曲亭馬琴 人物

曲亭馬琴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/27 06:24 UTC 版)

人物

規則正しい生活

非常に几帳面で、毎日のスケジュールはほぼ同じだった。6 - 8時の間に起きて洗面を済まし、仏壇に手を合わせたあと、縁側徳川斉昭考案の体操を一通りし、朝食。客間でを飲んだあと、書斎に移り、前日の日記を記したのち、執筆作業に入る。まず、筆耕者(作家著述家)から上がってきた前日の原稿のチェック。一字でも気になるものがあると字引を引いて確認。そのほかにも出版社からの校正が最低でも三校、四校とあり、執筆よりも校正に苦しめられた日々だったという[15]

曲亭馬琴日記

馬琴は非常に精緻な日記を書き残した。散逸や、関東大震災による焼失を経て、中年以後の日記が残っており、貴重な資料となっている。

柴田光彦校注『曲亭馬琴日記 新訂増補』が、2009年7月から中央公論新社全4巻別巻1で刊行。(旧版全4巻は暉峻康隆ほか校注で中央公論社1973年

馬琴の失明後は路が日記を代筆し、死後も書き継いだ。『路女日記』として刊行されている。

交友・対人関係

馬琴は江戸後期の化政文化を大きく担い、同時代の出版文化をめぐる人々とも様々な関係を持った。馬琴の戯作者に対する見方は、天保4年(1833年)から天保5年(1834年)にかけて執筆された戯作者の評伝『近世物之本江戸作者部類』などに記されている。『南総里見八犬伝』完結時のあとがきとして記された「回外剰筆」(天保12年(1841年)執筆)には、交友を持った人物の思い出などが語られている。

