新嘗祭 祭具・祭服 

新嘗祭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 07:29 UTC 版)

祭具・祭服 

祭具

神嘉殿の殿内に神座、寝座、御座(天皇の座)が設けられる。これは、新嘗祭当日の午後に掌典長以下が奉仕して用意するものである。

  • 神座…黄端の短畳(たんじょう)。
  • 御座…白端の半畳。
  • 寝座…薄帖(薄い畳)を何枚も重ね敷き、南に坂枕を置き、羽二重袷(はぶたえあわせ)仕立ての御衾(おふすま)が掛けられる。この御衾は、天孫降臨時にニニギノミコトが真床追衾(まとこおふすま)にくるまれていた故事によるものである。その端には女儀用の櫛、檜扇(ひおうぎ)、沓(くつ)などが置かれる。古くは寝座を「第一の神座」と称した。

神座と御座は相対して伊勢神宮の方向(現在は南西。東京奠都以前は南東方向であった)を向いており、寝座は神座・御座の東、殿内のほぼ中央に南北に敷かれる[29]

祭服

御祭服は、大嘗祭の悠紀殿の儀、主基殿の儀、および新嘗祭の時にのみ天皇が着る。天皇の着る神事の服の中で最も清浄かつ神聖な服装で、純白生織りのままの絹地で製作される。

冠は幘(さく)の冠で、白平絹で巾子に纓を結びつけている。また袍は御斎衣といわれ、普通の仕立と異なり、雨覆(あまおおい)という裂が襴の上にあり、襴は入襴になっていて、ありさきはない[11]

神饌 

神饌として、以下のものが供される。

  • 稲作物…米の蒸し御飯、米の御粥、粟の御飯、粟の御粥、新米から醸した白酒しろき黒酒くろき
  • 鮮魚…鯛、烏賊、鮑、鮭を甘塩にして三枚に卸し、背の部分を小さい短冊形に切り、一品ずつ四筥に納める。
  • 干物…干鯛、鰹、蒸鮑、干鱈で、筥に納める。
  • 果物…干柿、かち栗、生栗干、で、筥に納める。
  • 他には蛤の煮付け、海藻の煮付け、鮑の羹、海松みるの羹がある。
ここで用いられる「筥」は、葛を編んだものである。
調理用の火は、鑚火きりび忌火を用いる(「忌」とは、この上なく清浄という意味)。
これらを盛る容器は、御酒や汁物には土器が用いられるが、他は窪手、枚手ひらてで、いずれも柏の葉に竹のひごを刺して作られたものである。窪手は筥型で盛り付け用、枚手は丸い皿型で取り分け用で、窪手の中の神饌を枚手に取り分けて神前に供える。これは食薦すごもの上に並べて供える[30]
神饌はそれ自体が神として扱われており、奉持して運ぶことを「神饌行立(行立)」という[注釈 20]。掌典が階下に控えて警蹕を唱える[注釈 21][31]

式次第

鎮魂祭

まず、新嘗祭の前日に綾綺殿で鎮魂祭が行われる。鎮魂祭には新嘗祭に臨む天皇の霊を強化するという意義があるとされる。神楽の奉納が行われる。

新嘗祭 賢所・皇霊殿・神殿の儀

新嘗祭当日、14時に宮中三殿で「新嘗祭賢所皇霊殿神殿の儀」が行われる。この儀式では、天皇に代わり掌典職が宮中三殿に神饌と幣帛を捧げ、代拝を行う[9]。また、午後に掌典長以下が神嘉殿内の母屋神座、寝座、御座の奉安を行う。

神嘉殿の儀

夜、「神嘉殿の儀」が行われる。まず、侍従が剣璽を、東宮侍従壺切御剣を奉安する。次いで、皇太子が斎戒沐浴し、東宮便殿で祭服に着替え、天皇より先に神嘉殿に入り、御座につく。次いで、天皇も斎戒沐浴の後に綾綺殿で白の御祭服を着用し、松明の明かりが照らす中を神嘉殿に渡御する。この時、楽師により神楽歌が奏でられる。

