日高信六郎 日高信六郎の概要

日高信六郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/04 00:30 UTC 版)

経歴

生い立ち

日本郵船社員であり、後に若松築港会社(後の若築建設)支配人を務めた高橋達の次男として、横浜市に生まれる。6歳の時、祖母の実家である福岡市の日高家の養子となる。福岡県立中学修猷館[1]在学中に、九州の山々を一人で登山することを楽しみ、日本山岳会に入会。1915年第一高等学校英法科を首席で卒業し[2]、1919年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業[3]

外務省

1919年高等試験外交科試験に合格し、外務省に入省。1920年フランス大使館に配属され、1921年1月ユングフラウに登頂し、同年8月モンブランの日本人初登頂を成し遂げる。その後、スウェーデン公使館、1924年亜細亜局第一課に配属され、1927年国際連盟事務局事務官としてパリに在勤。

1937年4月南京の在華大使館参事官となり、盧溝橋事件に際しては、外務大臣広田弘毅の要請により、その不拡大のため国民政府外交部長の王寵恵との和平交渉を行う。その後、第二次上海事変に遭遇している。1938年3月上海総領事、同年興亜院経済部長、1940年在華大使館参事官となり、特派全権大使阿部信行の随員として、日華基本条約締結交渉に参与。その後、1941年駐華特命全権公使も兼務した。

イタリア大使

第二次世界大戦中の1942年10月駐イタリア大使に任命される。1943年7月には、失脚する直前のベニート・ムッソリーニと会談しており、ムッソリーニと最後に会った外交官とされている。

なお日本はイタリア社会共和国(サロ共和国)を承認したため、イタリア降伏後もイタリア社会共和国大使としての業務を継続したが、連合軍の接近により、1943年9月にはローマからヴェネツィアに大使館を移している。この際に日高は未来派詩人のフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティを保護し、マリネッティの最後の詩の一つは日高に捧げられたものであった[4]。マリネッティは日本軍飛行兵を讃えた「飛行詩人」という仏語詩も残している[4]

しかし更に連合軍が迫り、スイスへ逃亡を試みるも、スイスが入国を拒否したため伊瑞国境付近に進軍してきたアメリカ軍に捕らえられる。

大戦後

戦後アメリカを経由し帰国後は、公職追放のため外務省を退官し、実業界に移り民間企業の社長となる。1951年に公職追放が解かれると外務省に復帰し、1955年には外務省研修所長を務め、1959年退官。1958年10月日本山岳会会長に就任し、その後、日本国際連合協会常務理事、同副会長などを歴任する。

栄典

家族[6]

  • 妻  日高澄子
  • 長男 日高達太郎
  • 長女 日高久子

著書

共編著

翻訳

  • ヂュゼッペ・マッチィニ『人間の義務 労働者の反省』国際出版 1948
  • ギド・レイ『アルプスの黎明』世界山岳全集 朋文堂 1960

  1. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員9頁
  2. ^ 『第一高等学校一覧(自昭和16年至昭和17年)(附録)』(第一高等学校編、1941年)172頁
  3. ^ 『東京帝国大学一覧附録』[大正8年度](東京帝国大学、1920年)71頁
  4. ^ a b 『ムッソリーニ――イタリア人の物語』筑摩書房、2017年、373頁。 
  5. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  6. ^ 『家の光』、産業組合中央会、1937年10月1日、p90-91


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