新羅 交通

新羅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 06:18 UTC 版)

交通

統一後に首都・金城に設けられた京都駅(都亭駅)を起点として五通と称される5つの主要街道が整備された。五通は北海通(北側)・塩池通(西側)・東海通(東側)・海南通(南西側)・北徭通(北西側)の5つとされているが、その具体的経路や最終目的地については議論がある[131]

文化

4世紀後半から6世紀前半にかけての慶州新羅古墳からは、金冠その他の金製品や西方系のガラス器など特異な文物が出土する。こうした6世紀前半以前の新羅出土のガラス器にローマ系統の技法のものが極端に多いことに注目して、ガラス工芸史の研究者の由水常雄は、新羅は北方の遊牧民経由でローマ帝国の文化を受け入れていた古代国家であるとする説を唱えた[132]。この頃の新羅は中国文化よりも北方の遊牧騎馬民族匈奴鮮卑など)の影響が強かったことを示している。また、5世紀後半から6世紀半ばに前方後円墳の築造が盛んになり、勾玉等の装飾品と共に日本から人・文化が流入した。

の時代の中国で書かれた職貢図には、

斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉 斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときはに属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。

とあり、当時の新羅には文字が無かったという。


仏教

三国遺事』『三国史記』によると、仏教は胡人の僧侶の手により新羅と高句麗にもたらされた[133]。新羅は528年法興王14年に仏教を公認した。なお、仏教は高句麗へは372年小獣林王2年)に伝来し、百済へは384年枕流王元年)に伝来している。なお、日本へは538年戊午年、宣化天皇3年)に伝来している[134]

新羅の僧侶には元暁(617年 - 686年)、義湘などがいる。

年表

  • 576年(新羅真興王37)、安弘法師が南朝陳より胡僧の吡摩羅等と帰国する。
  • 627年(新羅真興王49)、新羅僧慧超など3名インド入国する。
  • 719〜727年、新羅僧慧超が南海経由で五天竺訪問長安に帰国する。

新羅国[1]
新羅國[2]


前57年 - 935年

(新羅の印章)

三国時代後半の576年頃の半島
公用語 新羅語
古代朝鮮語のひとつ)
宗教 仏教儒教道教巫俗
首都 金城(クムソン、現慶州市
新羅王
紀元前57年 - 4年 赫居世居西干
927年 - 935年敬順王
変遷
建国 紀元前57年
仏教伝来530年
真興王の領土拡大551年 - 585年
半島統一676年
滅亡935年
現在 韓国
北朝鮮
  1. ^ 『旧唐書』新羅伝
  2. ^ 舊唐書/卷199上