次に、神饌行立が行われる。天皇は神嘉殿内の母屋で神座の前の御座に正座し、神饌が用意されると、御手水の後、古来のやり方に則りピンセット型の竹箸で柏の葉の皿に神饌を移し、神前に供える(しん)。親供が終わると、自ら天照大神および天神地祇の諸神に告文つげぶみを奏上する。この時、皇太子は座を立ち、南庇の間の中央の座(母屋御扉口の拝座)につき、拝礼する。帳舎の参列者は起立する。続いて帳舎の参列者が正面階下で拝礼する。その後天皇が、神前に供えたものと同じもの(詳細は神饌の節を参照)を食す(御直会おんなおらい[注釈 22]。それが終わると、陪膳采女の奉仕で神饌が下げられ、天皇は御手水の後、綾綺殿に還御する[11]

この後、天皇は綾綺殿で再び斎戒沐浴、更衣、神嘉殿へ渡御し、全く同じ所作を再び行う。この2度の所作をそれぞれ「夕御饌の儀」「朝御饌の儀」と呼んでおり、旧例ではそれぞれ亥刻から子刻(22時から0時)および寅刻から卯刻(4時から6時)、現在は18時から20時および23時から1時に行われている[32]

豊明節会

奈良時代頃から平安時代にかけては、新嘗祭の翌日に豊明節会が行われていた。

伊勢神宮の供儀

新嘗祭当日には神宮(伊勢神宮)でも外宮と内宮で神饌を供える(「新嘗祭大御饌の儀」)。また、神宮に勅使を遣わし(16日に皇居で「神宮勅使発遣の儀」を行う)、外宮、内宮の順に幣帛と五穀を供える(「新嘗祭奉幣の儀」)。神宮では両宮に引き続き、7日間かけて関連するすべての宮社で新嘗祭の一連の儀式を行う[33]


注釈

  1. ^ 万葉集の東歌に「誰れぞこの屋の戸押(お)そぶる新嘗(にふなみ)に我が背を遣りて斎(いは)ふこの戸を」(巻14-3460)という歌が見える。
  2. ^ 『古事記』上巻、『日本書紀』神代第七段本文、神代第九段本文、神代第九段第三の一書
  3. ^ 工藤隆は、日本列島の民俗儀礼において稲魂には女性性や生殖性の観念が付随していたとして、その具体的な事例として奥能登(石川県北部)のアエノコトという風習を例に挙げている[3]
  4. ^ 「嘗」は「にひなへする」以外に「たてまつる」「なむ」と訓読することもできる。
  5. ^ 肥後和男は、この物語は新嘗の歴史にとってきわめて重要な伝承で、清浄にして神聖な材料を供物に用いることや、旧暦の十月一日が新穀のできる時期であることから新嘗にふさわしい時期であることなど、古代における新嘗祭のやりかたを伝えている、と述べた[4]。また、真弓常忠はこの記述について「少なくとも大嘗祭の原像を伺う資とすることができる」と述べ、また、ここでは天照大神の御名は見えず、天皇は高皇産霊尊を祀っていることを指摘し、天照大神という人格神が形成される以前の段階を現わしているという説を述べている[5]
  6. ^ 神代(記紀神話)を除く。
  7. ^ 飛鳥浄御原令あるいは大宝律令において明文化されたと考えられている。
  8. ^ 養老令』(757年)の「神祇令」仲冬条には「上卯(かみのう)に相嘗祭(あいんべのまつり)、寅日に鎮魂祭、下卯(しものう)に大嘗祭(おおんべのまつり)」とある。また、それ以前の記録では『日本書紀』に、新嘗祭を舒明天皇11年(639年)「乙」の日に、皇極天皇元年(642年)「丁」の日にそれぞれ行ったことが書かれている。これらの記事は新嘗祭を「卯」の日に行うという慣例が、律令以前にすでに出来上がっていたことを示すものであると考えられる[12]
  9. ^ 真弓常忠は「陰暦十一月の二の卯の日は冬至の前後にあたり、持統天皇の大嘗祭が冬至であったことによって判るように、元来は冬至の日に行うのが本旨であろう」と推測している。
  10. ^ 新嘗祭は明治6年以降新暦を採用し続けているが、同時に一旦は新暦を採用した神嘗祭が、イネの生育の問題から明治12年(1879年)以降は月遅れを採用して新暦10月17日に行われるようになったため、神嘗祭と新嘗祭の間隔は約1ヶ月縮まっている。
  11. ^ 昭和23年(1948年)7月20日公布。
  12. ^ ただし改暦以降も、大嘗祭は(新暦)11月の二回目の卯の日に行われたために、大正・昭和の大嘗祭が行われた大正4年(1915年)と昭和3年(1928年)は11月23日は休日とはならなかった。
  13. ^ a b 『神祇令』(701年)には「大嘗は、世毎に一年、国司事を行え。以外は年毎に所司事を行え」とあるので、『神祇令』の段階では即位の時の大嘗祭と年中行事としての新嘗祭を、どちらも大嘗祭と呼んでいたことがわかる[14]
  14. ^ 14世紀後半に成立。
  15. ^ 珍なふ(うずなう)は(神が)承諾する、の意味。
  16. ^ 稲作の起源について、記紀神話においては、ニニギノミコトが天上界から地上に降りる(天孫降臨)に際し、天照大神がこれに稲穂を授けたことを起源とする(斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅)。
  17. ^ 宮中祭祀に近侍した星野輝興掌典は「新嘗祭における神々への御礼は、奉幣を以て行われてあるのでありますから、新嘗祭即ち宮中神嘉殿に於ける新嘗祭は、御礼を主としたものでは無いということができると存じます」「陛下の召上り給う時の御模様は、(中略)皇孫御降臨の節、皇祖よりお授けになった斎庭の稲穂をお受け遊ばすものと解し奉る外ないように拝されます」と述べている[18]
  18. ^ 現代語に残存するところでは「オコナフ」(行う)・「アキナフ」(商う)・「ウベナフ」(諾う)の「ナフ」であり、これを語尾につけて「贄」を動詞化したもの。
  19. ^ ここでの「嘗める」は、「試みる」の意。
  20. ^ 「行立」は生きつつ立ち、立ちつつ行くの意。
  21. ^ 神霊の動座に際し、「オーシー」と唱えること。
  22. ^ 宮中祭祀に近侍した星野輝興掌典によると「陛下が新穀を聞食されるに当たって、(中略)いよいよ召上がるに当り、サバ(散飯)をサバの神へ奉られる」といい、「サバ」は、散飯、生飯、左波、三把、最把、最花などと表記するが、もとは梵語である。インドでは餓鬼に中国では鬼神に施すためとされた。わが国でもむかしから陛下も散飯(サバ)をとられることが『侍中要群』『江家次第』『禁秘御抄』『建武年中行事』等にも散見できる」[18]という。

