日印関係 日印関係の概要

日印関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 05:09 UTC 版)

日印関係

インド

日本

インド発祥の仏教は6世紀に日本に伝わった(日本の仏教)。日本は仏教を介する形でインド文化の影響を受けた。近代以前の日本とインドの間には間接的な交易関係が成立し、インドからは繊維製品など、日本からは金属などが輸出された。直接的な交流が本格化するのは近代である。第二次世界大戦中、大日本帝国陸軍イギリス軍との戦いで、スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍とともに戦った。インドは、2005年から日本のODAの最大の受益国の一つである[1]。インドと日本は双方の歴史における困難な時期において、お互いを支えあってきた[1]

両国はインドの独立後も良好な政治的関係を保っている。ソニートヨタ自動車ホンダなどの日系企業はインドに製造施設を持っており、インド経済の発展により、インドは日本の企業にとって大きな市場となっている。実際、日系企業の数社はインドに投資した最初の企業であった。インドに最初に投資をした最大の日系企業はインド政府との合弁企業であり、インド最大の自動車会社であるマルチ・スズキを設立した巨大な自動車企業スズキであった。

2006年12月、マンモハン・シン首相はついに日本を訪問し、「日印戦略的グローバルパートナーシップに向けた共同声明」に調印した。日本はデリー・メトロをはじめとするインドの多くのインフラ建設計画のための資金を援助した。2006年から開始されたインド人の外国語青年招致事業の志望者は歓迎され、2006年の開始には当初1人しかなかった応募枠は2007年には41人に拡大された。2007年にはまた、海上自衛隊インド海軍オーストラリアシンガポールアメリカ合衆国とともに行ったインド洋での合同軍事演習に参加した。2007年は「日印交流年」が宣言された年でもあった[1]

近代以前の関係

日本と「天竺」

近代以前の日本において、インドは「天竺」の名で知られていた。ただし、中世・近世の史料に現れる「天竺」と現代のインドの領域が必ずしも一致しないことには注意を要する[2]

平安時代後期、日本の国家・王権が対外関係と距離を置くようになると[3]、世界は本朝(日本)・震旦中国)・天竺(インド)から構成されるとする仏教的な世界認識(「三国世界観」と呼ばれる)が生まれ[2][4]、12世紀ごろには日本社会に定着した[注釈 1][3]。三国世界観のもとでの「天竺」は多分に空想的な世界であり[2][4]、また中国よりも遠くにある地域が漠然と「天竺」と呼ばれた[2]。17世紀の地図には、インドを「南蛮」、シャム(現在のタイ)を「天竺」と記すものも存在する[2]

仏教を介した関係

日本の東大寺の大仏は、仏教に取り入れられたインドの神格ヴィローチャナ/ヴァイローチャナ(=毘盧遮那仏)の像である。
日本の七福神の一つである弁財天。弁財天は本来インドの女神サラスヴァティーのことである。

日本とインドの文化的交流は6世紀に仏教が日本に伝わったことから始まる。歴史的にはっきり確認できるインド出身の日本訪問者は[注釈 2]、736年に来日した菩提僊那(ボーディセーナ)であり、仏教を広めるとともにさまざまな文物を伝え[5]、日本で没した。菩提僊那は752年に東大寺の大仏の開眼供養会の導師をつとめたことで知られる[5]。9世紀の中国(唐)の詩人・段成式による随筆『酉陽雑俎』によれば、段成式と面識のあった金剛三昧と呼ばれる日本僧は、中国から西域を経由してインドを訪れたという[注釈 3]。9世紀後半には、僧侶であった高岳親王が中国から天竺を目指したが、その途中マレー半島付近で没したとされる。13世紀初頭の明恵は天竺訪問を強く志し、玄奘の『大唐西域記』をもとに長安から王舎城(ラージギル)までの旅行計画を立てたものの、反対を受けて果たせなかったというエピソードが知られる[6]

仏教がバラモン教(のちのヒンドゥー教)の神格を護法善神天部)として取り入れた結果、仏教の影響を受けた日本の民間伝承や信仰はインドに由来する要素を含むこととなった。例えば、インドの女神サラスヴァティーは日本では「弁財天」として、またブラフマーは「梵天」、ヤマは「閻魔」として知られる。釈迦ゆかりの「祇園精舎」は『平家物語』の著名な冒頭にも盛り込まれ、祇園精舎の守護神と認識された「牛頭天王」を日本神話スサノオと重ね合わせて信仰対象とする祇園信仰も生まれた。 「三昧」(サマーディ)、「業」(カルマン)、「檀那」(ダーナ)など、インドに由来する概念も多い。

