日朝関係史 中世

日朝関係史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 05:09 UTC 版)

中世

元寇

蒙古襲来絵詞』から、元・高麗軍に白兵攻撃を仕掛ける日本軍。左端で首を取っている武士は竹崎季長[67]

13世紀、高麗はモンゴル帝国(のちの)のクビライに服属したのち、日本に対してモンゴル帝国への服属を迫った。日本の鎌倉幕府はこれを拒絶したため、高麗は元に日本侵略を提言し、元軍とともに日本を攻撃したが失敗に終わった。

モンゴル帝国の高麗攻撃、三別抄から日本への要請

モンゴル帝国は6度にわたるモンゴルの高麗侵攻によって高麗を服属させた。『高麗史』や『元史』によれば、高麗の官僚趙彜や、のちに忠烈王となる王世子の要請があったために日本攻撃が決定された[† 8][† 9]。高麗国王はモンゴル軍によって王権を回復した際に、モンゴルの出征に積極的な協力をするという方針を定められており、そのため日本攻撃を進言したとされる。高麗がモンゴル帝国に服属すると、武臣政権の頃に設立された軍事組織である三別抄はモンゴルと高麗王に対して蜂起し、耽羅を拠点として日本へ救援を求めた。鎌倉幕府は三別抄からの要請に応じず、三別抄は敗北して朝鮮半島全土がモンゴルの勢力下となった。元の世祖クビライは高麗統治の方針を軟化させて、高麗軍は元軍とともに日本を攻撃する決定を下す[68][69][70]

元の日本攻撃(文永の役、弘安の役)

元に服属した高麗は、日本へ元の国書を送るなど外交交渉を担当した。高麗の使者から国書を受け取った鎌倉幕府は、返書を送らないことを決定する。18歳の北条時宗が幕府執権となるが、さらに強硬な使者の来訪にも幕府は返書をせずに元の攻撃への対策を進め、元軍による攻撃が行われた。元軍は高麗人のほかに南宋人や女真人も含む多民族構成で、壱岐・対馬や博多において九州の御家人を中心とする鎌倉幕府軍と戦った。元軍の侵略は2回に渡って行われたが、2回とも日本の抵抗により九州への上陸は阻まれて季節的な暴風に襲われて壊滅した。日本の捕虜となった元・高麗軍の兵は、日宋貿易で交流があった南宋人は優先して助命されたが、モンゴル人、高麗人、女真人については処分が決まるまで各御家人に預けられた[71]。元・高麗軍の捕虜は奴隷にされた他に、職能のある者は軍事技術者や大般若経の筆写事業などに採用されて、富豪になった者もいた。弘安の役の11年後に高麗使節の金有成が来訪し、高麗人の捕虜が日本で生きている点について感謝する国書を送っている[72]

倭寇

日本の南北朝時代から室町時代、朝鮮の高麗から朝鮮王朝にかけては倭寇と呼ばれる海上勢力が活発になり、中国や朝鮮半島の沿岸で海賊や密貿易を行った。14世紀から15世紀にかけての倭寇は前期倭寇とも呼ばれる。倭寇の原因としては、各国の治安悪化や貿易政策があげられる。日本は鎌倉幕府の滅亡後は南北朝の分裂や応仁の乱などで政情が不安定であり、高麗では元軍による占領の影響で国内が疲弊していた。このため両国では海域の治安を維持できなかった。中国では元のあとに建国された海禁政策を行ったため、沿岸の商人が密貿易や海賊行為に手を出していた。倭寇は日本人、朝鮮人、のちの16世紀には中国人やポルトガル人も混在した[73]

「倭寇」という文字は、古くは高句麗の好太王碑に見られる。中世における倭寇と同様の用例は元の時代からであり、藤原定家は『明月記』で、松浦党が高麗を攻撃したために高麗の恨みを買うことを憂慮している。『高麗史』には、忠定王の時代に倭寇の襲撃が始まったという記録があり、日本では観応の擾乱が起きていた時代にあたる。倭寇が固城・竹林・巨済・合浦などに侵入して高麗の崔禅らが迎撃しており、「倭寇の侵」の始まりとしている。前期倭寇の拠点は対馬、壱岐、松浦、済州島、舟山列島であり、襲撃した土地の人間を拉致して強制的に部下にする場合もあった[73]。14世紀の倭寇は、米穀など必需品を狙っており、次第に大規模となって高麗の首都開京付近に迫った。藤経光の誘殺未遂事件による倭寇の活動の活発化も指摘されている。高麗では、倭寇の略奪から防ぐために政府の倉庫を内陸へ移して、全羅道や楊広道の沿岸は生活に適さない地域となった。沿岸部が荒廃して人口が減少すると、倭寇は騎馬隊でさらに内陸へと侵攻して、高麗で差別されていた水尺や才人の中にも倭寇に参加する者が出た[74]

