日本共産党第6回全国協議会 日本共産党第6回全国協議会の概要

日本共産党第6回全国協議会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/30 01:56 UTC 版)

六全協と同時に開催された日本共産党33周年記念式典

概要

この「六全協」で北京にいた徳田球一書記長が2年前の1953年に死亡していたことが発表され、第一書記に野坂参三、書記局員に紺野与次郎志田重男宮本顕治を選任した。従来の路線を極左軍事冒険主義として自己批判し、今日につづく先進国型平和革命路線に転換した[1][2]。従来の「51年綱領」は事実上の軍事革命路線であり、1952年以降の火炎瓶闘争はその実践であった[1][注釈 2]。日本共産党はこれにより、山村工作隊など武装闘争路線に完全に終止符を打った[1]志賀義雄、宮本顕治ら旧国際派は、この会議をもって主導権を奪還するが旧所感派についていた野坂を第一書記、1958年に議長に据えることで、「統一」を印象付けた[1][注釈 3]

この協議会で当初の「農村から都市部を包囲」という中国共産党型の暴力革命路線を放棄した日本共産党の当時の国会議員・地方議員の大部分は暴力路線を支持して暴力活動に参加した徳田派だったのにもかかわらず、暴力路線で日本国内でテロをしていたのを「党の一部」だとして責任を徳田球一にのみ押し付けたことは無責任だと批判されている[注釈 4]。また、日本共産党が戦後から再開した「武装闘争」路線を信奉する急進的な学生党員は新指導部への不信・不満を募らせ、のちの共産主義者同盟結成など新左翼過激派らの誕生へと向かう種がこの六全協によって蒔かれた。そのため、武装革命に賛同して戦後に日本で暴力行為を扇動・参加していた多数の日本共産党の党員はその後の新左翼誕生の責任を負うべきだ、と元党員からも批判されている[4]

「党活動の総括と当面の任務」においては、極左冒険主義の克服のみならず、セクト主義の反省にもとづく党の団結がうたわれ、民族解放、民主統一戦線のスローガンが打ち出された。「党の統一にかんする決議」においては、1950年に発生した分裂・抗争の責任が当時の指導部にあることが明らかにされた[注釈 5]。その後、第7回大会を準備する過程で、「六全協」自体が不正規の会議の流れをついでいることが確認され、第6回大会選出の中央委員会と「六全協」選出の役員との合同での拡大会議が開かれ、50年問題に関しての総括も、そこで行われた。1958年7月の第7回共産党大会では、51年綱領は廃棄され、宮本顕治が書記長に就任した[1]。新指導部のもとで、新しい綱領と明確な路線を確定するまでには、あと数年を要した。

1964年度上半期に芥川賞を受賞した柴田翔の小説『されどわれらが日々』は、「六全協」以後の左翼学生たちの敗北感を描いている。

脚注


注釈

  1. ^ 「六全協」の開催される2カ月前には、それまで在日朝鮮人運動を牽引してきた在日朝鮮統一民主戦線が解散し、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)が結成された[2]。在日朝鮮統一民主戦線は日本共産党と連携して合法・非合法の政治活動を展開した。非合法活動は祖国防衛隊が担当し、日本共産党の非合法組織(山村工作隊や中核自衛隊)と密接な協力関係にあった。「六全協」後、日本共産党に入党していた在日朝鮮人は一斉に党籍を離脱した[2]
  2. ^ 「51年綱領」は、1951年10月の日本共産党第5回全国協議会(「五全協」)採択の「日本共産党の当面の要求-新しい綱領」。
  3. ^ 六全協は、のちの「議会闘争を通じて幅広い国民の支持を得られる党」へと作り変える一つの契機となったが、この時点では「農村から都市を包囲する」というそれまでの中国革命方式の武装闘争方針を放棄したのであって、暴力革命路線全般を完全に放棄したわけではない。事実、六全協の中では、武装闘争を本格的に開始するきっかけとなった「51年綱領」について、"新しい綱領が採用されてから後に起こったいろいろのできごとと、党の経験は、綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している。わが党の基本方針は依然として新しい綱領にもとづいて、日本民族の独立と平和を愛する民主日本を実現するために、すべての国民を団結させてたたかうことである"などとして評価され、引き続き綱領として堅持されていた[3]
  4. ^ 山村工作隊などの活動に参加していた学生党員は、突然の路線転換に衝撃を受け、党を去った者も少なくない。あるいは、失意のうちに自殺した党員もいる。
  5. ^ 伊藤律の除名確認もここで決定された[1]

出典

  1. ^ a b c d e f g h 六全協』 - コトバンク
  2. ^ a b c 特定失踪者問題調査会特別調査班 (2022年2月1日). “小倉事件(日本における外事事件の歴史16)”. 調査会ニュース. 特定失踪者問題調査会. 2022年2月27日閲覧。
  3. ^ 『日本共産党用語事典』(2009)pp.8-10
  4. ^ 神山(1972)pp.140-141


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