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日蓮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 09:36 UTC 版)

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注釈

  1. ^ (宮崎英修 1978, p. 7)には、「その誕生日の2月16日については自ら記すところではないが、『本門宗要抄』の下巻と、この書と大体同時代の成立と思われる日道の『御伝土代』に誕生を2月16日と記している」とある(但し、漢数字は算用数字に改めた)。なお、『本門宗要抄』には偽書説があるが、それについては(宮崎英修 1978, p. 7)で「日蓮の事蹟・生涯についてはおそらく日蓮の直弟たちの間の周知のこと、またその伝承されていたことがつづられたもので、この両書は日蓮宗の初期の伝承を伝える珍重すべきものである。したがって2月16日の誕生は真を伝えているとみて良い。」としている。
  2. ^ ユリウス暦では1222年3月30日 - 1282年11月14日グレゴリオ暦に換算すると1222年4月6日 - 1282年11月21日。グレゴリオ暦の施行は1582年で日蓮はそれ以前に亡くなっているが、日蓮宗諸派では日蓮の事跡をグレゴリオ暦換算の日付で祝うため、グレゴリオ暦の日付を併記している。なお、換算は【換暦】暦変換ツールによる。
  3. ^ 後に十三宗のひとつとなる。
  4. ^ 御成敗式目 第十二条  一、悪口咎の事    右、闘殺の基(もとひ)は悪口より起る。その重き者は流罪に処せされ、その軽き者は召し籠めらるべきなり。問注(=裁判)の時悪口を吐けば、則ち論所 (=争点の領地)を敵人に付けらるべし。また論所の事、その理無き者は、他の所領を没収せらるべし。もし所帯なき者は、流罪に処せられるべきなり。 (惡口咎事) 右鬪殺之基起自惡口、其重者被處流罪、其輕者可被召籠也、問注之時吐惡口、則可被付論所於敵人、又論所事無其理者、可被沒收他所領、若無所帶者、可處流罪 也
  5. ^ 本尊問答抄「生年十二、同じき郷の内、清澄寺と申す山にまかり登り住しき」
  6. ^ 報恩抄「各々二人は日蓮が幼少の師匠にておわします」
  7. ^ 破良観御書「幼少の時より学文に心をかけし上、大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て、日本第一の智者となし給え。十二のとしよりこの願を立つ」
  8. ^ 報恩抄「我、八宗十宗に随わじ」
  9. ^ 清澄寺大衆中「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給わりしことありき。『日本第一の智者となし給え』と申せしことを不便とや思しめしけん、明星の如くなる大宝珠を給びて右の袖にうけとり候いし故に、一切経を見候いしかば、八宗並びに一切経の勝劣ほぼこれを知りぬ」、善無畏三蔵抄「幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云わく『日本第一の智者となし給え』と云々。虚空蔵菩薩、眼前に高僧とならせ給いて、明星の如くなる智慧の宝珠を授けさせ給いき。そのしるしにや、日本国の八宗並びに禅宗・念仏宗等の大綱、ほぼ伺い侍りぬ」
  10. ^ 妙法比丘尼御返事「鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々、あらあら習い回り候いしほどに」、破良観等御書「その後、叡山・園城・高野・京中・田舎等、処々に修行して自他宗の法門をならいしかども」
  11. ^ 清澄寺大衆中「禅宗・浄土宗なんどと申すは、またいうばかりなき僻見の者なり。これを申さば必ず日蓮が命と成るべしと存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩をほうぜんがために建長五年四月二十八日、安房国・東条郷・清澄寺・道善の房・持仏堂の南面にして、浄円房と申す者、並びに少々の大衆にこれを申しはじめて、その後二十余年が間、退転なく申す」)、聖人御難事「去ぬる建長五年[太歳癸丑]四月二十八日に安房国長狭郡の内、東条郷、今は郡なり。天照太神の御くりや、右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。この郡の内、清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時にこの法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年[太歳己卯]なり」
