  1. ^ 戯作ではない往来物の『雅俗要文』が無断刊行された際に「著作堂馬琴作」と記されたことに強い不快感を示している[2]。馬琴はこうした使い分けを行うことについて、大田南畝が戯作に「南畝」、狂詩に「寝惚」、狂歌に「四方赤良」などを使い分けることを引き合いに出している[2]
  2. ^ 馬琴は雅俗には区別があるとして「馬琴」が雅号と混同されることを嫌った[3]。馬琴によれば、「著作堂」などが雅号である[3]。馬琴の意識では「馬琴先生」と呼ばれることについてもおかしいという[4]。戯号に「先生」をつけるのは的外れであり、敬称するならば戯号以外の号を用いるべきという意識からである[4]
  3. ^ 馬琴によれば『大明一統志』にも見えるという[7]
  4. ^ 十訓抄』の編者については諸説あるが、馬琴は菅原為長と記している[7]
  5. ^ 「才非馬卿弾琴未能」。馬卿とは司馬相如のこと。
  6. ^ 作家デビュー作『尽用而二分狂言』の主人公の名は「馬きん」[8]であった。
  7. ^ 「大名けんどん」と呼ばれる道具の名称の由来をめぐる対立。「大名けんどん」は、「けんどんそば」と呼ばれる盛り切りの蕎麦を運ぶ箱(=けんどん箱。岡持ちの原型)に豪華な装飾を施したものである。「慳貪」「倹飩」など多様な漢字が充てられる「けんどん」が何を意味するのか、この当時すでに不明になっており、現代においてもはっきりとしない。山崎は、「けんどん屋」と呼ばれる接客の簡易な(「つっけんどん」な)形態の外食店がかつて存在しており、それに由来する(なお、けんどん屋で使う器を呼ぶ「けんどん振り」が「どんぶり」の語源という説がある)という説を唱えており、現代ではこれが有利な説とされる。一方、馬琴はうどんやそばなど麺類を運搬する道具を「けんどん(巻飩)」と称したと主張(倹飩参照)、両者の議論は過熱し、相手の言葉尻を捉えての不毛な応酬に陥った[12]
  8. ^ 気を利かせて無いものを書き添えれば蛇足、画稿通りならば働きがないと言われ[21]、『八犬伝』の画工を務めた柳川重信(北斎の門人)はしばしば馬琴に罵倒されたようである[19]
  9. ^ この時の桂窓はいまだ招かれざる客であったという解釈(木村三四吾)[31]:18と、同一人物と五度も対面を許すのは馬琴としては破格の待遇であり、桂窓を相当気に入ったとする解釈(服部仁)[31]:18がある。
  10. ^ 当時馬琴が執筆中の『開巻驚奇侠客伝』で、南朝方の主人公を助ける「善玉」として描かれるべき伊勢国司(北畠満雅)を別人(北畠親能)と同一視し、さらにその親能を暗君として描くという、勧善懲悪を宗とする馬琴としては致命的な過ち。馬琴は作中で弁解を行うこととなった[31]:17

出典

  1. ^ 杉本(1977)
  2. ^ a b 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻pp.332-333
  3. ^ a b 徳田武校注『近世物之本江戸作者部類』p.278
  4. ^ a b 徳田武校注『近世物之本江戸作者部類』p.254
  5. ^ 「八犬伝」を読む-文学史上の位置づけ”. 高木元. 2019年6月5日閲覧。
  6. ^ a b 小池藤五郎「解説」『南総里見八犬伝』岩波文庫版7巻p.x。
  7. ^ a b c 「八犬伝第八輯自序」、岩波文庫版『南総里見八犬伝』第4巻p.249.
  8. ^ a b c 徳田武校注『近世物之本江戸作者部類』p.359 の注
  9. ^ 高木元. “書評 播本眞一著『八犬伝・馬琴研究』(完全版)”. 2020年2月2日閲覧。
  10. ^ 『吾仏乃記』
  11. ^ 麻生磯次「滝沢馬琴」P34(吉川弘文館) 1959年
  12. ^ 料理本のソムリエ vol.7 ジャパン・クール"DONBURI"”. 柴田書店 (2010年8月10日). 2022-20閲覧。
  13. ^ a b c 麻生(1959)、p.187
  14. ^ 「八犬伝の作者と日常生活」真山青果 『名文鑑賞読本. 大正時代』 (厚生閣, 1937)
  15. ^ 徳田武「解説」、岩波文庫版『作者部類』p.400
  16. ^ 徳田武「解説」、岩波文庫版『作者部類』pp.400-401
  17. ^ 岩波文庫版『作者部類』p.57
  18. ^ 『苅萱後傳玉櫛笥』の馬琴自序。
  19. ^ a b c d 小池藤五郎「解説」『南総里見八犬伝』岩波文庫版9巻p.xi。
  20. ^ 高木元. “読本に於ける挿絵の位相”. 2016年10月10日閲覧。
  21. ^ a b 小池藤五郎「解説」『南総里見八犬伝』岩波文庫版9巻p.x。
  22. ^ 殿村篠斎宛馬琴書簡(天保11年8月、代筆)。
  23. ^ 鈴木重三 「馬琴読本の挿絵と画家─北斎との問題など」(『鑑賞日本古典文学 第三十五巻 秋成・馬琴』 角川書店、1977年2月。後に同『絵本と浮世絵』 美術出版社、1979年3月31日、pp.161-174)。
  24. ^ a b 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻p.320。
  25. ^ a b 小池藤五郎「解説」『南総里見八犬伝』岩波文庫版10巻p.vii。
  26. ^ a b 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻p.337。
  27. ^ a b c d e f g h 古典への招待 【第84回:馬琴と渡辺崋山】”. ジャパンナレッジ. 小学館. 2016年10月9日閲覧。『新編日本古典文学全集 84 近世説美少年録 2』の解説の再録。校注者は徳田武。
  28. ^ a b 杉本苑子. “滝沢馬琴”. 朝日日本歴史人物事典. 2016年10月9日閲覧。
  29. ^ 高田衛. “木村黙老”. 世界大百科事典 第2版. 2016年10月9日閲覧。
  30. ^ 徳田武「解説」、岩波文庫版『作者部類』pp.381-392
  31. ^ a b c d e f g h i j 菱岡憲司「馬琴と小津桂窓の交流」『近世文藝』第90巻、2009年、16-29頁、doi:10.20815/kinseibungei.90.0_162020年2月2日閲覧 
  32. ^ a b 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻p.319。
  33. ^ 小津桂窓”. 国立国会図書館. 2016年10月9日閲覧。
  34. ^ 日本の沙翁 イーストレイキ博士馬琴を大いに持ち上げる『新聞集成明治編年史. 第七卷』 (林泉社, 1940) p76


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