註釈

  1. ^ 武田幸男「隋唐帝国と古代朝鮮」, 339-340頁
  2. ^ a b 朝鮮史研究入門 2011, p. 62
  3. ^ a b c d e 田中 2008, p. 82
  4. ^ a b 三国史記』「新羅本紀」第一, 井上訳, p. 3
  5. ^ a b 朝鮮史研究入門 2011, p. 63
  6. ^ 岡田 2001, pp. 130
  7. ^ 岡田 2001, pp. 130
  8. ^ 岡田 2001, pp. 130
  9. ^ 岡田 2001, pp. 132
  10. ^ 岡田 2001, pp. 132
  11. ^ 岡田 2001, pp. 132
  12. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, p. 30, 訳注5
  13. ^ 李 2000, pp. 72-73
  14. ^ a b 李 2000, p. 73
  15. ^ a b c d e f 李 2000, p. 74
  16. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, p. 32, 訳注15
  17. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, p. 4
  18. ^ a b 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, pp. 407-408
  19. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, p. 6
  20. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, pp. 15-17
  21. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳, p. 18
  22. ^ 井上 2010, p. ₋413
  23. ^ a b 早乙女 2000, p. 209
  24. ^ 早乙女 2000, p. 211
  25. ^ 山本 2018, p. 79
  26. ^ 『三国史記』「新羅本紀」井上訳
  27. ^ a b 田中 1995, p. 30
  28. ^ 熊谷 2008, pp. 44-48
  29. ^ 木下、宮島 1993, pp. 193-236
  30. ^ a b c d 李 2000, p. 75
  31. ^ a b c 森 2006, p. 86
  32. ^ a b c 李 2000, p. 76
  33. ^ a b c d e 武田 1997, p. 340
  34. ^ a b 武田 1997, p. 341
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  37. ^ 武田 1997, p. 348
  38. ^ a b 李 2000, pp. 77-78
  39. ^ a b c 李 2000, p. 78
  40. ^ a b c 李 2000, p. 85
  41. ^ 上田 2015, p. 185
  42. ^ 李 1998, pp. 290-293
  43. ^ 森 2006, p. 183
  44. ^ 李 2000, p. 87
  45. ^ 武田 1997, p. 363
  46. ^ a b 武田 1997, p. 364
  47. ^ 武田 1997, p. 365
  48. ^ 武田 1997, p. 370
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  50. ^ 武田 1997, p. 369
  51. ^ 武田 1997, p. 371
  52. ^ 森 2006, pp. 227-233
  53. ^ a b c 武田 1997, p. 372
  54. ^ 武田 1997, p. 373
  55. ^ a b c d e 田中 1995, p. 39
  56. ^ a b c 武田 1997, p. 375
  57. ^ 武田 1997, p. 376
  58. ^ 武田 1997, p. 377
  59. ^ a b c 武田 1997, p. 380
  60. ^ a b 武田 1997, p. 381
  61. ^ a b c d 李 2000, p. 92
  62. ^ a b c 武田 1997, p. 382
  63. ^ a b c d e 李 2000, p. 93
  64. ^ a b c d e 武田 1997, p. 383
  65. ^ 李 2000, p. 100
  66. ^ a b c 武田 1997, p. 401
  67. ^ 武田 1997, p. 402
  68. ^ 李 2000, p. 101
  69. ^ a b c d e f 三国史記』新羅本紀の記述より。田中史生『越境の古代史』ちくま新書、152-153頁
  70. ^ 北山茂夫「持統天皇論」『日本古代政治史の研究』1959年, 202-203頁
  71. ^ 『日本書紀』持統天皇元年三月丙戌
  72. ^ 『日本書紀』持統天皇元年四月癸卯
  73. ^ 『日本書紀』持統天皇三年四月庚寅
  74. ^ 韓奈末許満等12人。『日本書紀』持統天皇四年二月壬申
  75. ^ 『日本書紀』持統天皇四年八月乙卯
  76. ^ 『続日本紀』霊亀元年七月丙午
  77. ^ 『続日本紀』天平五年六月丁酉
  78. ^ a b c d e f g h 吉田孝『日本の誕生』岩波書店1997
  79. ^ 『続古事談』巻5・『塵添壒嚢鈔』巻5第23
  80. ^ 随員の雪連宅満は新羅到着前に既に病没していること、『三国史記』でも遣新羅使の新羅到着前後から聖徳王を含めた新羅側要人急死の記事が現れていることから、遣新羅使出発段階で既に感染者がおり、その往復によって日羅両国に感染が拡大した可能性も指摘されている。笠原永遠男「遣新羅使と疫瘡」 笠原編『日本古代の王権と社会』塙書房、2010年
  81. ^ 和田軍一「淳仁朝に於ける新羅征討計画について(一)」 1924
  82. ^ 東野治之『正倉院』岩波書店1988
  83. ^ a b c d e 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 291頁
  84. ^ 「日本国使至。慢而無礼。王不見之。乃廻。」『三国史記
  85. ^ 岸俊男『藤原仲麻呂』261-292頁。
  86. ^ 網野善彦『日本社会の歴史(上)』岩波書店、1997年、酒寄雅志『渤海と古代の日本』校倉書房、2001年
  87. ^ 日本後紀』による
  88. ^ 東野治之『正倉院』岩波書店、1988年、ISBN 4004300428
  89. ^ 吉田孝『日本の誕生』岩波書店、1997年、ISBN 4004305101
  90. ^ 『三国史記』新羅本紀・敬順王紀に記される区分に基づく。
  91. ^ 反乱の主体が政治的に律令制・貴族連合制のどちらの推進派であったかについては井上秀雄著『古代朝鮮』。
  92. ^ 貴族連合体制復活派の反乱としていた井上秀雄も、廉相・正門らは律令推進派とする見方にのちに転じている。→井上訳注1980 p.315 注65