  12. ^ 上野殿御返事「この南無妙法蓮華経に余事をまじえば、ゆゆしきひが事なり」
  13. ^ 報恩抄「各々二人は日蓮が幼少の師匠にておはします。勤操僧正・行表僧正の伝教大師の御師たりしがかへりて御弟子とならせ給いしがごとし。日蓮が景信にあだまれて清澄山を出でしに、かくしおきてしのび出でられたりしは天下第一の法華経の奉公なり。後生は疑いおぼすべからず」
  14. ^ 「世皆正に背き、人ことごとく悪に帰す。故に善神は国を捨てて相去り、聖人は所を辞して還りたまわず。これをもって魔来たり鬼来たり、災い起こり難起こる」、「汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」
  15. ^ 豊臣義俊『法華霊場記』1686年。なおこの法難の月日については「弘長元年(1261年)5月12日」とする説もある[29]
  16. ^ 「法門のことは、さどにながされし已前の法門はただ仏の爾前の経とおぼしめせ」
  17. ^ 日興門流ではこのことを発迹顕本〈仮の姿を払って本地を顕すこと〉と称している[48]
  18. ^ 「夫れ一切衆生の尊敬すべき者三つあり。いわゆる主師親これなり。また習学すべき物三つあり。いわゆる儒外内これなり」
  19. ^ 「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
  20. ^ 「在世の本門と末法の始は一同に純円なり。但し彼は脱、此れは種なり。彼は一品二半、此れは但題目の五字なり」
  21. ^ 「去ぬる文永十一年[太歳甲戌]十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに、宗総馬尉逃げければ、百姓等は男をばあるいは殺し、あるいは生け取りにし、女をばあるいは取り集めて手をとおして船に結い付け、あるいは生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐によせてもまたかくの如し。船おしよせて有りけるには奉行入道豊前前司は逃げて落ちぬ。松浦党は数百人打たれ、あるいは生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども壱岐・対馬の如し」
  22. ^ 富木尼御前御返事「当時つくし(筑紫)へむかえば、とどまるめこ(妻子)、ゆくおとこ、はなるるときはかわ(皮)をはぐがごとく、かお(顔)とかおとをとりあわせ、目と目とをあわせてなげきしが、次第にはなれてゆいのはま(由比浜)・いなぶら(稲村)・こしごえ(腰越)・さかわ(酒匂)・はこねさか(箱根坂)、一日二日すぐるほどに、あゆみあゆみとおざかる。あゆみをかわ(川)も山もへだて、雲もへだつれば、うちそうものはなみだなり。ともなうものはなげきなり。いかにかなしかるらん。かくなげかんほどに、もうこ(蒙古)のつわもの(兵者)せめきたらば山か海もいけどりか、ふねの内か、かうらい(高麗)かにてうきめにあわん」
  23. ^ 「闘諍堅固の時、日本国の王臣と並びに万民等が、仏の御使いとして南無妙法蓮華経を流布せんとするを、あるいは罵詈し、あるいは悪口し、あるいは流罪し、あるいは打擲し、弟子・眷属等を種々の難にあわする人々、いかでか安穏にては候べき。(中略)蒙古のせめも、またかくのごとくなるべし」「建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」
