新選組
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名称について
「選」の字は「撰」とも表記されることがあり、「新撰組」と表記された史料もある。新選組の局長近藤勇をはじめ、隊士たちが残した手紙でも両方の字が表記に用いられている[3]。明治時代以降に公的機関が編纂した史料集では、『維新史料綱要』では「新撰組」と記されている[4]が、『復古記』では「新選組」と記されている[5]ように記述が割れている。ただ隊の公印が押された文献は「選」の文字が使用されているため、2004年ごろから高校日本史教科書では「新選組」の表記が増えてきている[3]。また、報道機関などでも 「撰」の文字が常用漢字外のため、新選組と表記するのが一般的である。
概要
幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた京都所司代と京都町奉行だけでは防ぎきれないと判断した幕府は、清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した。
江戸で求人したあと、京に移動した。しかし清河の演説でその本意(後述)を知った近藤勇や芹沢鴨らが反発して脱退。 そして、その思想に意気投合した会津藩・野村左兵衛の進言で京都守護職の会津藩主・松平容保の庇護のもと、新選組として発足した。
同様の配下の京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)で構成された正規組織であったのに対して、新選組はその多くが町人・農民出身の浪士によって構成された「会津藩預かり」という非正規組織であった。
隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、新選組の最盛時には200名を超えた。京都で攘夷派の弾圧にあたった[2][1]。商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に粛清するなど内部抗争を繰り返した。
慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、鳥羽・伏見の戦いに敗北したあとは四散し、甲州勝沼において板垣退助率いる迅衝隊に撃破され敗走し解隊[2]。局長の近藤勇は捕らえられ斬首刑に処せられた[1]。その後、副長の土方歳三が戊辰戦争最後の戦い・箱館戦争で戦死。新選組は新政府軍に降伏することになった。
逆賊を取りしまる立場であったが明治維新で敗北したことから正反対に逆賊は新選組という扱いを受けてしまった風評被害もあった。2004年の大河ドラマで脚本を担当した三谷幸喜もこのことを指摘している[6]。
歴史
結成
文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の献策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。
翌文久3年(1863年)2月、集まった200名あまりの浪士たちは将軍上洛に先がけ「浪士組」として一団を成し、中山道を西上する。浪士取締役には、松平上総介、鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助、佐々木只三郎らが任じられた。
京都に到着後、清河が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。浪士取締役の協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張した。
鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京都の壬生村に残ったが、根岸派は直後に脱隊した。殿内・家里は排斥され、同年3月、公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし、新選組の前身である「壬生浪士組」(精忠浪士組)を結成。一方、江戸に戻ったメンバーは新徴組を結成した。
壬生浪士組は壬生村の八木邸や前川邸およびその周辺の邸宅を屯所とし、第一次の隊士募集を行う。その結果36名あまりの集団となり、京都守護職の松平容保から、おもに不逞浪士の取り締まりと市中警備を任される。
4月、大坂の両替商平野屋五兵衛に100両を提供させ、これを元手に隊服、隊旗を揃え、隊規の制定にとりかかる。
6月、大坂相撲の力士と乱闘になり殺傷する。壬生浪士組にも負傷者が出た。奉行所は力士側に非があると判断。力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる。
8月、芹沢鴨ら約30名の隊士が、京都の生糸問屋大和屋庄兵衛に金策を謝絶されたことに腹を立て放火。刀を抜いて火消を寄せつけず、一晩かけて焼き尽くす。この事件に松平容保は憤り、近藤らを呼び出し処置を命じたとされる。一説として、芹沢および壬生浪士組の関与については否定的な見解が存在する[7]が、浪士組の名を記す風説書が多く残り、焼き打ちを行ったという説もある[8][9]。
同月、壬生浪士組は八月十八日の政変の警備に出動し、その働きを評価される。そして、新たな隊名「新選組」を拝命する。隊名は武家伝奏[10] から賜ったという説と、松平容保から賜ったという説の2つがある。後者の説は、会津藩主本陣の警備部隊名を容保からもらったという意味である。
9月、近藤・土方ら試衛館派が八木邸で芹沢鴨、平山五郎を暗殺。平間重助は脱走、野口健司は12月に切腹。水戸派は一掃され、試衛館派が組を掌握し近藤を頂点とする組織を整備した。
発展
元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件で攘夷派志士を斬殺・捕縛。8月、禁門の変の鎮圧に参加した。
池田屋事件と禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩から感状と200両あまりの恩賞を下賜されると、同年9月に第二次の隊士募集を行うこととなった。池田屋事件で新選組の知名度が上がっていたことから土方、斎藤、伊藤、藤堂平助などの幹部が直接江戸へ向かい剣術道場などを訪問し、伊東甲子太郎らの一派を引き入れることに成功、翌年五月に32名で京都に戻ったことが確認されている[11]。これらの活動により新選組は200名まで増強され、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転する。