日本と高麗の倭寇対策

室町幕府は高麗と倭寇対策で協力する。高麗使節の金逸と金竜[要曖昧さ回避]が派遣されて、室町幕府に倭寇対策のために交渉が行われた。九州探題として派遣された今川貞世は高麗の鄭夢周らと協力し、大内氏らとともに倭寇を討伐した。倭寇の捕虜となった高麗人の送還も行われて、高麗と対馬宗氏との通交も始まった[75]。高麗と室町幕府の使者と国書に対する返礼は、のちの朝鮮王朝では朝鮮通信使として始まった。倭寇との戦闘で名を馳せた高麗の李成桂は、のちに朝鮮王朝(李氏朝鮮、李朝)を建国する。

朝鮮王朝(李氏朝鮮)

高麗は衰退する元の支配から脱し、武官の李成桂が紅巾軍、元軍、倭寇との戦いで功績をあげて台頭する。高麗は、元に替わって建国した中国王朝のと対立するが、李成桂は明への進軍を命じられたのちに引き返して朝鮮王朝李氏朝鮮、李朝)を創建した。李朝は建国時から明と関係が深く、国号の「朝鮮」は明から下賜されており、冊封関係は明の滅亡まで続いた。李朝は儒教朱子学を信奉して華夷秩序を厳格に守る方針をとり、華夷秩序の中心である明に忠実な国となった[76]。李朝からの朝鮮通信使は室町幕府の将軍に対して行なわれた。天皇は将軍の上位にありつつも国政を行わず、実権は将軍にあると李朝では解釈した。

日本と李朝の倭寇対策

李朝は倭寇対策として壱岐と対馬の討伐を命じて、1396年の攻撃を行った。李朝は室町幕府に対して倭寇の禁圧を求め、中国からは明も同様の要請をした。要請を受けて、室町幕府では3代将軍の足利義満が倭寇を鎮圧した。義満は朝鮮へ使節を派遣し、管理貿易として日朝貿易が行われる。李朝の倭寇への懐柔策は効果をあげて、海賊行為から貿易へと変化したり、朝鮮に渡航する者が増えたが、同時に李朝の財政の負担が増えたために渡航者を制限した(後述[77]。明からも倭寇対策を求める使者が来訪して、室町幕府の第3代将軍足利義満は朝鮮と交隣関係を結び、明とは冊封関係を結んだ。

対馬は倭寇の拠点でありつつも、宗氏は倭寇対策で李朝に協力した。李朝は宗氏に使節を派遣し、日本の密航者の取り締まりを求めた。対馬は貿易の利益と自国の防衛のために、倭寇の情報を李朝へ送るようになる。対馬は各地の商人のネットワークを活用して、壱岐、博多、赤間関、肥前が情報源となった[78]

倭館

李朝は、倭寇の拠点となっていた対馬を応永の外寇で攻撃する一方で、朝鮮半島に倭館を建設した。倭館は日本人(倭人)向けの客館であり、貿易で来航する日本人の居住や、倭寇の活動を貿易に変えて沈静化する目的も兼ねていた。李氏朝鮮は倭寇の懐柔策を行い、降伏して定住する日本人が増えて投化倭人と呼ばれた。こうして、さまざまな役割で李朝と交流をする日本人が増えた。朝鮮の官職を持って貿易も許された受職倭人や、港に定住する恒居倭人、日本の豪族の使者で使走船に乗る使走倭人などもいた。商人は興利倭人と呼ばれて、商船は興利倭船と呼ばれた。明が海禁政策で日本との貿易を公認しなかったこともあって興利倭人が急増して、李朝は対馬、壱岐、九州の諸大名の渡航許可書を義務づけた。李朝は対馬国に在留期限を超えた恒居倭人の帰国を求める使節の派遣を予定していたが、島主の宗材盛の急逝で使節派遣を延期した[79]。15世紀末には恒居倭人は3000人近くに達して、恒居倭人の暴動は対馬も巻き込んで三浦の乱となった。三浦の乱ののちは、三浦での日本人居住が禁止されて、李朝が軍事機関の備辺司を設置するきっかけとなった。倭寇の影響もあってたびたび国交は断絶して、丁未約条丁巳約条で貿易が再開される。入港地は釜山浦に制限されて、秀吉による朝鮮出兵まで続いた[80]

