明智光秀 関連項目

明智光秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 22:17 UTC 版)

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名


注釈

  1. ^ 寛永年間(1624 - 1645年)の成立と推測される『当代記』の享年67歳説が、成立時期や史料の性格から最も信が置けるとみられるが、断定はできない[1]
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u ユリウス暦による。
  3. ^ 森乱丸の弟の家系である美作森家津山藩)家臣・木村昌明が記した史料。岡山大学附属図書館所蔵池田家文庫に収められている。
  4. ^ 『明智軍記』では没年が天正10年6月14日(1582年7月3日[注釈 2])の享年55。『武家聞伝記』[注釈 3] では享年70。『明智系図』(『続群書類従』第5輯下)では生年月日が享禄元年3月10日(1528年3月30日[注釈 2])、『明智一族宮城家相伝系図書』では享禄元年8月17日(1528年8月31日[注釈 2]))。これ以外の説には『細川家記』の大永6年(1526年)、また『当代記』の付記に記された67歳から逆算した永正13年(1516年)などもある[3]
  5. ^ 生年を1528年とするのは確かな根拠があるものではなく、光秀の年齢はわからないとする説もある[4]
  6. ^ 『明智物語』では天文18年(1549年)に光秀は元服前であったことが書かれている[5]
  7. ^ 徳永真一郎『明智光秀』(PHP研究所、1988年)363頁に言及あり。
  8. ^ 漢字で書けば金柑頭(「ん」は通例読まない)で、金柑のように禿げた頭をさす一般的な表現で、特に光秀を指すわけではない。また、金華頭ともあてられることもあり、いわゆる藤原病でもある。
  9. ^ 土岐定政の父。
  10. ^ 実妹とは考えにくく、妻の妹であろう[21]
  11. ^ 前室・側室があったとの説もあり。
  12. ^ 土岐氏は建武の新政から美濃国で200年余り守護を務め、数十家の支族を輩出した[24]
  13. ^ 始め頼久と名乗り、頼宣、頼連と改名し、出家して玄宣を名乗る。明応9年(1500年)以降に還俗して光高を名乗ったと見られる。玄宣(光高)の子は光重と奉公衆の政宣、政宣に子はなく、光重の子は光兼。玄宣の父は頼高、祖父は頼秀。
  14. ^ 他に、明知城(現・岐阜県恵那市明智町[34] や、山県市美山出身などの伝承もある。前者は遠山氏の築城した城でもあり、後者は20世紀を下る記録は無い[35]
  15. ^ a b 『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の天正8年(1580年)7-8月の旅行記、随行者が記述)天正8年正月24日(1580年2月9日[注釈 2])条に、阪本城の光秀へ南都修行のために筒井順慶への紹介状を称念寺僧を使者にして依頼し、知人として「惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人であったが、越前国朝倉義景を頼り、長崎称念寺門前に十年居住していた。そのため称念寺使者僧とは旧情が深くて坂本にしばらく留め置かれた」と記述[41]
  16. ^ 同時代の朝廷の武士との連絡役の役職者である立入宗継の『立入左京亮入道隆左記』にも、光秀を「美濃の住人とき(土岐)の随分衆也」と記述[42]
  17. ^ もともと斎藤利良の書であったものを、一族の花村利房が永禄12年(1569年)、花村利昌が文禄3年(1594年)、不明の人物が元和3年(1617年)に様々な資料から書き加え、最終的に伊東實臣が元文3年(1738年)に作製したものである
  18. ^ 「朝倉氏滅亡時の混乱の中で光秀と縁の深い、越前にいた竹という者の面倒を見て命を救った様子の感謝と服部七兵衛を百石加増した」内容。
  19. ^ 沼田清長、奉公衆を務めた沼田家の庶流の人物と考えられ、義昭の側近として仕えていた[50]
  20. ^ 前半に永禄6年(1563年)正月〜翌年2月頃の奉公衆、後半に永禄9年(1566年)8月〜翌年10月頃の奉公衆を列挙したもので、後半は足利義昭が編纂を命じたものという説がある[69]。後半部分は永禄10年2月から永禄11年5月までの間に追加して作成されたことが明らかにされた。さらに義昭はたどり着いた一乗谷で永禄11年4月に元服しており、その前後に作成された可能性が挙げられている[50]
  21. ^ 「一僕の身」は中世から江戸時代にかけての慣用句で、小身の「一人奉公」の侍を貶めた言い方である[78]
  22. ^ 『武家雲箋』所収一色藤長書状による[88]
  23. ^ 『年代記渉節』に公方衆として記載している[97]
