日本共産党スパイ査問事件 日本共産党スパイ査問事件の概要

日本共産党スパイ査問事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/29 04:15 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

両者は「日本共産党にもぐりこんだ特別高等警察のスパイ」として査問とよばれるリンチにかけられたものだと裁判では認定されたが[2]、戦前の治安維持法の下で行われた裁判であったが、復権処置が行われる例外規定の『監禁致死、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反』に該当していた為、本来ならば復権処置は行われないはずだが、GHQから司法省に対し指示があり、超憲法的な特別な指示により、判決は無効となり資格回復の措置がとられた。

事件の概要

1933年、当時日本共産党中央常任委員であった宮本顕治袴田里見らが、当時の党中央委員大泉兼蔵小畑達夫にスパイ容疑があるとして査問処分を行うことを決定し、12月23日、二人を渋谷区内のアジトに誘い出した。 宮本らは針金等で手足を縛り、目隠しと猿轡をした上に押し入れ内に監禁した。秋笹正之輔逸見重雄らが二人に対して暴行を行ったため、小畑は24日、外傷性ショックにより死亡した。小畑の死体は床下に埋められた。

以上の概要が、当時の裁判で認定された結果である[2]

さらにその際、無許可で実包を込めた拳銃一丁を携帯したこと、また、別の党員大串雅美にスパイ容疑があるとして、赤坂区内のアジトに12月21日から22日までの間監禁したこともあわせて裁かれている。

当時の裁判の認定による経過

1933年、日本共産党中央委員会は特高警察による捜査によって壊滅的打撃を受けていたが、検挙をまぬがれた幹部で党中央を再建した。

当時、共産党はスパイを摘発する目的で、波多然・大沢武男といった党員に対して「査問」と称するリンチを行っていた。宮本によると、スパイを行った場合には、共産党規約により査問を受けることが予め承諾されていたという[1]。印刷局副主任であった荻野増治も査問にかけられ監禁されていたが、このままでは殺されると考え、逃走した。

12月20日の深夜、荻野増治は警視庁特別高等警察課に出頭、保護された。荻野の供述により、宮本らのアジトが割り出されることとなる。

12月23日、宮本らは小畑・大泉の両名を会合を開くと称して呼び出し、そのまま「査問」にはいった。翌12月24日付の『赤旗』(現『しんぶん赤旗』)には「中央委員小畑達夫大泉兼蔵の両名は、党撹乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する。」との党中央の声明が掲載された。警視庁は、この「極刑」という表現に注目、荻野と同様のリンチが両名に加えられ、場合によっては殺害されている可能性があるということで、捜査を開始した。

逸見重雄の供述によると、彼らに加えられた暴力行為は以下のようなものであったとされる。まず最初に大泉に対して棍棒で殴打するなどのリンチを加え気絶させた。その後小畑を引きずり出し、キリで股を突き刺したり、濃硫酸をかけるなどの凄惨な拷問を加えた。最後に薪割で小畑の頭部に一撃を加えた。そして大泉を引き出して小畑同様のリンチを加えた。大泉はこの拷問に耐え切れず気絶したが、宮本らは死亡したものと早合点しそのまま引き上げた。大泉はまもなく蘇生した[3]

この頃小畑が死亡する。裁判では小畑の死因は外傷性ショックであるとされた[1]。小畑の死体はアジトの床下に隠された。

一方、宮本らは大泉のハウスキーパーであった熊沢光子に対しても「査問」を行った。熊沢が「本当に大泉がスパイなら一緒に殺してくれ」と言ったところ、宮本らも良心が咎めたのか、直接手を下そうとはしなかった。以後大泉と彼女とは20日間にわたって監禁されることになった。その間、12月26日に宮本は逮捕された。宮本は黙秘し、査問に関する供述は行わなかった。

大泉と熊沢の二人は“自殺”を強要され、1934年1月14日が「執行日」となった。前日の13日は最後の晩餐ということで、特別に和菓子が振舞われ、「思想的に行き詰まったので自殺する」旨の“遺書”を書かされた。