対馬

対馬海峡(朝鮮海峡)周辺の地図。対馬は、日朝の貿易や外交で重要な地域の一つとなった。済州島には、古代に耽羅があった。

対馬は日本列島と朝鮮半島の中間に位置することを利点として、古代から貿易を行なっていた。耕作可能な土地が少ない点も、貿易の必要性を高めた。朝鮮国王の世宗は倭寇の根拠地だった対馬を攻撃して、対馬守護の宗貞盛による反撃で撃退された。これを応永の外寇(己亥東征)と呼ぶ[81]。室町幕府は李朝の方針を確かめるために無涯亮倪を世宗への使者として送り、李朝は回礼使として宋希璟を4代将軍足利義持のもとへ送った。宋希璟は、外寇の原因は倭寇にあることを説明して義持の理解を得た。のちに宗貞盛と李朝との間で嘉吉条約(癸亥約定)が締結されて通交が始まり、宗氏は年50艘の歳遣船を認められて活発に貿易を行った。加えて宗氏は特別時に使者を送る特送船も認められた。中世の貿易では中国の陶磁器が重要な商品であり、14世紀以降の対馬は高麗青磁をはじめとする朝鮮半島産の陶磁器も多く輸入された[82]。のちの豊臣秀吉や徳川家康の時代には、対馬が李朝との外交を担当するようになる[83][84]

経済面

倭銀

石見銀山。龍源寺間歩(入口)

日本は中世後期から銀や金の産出量が急増する。そのきっかけは、朝鮮半島からの技術だった。博多商人の神屋寿禎が、宗丹と慶寿という技術者を朝鮮半島から石見銀山に連れてきて、灰吹法という技術が伝わった[85]。古代からの鉱脈だった石見銀山は再開されて、対馬や壱岐を経由して博多や朝鮮半島へ鉱石が運ばれた。灰吹法が各地に伝わると銀の産出量が増えて畿内や九州、貿易港に銀が流通した[86]。当時は銀が国際的な貨幣であり、日本の銀は倭銀とも呼ばれて日朝貿易の重要な輸出品となる[87]

日麗貿易・日朝貿易

日本と高麗に外交はなかったが11世紀から貿易が行われ、対馬の人間が最多で、ほかに筑前や薩摩がいた。日本は真珠、刀剣、水銀、柑橘類などを輸出し、日本船は進貢船とも呼ばれて年1回渡航した。元寇によっていったん貿易は途切れる[88]

李朝では、応永の外寇以降に貿易の管理を進めて、貿易を許可された日本人は受図書人と呼ばれた。日朝貿易は大きく分けると、(1)公式な通交である使節の進上と回賜、(2)官僚による公定価格を用いる公貿易、(3)商人同士による市場価格を用いる私貿易の3種類がある。取引額は(2)と(3)が大部分を占めた[89]。(1)や(2)には九州探題守護国人のような外交と公貿易を兼ねた通交が許可されて、公式な使節は使送船を用いた。(3)には興利倭人と呼ばれた商人が多数おり、小規模な者は対馬の海産物や塩を穀物と交換して食料を入手していた。大規模な興利倭人は豪族の早田氏・中尾氏・小島氏のように朝鮮-対馬-筑前・肥前を結ぶルートで貿易を行った[90]。日本が入港できる場所は、太宗の時代には富山浦乃而浦で、世宗の時代に塩浦が加わって三浦とも呼ばれた。三浦の乱や倭寇の影響で、最終的には入港地は釜山浦となる[91]