生没年はグレゴリオ暦で示した。

山東京伝(1761年 - 1816年)
「生涯」節にも既述の通り、馬琴が著作家の道を歩むにあたって京伝は大きな影響を与えた人物であり、またのちに作家として大成した馬琴と作品を競う関係となった。
山東京山(1769年 - 1858年)
京伝の弟であるが、馬琴との関係は険悪であった。馬琴は、京山が京伝死後に寡婦の百合を狂死に追いやり、家業の薬屋を乗っ取ったと見て非常に嫌悪している。京伝とその妻百合の死後の文政2年(1819年)、馬琴は京伝の評伝として『伊波伝毛乃記(いわでもの記)』を著しているが、この書の眼目は京山への非難にあると考えられる[16]。一方の京山も、1830年に鈴木牧之に送った『鳴蛙秘抄』[17]などで、馬琴が京伝から多大な恩を受けながら葬式にも来ない(馬琴側は出席したとしている)などとして「忘恩の徒」と非難している。
式亭三馬(1776年 - 1822年)
浮世風呂』(1809年)が一世を風靡した滑稽本作者であるが、目指す文芸の方向性の違いもあり、馬琴と三馬は険悪な関係にあった。『近世物之本江戸作者部類』で馬琴は「(三馬は)馬琴を憎むこと讐敵のごとしと聞こえたり」と述べている。馬琴には三馬の読本『阿古義物語』(1810年)を酷評した批評文「駢鞭」(「駢」は原文では「馬」を三つ並べた異体字であり、三馬を鞭打つという含意が明らかである)が残っている(『曲亭遺稿』所収)。『近世物之本江戸作者部類』では、「純粋の戯作者」「才子」(才に頼み古典教養がないという批判も含まれる)としつつ[18]、馬琴の書からの剽窃があることを断じるなど、三馬に辛辣な批判を加えている。
葛飾北斎(1760年 - 1849年)
馬琴作品に最も多く挿絵を描いた浮世絵師。二人はかなり親しく、文化3年(1806年)の春から夏にかけての3,4ヶ月にかけて、北斎は馬琴宅に居候していたようだ[19]。文化年間の末から両者の合作は無くなったため、二人は絶交したという説もある[20]。しかし、絶交説の初出はどれも明治時代の資料であり、同時代の資料には殆ど見られない。コンビ解消の理由は、北斎の名声が上がり挿絵以外の仕事が忙しくなったためとも、二人の原稿料が上がってコストが増えたのを版元が敬遠したためとも推測される。
江戸時代の小説の挿絵は、作者が画稿(下絵)を描いて画工が完成させるもので[21]、特に馬琴の画工への注文はこだわりが多く、厳しいものであった[22][注釈 7]。北斎は凝り性で自信が強く覇気にも富んでいたため、挿絵についても馬琴の指示に従わず、自分の絵にして描いたため、しばしば衝突した[20]。馬琴の手紙によると、北斎は画中の人物の位置をよく入れ替えるので、下図に右に置きたい人物をわざと左に描いておくと、北斎は必ず右に持ってきてくれると述べている[23][20]。ただし、馬琴の書簡には北斎を賞賛する記述が散見され、その画力は後々も認めていたようだ[24]
只野真葛(1763年 - 1825年)
仙台在住。工藤平助の娘。この交流は、文政2年(1819年)に真葛が自著『独考』の添削と出版を馬琴に依頼したことではじまり、政治や経済・儒教に関し文通が行われた。真葛の儒教批判は馬琴の受け入れるところとはならなかった。しかし、出版のための校閲を促された馬琴が真葛に対して絶交を通知、批判書『独考論』を送り、交流は1年余りで終わった。
『南総里見八犬伝』の「回外剰筆」(1842年)によれば、馬琴のもとには自筆小説の批評を請うたり、入門を求める女性も多くあったらしい(ただし、馬琴は「婦女子なれば答ざりき」という)[25]。しかしその中で特に真葛の名とその学問・人柄が挙げられており、議論の書を交わした思い出が語られている[26]
蒲生君平(1768年 - 1813年)
馬琴と交友を結んでいた。君平死後、馬琴は君平の伝記として随筆「蒲の花かつみ」を著し、随筆集『兎園小説』に収めた[27]。『南総里見八犬伝』「回外剰筆」には、八犬伝を見果てずに去った往年の知音の一人として、蒲生秀実(君平)の名が挙げられている[28](ただし『八犬伝』の刊行開始は君平の死の翌年、1814年である)。『八犬伝』から尊王思想を読み解く小池藤五郎は、犬村大角のモデルは君平ではないかとしている[27]
鈴木牧之(1770年 - 1842年)
越後国小千谷の商人。のちに『北越雪譜』として結実する、地元についての随筆集の出版を目指して、江戸の出版界と関わりを持った。寛政10年(1798年)、牧之は山東京伝を頼って出版を試みたが版元が見つからず、計画は沙汰やみになった。牧之が次に頼ったのが馬琴であるが、この時馬琴は京伝との関係悪化を懸念し出版には至らなかった(出版については京伝も馬琴も乗り気であった)。京伝死後の文化13年(1813年)、牧之は再び馬琴とともに出版をめざした。馬琴はこの時期『南総里見八犬伝』を手掛けており、作中でも越後小千谷を登場させ、牧之から提供された資料を出所を記しつつ活用している。しかし馬琴が自作にかかりきりとなって『北越雪譜』出版作業は進まず、牧之は京伝の弟である京山と接近した。馬琴は態度を硬化させて牧之に原稿を返却せず、牧之は再度原稿を執筆する羽目になった。結局『北越雪譜』は天保8年(1837年)、京山の協力によって出版に至った。
渡辺崋山(1793年 - 1841年)
三河国田原藩家老。馬琴の子である宗伯(興継。画家としての号は琴嶺)は幼少時に金子金陵に入門して画を学んでいたが、文化6年(1809年)に崋山が金陵に入門、宗伯の弟弟子となった(ただし崋山が宗伯より年上である)のが、崋山と滝沢家とのかかわりの始まりである[29]。馬琴と崋山は歳の差がありながらも友人として親しく交わり、互いに書籍を貸借する仲であった[29]。馬琴の『玄同放言』には宗伯とともに崋山が挿絵を描いている[29]。宗伯が天保6年(1835年)に没すると、崋山はその死に顔をデッサンしたが、骨格をとらえようと遺体に手を触れた崋山を馬琴は「剛毅」と評している[29]。天保10年(1839年)に発生した蛮社の獄において崋山が罪に問われ、椿椿山ら友人たちが助命嘆願に奔走した際に馬琴は同調せず、この冷淡さはしばしば批判されている[29][30]。崋山の蔵書に自分が貸した本があることを心配するなど[29]保身的な姿勢も確かであるが、馬琴なりの政治観のあらわれ(定められた法に背いたこと[30]や、陪臣の職分を越えて国事に奔走したこと[29]を非としたようである)もあるととられる。崋山自刃後は、遺された家族の冷遇に「痛むべし」と同情を寄せている[29]
木村黙老(1774年 - 1857年)
讃岐国高松藩家老。諱は亘・通明。松平頼恕に仕え藩財政再建に功績を挙げた政治家であるとともに、和漢の学問に通じて多数の著作を残し、また「俗な文学」である歌舞伎や戯作の愛好者でもあった[31]。馬琴との間では、小説作法などについての応答を交わし、書籍を貸しあう仲であった。馬琴の『近世物之本江戸作者部類』の執筆(1833年 - 1834年)は黙老からの依頼がきっかけで、『作者部類』に記載された「風来山人」こと平賀源内(1728年 - 1780年。高松藩出身)についての情報の一部は、黙老の随筆集『聞まゝの記』から移されたものである[32]
「八犬伝第九輯下套下引」(天保10年/1839年)などで、馬琴が遠方に住まう数少ない友人として挙げる木村黙老・殿村篠斎・小津桂窓は、「三友」と呼ばれる[33]:26。さらに石川畳翠を加えて「四友」という。
殿村篠斎(1779年 - 1847年)
伊勢国松坂在住の木綿問屋の主人で、本居宣長門下の国学者。号は三枝園主人。馬琴とは長く文通を続けた。馬琴は「吾が知音の友」[34]と記している。『犬夷評判記』(文政元年/1818年)は南総里見八犬伝と『朝夷巡島記』の批評で、弟の櫟亭琴魚と著し、馬琴が回答を寄せるという形で刊行した。
櫟亭琴魚(1788年 - 1831年)
殿村篠斎の弟。戯号の「琴」は馬琴にあやかったものである(馬琴自身には門人を取る考えはなかった)。『窓蛍余談』『青砥石文』などの著作がある。交友関係の長く続いた人物であるが、40歳あまりで死去した[35]
小津桂窓(1804年 - 1858年)
伊勢国松阪の豪商。名は久足。本居春庭に師事して国学・和歌を学び、「西荘文庫」を擁した書籍収集家として知られるとともに[33]:17、多くの紀行文を著した紀行家でもある[33]:17。文政11年(1828年)12月に桂窓が馬琴を訪問したのが初対面であるが、当初の交流は仲介に立った篠斎の体面を潰さない程度の形式的なものであったようである[33]:18。天保3年(1832年)、商用で江戸に出た桂窓は馬琴を5度訪問し、長時間ひざを突き合わせた[注釈 8]。また蔵書の貸与を行って馬琴の誤謬に気付かせる[注釈 9]などしたことから認識が改まり、同年11月の篠斎宛の手紙で馬琴は桂窓の才能と見識を高く評価した[33]:18。天保4年(1833年)、桂窓が紀行文「梅桜日記」を馬琴に送ると、容易に他人を褒めることがない馬琴が最大級の評価を与え、文筆家としての才能も認めた[33]:23。馬琴と桂窓は以後終生の知友となった[36]。天保7年(1836年)に馬琴が経済的に窮した際には、蔵書を買い取るなどパトロン的な役割も果たした[33]:17
石川畳翠(1807年 - 1841年)
三千石取りの旗本で、通称は左金吾。馬琴の愛読者で、篠斎・桂窓・黙老とともに馬琴に「四友」と呼ばれた。これら「四友」たちは馬琴の著書に対する批評と、それに対する馬琴の答評を合わせた書籍を出しており、石川畳翠も『八犬伝畳翠君評』などを手掛けている。『八犬伝』完結を前に死去し、馬琴は「広き大江戸に、知音の友は地を払て、今は一人もあらずなりぬ」(友は篠斎・桂窓・黙老といった遠方の人ばかりになった)と嘆いている[37]

