日米関係 経済的関係

日米関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 02:45 UTC 版)

経済的関係

貿易額

アメリカは1990年の時点において日本の輸出の31.5%、輸入の22.3%、そして海外における直接投資の45.9%を占める最大の貿易相手国であった。[要出典] 2004年の時点において、アメリカは日本の輸出の22.7%を受け取り、輸入の14%を供給した(現在は中国に追い抜かれて20.7%に減少している)。[要出典] アメリカから日本への輸出には原材料と工業製品の双方が含まれる。1990年の時点におけるアメリカからの輸入農産物は(アメリカの輸出統計によると85億ドル)、牛肉(15億ドル)、魚介類(180万ドル)、穀物(24億ドル)、大豆(88億ドル)からなる。工業製品の輸入は主として個人製品よりも機械と輸送機器のカテゴリーに属するものである。[要出典]輸送機器の分野では、日本はアメリカから33億ドルの航空機やその部品を輸入した(自動車やその部品はわずか18億ドルに過ぎない)。[要出典]

日本からアメリカへの輸出はほとんどすべて工業製品であった。[要出典]1990年、自動車の輸出は215億ドルに上り、単一のカテゴリーとしては他を引き離して最大であり、日本からアメリカへの輸出全体の24%を占めた。[要出典]さらに自動車部品の輸出は107億ドルに上った。他の主要なものはオフィス機器(コンピューターを含む)で、1990年は総額で86億ドル、通信機器(41億ドル)、機械(4億5100万ドル)が続いた。[要出典]

1960年代中盤から、貿易収支は日本の黒字が続いている。日本のデータによると、アメリカからの黒字は1970年に3億8000万ドルに成長し、1988年には480億ドル近くに上り、1990年にはやや下がっておよそ380億ドルであった。[要出典]アメリカの貿易に関するデータ(両国は輸入の輸送コストを含めているが輸出はそうでないためわずかながら異なっている)もまた1980年代の不均衡を示しており、1980年の日本の黒字は100億ドルであったのが、1987年には600億ドルとなり、1990年は不均衡がやや是正されて377億ドルに改善された。[要出典]

貿易摩擦

1985年の円高後の貿易収支における一般的な悪化ととても控えめな改善は緊張した経済的関係に大きな影響を与えた。[要出典]アメリカは1960年代の初頭から日本に対して市場を開放するよう圧力をかけていたが、1970年代と1980年代を通じてその圧力は激しさを増した。[要出典]

緊張は一般的な貿易の不均衡というよりは特定の産業における特定の問題で一層激しくなっていた。1950年代の繊維からはじまった日本のアメリカへの輸出はアメリカの産業界から反対の標的になった。[要出典]これらの不満は一般的にダンピング(自国よりも低い価格で販売したり、生産にかかったコストよりも低い価格で販売すること)のような不公正な取引方法を用いたり特許の侵害したりしているとの疑いからきていた。交渉の結果、日本はしばしばアメリカへの輸出を「自主的に」抑制することに合意した。そのような合意は1970年代後半におけるカラーテレビや1980年代における自動車など数多くの製品に適用された。[要出典]

1970年代と1980年代を通じて、アメリカの政権はそのような日本との経済問題において、問題ごとに話し合う方法を好んだ。[要出典]この方法は問題の部分的な解決しかもたらさなかった。しかし、その結果は否定的に大衆にひろがり、経済と安全保障の環境が変化していた時期にあって、両国に関係を再考させることになった。[要出典]アメリカの議会とメディアが日本を批判するレトリックを用いた特筆すべき事例として、1987年に明らかになった東芝がアメリカが開発した洗練された機械を違法にソ連に輸出した事件、報道によればモスクワがアメリカ軍の哨戒を回避するのに十分な静かな潜水艦を作ることができたという、と1989年のアメリカ議会の議論によって日米が航空自衛隊新しい戦闘機FS-Xを開発することで合意した件がある。[30][31]

1980年代、アメリカの企業が日本の市場に参入するためのいくつかの創造的なアプローチがあった。[要出典]1985年の市場重視型個別協議方式による交渉は、関連する4つの産業、林業、医薬品と医療機器、電機、通信機器とサービスにおける参入問題を解決した。[要出典]日本市場への参入問題は、1988年にアメリカにとって不公正な取引相手国を定め、これらの国々との交渉のために製品を特定する権利を認めた包括通商・競争力強化法が成立するきっかけになった。[要出典]1989年の春、この法律によって日本は不公正な取引相手国であると名指しされ、3つの分野、林業、通信機器とスーパーコンピュータ、が交渉のため選ばれた。この行動は1980年代の終わりにおいて続いていた日本市場への参入への不満の雰囲気をよく表していた。[要出典]それでもなお、日米の論争は日本にとって有利に解決した。[要出典]