  24. ^ 「いまにしもみよ、大蒙古国、数万艘の兵船をうかべて日本をせめば、上一人より下万民にいたるまで、一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて『南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経』と唱え、掌を合わせて『たすけ給え、日蓮の御房、日蓮の御房』とさけび候わんずるにや」「大蒙古を調伏せん事・真言師には仰せ付けらるべからず若し大事を真言師・調伏するならばいよいよいそいで此の国ほろぶべし」
  25. ^ 「かの白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内八万の国あり、その国々に八万の王あり、王々ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱うるがごとく、広宣流布せさせ給うべきなり」
  26. ^ 曾谷殿御返事「今年一百よ人の人を山中にやしなひて十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ」
  27. ^ 聖人御難事「彼のあつわらの愚癡の者ども、いゐはげましてをどす事なかれ」
  28. ^ 聖人御難事「仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其中の大難申す計りなし。先先に申すがごとし。余は二十七年なり」
  29. ^ 聖人等御返事「今月十五日[酉時]御文、同じき十七日[酉時]到来す。彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱え奉ると云々。ひとえに只事に非ず」。処刑の日づけについては異説もある。
  30. ^ 「今現証あるべし日本国と蒙古との合戦に一切の真言師の調伏を行ひ候へば日本かちて候ならば真言はいみじかりけりとおもひ候なん 但し承久の合戦にそこばくの真言師のいのり候しが調伏せられ…」(撰時抄)
  31. ^ 兵衛志殿御返事「去年の十二月の三十日よりはらのけの候いしが、春夏やむことなし。あきすぎて十月のころ、大事になりて候いしが、すこして平愈つかまつりて候えども、ややもすればおこり候」
  32. ^ 八幡造営事「たとい十に一、今年はすぎ候とも、一二をばいかでかすぎ候べき」
  33. ^ 上野殿母御前御返事「日蓮は所ろうのゆえに人々の御文の御返事も申さず候」
  34. ^ a b 寺伝による。
  35. ^ この書は、地震洪水飢饉疫病などの災害が起こる原因は、民衆や幕府が主に法然念仏をはじめとする邪法を信仰することにあるとし、仏教経典を根拠に、正法たる法華経を立てなければ自界叛逆難、他国侵逼難などの災いが起こると説かれている。
  36. ^ 刀が段々に折れるという怪異が発生し中止された、という伝説もあるが、日蓮は「種種御振舞御書」に、「江の島のかたより月のごとく光たる物まりのようにて、辰巳の方より戌亥の方へ光渡」り、その結果「太刀取・目くらみたおれ臥し・兵共おぢ怖れる」としている。
  37. ^ 日蓮正宗では、日興一人だけが後継者に定められたとしている。
  38. ^ 死去の際、大地が震動し晩秋から初冬にかけての時期にもかかわらずの花が咲いたと伝えられ、日蓮門下の諸派ではお会式の際に仏前に桜の造花を供える習わしとなっている。
  39. ^ 御義口伝「戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れなり」
  40. ^ 法華取要抄「問うて云く、如来滅後二千余年、竜樹・天親・天台・伝教の残したまえる所の秘法は何物ぞや。答えて云く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」
  41. ^ 曽谷入道殿許御書「大覚世尊以仏眼鑒知於末法 為令対治此逆謗二罪 留置於一大秘法」と「此四大菩薩釈尊成道之始不来寂滅道場之砌。如来入滅之終不至抜提河之邊。加之霊山八年之間進迹門序正之儀式不列文殊・弥勒等発起影向之諸聖衆。退本門流通之座席不交観音・妙音等発誓弘経之大士。但持此一大秘法隠居於本拠之後 仏滅後於正像二千年之間未一度出現」
  42. ^ 曾谷入道殿御返事「妙法蓮華経の五字をば当時の人人は名と計りと思へり。さにては候はず、体なり。体とは心にて候」