インドの古典言語であるサンスクリット(梵語)や、それを表記する文字である悉曇文字(シッダマートリカー、いわゆる梵字)も、仏教を介して日本で普及した。悉曇文字は古代インドのブラーフミー文字グプタ文字から派生した文字が仏教伝播と共に伝わったもので、日本には天平年間に伝わった[7]。インドではサンスクリットの表記にデーヴァナーガリーが用いられるようになって廃れたが[7]、悉曇文字と密教が結びついた日本では守護札・塔婆・石塔・護符などの用途で現代も模倣されている[7]。日本の鳥居は、インドの寺院の入り口にあるトーラナと関係があるという説もあるが、さまざまにある諸説の一つであって確証されているわけではない[8]

仏教と仏教に密接に結び付いたインド文化は日本文化に大きな影響を与え、それは今日でも感じられ、両国の自然観の親和に結び付いた[9]。さらに、仏教の影響が普遍的にみられる両国の社会は、現在の世界の他の国においては一神教が多いのとは対照的で、アニミズムの宗教である神道と同様、ヒンドゥー教にもアニミズムの要素がみられる。

14世紀 - 16世紀

ヨーロッパ人がアジア海域に登場する15世紀末まで、インド洋から南シナ海にかけての交易を主導していたのは、インド出身者を含むムスリム(イスラム教徒)であった[10]。ムスリム商人たちは中国南部の広州・泉州・杭州などの都市に居住地を設けており、その一部が日本にも足を延ばした可能性はある[10]。日本の室町時代に活動した商人の楠葉西忍は、来日した「天竺人」と日本人女性の間に生まれた子である[11][10](ただしこの「天竺」がインドを指すとは限らず、諸説がある[10])。14世紀以降、明の海禁政策を背景として、琉球の貿易船や「倭寇」の船が東南アジア海域における活動を活発化させており、東南アジアでインド系商人と取引をする状況も出現したと考えられている[12]。琉球商人たちは日本の金や銅を積載してマレー半島のマラッカに至り、ベンガル産の布地を買い取っては日本や中国に輸出した[13]

1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドに到達したのを皮切りに、16世紀にはヨーロッパ人がアジア海域で活動を広げた。1510年にインドの都市ゴアはポルトガルによって占領され、そのインドにおける植民地経営やキリスト教布教の拠点となった。ヨーロッパ人は16世紀半ばに日本へ到達し、日本とインドを結ぶ仲介者に加わることとなった。インドを訪問したことが年代とともにはっきりした日本出身の人物は、最初の日本人キリスト教徒として知られるヤジロウ(アンジロー)である。ヤジロウはマラッカでフランシスコ・ザビエルに出会い、1548年にゴアで洗礼を受けた。1549年、ザビエルやヤジロウらは日本に上陸してキリスト教の布教にあたるが、ザビエル一行の中にはインド人のアマドールがいた[14]。日本人は当初宣教師たちを「天竺人」と認識し[2](やや遅れて「南蛮人」という認識が広がる[2])、キリスト教を仏教の一派「天竺宗」と見なした[2][注釈 4]。日本に来航したヨーロッパ船には、ヨーロッパ人以外にもインド人を含むさまざまなルーツを持つ乗員(ヨーロッパでは「ラスカー」Lascar とも総称される)が含まれており[注釈 5][15]、日本では肌の色の濃い人々は大雑把に「黒坊」と呼ばれていた[15]ルイス・フロイスの『日本史』によれば、1584年の有馬・島津連合軍と竜造寺軍の戦い(沖田畷の戦い参照)に際し、「(アフリカの)カフル人」1人[注釈 6]と「マラバル人」(インド人)1人が有馬晴信の軍勢に参加して砲手として活躍したという[16]

キリスト教徒の迫害が始まると、日本の多くのキリスト教徒はマカオやバタヴィアなど国外に逃れたが、その一部はゴアに逃れた[17]。17世紀の初めの時点で、ゴアには日本人の貿易商や、ポルトガル船で輸送されてきた日本人奴隷によるコミュニティーがあった[18]

17世紀 - 19世紀前半

日本の江戸時代半ばには、西洋を経由した現実的なインド情報も伝えられ、18世紀前半に著された西川如見『華夷通商考』や新井白石西洋紀聞』『采覧異言』などの書籍は、三国世界観による「天竺」イメージを引き継ぎながらも「応帝亜(インデア)」や「莫臥爾(モウル)」を紹介した[19]。18世紀初頭になると山村才助が『訂正増訳采覧異言』『印度亜志』を著し、蘭学者として収集したインド情報を記している[20]。国名として挙げられる「モウル」はムガル帝国を指すと理解されている[21]