倭銀の生産が増えてからは、日本の輸出品は銀、朝鮮の輸出品は木綿布だった。木綿布は帆船の帆布や衣料品として日本に普及した[87][92]。もっとも貿易を活発にしたのは対馬の宗氏であり、他の地域は歳遣船が年1-2艘であるのに対して年50艘が認められていた。朝鮮からの輸出品は博多から国内に流通しており、対馬と博多の間は日朝貿易の往来が多かった[93]。他に大内氏、九州探題の渋川氏、肥前の宗像氏、肥後の菊池氏、薩摩の島津氏なども渡航した。日朝貿易は一時中断したのちに15世紀中頃に再開されるが、これは李朝が密貿易に統制をかけようとした目的があった[80]

中世の東アジアでは中国の陶磁器が大量に流通する一方で、朝鮮半島からは高麗青磁が輸出された。高麗青磁は、朝鮮半島に近い対馬のほかに、東北の安東氏が治めた十三湊でも発見されている[94]

偽使

偽使とは、名義を詐称する偽りの外国使節を指す。中世では朝鮮半島に行く偽使がおり、朝鮮側では偽使を中間詐為者や中間奸人と呼んだ。応永の外寇以後は、李朝との貿易には公式の使節である必要があり、使節を名乗って李朝を来訪する者が多数にのぼった。偽使のパターンとしては、(1)通行者の名義を借りる者、(2)通行者の名義を無断で使う者、(3)実在の有力者の名を詐称する者、(4)架空の有力者の名を詐称する者、(5)架空の国家の使節を詐称する者に分かれる。偽使が詐称した立場には、室町幕府の使節、対馬宗家の使節、大名の使節、琉球王国の使節などがある[77]。琉球王国の偽使は、対馬や博多の商人などが中心となっており、琉球が日本の商人や僧に李朝との通交を委任するようになると発生した[95]。第8代将軍足利義政の使者に夷千島王遐叉と呼ばれる人物が同行したことがあるが、民族の出自が定かではなく、偽使とする説もある[77][96]。偽使ではないが、公式の外交担当者が外交文書を偽造することもあり、のちに事件となった[97]

琉球王国と日朝貿易

琉球王国では明に朝貢していたほかに、日本や東南アジアと中継貿易を行っており、高麗の時代に中山王察度が使節を送って朝鮮半島とも通交した。琉球は日本との関係を参考にして、高麗に対しても朝貢を行った。朝鮮側では琉球を四夷の一つと見ていたが、李朝になると形式的には対等の関係となった。琉球は日朝の貿易ルートに加わる形で、対馬や博多と共同で通交した。琉球船が対馬の倭寇に襲撃されたのちは、朝鮮への航海を停止する。そして安全保障のために倭寇を警固として雇い、通交を再開した。再開時の船主は、対馬の賊首とも呼ばれた早田六郎次郎だった。琉球は通交についても委託をして、博多商人の道安や佐藤信重らが琉球の使者として李朝を訪れた。琉球の朝鮮通交の目的の一つは『大蔵経』であり、李朝からの下賜で入手した。琉球と李朝の交流については李朝の歴史書『朝鮮王朝実録(李朝実録)』にも多数の記事がある[98]

文化面

朱子学

海東諸国全図

李朝は朱子学を重視して、明以上に儒教を重んじる国となり、華夷秩序の思想は李朝の外交政策に影響した。李朝は、明を中心とする世界観のもとで自国を藩属と定義して、明に宗属しつつ、隣国の女真、日本、琉球は夷狄と見なして対等の関係にあたる交隣関係を結んだ[99]

外交文書の成立

通信使が始まると日朝では外交書も書かれた。朝鮮側では、宗希璟による『老松堂日本行録』や申叔舟の『海東諸国記』などの日本渡来記が書かれて、日本や琉球王国に対する基礎情報となった。日本側では、瑞渓周鳳が『善隣国宝記』を書き、日本初のまとまった外交文書となった[100]

文芸・書画

雪舟「山水図」。香雪美術館

外交で漢詩を用いる習慣は中世でも続いており、交渉において詩が用いられる場合があり、外交官には詩文の能力が求められた。宗希璟『老松堂日本行録』にも日本人との漢詩の唱和が多数記されている。宗希璟の唱和の相手は僧であり、一般人には詩を贈ってもいる。朝鮮に行った日本使節の唱和は『朝鮮王朝実録』に無涯亮倪が世宗に詩を献上した記録がある[101]

