日本の国旗
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国旗として扱われる以前の歴史
古代から中世
日本人の古代信仰として古神道に分類される原始宗教では自然崇拝・精霊崇拝を内包しており、特に農耕や漁撈において太陽を信仰の対象としてきた。皇祖神・天照大神は太陽神である。
弥生時代から古墳時代(大和時代)にかけて祭器として使われた内行花文鏡の模様は太陽の輝きをかたどったものと言われ、三種の神器の一つ八咫鏡をこの鏡とする説もある[2]。
初代神武天皇は東征の時に生駒山で敗北するが、「私は日の神の子孫として日に向かって(東に向かって)戦うのはよくない、日を背にして(西に向かって)戦おう」と言って熊野(または伊勢[3][注 1])に迂回して近畿地方の征服を成し遂げた。第10代崇神天皇は、宮廷内に祀られていた天照大神を宮廷外で祀るようになり、第11代垂仁天皇の在位時に初代斎宮・倭姫命によって伊勢に鎮座した。伊勢神宮の祭祀は、未婚の内親王(女性皇族)を天照大神の御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)として斎王を立てるようになった。
第33代推古天皇の在位時代に聖徳太子が隋の皇帝・煬帝へ、「日出處天子…」で始まる国書を送還している。また、飛鳥時代末期に国号を「日本」(日ノ本)と命名したところからも、太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を重視していたことが窺える。第40代天武天皇は壬申の乱の時に伊勢神宮を望拝した。これが「勝利に結びついた」と考えられ、在位中に伊勢神宮の遷宮を制度化し、第41代持統天皇の在位時に第1回目の式年遷宮が行われた。日本の国家統治と太陽の結びつきはますます強くなった。
この太陽を象った旗を用いるようになったのは、645年(大化元年)の乙巳の変以後、天皇による親政が確立された頃からと考えられる[4]。文献としては、797年(延暦16年)の『続日本紀』の中にある文武天皇の701年(大宝元年)の朝賀の儀に関する記述において、「正月元旦に儀式会場の飾りつけに『日像』の旗を掲げた」とあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれているが、「白地に赤丸ではなかった」と見られている。
世界中で歴史的に太陽が赤で描かれることは少なく、太陽は黄色または金色、それに対して月は白色または銀色で表すのが一般的である[注 2]。日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことは一般的ではなかったと思われる。例えば高松塚古墳、キトラ古墳には東西の壁に日象・月象が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表さ れている。第42代文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られるが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されている。また世俗的にも『平家物語』などの記述などからも平安時代末期の頃までの「日輪」の表現は通常「赤地に金丸」であったと考えられている。
赤い真円で太陽を表現する例としては、古くは中国史上の漢時代の帛画にある(上記の日像幢と同様、内側に黒い烏を配するもの)。日本では法隆寺の玉虫厨子背面の須弥山図に、赤い真円の日象が確認できる。これは平安時代の密教図像などにも見出される表現であり、大陸から仏教とともにもたらされた意匠であろうと推測される。
日本で「白地赤丸」が日章旗として用いるようになった経緯は諸説あり正確には不明である。
一説には源平合戦(治承・寿永の乱)の結果が影響していると言われている。平安時代まで、朝廷の象徴である錦の御旗は赤地に金の日輪、銀の月輪が描いてある。平安時代末期に、平氏は自ら官軍を名乗り御旗の色である赤旗を使用し、それに対抗する源氏は白旗を掲げて源平合戦を繰り広げた。古代から国家統治と太陽は密接な関係であることから日輪は天下統一の象徴であり、平氏は御旗にちなんで「赤地金丸」を、源氏は「白地赤丸」を使用した。平氏が滅亡し、源氏によって武家政権ができると代々の将軍は源氏の末裔を名乗り、「白地赤丸」の日の丸が天下統一を成し遂げた者の象徴として受け継がれていったと言われる。 なお、日本では「紅白」がめでたい配色とされてきた。一説には民俗学的にハレとケの感覚(ハレ=赤、ケ=白)にあるとする説や、これも源平合戦に由来するとする説などがある。