長崎の異国通詞の中には「モウル通詞」が設けられていた[22]。これに関連して、17世紀後半には「モウル人」の乗った暹羅(シャム)船[注釈 7]が来航した[24][25]、あるいは「モウル人」の船員たちがオランダ船に乗ってシャムに渡った[24][26]とする記事が長崎の記録に散見されるが、この場合の「モウル人」はムスリムと解される[24]。通詞たちが編纂した語彙・会話集『訳詞長短話』に見られる「モウル語」は、ムガル帝国の公用語として文書に用いられていたペルシア語であり[27]、若干のヒンディー語[28]マレー語語彙[29]なども含まれる[注釈 8]。1803年には「ベンガル船」が長崎に来航している[24]

17世紀から19世紀にかけての時代(日本の江戸時代、インドのムガル帝国時代)、オランダ東インド会社を介して日本からインドへは大量の銅[注釈 9]が(江戸時代前期に幕府が輸出を制限するまでは金・銀も)、インドから日本へはグジャラート産・コロマンデル産の綿布やベンガル産の絹が運ばれた[34]。日本に定着した「更紗」(語源には諸説あるが、インドの語彙が伝わったとされる[35])、「天竺」(メリヤス編みの生地)や、ベンガル地方原産であることが語源の「ベンガラ縞」[36]、カリカット(現在のコーリコード)が集産地であった「キャラコ[37]、「サントメ」と呼ばれたコロマンデル地方(代表的な港はチェンナイ[注釈 10]から輸出された「サントメ縞[39]や「サントメ革」[40]チャウルで生産された絹布に由来する「茶宇縞」[41]などの名は、これらの品物や技術がインドに由来することを物語る。

近代の関係

直接的な交流が始まったのは日本が近代化の過程に入った明治時代(1868年 - 1912年)からである[42]。同時期のインドは、イギリスの植民地(イギリス領インド帝国、1858年 - 1947年)とされていた。1903年には日印協会が設立された[43]

貿易と在日インド人コミュニティ

神戸ムスリムモスク

日本には、貿易に従事するインド人が、開港地であった横浜・神戸に多く居住した[44]。横浜への居住は開港後間もなくから、神戸への居住は1885年頃からとされる[45]

1923年、関東大震災によって横浜が大きな被害を受けると、横浜に暮らしていたインド人は親戚や知人を頼って関西地方に移住し、とくに神戸に集中するようになった[44][46](戦前の最盛期には兵庫県に600人あまりのインド人が暮らしていた[46])。1934年には神戸に日本初のモスクである神戸ムスリムモスクが建設されたが、インド人貿易商が大口寄付者として名を連ねる。1937年には在日本印度商業会議所が神戸で設立されている(第二次世界大戦後の1957年に本部を大阪に移転)[44]

1930年代前半、日本はインド市場への綿布の輸出を拡大させ[47][注釈 11]、日印間に大きな貿易摩擦が生じた[47]。これは、第二次世界大戦前の日本が抱えた「代表的な貿易摩擦問題」の一つであった[47]。1933年4月、インド政庁はイギリス本国を通じて日印通商条約の破棄を通告するとともに(通告6か月後の1933年10月10日以降に失効可能)[49]、インド産業保障法を制定して通商条約失効後に日本商品全体の輸入の制限を可能とした[49]。日本政府は通商条約失効・産業保障法発動を回避すべく英領インド政庁の間で「(第一次)日印会商」と呼ばれる通商交渉が行うが、これは日本にとっては国際連盟脱退後はじめての個別協定外交となり[47]ブロック経済化を進めるイギリス本国政府の意向をまじえた交渉となった[47]。1934年1月5日、日本はインド側の案に譲歩する形で「日印新協定」を締結、日印通商条約[注釈 12]を再締結して産業保障法の発動を阻止したが、日本の民間は不満が残った[50][51]。1934年の協定の有効期間は3年であり、1936年より日印間の交渉が行われた(第二次日印会商)[51]。1937年には新たな協定が結ばれ、日印通商条約の効力延長が確認された。第二次協定の期限3年間で、期限は1940年3月31日までであった。

1939年、第二次世界大戦の勃発とともに、インドからの輸入を制限する政策が採られ、インド商人たちは苦境に陥った[46]。インド人たちは商社を閉鎖し、その多くが国外に拠点を移して去った[46]。インド商人は第二次世界大戦後に再び来日することになるが、戦前からの縁故もあり、神戸は長らく[注釈 13]日本のインド人コミュティの中心地であった[46][注釈 14]

インドの独立運動と日本

1915年
インドと日本の国旗.