  93. ^ 井上1972 pp.229-231.
  94. ^ 王家の祖廟を五廟としたことについては『礼記』王制篇「天子七廟諸侯五廟」に基づく。
  95. ^ 『旧唐書』211・新羅伝・貞元元年其年条
  96. ^ 『日本後紀』巻十二 延暦二十三年九月己丑条
  97. ^ 井上秀雄1972 p.236.
  98. ^ 日本後紀』巻二十五(逸文)嵯峨天皇弘仁七年(816年)冬十月:「甲辰。大宰府言、新羅人清石珍等一百八十人帰化。」
    同八年(817年):「二月乙巳。大宰府言、新羅人金男昌等卌三人帰化。」
  99. ^ a b c d e 日本後紀』弘仁三年(812年)正月五日に出された勅における、12月28日の太宰府奏上
  100. ^ 日本紀略
  101. ^ a b c d e f g h i 瀬野精一郎『長崎県の歴史』山川出版社。
  102. ^ 「新羅の一百十人、五艘の船に駕り小近島に着き、土民と相戦う。即ち九人を打ち殺し、一百人を捕獲す」『日本紀略』弘仁四年(813年)3月18日の条、およびその前後に記録された長崎県五島小値賀島への入寇をめぐる諸事項。
  103. ^ 日本後紀』弘仁四年(813年)3月18日に大宰府言上。肥前国司の今月四月解。
  104. ^ 『日本後紀』弘仁五年八月丙寅
  105. ^ 日本後紀
  106. ^ 『紀略』弘仁十一年(820年)2月26日条
  107. ^ 『日本後紀』巻卅二逸文(『類聚国史』一五九口分田)天長元年五月癸未
  108. ^ 井上秀雄1972 p.238.
  109. ^ 『三国史記』巻三十三・雑志二・色服条
  110. ^ a b c d 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 292頁
  111. ^ 『三国遺事』王暦では、839年1月22日に死去したとしている。
  112. ^ 井上訳注1980 p.385 注13
  113. ^ 日本三代実録』巻十六、貞観十一年(869年)6月15日から十八年3月9日条。
  114. ^ a b c d 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 294頁
  115. ^ 『三代実録』貞観十二年九月十五日甲子
  116. ^ a b 川尻秋生「日本の歴史|平安時代 揺れ動く貴族社会」小学館2008, 265頁
  117. ^ →井上訳注 p.386 注24、p.387 注29
  118. ^ 日本紀略』『扶桑略記』寛平5年(893年)および六年(894年)の条
  119. ^ 辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割其東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。(辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。)
  120. ^ 宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』PHP研究所PHP新書 387〉、2006年2月。ISBN 978-4569648804
  121. ^ 主簿は厳密には高句麗の3等官という序列ではないが、主簿に続けて高句麗官位と新羅官位の対比を記した『三国史記』職官志下の記述から、3等官に相当すると見られている(→武田編著2000 pp.94-95)。あわせて高句麗#官制を参照。
  122. ^ ハングル表記はko:신라의 관직を参照。
  123. ^ 「飡」の文字について、書籍では「飡(にすいに食)」とするものが多いが、朝鮮の金石文では「(さんずいに食)」とするものが多い。(→井上訳注1980、p.35)『三国史記』の底本については、奎章閣韓國學研究院の影印本が「飡(にすい)」とし、慶州重刊本(1512年)を1931年に影印とした古典刊行会本(学習院東洋文化研究所の学東叢書本)が「(さんずい)」としている。
  124. ^ 『三国史記』35・地理志・溟州条には、溟州はもとは高句麗の河西良であり、分注には何瑟羅とある。新羅本紀や異斯夫伝の本文には何瑟羅州の名で現れる。
  125. ^ 元の比列忽州、後の朔州に相当する州の687年時点の名称について、井上1972は牛首州とするが武田2000により首若州とする。なお、『三国史記』35・地理志・朔州条では朔州の由来を、本文は善徳女王6年(637年)に設置した牛首州とし、分注文武王13年(673年)に設置した首若州とする。同書・新羅本紀では、善徳女王・文武王の本紀記事には州の改称についての直接的な記事は見られず、景徳王の本紀における地名改称記事(景徳王16年(757年)12月条)では、首若州を朔州としたとしている。また、牛首州の別名として「烏根乃」の記述がある。
  126. ^ a b 『三国史記』新羅本紀・神文王6年2月条
  127. ^ 百済故地に対する所夫里州の設置とほぼ同年のことと考えられている。(→井上1972)
  128. ^ 『三国史記』36・地理志・全州条は、完山州の設置を真興王16年(555年)とし、同26年(565年)にいったん廃止、神文王5年(685年)に再設置したとするが、対応する真興王本紀の記事には州治を比斯伐(慶尚南道昌寧郡)としていたり、6世紀中頃には全羅道は未だ百済の支配下にあるために、は下州の誤りであると考えられている。(→井上1980)
  129. ^ 菁州は神文王5年に既存の州から分割設置されたことについて、『三国史記』新羅本紀・神文王紀では「居烈州」からの分割とし、同・地理志・康州条には、「居陁州」からの分割とする。
  130. ^ 景徳王によって改めて南原小京と改称されたわけではない。他の小京は『三国史記』地理志の各条に改称記事が見られるが、南原小京のみ改称の記事が見られない。
  131. ^ 田中俊明「朝鮮三国の交通制度と道路」館野和己・出田和久 編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』(吉川弘文館、2016年) ISBN 978-4-642-01728-2 P294-302
  132. ^ 由水2001
  133. ^ 鈴木靖民「遣唐使研究と東アジア史論」専修大学東アジア世界史研究センター年報第4号2010年3月、61頁
  134. ^ 詳細は、日本の仏教仏教公伝を参照
  1. ^ 中原高句麗碑は、高句麗の新羅に対する優越、新羅が高句麗を宗主として仰ぎ臣従したこと、高句麗が新羅の領内で役夫あるいは軍夫を徴発し組織していたこと、そして朝鮮半島中南部にある現在の忠州市に軍を駐屯させていたことなどを伝える。しかし、年次部分が摩滅により判読に支障をきたしていること、また干支表記であるため60年の間隔を置いて同一の年次表記が行われることなどから碑文が作成された年代には諸説ある。5世紀後半説を取る学者が多いが、5世紀前半とする学者もいる。この問題については木下礼仁と宮島一彦が連名の論文にて詳細なまとめを行っている[29]
  2. ^ 『日本書紀』にはこれ以前の倭国と高句麗の交渉についての記述があるものの確証が得られるものではなく、この570年の高句麗からの遣使が高句麗と倭国の確実な外交関係形成の最初の物であるという点で多くの論者が一致している[41][42][43]。詳細は高句麗を参照。





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