現存最古の日章旗としては山梨県甲州市の裂石山雲峰寺所蔵の「日の丸の御旗(みはた)」が知られている[5][6]。寺の伝承では、この旗は天喜4年(1056年)に後冷泉天皇より源頼義へ下賜され、頼義三男の新羅三郎義光から甲斐源氏宗家の甲斐武田家に相伝され、楯無鎧と対の家宝とされてきた[5]。『甲斐国志』では長さ六尺四布とあるが、現在は約1/4が欠損している[5]。また同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市の賀名生皇居跡(堀家住宅)に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られる[7]。
近世
近世には、「白地に赤丸」は意匠のひとつとして普及していた。
戦国時代の武将が旗印や馬印として「白地に赤丸」を使用していた。
江戸時代の絵巻物などにはしばしば白地に赤丸の扇が見られるようになっており、特に狩野派なども赤い丸で「旭日」の表現を多用するようになり、江戸時代の後半には縁起物の定番として認識されるに到っていた。徳川幕府は公用旗として使用し、家康ゆかりの熱海の湯を江戸城まで運ばせる際に日の丸を立てて運ぶなどした。そこから「熱海よいとこ日の丸たてて御本丸へとお湯が行く」という唄が生まれたりした。
近世における船旗関連の資料としては、寛永期(1624 - 1644年)に描かれた江戸図屏風[8]の幕府船団の幟がある。船団中央には、日本丸を改造し改名した大龍丸などが描かれており日の丸の幟を立てている[9]。また、1635年(寛永12年)に江戸幕府が建造した史上最大の安宅船「天下丸」(通称「安宅丸」)で「日の丸」の幟が使用されているのが知られている[10]。東京国立博物館が所蔵する『御船図』(江戸時代・19世紀作)にも安宅丸が描かれており、船尾に複数の日の丸の幟が描かれている。江戸幕府の所持船の船印として、一般には徳川氏の家紋「丸に三つ葉葵」を用いたが、将軍家の所持船には日の丸を用いることもあった。
また、1673年(寛文13年)に、江戸幕府が一般の廻船と天領からの年貢米(御城米)を輸送する御城米廻船を区別するために「城米回漕令条」を発布した際、その中で「御城米船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け、其脇に面々苗字名是を書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付けらる可く候」と、御城米廻船の船印として「朱の丸」の幟を掲揚するように指示し、幕末まで続いた。
18世紀末から19世紀にかけてロシア帝国の南下政策を警戒した幕府が蝦夷地天領化・北方警備等のため派遣した御用船(商船・軍船など)も日の丸を印した旗や帆を使用していた[11]。
注釈
- ^ 熊野からでは北に向かって戦う事になる。このため鈴木眞年のように、「伊勢まで行って西から大和盆地に侵攻した」とする説もある。
- ^ 強い傾向ではなく、バングラデシュの国旗やグリーンランドの旗では太陽を赤で示し、パラオの国旗では月を黄色で示している(#日章旗とデザインが類似している旗参照)。
- ^ 但しこの時の錦旗は、事前に岩倉具視や薩摩藩が用意していたものである。錦旗を与える手続き自体は朝廷の正式な決定を経ている。
- ^ 学習指導要領においては「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と記されており、『学習指導要領解説』(文部科学省著作物)には、「国際化の進展に伴い、日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、児童(生徒)が将来、国際社会において尊敬され、信頼される日本人として成長していくためには、国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ、それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。(後略)」とも記されている[25][26]。
- ^ 新情報センターが委託を受け調査した。
- ^ 日本の国旗#特例の日章旗も参照されたし。
出典
- ^ 日本の国旗 世界の国旗図鑑
- ^ 森浩一著「日本神話の考古学」(朝日新聞出版 1993年7月)
- ^ 「日本古典文学大系 2 風土記」(岩波書店 1958年4月)の伊勢国風土記逸文に、「神武天皇が伊勢国造の祖の天日別命に命じて伊勢国に攻め込ませ、国津神の伊勢津彦を追い出して伊勢を平定した」とある。
- ^ 泉欣七郎、千田健共編『日本なんでもはじめ』ナンバーワン、1985年、149頁、ISBN 4931016065
- ^ a b c 雲峰寺「宝物殿の案内」
- ^ 日の丸の御旗/富士の国やまなし観光ネット
- ^ 日の丸御旗(堀家所蔵)