評価

明治中期に来日して国民英学会などを創立したフレデリック・イーストレイクは馬琴を日本のシェークスピアと称賛した[38]


注釈

  1. ^ 戯作ではない往来物の『雅俗要文』が無断刊行された際に「著作堂馬琴作」と記されたことに強い不快感を示している[2]。馬琴はこうした使い分けを行うことについて、大田南畝が戯作に「南畝」、狂詩に「寝惚」、狂歌に「四方赤良」などを使い分けることを引き合いに出している[2]
  2. ^ 馬琴は雅俗には区別があるとして「馬琴」が雅号と混同されることを嫌った[3]。馬琴によれば、「著作堂」などが雅号である[3]。馬琴の意識では「馬琴先生」と呼ばれることについてもおかしいという[4]。戯号に「先生」をつけるのは的外れであり、敬称するならば戯号以外の号を用いるべきという意識からである[4]
  3. ^ 馬琴によれば『大明一統志』にも見えるという[7]
  4. ^ 十訓抄』の編者については諸説あるが、馬琴は菅原為長と記している[7]
  5. ^ 「才非馬卿弾琴未能」。馬卿とは司馬相如のこと。
  6. ^ 作家デビュー作『尽用而二分狂言』の主人公の名は「馬きん」[8]であった。
  7. ^ 気を利かせて無いものを書き添えれば蛇足、画稿通りならば働きがないと言われ[22]、『八犬伝』の画工を務めた柳川重信(北斎の門人)はしばしば馬琴に罵倒されたようである[20]
  8. ^ この時の桂窓はいまだ招かれざる客であったという解釈(木村三四吾)[33]:18と、同一人物と五度も対面を許すのは馬琴としては破格の待遇であり、桂窓を相当気に入ったとする解釈(服部仁)[33]:18がある。
  9. ^ 当時馬琴が執筆中の『開巻驚奇侠客伝』で、南朝方の主人公を助ける「善玉」として描かれるべき伊勢国司(北畠満雅)を別人(北畠親能)と同一視し、さらにその親能を暗君として描くという、勧善懲悪を宗とする馬琴としては致命的な過ち。馬琴は作中で弁解を行うこととなった[33]:17