室町時代以降には、掛軸に漢詩と水墨画を一体化して表現する詩画軸も日朝の交流に用いられた。詩画軸は下部に水墨画、上部に詩句を載せる構図であり、雪舟の「山水図」には朝鮮の官人李蓀と朴衡文の賛がある[102]

相国寺の画僧の周文が李朝への日本人使節に参加し、朝鮮に最長で4ヶ月の滞在をしたことから、その作風に朝鮮の水墨画が影響を与えた可能性について指摘があるが、室町時代の日本側史料に朝鮮絵画への関心を示す記録がなく、朝鮮側にも当時に制作された絵画の現存数が少ないことから、厳密な考証を欠いた曖昧な説となっている[103]

文化財の流出

高麗では仏教勢力が私有地を拡大したために財政難に陥り、のちの李朝では朱子学が広まるにつれて仏教が排斥された。日本では禅宗が幕府に保護されて隆盛していたため、経典や仏具をはじめとする高麗時代の仏教文化財が日本へ流出した。中でも『高麗八萬大蔵経』は、誤りが少ない良本として日本の諸勢力が求めており、朝鮮通交の大きな目的にもなっていた。木版印刷の『大蔵経』や鐘楼などは高値で取り引きされたために大量に日本に輸入された。




注釈

  1. ^ 倭国では、高句麗を高麗(こま)と呼んだために、日本列島内に高麗郡や高麗神社などの名称があるが、のちに朝鮮半島で成立する高麗(こうらい)とは別の国を指す。
  2. ^ 隋書 東夷伝 第81巻列伝46 : 新羅、百濟皆以倭為大國,多珍物,並敬仰之,恆通使往來
  3. ^ 宋書 列傳第五十七 夷蠻 : 詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王
  4. ^ 職貢図 : 斯羅国 : 斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘
  5. ^ 三國史記 新羅本紀 : 元年 三月 與倭國通好 以奈勿王子未斯欣爲質
  6. ^ 三國史記 百済本紀 : 六年夏五月 王與倭國結好 以太子腆支爲質 秋七月大閲於漢水之南
  7. ^ 実際は海賊との見方もある[35]
  8. ^ 高麗史列伝巻十七 『若依蛮様、則工費多、将不及期..用本国船様督造』
  9. ^ 「元史」 卷十二本紀第十二世祖九 七月の条 『高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本』
  10. ^ イギリス商館長リチャード・コックスの日記 1617年8月31日 ある人々(それは庶民であるが)は、朝鮮通信使が来たのは臣従の礼を表し、貢物を献上するためで、もしそうしないと将軍は再び彼らに対して戦争を仕掛けたであろうと噂している[120]
  11. ^ 理由として、政治的儀礼で与えられた銀は朝貢に対する回賜と解釈したとされる[124]
  12. ^ 日本国内で慰安婦についての議論があり、「単なる売春婦であり、性的搾取をはじめとした慰安所における人権侵害など何もない」「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」などといった主張がある。これらの主張を「日本版歴史修正主義」とする反論もある[172]
  13. ^ 震災後に中国で日本支援運動が起きたが、中国人も殺害されていた。その多くは浙江省の自然災害のため出稼ぎに来ていた農民だった[176]
  14. ^ 第一大邦丸事件では漁労長が殺害されている
  15. ^ 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)正月壬子【十五】(#延暦八年(七八九)十二月附載)》壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉諡焉。」 P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
  16. ^ 法的な首都は1972年の新憲法制定までソウル。
  17. ^ ただし、1960年代後半からの高度経済成長まで、南の大韓民国は北の朝鮮民主主義人民共和国よりもさらに貧しく、国家経済の規模も劣っていた事を理解する必要がある。
  18. ^ 日本社会党や日本共産党でも、1980年代末に韓国の民主化で現地との交流を開始したのを受けて、「南朝鮮」から「韓国」への表記へと切り替えた。
  19. ^ なお、この拉致事件を追及する特定失踪者問題調査会によれば、被害者になった可能性がある「特定失踪者」は1948年から2004年まで存在し、特に拉致の疑いが濃い事例に限っても1960年から1991年にわたっている。
  20. ^ その後、閔は韓国国籍と日本での在留特別許可を得たが、刑事事件によりしばしば逮捕され、2004年に拘置中自殺した。
  21. ^ 斯盧国は503年に新羅と国号を改めた

出典

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