同時に、アメリカは日本で製造された輸入品について抑制していた構造的な要素について幅広い対話を行う日米構造協議を主導した。[要出典]これらの対話は日本の大規模小売店舗法の問題や独占禁止法の強化、非効率的な農業を改善するための地価税や不動産価格の高騰の問題などを解決した。[要出典]日本はそれでもなお多くの権益においてさらなる経済活動を満足に行うことができた。[要出典]

半導体産業における摩擦

1980年代の終わりまでに、日本は半導体産業において世界の生産と貿易で支配的な地位を確立していた。特に、彼らはDRAMの世界市場を支配するようになっていた。たとえば、日本は80年代の終わりには1メガビットDRAMの世界市場の90%、また半導体機器の48%を日本が占めていると思われていた。1960年には600万ドル、1980年には20億ドルの輸出だったが、1988年の貿易データによれば、日本は120億ドル以上の半導体機器(と真空管)を輸出し、劇的な増加を示していた。しかしながら、1988年における半導体の輸入は全体で22億ドルに過ぎなかった。

日本の競争力の上昇と世界市場におけるアメリカ製品の市場占有率の低下は、不公正な取引を行っているという主張と相まって、半導体の問題は1980年代を通じてアメリカと日本の間で論争の議題となった。主張にはアメリカ市場においてダンピングが行われているという疑いと日本がアメリカ製品に対する作為的な輸入障壁を設けているというものが含まれていた。

1986年の交渉によって日本のDRAM輸出価格とアメリカ製品の日本市場における市場占有率(その時点で10%であったのが1991年には20%にまで上昇した)をともに引き上げることで合意に至った。アメリカは日本が合意を誠意をもって実行しなかったことに不満を持ち、報復として日本のアメリカへの輸出品3億ドル相当に対して100%の関税をかけた。DRAMの輸出価格が制裁を部分的に解除させるほど上昇していた証拠はあったが、他の者は日本におけるアメリカ製品の市場占有率の上昇を承諾するまで制裁を続けるべきであるという意見を持ち続けた。

この全体の話、特に日本においてアメリカ製の商品の市場占有率をどの程度受け入れることができるのかという疑問、はこの10年の終わりまで激しい論争の対象となり続けた。アメリカは日本の技術が優れたものであることを認め、日本がアメリカに対して優れており、日本はいまだにアメリカにおける価格競争力を維持することができたが、アメリカの日本への市場戦略は日本の国内企業のものほどうまくはなかった。

日米構造協議

1989年に新しい試みが加えられた。両国の貿易を制限していた国内の構造的な問題を扱うため、いわゆる日米構造協議と呼ばれる一連の対話が用意された。いくつかの他の対話を経て、1990年の4月と7月に日本の個人向け市場や土地の活用や公共事業への投資のような敏感な分野における主要な変化で合意に至った。アメリカは、財政赤字をもっと効果的に扱い、国内の貯蓄率を増やすことを誓約した。アメリカの支持者は日米構造協議が日米経済摩擦の基礎的な問題を解決した要因として見ている。懐疑論者はそれらが日米関係の重大な危機において、時間稼ぎやそれを回避する手段として用いられたと指摘している。1993年の夏、ビル・クリントン政権は日米関係を扱う枠組みとして日米構造協議を終わらせることを決断した。

直接投資

その他の国と同じように、アメリカに対する日本の直接投資は急速に拡大し、両国関係において重要な新しい局面を迎えた。このような投資の累計は、1980年の時点で87億ドルに上っていた。1990年までに、それは831億ドルにまで成長した。アメリカのデータは日本がアメリカに対する直接投資において第2位であることを示していた。それはイギリスの投資の約半分であり、オランダ・カナダ・西ドイツのそれよりも多かった。1980年代終盤のアメリカにおける日本の投資のほとんどは商業部門であり、アメリカに対する日本の輸出品の流通と販売の基盤に供給されていた。卸売と小売市場の流通部門は1990年の日本のアメリカに対する投資の32.2%を占め、製造部門は20.6%だった。1980年代には不動産に対する投資は一般的なものとなり、投資総額は1988年には152億ドルにまで増加し、アメリカへの直接投資全体の18.4%を占めた。

日米貿易交渉 (2018年-2019年)

2016年アメリカ合衆国大統領選挙を戦ったドナルド・トランプ大統領は、選挙戦の段階から各国との貿易障壁貿易摩擦の問題を取り上げており、日本に対しても貿易不均衡の是正を求めた。このことから2018年から2019年の間に日米貿易交渉が行われた[32]