ところが、翌1月15日になって警察の気配を感じたため「執行」は延期され、彼らは目黒区にある別のアジトに移された。そのアジトで、大泉は監視人に対して最後の抵抗を試みた。監視人は思わぬ反撃に逆上し大泉に拳銃を突きつけた。

ちょうどその頃、警視庁麻布鳥居坂警察署(現麻布警察署)の巡査が勤務を終え、目黒区の自宅に戻ったところ、近所の住人から「助けてくれえ!」という叫び声を聞いたとの話を聞き、現地に直行したところ、大泉が射殺されようとしている現場を目撃した。巡査は直ちに現場に踏み込み、拳銃を持っていた共産党員の女を逮捕した。大泉の供述により、小畑達夫の遺体が発見された。

事件後、1月17日の『赤旗』には「鉄拳で奴等を戦慄せしめよ」という表題の記事が掲載された。「日本プロレタリアート党の前衛我が日本共産党の破壊を企む支配階級の手先、最も憎むべき、党内に巣喰ふスパイが摘発された。我々一同は、スパイ大泉、小畑両名を、死刑に價することを認め、彼等を大衆的に断罪することを要求する。」という内容であった[4]

1935年(昭和10年)3月4日、この頃、袴田は、宮本などの幹部が次々逮捕される中で、唯一獄外にいた共産党最後の中央委員であったが、本郷での全協との街頭連絡の最中、逮捕される。この逮捕を報道した新聞は最後の大物と称した。

日本共産党による主張

日本共産党は公式に、当時の裁判で認定された被告人による小畑・大泉に対する暴行の事実を全て否定している。また大泉・小畑に対するスパイの嫌疑も、裁判の中で自ら特高のスパイであることを理由に無罪を主張していた[5]大泉のみならず、死亡した小畑も特高のスパイであったという見解である。宮本は、両者とも、取調べの過程で警察と連絡をもっていたことを告白したと公判の中で宮本は陳述している。

赤旗の表現については、宮本は公判の中で、こうした表現はあくまでも比喩的なもので、スパイに対しての最高の処分は本名を明らかにしての除名であると陳述している。

また、拳銃の所持は護身用であり、小畑の自由を拘束したのは「部下のことをいじめたりしてろくなことをせぬで党紀を乱すから、それは党の結束を維持する上においてやむを得ぬことであって、違法性は阻却される。」「ふろしきをかぶせたりして、こうやっているうちにおかしくなったから、ふろしきを取ってみたら死んでおった、そこでたまげて人工呼吸などをした」が生き返らなかったと、裁判で陳述している[1]

このため、小畑の死は外傷性のものでなく特異体質によるショック死[注釈 2]であったが、山県警部は宮本顕治に対して「これは共産党をデマる為に絶好の材料である。今度我々はこの材料を充分利用して、大々的に党から大衆を切り離す為にやる。」と告げたという[6]




