旭國斗雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/28 14:05 UTC 版)
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基礎情報 | ||||
四股名 | 旭國 武雄→旭國 斗雄 | |||
本名 | 太田 武雄 | |||
愛称 | ピラニア[2]、相撲博士[2] | |||
生年月日 | 1947年4月25日(76歳) | |||
出身 | 北海道上川郡愛別町 | |||
身長 | 174cm | |||
体重 | 118kg | |||
BMI | 38.97 | |||
所属部屋 | 立浪部屋 | |||
得意技 | 右四つ、寄り、下手投げ、とったり | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 東大関 | |||
生涯戦歴 | 635勝479敗57休(98場所) | |||
幕内戦歴 | 418勝330敗57休(54場所) | |||
優勝 |
十両優勝1回 幕下優勝1回 | |||
賞 |
敢闘賞1回 技能賞6回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1963年7月場所[1] | |||
入幕 | 1969年7月場所[1] | |||
引退 | 1979年9月場所[1] | |||
引退後 | 大島部屋師匠 | |||
備考 | ||||
金星2個(北の富士1個、琴櫻1個) | ||||
2014年3月19日現在 |
小柄だが闘志溢れる取り口で「ピラニア」の異名を持つ一方、理路整然とした取り口の分析談から「相撲博士」の異名でも知られていた[3]。引退後は長く年寄・大島として大島部屋を経営し、日本相撲協会の理事として巡業部長も務めた[1]。
- ^ a b c d e f g h i j ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p23
- ^ a b 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
- ^ 相撲博士 土俵に別れ 旭国、故障に勝てず引退『朝日新聞』1979年(昭和54年)9月19日夕刊 3版 14面
- ^ a b c d 『大相撲ジャーナル』2017年6月号109頁
- ^ a b ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p13
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p48
- ^ 『相撲』2012年5月号67頁には「北海道の母親が送ってくれた熊笹を煎じて飲んだおかげで調子が良くなり、引退後も症状が出ていない。大島部屋の関取衆もよく飲んでいるみたいだ。」と膵炎の治療についてのエピソードが記述されている。
- ^ 『相撲』2012年8月号
- ^ 大相撲酒豪番付2014年東銀座場所 時事ドットコム
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p46
- ^ 中日新聞社『土俵一途に 心に残る名力士たち』心に残る大関列伝・魁傑)
- ^ 当時、角界にモンゴル出身者が一人もいなかったため、大島のスカウトは角界で初めての試みであった。
- ^ 毎日新聞2017年4月4日 東京朝刊
- ^ 1950年代まで存在した、現役を続けたまま部屋を経営する二枚鑑札制度(プロ野球の選手兼任監督に当たる制度)は現在認められていないため、部屋を経営するには現役を引退する必要がある。
- ^ 旭天鵬が大島親方定年場所に気合 日刊スポーツ 2012年3月4日閲覧
- ^ 親方定年で大島部屋力士が友綱へ転属 日刊スポーツ 2012年3月25日閲覧
- ^ “旭天鵬 初優勝に「頭が真っ白になった」”. スポーツニッポン. (2012年5月20日) 2012年5月20日閲覧。
- ^ 結果は、貴ノ花が寄り切りで旭國に勝利している。
- ^ ベースボール・マガジン社刊 『相撲』 創業70周年特別企画シリーズ②(別冊師走号、2016年)82ページから83ページ
- ^ サントリー純生CM【麒麟児・加山雄三・旭國】
- ^ 急性胆嚢炎により13日目から途中休場
- ^ 慢性膵臓炎により初日不戦敗
- ^ 慢性再発生膵臓炎により3日目から途中休場
- ^ 膵臓炎により初日から休場、10日目から出場
- ^ 輪島と優勝決定戦
- ^ 頸部椎間板損傷・膵臓炎により3日目から途中休場
- ^ a b c 角番 (全3回)
- ^ 頸椎捻挫により9日目から途中休場
- ^ 右肩関節挫傷により8日目から途中休場
- ^ 『ACC CM年鑑'79』(全日本CM協議会編集、誠文堂新光社、1979年 27頁、68頁)
固有名詞の分類
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