  24. ^ 『明智家法』については長く福知山の御霊神社にしか伝えられておらず偽文書説が有力であったが、平成8年(1996年)に同じものが尊経閣文庫から発見されたことから真書説が有力となり、確定したと断定する記述もある[133]。しかし、その一方で『明智家法』に書かれた軍の編成が江戸時代のものに酷似していることから、山本博文堀新のように依然として偽文書説を採る研究者もおり、その根拠として「戦国期の主要な兵器である弓に関する編成の規定がない」「当時の軍法の基本的な規定である『(戦闘時の)抜け駆け禁止』や家臣の従者の統制に関する規定がない」「制定日が本能寺の変のちょうど1年前という不自然さ」などを挙げている。堀は光秀の名誉回復の動きがあり『明智軍記』が編纂された17世紀後半の制作の可能性を指摘している[134][135]
  25. ^ 茶室の床の間は貴人の座の象徴である[136]
  26. ^ 「御ツマキ」が、実妹か義妹かは、論が分かれる。また苗字ならなぜ「御」が付くのか、「妹御」の誤りか[138]、名前と間違えたのか、などの疑問も言われる [139]
  27. ^ 『兼見卿記』天正6年(1578年)6月14日、信長祇園会見物の日に「妻木所」へ「台の物、肴色々・2つの瓶を使者に持ち遣わした」。天正7年4月18日条に、「妻木惟向州(光秀)妹が参詣するときの生理事のことを、書状で尋ねてきたので回答した」。また、同年9月25日条には「惟任姉妻木が在京の時に双瓶と食物を籠に入れて持参したが他の用で不在で「女房館」へ渡し帰る」とある[140]。さらに『言経卿記』天正7年5月2日条で「父言継の死去に伴う信長への挨拶の際に近所の女房衆のツマキ・小比丘尼・御ヤヽへ帯2本を進物する」。
  28. ^ 妹がもしも妻木なら、光秀の本姓も土岐明智でなく土岐妻木であった可能性がある[138]。妻木家から明智家に養子入りした仮説もありうる[139]
  29. ^ 『惟任謀反(退治)記』という史料によると、斎藤利三ら重臣が本能寺の宿所を取り巻いた際、光秀は途中で控えたと記されていたり、文献『乙夜之書物』によると、「斎藤利三と、光秀重臣の明智秀満が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽に控えていた」と記されていたりと、攻撃に参加せず後方に控えていた説もあるが、実際に光秀が重臣らとともに本能寺の攻撃に加わっていたのか、あるいは後方に控えていたのかは、明確にまだわかっていない。
  30. ^ 利治は病で加治田城において静養していると考えていたようである。
  31. ^ 「班久勇武記するに遑あらず且諸記に明らけし、終に忠志を全ふして天正十壬午六月二日未刻、京師二条城中において潔く討死して、君恩を泉下に報じ、武名を日域に輝かせり」
  32. ^ 実弟・山岡景猶が光秀の寄騎近江衆の一員であった。
  33. ^ 場所については、小栗栖あるいは本経寺付近の竹薮、または醍醐か山科と当時の各日記でも情報が分かれている。
  34. ^ 8日浅野長政宛て秀吉書状でも「明智め山科の藪の中へ逃れ入り、百姓に首をひろわれ申し候」としている(『浅野家文書』)[153]
  35. ^ 亀岡市は亀山城の城下町。伊勢亀山との混同を避けるため、明治2年(1869年)に改称した。
  36. ^ 「明智が信長を殺した頃、津の国の殿たちや主だった武将らは毛利との戦いに出陣していたから、同国の諸城の占領をすぐに命じなかったのは、明智が非常に盲目であったからで、彼の滅亡の発端であった。それらの諸城は、信長の命令によってほとんど壊された状態にあり、しかも兵士がいなかったので、500名あまりの兵をもって、人質を奪い、彼らを入城せしめることは、彼にとって容易な業だったはずである」「明智は勘違いして、(高山)右近殿は中国から帰って来れば自分の味方になるに違いないと考えていたからである。そこで彼はジュスタ(右近の妻)に対して、心配するには及ばない、城はあなたのものだ、と伝えさせた。高槻の人たちは、彼に美辞麗句をもって答えた。それは時宜に処した偽りのものであったが、明智はそれを聞いて無上に喜び、人質を要求しようともせず、また同様の目的で、我々(イエズス会員)に手出しすることもなかった。しかもジュストが敵になった後においてさえ、その態度は変わらなかった。彼は、信長がかつて荒木(村重)に対して行ったことを知っていたし、そのようなことを彼はなすことができ、高槻の人々をなんら苦労しないで捕らえ得たはずであった。彼の都地方の全キリシタンが明智が死ぬまで抱いていた最大の苦悩と心配の一つは、もしかすると、明智は、我々を人質として捕らえはしまいかということであった」[163]
  37. ^ この系図は江戸時代の物で、しかも美濃多羅(現・岐阜県大垣市)が、まったく明智に縁が無い土地で、しかもこの系図の人物は研究が進んでいるが「明智」の土地を伝領した形跡がなく、信用できないとの指摘がある[174]
  38. ^ 江戸時代に起きた「越後騒動」で自害した小栗美作の辞世の偈「五十余年夢 覚来帰一元 載籤離弦時 清響包乾坤」を真似た偽作との説もある。