出典

  1. ^ a b 真弓常忠 (2019), p. 40.
  2. ^ a b 西角井正慶 (1958), p. 584.
  3. ^ 工藤隆 (2017), p. 112.
  4. ^ 肥後和男 (1955), pp. 12–13.
  5. ^ 真弓常忠 (2019), p. 144.
  6. ^ 工藤隆 (2017), p. 47、104.
  7. ^ 松前健 (2003), p. 78.
  8. ^ 工藤隆 (2017), p. 17.
  9. ^ a b 入江相政『宮中歳時記』
  10. ^ “知っておきたい「新嘗祭」貴重映像で解説”. 日テレNEWS24. 日本テレビ放送網. (2017年11月22日). https://news.ntv.co.jp/category/society/378590 2019年12月9日閲覧。 
  11. ^ a b c 『神社のいろは』扶桑社
  12. ^ 工藤隆 (2017), pp. 129–130.
  13. ^ 国民の祝日に関する法律
  14. ^ 工藤隆 (2017), p. 43.
  15. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 52–53.
  16. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 53–54.
  17. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 57–59.
  18. ^ a b 星野輝興 (1987).
  19. ^ a b 真弓常忠 (2019), p. 60.
  20. ^ 工藤隆 (2017), p. 8.
  21. ^ 真弓常忠 (2019), p. 45.
  22. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 45–47.
  23. ^ 真弓常忠 (2019), p. 47.
  24. ^ 折口信夫 (2019).
  25. ^ 工藤隆, p. 206.
  26. ^ 柳田国男『稲の産屋』、1953年
  27. ^ 三品彰英 (1973).
  28. ^ 工藤隆 (2017), p. 204.
  29. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 49–50.
  30. ^ 真弓常忠 (2019), p. 50.
  31. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 50–51.
  32. ^ 真弓常忠 (2019), p. 52.
  33. ^ http://www.isejingu.or.jp/sp/topics/03tl4gk2.html [リンク切れ]
  34. ^ 出雲大社教教務本庁『出雲大社教布教師養成講習会』1989年9月全427頁中328頁





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