  43. ^ 法華経題目抄「一部・八巻・二十八品を受持・読誦し随喜・護持等するは広なり。方便品・寿量品等を受持し乃至護持するは略なり。ただ一四句偈乃至題目計りを唱えとなうる者を護持するは要なり。広略要の中には題目は要の内なり」
  44. ^ 「問所説要言之法者何物耶。答云夫釈尊初成道の初より四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立て、略開近顕遠を説せ給し涌出品まで、秘せさせ給実相証得の當初修行し給し處の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字也」
  45. ^ 「戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」
  46. ^ 教機時国抄「日本国の当世は、如来の滅後二千二百一十余年、後五百歳に当たって妙法蓮華経広宣流布の時刻なり。是れ時を知れるなり」
  47. ^ 教機時国抄「日本国は一向大乗の国なり。大乗の中にも法華経の国為る可きなり」
  48. ^ 教機時国抄「教法流布の先後とは、未だ仏法渡らざる国には未だ仏法を聴かざる者あり。既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり。必ず先に弘まれる法を知って後の法を弘むべし。先に小乗・権大乗弘らば後に必ず実大乗を弘むべし。先に実大乗弘らば後に小乗・権大乗を弘むべからず」
  49. ^ ユリウス暦1260年8月24日。グレゴリオ暦では1260年8月31日。【換暦】暦変換ツールによる。

出典

  1. ^ 日道 1983, p. 236-但し、外部リンクでは、コマ番号135
  2. ^ 1200年から1250年に起きた内乱: 1199年源頼朝死去、 1200年梶原景時の変、 1203年比企能員の変、 1204年 源頼家暗殺、 1205年牧氏の変、 1205年畠山重忠の乱、 1213年和田合戦、 1219年源実朝暗殺、 1221年承久の乱、 1246年宮騒動、 1247年宝治合戦
  3. ^ 1200年から1260年のモンゴル帝国の侵略年表: 1206年全モンゴル統一、 1211年金へ侵攻開始、 1218年西遼滅亡、 1227年西夏滅亡、 1233年大真国滅亡、 1234年金滅亡、 1235年南宋へ侵攻開始(1279年滅亡) 1240年ルーシ大公国滅亡、 1241年ワールシュタットの戦い 1247年高麗へ侵攻開始、 1258年アッパース朝滅亡、 1259年高麗服従
  4. ^ 日道「御伝土代」『富士宗学要集』第5巻1頁
  5. ^ 山中講一郎『日蓮伝再考(一)』平安出版 32頁
  6. ^ a b 「善無畏三蔵抄」
  7. ^ 「佐渡御勘気抄」
  8. ^ 「本尊問答抄」
  9. ^ 高木豊『増補改訂 日蓮――その行動と思想』太田出版 10頁
  10. ^ 「産湯相承事」
  11. ^ 日朝『元祖化導記』1478年
  12. ^ 「神国王御書」
  13. ^ a b 「報恩抄」
  14. ^ 日潮『本化別頭仏祖統紀』1730年
  15. ^ 「十住毘婆沙論尋出御書」、日興「原殿御返事」
  16. ^ 高木豊『増補改訂 日蓮――その思想と行動』31頁)
  17. ^ 山川智応『日蓮聖人研究』、浅井要麟『日蓮聖人教学の研究』
  18. ^ 高木豊『増補改訂 日蓮――その思想と行動』24頁、立正大学日蓮教学研究所『日蓮聖人遺文辞典 歴史篇』525頁
  19. ^ 1238年。真筆は金沢文庫に所蔵。
  20. ^ 1251年。真筆は中山法華経寺に所蔵
  21. ^ 高木豊『平安時代法華仏教史研究』平楽寺書店 433頁以下
  22. ^ 日省『本化別頭高祖伝』1720年
  23. ^ 日潮『本化別頭仏祖統紀』、『富士年表』
  24. ^ 『日蓮聖人遺文辞典 歴史篇』など
  25. ^ 『本化別頭仏祖統紀』など
  26. ^ 『吾妻鏡』
  27. ^ a b 「立正安国論奥書」
  28. ^ a b 日精「家中抄」
  29. ^ 高木豊「鎌倉名越の日蓮の周辺」『金沢文庫研究』272号
  30. ^ 「兵衛志殿御返事」、「妙法比丘尼御返事」
  31. ^ 『本化別頭仏祖統紀』、『法華霊場記』