  39. ^ 天野信景の随筆集。元禄元年(1688年)刊。
  40. ^ 土岐琴川著、宮部書房、大正4年(1915年)。
  41. ^ 支援を求める内容ではなく、「光秀は信長の上洛の日程をあらかじめ把握していた」と読み解くことができる、すなわち突発的な襲撃ではない、と推測することもできる、そのような史料である。また、この数日後に同じ使者が美濃の西尾氏に送られている。この距離の移動は現実的ではないため、どちらかの書状が日付に誤り、もしくは偽文書である可能性がある。
  42. ^ 『フロイス日本史』およびフロイスの書簡には「信長は酒は飲まない」と記されている事や、この逸話を記している『柏崎物語』では本能寺l変の1ヶ月前の出来事としており、柴田勝家が同席している描写があるのだが、当時、勝家は北陸前線で釘付けの状態であり、酒宴に参加できる状態ではなかった。こうした事などから、疑問視する声もある。(二木謙一など)
  43. ^ 前の話は『絵本太功記』などによる創作とされる。
  44. ^ 光秀の讒言であったとの説がある[190]
  45. ^ この説には信長の大艦隊による海外進出計画も根拠として用いられる。
  46. ^ 内側の花が桔梗で明智光秀を表していると解釈して、光秀=天海説の根拠の一つとされることがある。ただし、桔梗紋の花弁と木瓜紋等に用いられる唐花とは花弁先の尖り具合が異なり、随身像の紋は桔梗紋というよりは木瓜紋の唐花に近い。
  47. ^ 天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある[202]
  48. ^ 光秀の出身地である岐阜県可児市から天海の廟所がある日光の方向を向くと「後ろの正面」が日本で唯一明智光秀の肖像画を所蔵している本徳寺(元は現在の大阪府貝塚市鳥羽にあった海雲寺が、岸和田藩主岡部行隆の命で現地に移され、寺号も本徳寺と改められた。)がある大阪府岸和田市貝塚市)になる[203]
  49. ^ 「牧」という名の典拠は不明[208]
  50. ^ 『明智軍記』では当初より光春の室としているが、『綿考輯録』では元は荒木村安の室で、荒木氏没落の際に離縁し、光春に再嫁したという。
  51. ^ 愛宕百韻」でも名前が見られ、実在の人物であると言われる。
  52. ^ 光秀滅亡の際に死亡したとされているが、岐阜県山県市に伝わる伝承では荒深氏を称し、荒深小五郎と名を変え生き延びた光秀とともにこの地に土着したという。
  53. ^ 一説に織田信長の三女・秀子と同一人物とされる。
  54. ^ 『明智軍記』における光慶と同人とする説もある。また安国寺蔵「土岐系図」では、進士晴舎(同系図では光秀の実兄)の後身とする。
  55. ^ 経歴は『明智軍記』における十次郎と、明智光春のものを混同している。
  56. ^ 『明智軍記』における十次郎の幼名。
  57. ^ 濃姫姉小路頼綱の室の生母。
  58. ^ 史料によれば土岐頼次の長男。頼次の玄孫である高家旗本土岐頼泰が泥酔傷害事件を起こし改易配流処分し断絶。
  59. ^ 複数の主君に仕えたが、山崎の合戦では明智方の将として福島正則の隊に捕縛された記録が残る。
  60. ^ シェイクスピアの『マクベス』を翻案とし、本邦初の歌舞伎新劇の合同公演にて上演。四幕七場。初演は1957年8月、東横ホール。出演は八世松本幸四郎一座と文学座
  61. ^ 池波正太郎のオリジナル脚本による映画化で、『絵本太功記』や『明智軍記』の数々のエピソードを組み入れて構成した大作。
  62. ^ 大河ドラマで初めて主人公として描かれた作品。制作決定までには関連自治体などによる誘致運動が行われていた[216][217][218][219]。番組の時代考証を担当した小和田哲男は「(長谷川博己演じる光秀により)光秀像が一新された」と発言した[220]
  63. ^ タイトルに『太閤記』となっているが、主人公は光秀。光秀と秀吉(間寛平)が幼馴染で、出世を重ねる秀吉に信長(オール巨人)が自らの地位を脅かされると危惧し、秀吉を夜襲する計画を立てる。最後は、事前にその計画を察知した光秀が秀吉を守るために信長を討つという新たな設定・展開に基づく喜劇。

出典

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  23. ^ 一次資料があり、2014年に熊本県で新たに発見された『針薬方』(しんやくほう)という医学書に「明智十兵衛(光秀)」の名があり、そこで解説されているセイソ散が「越州朝倉家之薬」つまり朝倉家の傷薬であると書いてあり、医学書の奥書には「明智十兵衛(光秀)が近江国高嶋郡の田中城(滋賀県高島市)に籠城したときの医薬の秘伝をまとめたもの」と明記されている。[1]
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