長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制(一番組〜八番組および小荷駄雑具)に改組。「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。
慶応3年(1867年)3月、伊東甲子太郎らの一派が思想の違いなどから御陵衛士を結成して脱退。同年6月、新選組は幕臣に取り立てられる。同年11月、御陵衛士を襲撃し、伊東・服部・藤堂・毛内を惨殺。篠原・富山・鈴木・加納は逃走(油小路事件)。
解散
慶応3年(1867年)10月に将軍・徳川慶喜が大政奉還を行った。新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加するが、初戦の鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗北。この際、井上源三郎が戦死。榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へ撤退する。この時期、戦局の不利を悟った隊士たちが相次いで脱走し、戦力が低下した。
その後、旧幕府側から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改め甲州街道を甲府城へ進軍するが、その途中甲州勝沼の戦いにおいて板垣退助率いる迅衝隊に敗退する。ふたたび江戸に戻ったが、方針の違いから永倉新八、原田左之助らが離隊して靖兵隊を結成。近藤、土方らは再起をかけて流山へ移動するが、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病だった肺結核により江戸にて死亡。また、諸事情で江戸に戻った原田は彰義隊に加入し、上野戦争で戦死した(諸説あり)。
新選組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参加するが、会津では斎藤一らが離隊し残留。残る隊士たちは蝦夷地へ向かった榎本らに合流し、二股口の戦いなどで活躍する(蝦夷共和国も参照)。新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏した。旧幕府軍は箱館の五稜郭において新政府軍に降伏した(箱館戦争)。
- ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)
- ^ a b c ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 新撰組(コトバンク)
- ^ a b 佐々木智巳 (2010年5月4日). “「新選組」 迷う「せん」の漢字”. 日本経済新聞. オリジナルの2018年6月9日時点におけるアーカイブ。 2017年11月17日閲覧。
- ^ 維新史料綱要 巻7
- ^ 復古記 第1冊
- ^ “NHK大河「新選組!」脚本務めた三谷幸喜氏「新選組のイメージ変えた」永倉新八の子孫から感謝”. 日刊スポーツ (2022年12月11日). 2023年6月26日閲覧。
- ^ 宮地正人『歴史のなかの新選組』、岩波書店
- ^ 箱根紀千也「大和屋焼き打ち事件の真実」『玉造史叢61集』
- ^ 藤堂利寿 (2019). “新選組研究への評論と大和屋焼き討ち事件”. 霊山歴史館紀要 24.
- ^ 当時は野宮定功と飛鳥井雅典。
- ^ 新選組の忘れ物 キセル入れ見つかる 草津宿本陣 滋賀 - NHK
- ^ “新選組「洛中最後の拠点」諸説論争に決着か 西本願寺古文書に「西九条村」の記述”. 京都新聞 (2020年6月8日). 2020年6月7日閲覧。
- ^ 藤堂に関しては生存説あり
- ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 79頁
- ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 194頁
- ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84頁
- ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 83-84頁
- ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 308頁
- ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 27頁
- ^ 歴史群像シリーズ『図説・新選組史跡紀行』、学習研究社 74頁
- ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 144頁
- ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84頁
- ^ a b 小佐野淳『図説 武術事典』、新紀元社 152頁「新選組と武術」
- ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 82頁
- ^ a b 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 128頁
- ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84-85頁
- ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 126頁
- ^ 大石学『新選組 ―「最後の武士」の実像―』(中公新書)
- ^ 特別陳列新選組-史料が語る新選組の実像- 京都国立博物館
- ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 199-200頁
- ^ 菊地明『新選組の真実』、PHP研究所 209頁
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- ^ 伊東成郎『新選組は京都で何をしていたか』、KTC中央出版 308-309頁
- ^ “初代「新選組」の局長・芹沢鴨の家紋「揚羽蝶」と生涯”. お役立ち!季節の耳より情報局. 2022年1月7日閲覧。
- ^ “新選組参謀の伊東甲子太郎、生家示す絵図見つかる”. 日本経済新聞 (2020年12月5日). 2021年3月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月16日閲覧。
- ^ “箕輪の心中/新撰組”. 演劇上演記録データベース. 2023年6月28日閲覧。
- ^ “新国劇と新選組”. 緒形拳研究会 (2019年8月15日). 2023年6月28日閲覧。
新選組!