ラース・ビハーリー・ボース(右から二人目)を称える晩餐会が彼と親しい日本の友人で汎アジア主義者の頭山満(中央)、後の首相犬養毅(頭山の右)らによって催された。]]

20世紀初頭の日本の大国としての台頭はインドでは肯定的に捉えられ、アジアの復活の始まりとして象徴化された。インドでは、戦後の日本の経済の立て直しと素早い経済成長に対して大いなる称賛の声があがった。[54]両国の著名な人物はその時から増え、歴史的書物によれば、日本の哲学者岡倉天心とインドの作家ラビンドラナート・タゴール、岡倉とベンガルの詩人プリヤムヴァダ・バネルジーの間に友情が芽生えた。[55]大英帝国の一部であった時代、多くのインド人がイギリスの統治に憤っていた。1923年8月17日、日英同盟は終焉した。

多くのインドの独立運動の活動家はイギリスの統治から逃れ、日本に滞在していた。インド独立運動の指導者であるラース・ビハーリー・ボースは日印関係の礎を築いた。後に首相となった犬養毅や汎アジア主義者である頭山満大川周明らの日本人はインド独立運動を支援した。インドから留学していたA.M.ナイルは独立運動の活動家になった。ナイルは戦中はスバス・チャンドラ・ボースから、戦後はラダ・ビノード・パール判事からの援助を受けていた。

1899年に東京帝国大学はサンスクリット語科とパーリ語科を開設し、さらに1903年には比較宗教学科が開設された。このような環境の下、20世紀初頭には数多くのインド人留学生が日本に渡り、1900年、東方青年協会を設立した。ロンドンの目撃者から伝えられた彼らインド人留学生の反英的な政治活動はインド政府を狼狽させた。


注釈

  1. ^ たとえば『今昔物語集』は天竺・震旦・本朝の三部で構成される。
  2. ^ 多分に伝承的なものも含めれば、646年に来日したという伝承がある法道上人などもいる[5]
  3. ^ 「金剛三昧」についての記録は日本にはない。
  4. ^ これについては、布教初期にキリスト教の神に「大日」という訳語を選択したことも関わる。
  5. ^ 織田信長に仕えたことで知られる弥助はアフリカ出身とされるが、直接にはインドから日本を訪れている。
  6. ^ "Kaffirs" は黒人を指す蔑称とされる。Gary P. Leupp によれば、"Kaffirs" は一般にバントゥー系民族を指して用いるとされるが、バントゥー系以外のアジア人に対しても用いられたであろうという[15]
  7. ^ シャムとの外交関係は、1656年にシャムからの国書を日本が謝絶することによって途絶したが、シャム在住の華僑や同地に渡航した中国船を介した民間貿易関係は続いており、中国式のジャンク船であったために「唐船」の一部として扱われた[23]。日本に派遣されたシャム船は総数としては多くないものの、その多くが実際には国王が派遣したものであるという説がある[23]
  8. ^ ただし、実際に使用する機会が少なかったためか、『訳詞長短話』には実際のペルシア語から逸脱した語彙も含まれており[30]、また通詞たちはペルシア文字の読解もできなかったようである[31]。なお通詞たちは『訳詞長短話』の中で「モウル語」と区別される「インデヤ語」についての若干の語彙集を残している。「インデヤ語」にはベンガル語とみられるものも含まれてはいるが、東南アジア・南アジアの広い範囲を漠然と指していた「インデヤ」の語彙を集めたようであり、特定の言語を指すのかも判然としない[32]
  9. ^ 18世紀前半、オランダ船が長崎から積み出した銅の4分の3までがインドやセイロンで荷下ろしされた[33]
  10. ^ ポルトガル人がこの地域にサントメ (São Tomé de Meliapor) という都市を築いたことによる[38]
  11. ^ これには日本の綿業の伝統的市場であった中国において、1920年代後半から日本製品のボイコットが活発化していた上に[47]、さらに満洲事変・上海事変などの発生によって中国市場や中国商人の影響下にあった東南アジア市場の縮小に拍車がかかったことが要因として挙げられる[48]
  12. ^ 「日本国及印度間通商関係ニ関スル条約」、英文名称: Indo-Japanese Trade Agreement of 1934.
  13. ^ 1990年代に首都圏にインド人が増加するようになる[52]
  14. ^ 第二次世界大戦後の1950年代より神戸にはジャイナ教徒(多くが宝石商・真珠商である)が暮らすようになり、1985年には日本で初めてのジャイナ教寺院(バグワン・マハビールスワミ・ジェイン寺院)が建設されている[53]

出典

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