春秋
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テキストと注釈
『春秋』という書物は単独では現存していない。一般に『春秋』(春秋経)と呼ばれているものは、戦国から前漢にかけて製作された「伝」と呼ばれる注釈書に包括されて伝えられたものである。現存している伝は『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』の3つであり、あわせて春秋三伝(しゅんじゅうさんでん)と呼ばれる。
この三伝が伝えるそれぞれの『春秋』には若干の異同が見られる。扱う年代も『公羊伝』『穀梁伝』は哀公十四年春(獲麟)までであるのに対して、『左氏伝』の春秋は経が哀公十六年夏(孔子卒)まで、伝が哀公二十七年まである。いずれの伝を選択するかによって主張が異なるため、歴代王朝で論争の的となった。とりわけ、漢代に起こる今文学と古文学の間の論争が顕著である。
春秋学
『春秋』は極めて簡潔な年表のような文体で書かれており、一見そこに特段の思想は入っていないかのように見える。
しかし後世、孔子の思想が本文の様々な所に隠されているとする見方が一般的になった(春秋の筆法)。例えば、「宋の子爵(襄公の事)が桓公の呼びかけに応じ会盟にやってきた。」というような文章がある。しかし実際は宋は公爵の国であった。これに対して後世の学者は「襄公は父の喪中にも拘らず会盟にやってきた。不孝であるので位を下げて書いたのだ。」と解釈している。
このような考え方によって、『春秋』から孔子の思想を読みとろうとする春秋学が起こった。それは実際には、『春秋』を素材にして自らの社会思想を展開する作業になる[1]。
前漢の武帝の時、公羊伝にもとづく春秋学を掲げた董仲舒が出て『春秋』を法家思想に変わる統治原理を示す書として顕彰した。その後、五経博士が設置され、『公羊伝』『穀梁伝』が学官に立てられていたが、新では劉歆が『左伝』を学官に立てた。後漢では左伝は学官に立てられず、もっぱら公羊学が行われたが、『左伝』に服虔が訓詁学に基づいて注をつくるなどして、やがて公羊学を圧倒した。これに対抗して公羊伝には何休が注をつけ『春秋公羊解詁』を作ったが、西晋の杜預が『春秋』経文と『左伝』とを一つにして注釈を施した『春秋経伝集解』を作り、以後、春秋学のスタンダードとなった。唐代には『春秋経伝集解』に対する孔穎達による疏の『春秋正義』が作られた。しかし、唐代以降、三伝(特に『左伝』)は『春秋』の注釈として否定的にとらえられるようになり、宋代になると三伝は排斥されて新注が作られた。
日本では明治時代に竹添進一郎によって『春秋経伝集解』を底本とし、清代の注釈を増補した『左氏会箋』が著された。
『春秋』の作者と成書年代
伝統儒学では『春秋』の成立に孔子が関わったとされる。ただし、歴史的にその解釈は一様ではない。
最初に孔子の『春秋』制作を唱えたのは孟子である。孟子は堯から現在に至るまでの治乱の歴史を述べ、周王朝の衰微による乱世を治めるために孔子が『春秋』を作り、その文は歴史であるけれども、そこに孔子の理想である義を示したという(ただし、この孟子の「作春秋」にもいろいろな解釈があり、「『春秋』を講説した」とする立場もある)。
前漢の司馬遷『史記』にも似たような記述があり、孔子が「魯の史記」(原「春秋」)を筆削して『春秋』を作ったという。このように前漢の春秋学ではもっぱら『春秋』から孔子の微言大義(微妙な言葉遣いの中に隠された大義)を探ろうとする『春秋公羊伝』に基づく公羊学が隆盛した。
しかし、後漢になると、孔子を周公の祖述者とする古文学が隆盛し、『春秋』には『春秋左氏伝』による解釈学が起こった。『春秋』を周公の伝統を受け継いだ魯の史官が書いた「魯の史記」そのものと見、孔子は「述べて作らず」でそれを祖述したとする見方が一般的になった。
唐代になると劉知幾の『史通』惑経を始めとして、『春秋』を経とすることを疑う主張も現れはじめた。北宋の王安石に至っては『春秋』を「断爛朝報」(ばらばらの官報)とし、その欠文は孔子の義が示されているようなものではなく、単なる不備だと見るようになった。一方で、春秋胡氏伝のように孔子の義を見いだそうとする立場も続けられた。
清代になると常州学派がふたたび漢代公羊学を取りあげ、『春秋』を含めた六経を改制者としての孔子が創作したものとした。
中華民国初期になると、雑誌『古史弁』を主宰する顧頡剛ら疑古派が現れ、孔子と『春秋』との関係を完全に否定した。現在では著作という強い主張はないものの何らかの関係を認めるもの、まったく関係ないとするもの両者がある。
近代になると、歴史学や天文考古学の方法を取り入れた中国学者によって議論が展開される。1925年、飯島忠夫は『春秋』に記載される日食は紀元前300年前後に西洋から入ったサロス周期によって遡って組み込まれたものだと主張した[2]。これに対して、新城新蔵は『春秋』に記載される日食は、必ずしもサロス周期によっておらず西洋からの暦法の影響はないと飯島説を批判した[3]。
現代になると、斉藤国治・小沢賢二は『春秋』に記載される日食を数理的に検証し、歴代の中国史書の日食推算の的中率は70パーセントと低いのに対して魯の暦法は実際の観測記録に基づく日食であるため、日食総数37例のうち的中率は95パーセント(37例)であるとした[4]。
張培瑜も斉藤国治・小沢賢二と同様の見解で『春秋』に記載される日食は観測実録であると断定している[5]。
ちなみに、小嶋政雄は、中国の暦法が『毛詩』『尚書』などでは日月惑星を観察して日付を決める素朴な暦法しか見られないのに対し、『春秋』になると突然、高度な四分暦が使われているという点を指摘し、『春秋』は紀元前300年前後に西欧から入ったカリポス暦法によって遡って改装されたものだと述べた。だが、この見解は飯島説と本質的に同じで真新しさはない。加えて、小嶋は高度な四分暦が使われていると述べているが具体的な論拠はなく、また『毛詩』『尚書』には惑星に関する記述もない。
また近年では新説も提出されているが、諸説紛々として定論をみないのが現状である。
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