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『新選組!』(しんせんぐみ)は、2004年1月11日から12月12日まで放送されたNHK大河ドラマ第43作。主演は香取慎吾。
注釈
- ^ 第83回、2007年11月16日放送。
- ^ 香取の提案に三谷が「絶対やるべきです」と賛成し実現した[6]。
- ^ ただし、矢部が演じた阿比留は新選組と名を変える前に脱退していたため、浅葱の羽織に袖を通すのは初めてであった。
- ^ 近藤も公共の場では「土方君」とよんでいる。
- ^ このことから、「自分の命」を大切にしない人間を嫌うようになり、河合が短慮が理由で切腹の危険を冒したと勘違いをした時には同情をしなかった(真相が分かった時は、正反対に同情するようになった)。
- ^ 土方は「さん付けしちまったよ。」と言ってむせていた。
- ^ その為浪士組上洛前の編成発表の際に試衛館派で唯一(但し、門人の沖田林太郎と同じであったので完全に一人ぼっちではない。)みんなと違う組に配属された時には原田に「影薄いからね〜」と言われていた。
- ^ 見捨てた芹沢には「俺がいなくなったら、次(に粛清されるの)は自分」「そんなことも分かんないなんて」と吐き捨て、土方には「こんな形で隊をまとめようとしてもいずれ綻びが生じる」と、山南には「(法度に)足元をすくわれないようせいぜい気をつけることだな」とそれぞれ忠告していたが、後に(自らは死を覚悟していたが)芹沢は暗殺され、御陵衛士(伊東一派)をはじめ新選組は多くの同志の離反や粛清が相次ぎ、そして山南も(本人が望んだこととはいえ)局中法度の罪で切腹することになり、皮肉にも新見の忠告はすべて現実となった。
- ^ 実際には、50両は河合が両親に頼んで持ってきてもらう手筈になっていたので、武田は無償で西洋軍学の本を手に入れたことになる。
- ^ 実際に、土方と沖田に捕まり屯所に戻ったときに、大石たちから石を投げつけられた。
- ^ 土方は「そいつが自らまいた種だ。しょうがねえよ」と口では厳しく突き放しながらも、目の焦点を合わせない態度をとっており、どう思っていたのかなどの真意は不明。
- ^ 特に伊東暗殺の一件は、近藤や土方達がなんとか避けようとしていた御陵衛士との全面闘争の火種となり、藤堂の戦死や、その後の御陵衛士残党からの報復による近藤の負傷へと繋がる遠因となった。一方で土方は「(大石達がやらずとも)いずれこうなる事(新選組と御陵衛士の抗争)は予想できた」として大石達の独断行為に対して特に処罰する事はなかった。
- ^ 三谷幸喜脚本の舞台『彦馬がゆく』(1990年・1993年)や、テレビドラマ『竜馬におまかせ!』(1996年・日本テレビ)で近藤勇を演じている。三谷作品における「近藤勇」といえば、阿南健治を指すほどだった。
- ^ テレビドラマ『燃えよ剣』(1970年・NET)等で土方歳三を演じたことにちなんだキャスティング。
- ^ 療養中の沖田から剣術の稽古をしないよう、お考が刀を平五郎に預けたが、皮肉にもそれが自分自身の命取りのきっかけとなってしまった。
- ^ 八木源之丞の長男の名で、実在の人物。
- ^ 三谷幸喜原作・脚本の映画『竜馬の妻とその夫と愛人』(2002年)で、竜馬にあこがれて竜馬にそっくりの振る舞いをしようとする的屋の虎蔵を演じており、「新選組!」で龍馬役に抜擢された際、「やっと本人になれた」と言っている。
- ^ 7年以降からテレビドラマ『竜馬がゆく』(1997年・TBS)の桂小五郎をもう一度に続けて演じたことにちなんだキャスティング。
- ^ テレビドラマ『燃えよ剣』(1970年・NET)等で沖田総司を演じたことにちなんだキャスティング。
- ^ 瑳川は1967年のNHK大河ドラマ『三姉妹』にて近藤勇を演じている。
- ^ 史実での実際の末路である。
出典
- ^ 香取慎吾、『新選組!』忘年会後に電車へ「局長!」勘九郎らが“随行” | マイナビニュース
- ^ 『大河ドラマの50年』鈴木嘉一、中央公論新社2011年
- ^ a b ビデオリサーチ NHK大河ドラマ 過去の視聴率データ
- ^ ザテレビジョン ドラマアカデミー賞: 【第43回 最優秀作品賞】「新選組!」 - ウェイバックマシン(2014年7月17日アーカイブ分)
- ^ 三谷幸喜のありふれた生活703、朝日新聞夕刊、2014年5月22日
- ^ 三谷幸喜のエッセイ集「ありふれた生活・大河な日々」巻末おまけの香取と三谷の対談。
- ^ “山本耕史朝ドラ出演 NHKの求愛実る”. デイリースポーツ online (株式会社デイリースポーツ). (2015年10月1日) 2015年10月1日閲覧。
- ^ 『3月26日(金)始発から 西調布駅の列車接近メロディーがNHK大河ドラマ「新選組!」のメインテーマに変わります!』(PDF)(プレスリリース)京王電鉄/調布市、2021年3月17日。 オリジナルの2021年3月17日時点におけるアーカイブ 。2021年3月17日閲覧。
新選組!! 土方歳三 最期の一日
(新選組 から転送)
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『新選組!! 土方歳三 最期の一日』(しんせんぐみ ひじかたとしぞう さいごのいちにち)は、2006年(平成18年)に放送された『NHK正月時代劇』の一作である。2006年1月1日(デジタル衛星ハイビジョン 午後7時20分~8時49分)と1月3日(総合、デジタル総合 午後9時~10時29分)に放送された。再放送は1月7日(BS2 午後7時30分~8時59分)。作・脚本三谷幸喜。主演山本耕史。
- 1 新選組!! 土方歳三 最期の一日とは
- 2 新選組!! 土方歳三 最期の一日の概要
- 3 あらすじ
- 4 出演
固有名詞の分類
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