注釈

  1. ^ 日本共産党リンチ殺人事件日共リンチ殺人事件スパイ査問事件スパイリンチ事件リンチ共産党事件などと呼ばれることがある。昭和51年10月5日の参議院予算委員会では呼び名について公明党小平芳平から質問があり、稻葉修法務大臣の回答により「共産党リンチ事件」として扱われた。質問者であった小平芳平も質問中は「共産党リンチ事件」の名称を使用している。当時総理であった三木武夫は、自民党内の総務会では「共産党リンチ殺人事件」と呼ばれていたとしている。一方、当時の共産党は「スパイ調査問題」の名称を用いた。また、衆議院会議録情報 第078回国会 法務委員会 第1号 昭和51年10月8日 安原美穂法務省刑事局長の答弁で宮本顕治らに係る治安維持法等被告事件と表現されており、単に治安維持法等被告事件とよばれる場合もある。
  2. ^ 宮本顕治「スパイ挑発との闘争-1933年の一記録-」(『月刊読売』1946年3月号「“赤色リンチ事件”の真相」に掲載され、その後『宮本顕治公判記録』に収録)では「小畑の死因を、最初の鑑定書は、脳震迫であるとしたが、事実、かれが暴れだした時、なにびとも脳震迫をひきおこすような打撃を加えていないのである。そうして再鑑定書は、脳震迫とみなすような重大な損傷は身体のどこにもないこと、むしろショック死(ショックの定義についてはショックを参照)と推定すべきであるとした。そして、裁判所もついにこの事件を殺人および殺人未遂事件として捏造することが不可能となった」としている。
  3. ^ 兵本達吉は『日本共産党の戦後秘史』において、当時は未必の故意の判例が確立されていなかったため、検察は宮本顕治を傷害致死罪でしか起訴できなかったという。現在の刑事裁判ならば、「極刑をもって断罪する。」という赤旗の声明からみても、未必の故意による殺人罪に問えるケースであったとしている
  4. ^ 日本共産党中央委員会幹部会委員長不破哲三は、2000年7月20日の「日本共産党創立78周年記念講演会 日本共産党の歴史と綱領を語る」において、復権証明書に「要するになかったことにしようということが書かれたわけであります。」と説明している

出典

  1. ^ a b c d e f 昭和51年1月30日、衆議院予算委員会稻葉修法務大臣答弁
  2. ^ a b c d e 昭和51年1月30日、衆議院予算委員会安原美穂政府委員答弁
  3. ^ 「日本共産党の研究」立花隆
  4. ^ 昭和51年10月1日 衆議院予算委員会
  5. ^ 立花隆『日本共産党の研究(二)』〈講談社文庫〉講談社、1983年、224頁、「大泉の主張の力点は、自分はスパイとして党活動をしたのだから、治安維持法違反に問われるべきではないというところにあった。」
  6. ^ 1940年4月18日公判・冒頭陳述。所収、「スパイ査問事件と復権問題の真実」『文化評論』1976年4月臨時増刊号。
  7. ^ 昭和51年10月5日、参議院予算委員会 稻葉修法務大臣答弁
  8. ^ a b c d e f 「スパイ査問事件と復権問題の真実」『文化評論』臨時増刊、1976年4月、新日本出版社、p.77
  9. ^ 中野文庫 - 大赦令
  10. ^ 中野文庫 - 政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件(昭和20年勅令第730号)
  11. ^ a b 昭和51年05月19日 衆議院法務委員会
  12. ^ 不破哲三日本共産党創立78周年記念講演会 日本共産党の歴史と綱領を語る2000年7月20日
  13. ^ 衆議院会議録情報 第077回国会 予算委員会 第3号 昭和51年1月30日 共産党 不破哲三の質問
  14. ^ 民社党教宣局『歴史を偽造する日本共産党―リンチ事件をめぐる9つの嘘』、1976年10月、pp.68-69
  15. ^ 『宮本顕治公判記録』新日本出版社 ISBN 4-406-00408-4
  16. ^ 1976年2月2日の成田知己委員長談話また、当時のしんぶん赤旗に一部を除いてほぼ全文掲載された。「資料日本社会党四十年史」 ASIN B000J6Q07M 所収
  17. ^ 『昨日の同志宮本顕治へ』 新潮社、1978年11月
  18. ^ 「日共リンチ殺人事件言論裁判 日共、判決目前でダウン 『宮本リンチ殺人事件』の事実認定恐れ取り下げる」思想新聞、1989年1月5日
  19. ^ 『日本共産党の七十年 党史年表』新日本出版社、1994年、p.254,p.353
  20. ^ 『日本共産党の七十年 下』新日本出版社、1994年、p.75
  21. ^ 第112回国会 予算委員会 第7号議事録
  22. ^ 『日本共産党の七十年 党史年表』新日本出版社、1994年、p.345


「日本共産党スパイ査問事件」の続きの解説一覧


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本共産党スパイ査問事件」の関連用語

日本共産党スパイ査問事件のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング



日本共産党スパイ査問事件のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日本共産党スパイ査問事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2019 Weblio RSS