- ^ 「江戸図屏風」の最新事情|歴博プロムナード|歴博アーカイブズ|国立歴史民俗博物館 2004年9月6日 - 2005年1月23日展示。"今までは不確かであった制作年代について、「寛永期」であることがほぼ確定できたことです。制作年代の確定は、炭素14年代測定研究の成果"。
- ^ 江戸図屏風 江戸湊、向井將監武者船懸御目候所 左隻6扇下、左隻第5扇下
- ^ 貴重資料「御船印並諸国御船印之図」、水野家文書、首都大学東京所蔵
- ^ 御用船長春丸―赤塗りの船(赤船)・日の丸の帆―
- ^ 暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』28頁参照。
- ^ a b c 松本健一『「日の丸・君が代」の話』
- ^ 吉野真保編『嘉永明治年間録 四巻』安政二年二月薩州ニ於テ製造ノ船琉砲船江戸海ニ着ス琉砲船長十五間檣三本出し共裾黒の帆標帆三段ふ掛け中程ふ裾黒の吹流し付艫の方日の丸並轡の紋船標小織布交の吹貫を立つ
- ^ 暉峻康隆『日の丸・君が代の成り立ち』28頁参照
- ^ 石井謙治『和船Ⅱ』法政大学出版局、1995年
- ^ 横須賀開国史研究会編『幕末浦賀軍艦建造記(横須賀開国史シリーズ 5)』横須賀市、2002年
- ^ 安達裕之『異様の船 洋式船導入と鎖国体制』平凡社、1995年
- ^ 石井行夫「国旗日の丸のルーツは」『開国史研究』4号、横須賀市、2004年
- ^ 遣米使節団のブロードウェー・パレード、在ニューヨーク日本国総領事館
- ^ 松本健一『「日の丸・君が代」の話』PHP研究所、1999年。
- ^ 中西立太『日本の軍装-幕末から日露戦争-』大日本絵画、2001年
- ^ 『戊辰戦争絵巻』(致道博物館蔵)
- ^ 国旗及び国歌に関する法律#背景
- ^ 小学校学習指導要領解説 特別活動編、文部科学省
- ^ 中学校学習指導要領解説 特別活動編、文部科学省
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- ^ 月刊五輪:吹浦忠正の1964年東京五輪物語 「日の丸」基準に苦労 - 毎日新聞、2015年4月21日 東京朝刊(アーカイブ)
- ^ 東京五輪エンブレムのパクリ疑惑 原因はコンペ作品のコンセプトか - ライブドアニュース(2015年8月2日 LITERA)
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- ^ 伊本俊二『国旗 日の丸』中央公論新社、1999年、176-177頁、ISBN 4122034639
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- ^ オリンピック東京大会沖縄聖火リレー ―1960年代前半の沖縄における復帰志向をめぐって、沖縄県公文書館
- ^ 4 諸外国における国旗、国歌の取扱い、文部省「国旗及び国歌に関する関係資料」、1999年9月(インターネット・アーカイブ参照)
- ^ 国旗の侮辱を禁じる新法を公布、フランス、AFPBB News、2010年7月25日
- ^ a b “アーカイブされたコピー”. 2009年9月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年9月6日閲覧。 【日本の議論】日の丸裁断による民主党旗問題 国旗の侮辱行為への罰則は是か非か]、産経新聞2009年8月30日
- ^ 【09衆院選】日の丸裂いて「党旗」に陳謝 鹿児島の民主候補陣営、産経新聞2009年8月18日 Archived 2009年8月21日, at the Wayback Machine.
- ^ 国旗で民主マーク、鹿児島の候補者 出陣式でおわび、読売新聞2009年8月18日
- ^ 「ビーバップ!ハイヒール」国旗に秘められたミステリー2 朝日放送 2009年10月1日
- ^ 清水憲司 (2014年5月27日). “バングラデシュ首相:日の丸参考に国旗…親日アピール”. 毎日新聞. オリジナルの2014年5月28日時点におけるアーカイブ。 2014年5月29日閲覧。
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- ^ 日の丸バスケ、買春に悔悟の日々〔敗軍の将、兵を語る〕 - 日経ビジネス電子版
- ^ Morita, D. (2007-04-19) "A Story of Treason", San Francisco: Nichi Bei Times
- ^ カンボジアで「つばさ橋」開通——ベトナム・カンボジア・タイが1本の道路でつながった 国際協力機構、2015年3月26日
- ^ 広島カープ誕生物語より
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