出典

  1. ^ 杉本(1977)
  2. ^ a b 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻pp.332-333
  3. ^ a b 徳田武校注『近世物之本江戸作者部類』p.278
  4. ^ a b 徳田武校注『近世物之本江戸作者部類』p.254
  5. ^ 「八犬伝」を読む-文学史上の位置づけ”. 高木元. 2019年6月5日閲覧。
  6. ^ a b 小池藤五郎「解説」『南総里見八犬伝』岩波文庫版7巻p.x。
  7. ^ a b c 「八犬伝第八輯自序」、岩波文庫版『南総里見八犬伝』第4巻p.249.
  8. ^ a b c 徳田武校注『近世物之本江戸作者部類』p.359 の注
  9. ^ 高木元. “書評 播本眞一著『八犬伝・馬琴研究』(完全版)”. 2020年2月2日閲覧。
  10. ^ 『吾仏乃記』
  11. ^ 麻生磯次「滝沢馬琴」P34(吉川弘文館) 1959年
  12. ^ 麻生(1959)、p.187
  13. ^ 麻生(1959)、p.187
  14. ^ 麻生(1959)、p.187
  15. ^ 「八犬伝の作者と日常生活」真山青果 『名文鑑賞読本. 大正時代』 (厚生閣, 1937)
  16. ^ 徳田武「解説」、岩波文庫版『作者部類』p.400
  17. ^ 徳田武「解説」、岩波文庫版『作者部類』pp.400-401
  18. ^ 岩波文庫版『作者部類』p.57
  19. ^ 『苅萱後傳玉櫛笥』の馬琴自序。
  20. ^ a b c d 小池藤五郎「解説」『南総里見八犬伝』岩波文庫版9巻p.xi。
  21. ^ 高木元. “読本に於ける挿絵の位相”. 2016年10月10日閲覧。
  22. ^ a b 小池藤五郎「解説」『南総里見八犬伝』岩波文庫版9巻p.x。
  23. ^ 殿村篠斎宛馬琴書簡(天保11年8月、代筆)。
  24. ^ 鈴木重三 「馬琴読本の挿絵と画家─北斎との問題など」(『鑑賞日本古典文学 第三十五巻 秋成・馬琴』 角川書店、1977年2月。後に同『絵本と浮世絵』 美術出版社、1979年3月31日、pp.161-174)。
  25. ^ 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻p.320。
  26. ^ 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻p.320。
  27. ^ a b 小池藤五郎「解説」『南総里見八犬伝』岩波文庫版10巻p.vii。
  28. ^ 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻p.337。
  29. ^ a b c d e f g h 古典への招待 【第84回:馬琴と渡辺崋山】”. ジャパンナレッジ. 小学館. 2016年10月9日閲覧。『新編日本古典文学全集 84 近世説美少年録 2』の解説の再録。校注者は徳田武。
  30. ^ a b 杉本苑子. “滝沢馬琴”. 朝日日本歴史人物事典. 2016年10月9日閲覧。
  31. ^ 高田衛. “木村黙老”. 世界大百科事典 第2版. 2016年10月9日閲覧。
  32. ^ 徳田武「解説」、岩波文庫版『作者部類』pp.381-392
  33. ^ a b c d e f g h i j 菱岡憲司「馬琴と小津桂窓の交流」『近世文藝』第90巻、2009年、 16-29頁、 doi:10.20815/kinseibungei.90.0_162020年2月2日閲覧。
  34. ^ 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻p.319。
  35. ^ 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻p.319。
  36. ^ 小津桂窓”. 国立国会図書館. 2016年10月9日閲覧。
  37. ^ 『南総里見八犬伝』「回外剰筆」、岩波文庫版10巻p.337。
  38. ^ 日本の沙翁 イーストレイキ博士馬琴を大いに持ち上げる『新聞集成明治編年史. 第七卷』 (林泉社, 1940) p76





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