注釈

  1. ^ ジョンソン=リード法は本来、日本人移民のみを排除した法律ではなかったが、東欧南欧アジアからの移民を厳しく制限、特にアジア出身者については移民を全面的に禁止する条項を設け、結果として、当時アジアからの移民の大部分を占めていた日系移民が排除されることとなったため、日本では「排日移民法」と呼ばれてきた。

出典

  1. ^ Obama: US will stand by longtime ally Japan
  2. ^ Rice says U.S. won't forget Japanese abductees
  3. ^ Asia Times Online
  4. ^ アーカイブされたコピー”. 2011年8月8日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年9月19日閲覧。
  5. ^ "Perry Ceremony Today; Japanese and U. S. Officials to Mark 100th Anniversary." New York Times. July 14, 1953;
  6. ^ a b c Jean S. Olton, "Robert Hewson Pruyn: Enjoy to Japan 1862-1865," Town of Colonie, New York (November 1990).
  7. ^ Treat, p. 193
  8. ^ "Hudson-Mohawk Genealogical and Family Memoirs: Pruyn". Schenectady County Public Library. Retrieved March 14, 2008.
  9. ^ Findling, p. 427
  10. ^ Treat, p. 194
  11. ^ "ARRIVAL OF HON. ROBERT H. PRUYN". The New York Times. December 14, 1865.
  12. ^ Shavit, p. 406
  13. ^ Stern, p. 159
  14. ^ Johnson & Howard, p. 424
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  16. ^ a b c d 臼井(1990)p.21
  17. ^ a b c 佐々木(2002)p.361
  18. ^ a b 臼井(1986)p.639
  19. ^ 『明治ニュース事典VIII』(1985)pp.606-609
  20. ^ Learn more about the history of the cherry blossoms here
  21. ^ 日米協会の歩み - 一般社団法人 日米協会 公式ホームページ - 2018年7月21日閲覧。
  22. ^ a b Pelz, Stephen E. Race to Pearl Harbor. Harvard University Press 1974
  23. ^ a b c d Maechling, Charles. Pearl Harbor: The First Energy War. History Today. Dec. 2000
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  25. ^ a b Maechling, Charles. Pearl Harbor: The First Energy War. History Today. December 2000
  26. ^ Maechling,Charles. Pearl Harbor: The First Energy War. History Today. Dec. 2000
  27. ^ Japan Wants to Change Agreement on Relocating U.S. Marine Base Ahead of Obama’s Upcoming Visit Archived 2009年10月18日, at the Wayback Machine.
  28. ^ Gates: 'No Alternatives' to US-Japan Security Accord
  29. ^ a b Washington Post, December 29, 2009, "U.S. Concerned About New Japanese Premier Hatoyama" http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/12/28/AR2009122802271.html?hpid%3Dtopnews&sub=AR
  30. ^ Packard, George R. The Coming US-Japan Crisis. Foreign Affairs. Retrieved 16-09-2011.
  31. ^ Mann, Jim. FSX Deal Becomes Test of U.S., Japan Relations. 06 March 1989. Los Angeles Times. Retrieved 16-09-2011.
  32. ^ 日米首脳会談”. 日本国外務省 (2018年4月18日). 2019年9月24日閲覧。
  33. ^ 五百旗頭 真[編] 「戦後日本外交史」第3版補訂版 有斐閣アルマ、2014年、第5章 「国際国家」の使命と苦悩 p.193
  34. ^ 五百旗頭 真[編] 「戦後日本外交史」第3版補訂版 有斐閣アルマ、2014年、第4章 自立的協調の模索 p.182
  35. ^ 日米安全保障共同宣言” (1996年4月17日). 2015年10月19日閲覧。
  36. ^ 外務省:新世紀の日米同盟” (2006年6月29日). 2015年10月19日閲覧。
  37. ^ 外務省:「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(日米安全保障条約)署名50周年に当たっての日米安全保障協議委員会の共同発表(仮訳)” (2010年1月19日). 2015年10月19日閲覧。
  38. ^ “オバマ大統領「尖閣は安保対象」明言”. 日本経済新聞. (2014年4月24日). http://www.nikkei.com/article/DGXNNS0010006_U4A420C1000000/ 2014年10月8日閲覧。 
  39. ^ 米国連邦議会上下両院合同会議における安倍総理大臣演説「希望の同盟へ」|外務省” (2015年4月30日). 2015年10月5日閲覧。
  40. ^ “自衛隊と米軍が平時から情報共有 運用開始”. NHKニュース. (2015年11月4日). http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151104/k10010293311000.html 2015年11月4日閲覧。 
  41. ^ “日米一体化、平時から=「同盟調整メカニズム」運用開始”. THE WALL STREET JOURNAL. (2015年11月3日). http://jp.wsj.com/articles/JJ11055571677339494086117045239453428628687 2015年11月4日閲覧。 


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