日本の書道史
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奈良時代
元明天皇が都を平城京に定めてからの時代で、中国では中唐の時代にあたる。遣唐使をはじめ、唐との交通が盛んになり多くの中国文化が伝わった。特に聖武天皇の天平年間は奈良文化の最盛期であり、書道の発展が著しかった。この時代の書風は、六朝風の外に、晋唐の書風が書かれ、王羲之の書法が学ばれた。光明皇后による王羲之の『楽毅論』の臨書が有名で正倉院に現存する。なお『万葉集』では「羲之」や「大王」を「テシ」と読ませており、この時代、王羲之が手師すなわち能書の代名詞であったことが分かる。
写経の盛行
聖武天皇は仏教を尊信し、奈良の東大寺などを建立し、国家事業としての仏教興隆を図った。これに伴い写経が盛行し、写経所を設けて写経生を養成し、写経体が生まれるに至る。この時代の写経の遺品は東大寺戒壇院に伝来した『賢愚経』(けんぐきょう、伝聖武天皇宸翰)をはじめ数多く現存する。
書道教育
律令制度下の教育機関である大学寮に書博士という役職が設置され、のちに「書道」と呼ばれる学科が形成されたが、早い段階で衰退している。
この時代に書名のあった人物
この時代の筆跡
筆跡名 | 筆者 | 年代 | 書体、書風 | 現所在 |
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多胡碑 | 不明 | 711年 | 楷書、鄭道昭風 | 群馬県多野郡 |
長屋王発願大般若経(和銅経) | 6,7人の写経生 | 712年 | 楷書、隋風 | 太平寺、見性庵、常明寺、根津美術館ほか諸家分蔵 |
太安万侶墓誌 | 不明 | 723年 | 楷書 | 文化庁(奈良県立橿原考古学研究所保管) |
金井沢碑 | 不明 | 726年 | 隷書 | 群馬県高崎市 |
長屋王発願大般若経(神亀経) | 張上福 | 728年 | 楷書、初唐風 | 根津美術館、東京国立博物館など |
絵因果経 | 不明 | 729年 - 748年 | 楷書 | 東京芸術大学、上品蓮台寺、醍醐寺ほか |
小治田安万侶墓誌 | 不明 | 729年 | 楷書 | 東京国立博物館 |
雑集 | 聖武天皇 | 731年 | 楷書、褚遂良風・王羲之風 | 正倉院 |
聖武天皇勅願一切経 | 治部卿門部王 | 734年 | 楷書、唐風 | 檀王法林寺ほか |
賢愚経(大聖武) | 伝聖武天皇 | 740年以後 | 楷書、六朝風 | 東大寺ほか |
光明皇后発願一切経(五月一日願経) | 不明 | 740年 | 隋唐風 | 正倉院ほか |
紫紙金字金光明最勝王経(国分寺経) | 不明 | 741年 | 楷書 | 奈良国立博物館、高野山龍光院ほか |
楽毅論 | 光明皇后 | 744年 | 楷書、王羲之風(臨書) | 正倉院 |
杜家立成雑書要略 | 光明皇后 | 不詳 | 行書、王羲之風 | 正倉院 |
紺紙銀字華厳経(二月堂焼経) | 不明 | 745年ごろ | 楷書、初唐風 | 東大寺ほか |
韓藍花歌切 | 不明 | 751年ごろ | 行書(万葉仮名) | 正倉院 |
写経所食口帳断簡 | 不明 | 8世紀ごろ | 行書 | フォッグ美術館 |
東大寺献物帳 | 不明 | 756年 - 758年 | 楷書 | 正倉院 |
法隆寺献物帳 | 不明 | 756年 | 楷書 | 東京国立博物館 |
正倉院万葉仮名文書2通 | 不明 | 762年以前 | 行草(万葉仮名) | 正倉院 |
多賀城碑 | 不明 | 762年 | 楷書、六朝風 | 宮城県多賀城市 |
石川年足墓誌 | 不明 | 762年 | 楷書 | 個人蔵 |
称徳天皇勅願一切経(神護景雲経) | 不明 | 768年 | 楷書 | 正倉院ほか |
仏足跡歌碑 | 不明 | 770年ごろ | 楷書(万葉仮名) | 薬師寺 |
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多胡碑
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金井沢碑
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絵因果経
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賢愚経(大聖武)
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紫紙金字金光明最勝王経
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光明皇后・楽毅論
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韓藍花歌切
- ^ 東野治之 pp..190-203
- ^ 鈴木翠軒 p.90
- ^ 『千字文』は周興嗣(470年 - 521年)によって作られたものなので、285年に伝来したというのは矛盾する。
- ^ 大島正二『漢字伝来』P.5
- ^ 名児耶明(決定版 日本書道史) p.20
- ^ 大東文化大学 p.6
- ^ 鈴木晴彦 p.19
- ^ 伊藤滋 p.24
- ^ 二玄社書道辞典 p.229
- ^ 飯島春敬 p.280
- ^ 木村卜堂 p.4
- ^ 二玄社書道辞典 p.102
- ^ 六人部克典 p.21
- ^ 魚住和晃 pp..50-51
- ^ 書学書道史学会 p.276
- ^ 春名好重 pp..116-117
- ^ 伊藤滋 p.15
- ^ 森岡隆『図説 かなの成り立ち事典』P.190の要約
- ^ 「ン」を除くいろは47音に、濁音20音(ガ行・ザ行・ダ行・バ行)を加えて67音、ヤ行の「エ」(ye)で68音、またキ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロとその濁音ギ・ゲ・ゴ・ゾ・ド・ビ・ベの19音が2音に使い分けられていたので87音になる。
- ^ 『古事記』や『万葉集』巻第五では「モ」も2音に使い分けられており、これを含めると88音になる。
- ^ キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・ギ・ゲ・ゴ・ゾ・ド・ビ・ベ・(モ)の各音は2音に使い分けられていたが、今日、これら各音の使い分けを甲類・乙類と呼ぶ。
- ^ 奈良時代に87音あった音の数は、9世紀前半には70音(コ・ゴの乙類とヤ行の「エ」だけが残る)に、10世紀前半には68音(ヤ行の「エ」だけが残る)に減少し、そして10世紀後半には67音になった。
- ^ このうち各人が使用する字母は100字から200字ぐらいであった
- ^ 『手』とは文字の意
- ^ 江守 PP..121-122
- ^ 鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』P.140
- ^ a b 『六朝書道論』(井土霊山・中村不折共訳)の巻末付録「明治年代の書風」(日下部鳴鶴)の要約
- ^ はじめ書道展に対して東京府美術館は借館に同意しなかった。書を芸術とは認めなかったのである。豊道春海はこの館の寄贈者である佐藤慶太郎を訪ねて九州まで行って説得し、ついに美術館進出を果たした。
- ^ 1947年(昭和22年)豊道春海が請願し可決された。
- ^ 書2011 「西高東低」がもたらす課題 - 2011年5月5日付読売新聞朝刊13版25面。
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