  32. ^ 「報恩抄」、「聖人御難事」
  33. ^ 新倉善之「日蓮伝小考――『日蓮聖人註画讃』の成立とその系譜」、須田晴夫『日蓮の思想と生涯』鳥影社 137頁
  34. ^ 須田晴夫『日蓮の思想と生涯』鳥影社137頁~138頁
  35. ^ 「弁殿御消息」
  36. ^ 「可延定業書」、円明院日澄『日蓮上人註画讃』
  37. ^ 「南条兵衛七郎殿御書」、「聖人御難事」
  38. ^ 『本化別頭仏祖統紀』
  39. ^ 「星名五郎太郎殿御返事」
  40. ^ 『鎌倉遺文』第13巻9564号
  41. ^ 「建長寺道隆への御状」
  42. ^ 「頼基陳状」
  43. ^ 「行敏訴状御会通」
  44. ^ 「妙法比丘尼御返事」「報恩抄」
  45. ^ 種種御振舞御書
  46. ^ 高木豊『増補改訂 日蓮――その行動と思想』90頁
  47. ^ 「種種御振舞御書」「撰時抄」
  48. ^ 『日蓮正宗要義』151頁参照
  49. ^ a b c d 「種種御振舞御書」
  50. ^ 川添昭二『日蓮とその時代』山喜房仏書林 288頁
  51. ^ 「真言諸宗違目」
  52. ^ 「聖人御難事」、「種種御振舞御書」
  53. ^ 日道「御伝土代」、日亨『富士日興上人詳伝』32頁
  54. ^ 「下山御消息」「富木殿御書」
  55. ^ 「報恩抄送文」
  56. ^ 「下山御消息」
  57. ^ 「兵衛志殿御返事」(厳冬深山御書)
  58. ^ 新井孝重『戦争の日本史7 蒙古襲来』吉川弘文館
  59. ^ a b 日蓮宗宗務院『宗義大綱読本』85頁
  60. ^ 日蓮正宗宗務院『日蓮正宗要義』92頁、日寛「報恩抄文段」『日寛上人文段集』436頁
  61. ^ 「聖人等御返事」
  62. ^ 「竜泉寺申状」
  63. ^ 「富木殿女房尼御前御書」
  64. ^ 金原明彦『日蓮と本尊伝承』水声社 2007年
  65. ^ 網野善彦『蒙古襲来』小学館 1974年
  66. ^ 「曾谷二郎入道殿御返事」
  67. ^ 「小蒙古御書」
  68. ^ 「富城入道殿御返事」
  69. ^ 日精「家中抄」、日量「大石寺明細誌」
  70. ^ 「地引御書」、「富城入道殿御返事」
  71. ^ 宮崎英修「波木井殿御報『常陸の湯』について」『大崎学報』125・126合併号
  72. ^ 「波木井殿御報」
  73. ^ 『元祖化導記』、『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮聖人年譜』
  74. ^ 日興「宗祖御遷化記録」『富士宗学要集』第8巻2頁
  75. ^ ご臨終の間 本行寺 公式ウェブサイト
  76. ^ 日興「宗祖御遷化記録」「墓所可守番帳事」
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  80. ^ 日蓮宗事典刊行委員会 1981, p. 516.
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  82. ^ 宗旨建立750年慶祝記念出版委員会 2002, p. 179-但し、日興が弟子となり、伯耆房としたことのみ。
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  122. ^ a b 山田安栄 1891, pp. 11–12「〔按〕本書、徹手結舷ノ事。高祖遺文録王舎城ノ條ニハ(女ヲハ或いハ取集テ。手ヲトヲシテ船ニ結付。)太平記ニハ(掌ヲ連索シテ舷ニ貫ネタリ。)トアリ、索ヲ以テ手頭ト手頭ヲ連結シタルニ非スシテ。女虜ノ手掌ヲ穿傷シ。索ヲ貫キ舷端ニ結著シタルヲ謂フナリ。天智天皇二年紀ニ。(百濟王豐璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。)トアリ。以テ證スヘシ。北俗、人ヲ戮スルハ鷄豚ヲ屠ルヨリ易シ。殘酷脧削ノ事。往々又彼史乘ニ見ユ。又西洋書中ニモ。蠻方ノ風俗ヲ記シ。貫掌擒殺ノ事ヲ傳ルモノアリ。獷虜ノ習俗固リ恠ムニ足ラサルナリ。」






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