新嘗祭 概要

新嘗祭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 07:29 UTC 版)

概要

新嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇(てんじんちぎ)に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式である[1]。毎年11月23日宮中三殿の近くにある神嘉殿にて執り行われる[2]。同日には全国の神社でも行われる。

なお、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を、特に大嘗祭(だいじょうさい、おおにえまつり、おおなめまつり)という。

歴史

古くから、日本各地に五穀の収穫を祝う風習があった[注釈 1]。また、宮中祭祀の中で最も重要な祭事として古代から行われてきた。

記紀神話に「大嘗」(『古事記』)或いは「新嘗」(『日本書紀』)の記述がある[注釈 2]

新嘗に関する記録の中で最初のものは、『日本書紀神武天皇即位前紀の次の記述である。

乃ち丹生にふの川上五百箇いほつさか抜取ねこじにして、諸神もろかみたちいはひたまふ。此より始めていつおきものあり。時に道臣命みちのおみのみことみことのりすらく、「今たかむすのみことを以て朕みずか顕斎うつしいはひさむ。なんじもちひ斎主いはひのうしとして、授くるに厳媛いつひめを以てせむ。其の置けるはになづけていつとす。又、火の名をばいつのつちとす。水の名をばいつの罔象女みつはのめとす。おしものの名をばいつの稲魂女うかのめとす[注釈 3]たきぎの名をばいつの山雷やまつちとす。草の名をばいつのづちとす」とのたまふ。冬十月の癸巳ついたち、天皇、いつおしものにひなへしたまひて[注釈 4]、兵をととのへて出でたまふ。先づ八十やそ梟帥たけるくにみのおかに撃ちて、やぶりつ。[注釈 5]——『日本書紀』巻第三 神日本磐余彦天皇

"新嘗"の語を用いた記録の中で最も古いもの[注釈 6] は『日本書紀仁徳天皇40年条に

とし新嘗の月にあたりて、宴会とよのあかりの日を以て、おほみき內外命婦ひめとねたちたまふ。——『日本書紀』巻第十一 大鷦鷯天皇

とある。これらの記述が史実をどの程度反映しているのかは明らかではないが、新嘗祭の儀式の中に弥生時代に起源を持つと考えられるものがあるため、その原型は弥生時代に遡るという説もある[6]

古事記雄略天皇の段の「天語歌」も当時の新嘗祭の様子を表していると言われている。大きな樹の下で新嘗の祭宴が行われ、采女が杯を大王にささげ「高光る日の御子やすみししわが大王(おおきみ)」と讃える様子が描かれている[7]

その後、律令により国家祭祀としての体裁を整えていった[注釈 7]。また、皇位継承儀礼に組み込まれ(大嘗祭を参照)、伊勢神宮の神事の形式を取り入れながら、宮中祭祀として続いてきた[8]

後花園天皇寛正4年(1463年)に行われて以降、応仁の乱や朝廷の窮乏により長らく中断していたが、東山天皇元禄元年(1688年)に霊元上皇の強い意向により「新嘗御祈」という形で略式に再興(この前年の貞享4年(1687年) に大嘗祭も再興)している。ただし祭場となる神嘉殿がないため、紫宸殿を代わりの場として用いた。ついで桜町天皇元文5年(1740年)に元の形に復興し、光格天皇寛政3年(1791年)には内裏の造営に伴って神嘉殿が再建された。その年以来、現在に至るまで毎年、宮中祭祀として続けられている[9]

明治5年(1872年)から、新嘗祭に合わせて神宮(伊勢神宮)に勅使が遣わされるようになった。

明治41年(1908年9月19日制定の「皇室祭祀令」では大祭に指定。同法令は昭和22年(1947年5月2日に廃止されたが、以降もこれに則って新嘗祭が行われている。

平成25年(2013年12月23日宮内庁は当時の天皇誕生日(上皇明仁80歳誕生日)に際して初めて新嘗祭の様子の一部を映像で公開した[10]

新嘗祭まで新米を口にしない風習が古代からあったが、第二次世界大戦後に衰退した[11]

祭日

明治6年の改暦より以前は太陽太陰暦旧暦)の11月の二のの日(卯の日が2回しかない場合は下卯、3回ある場合は中卯とも呼ばれる、旧暦11月13日~24日のいづれかが該当する)に行われていた[注釈 8][注釈 9]改暦の年である明治6年(1873年)に、旧暦で実施すると翌年1月になってしまうため、グレゴリオ暦新暦)を採用することとなり、同年11月の二の卯の日にあたる11月23日に行われた。11月の二の卯の日は11月13日から11月24日の間で毎年変動するが、翌年以降も毎年11月23日に行われ、今日に至っている[1][注釈 10]

また、「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および「休日ニ関スル件」により、明治6年(1873年)から昭和22年(1947年)まで同名の祭日休日)であった。昭和23年(1948年)公布の国民の祝日に関する法律(祝日法、昭和23年法律第178号)[注釈 11]により、勤労感謝の日と改称されて国民の祝日となっている[2][13]

なお、固定日の休日の中で最も長く続いている休日である[注釈 12]


注釈

  1. ^ 万葉集の東歌に「誰れぞこの屋の戸押(お)そぶる新嘗(にふなみ)に我が背を遣りて斎(いは)ふこの戸を」(巻14-3460)という歌が見える。
  2. ^ 『古事記』上巻、『日本書紀』神代第七段本文、神代第九段本文、神代第九段第三の一書
  3. ^ 工藤隆は、日本列島の民俗儀礼において稲魂には女性性や生殖性の観念が付随していたとして、その具体的な事例として奥能登(石川県北部)のアエノコトという風習を例に挙げている[3]
  4. ^ 「嘗」は「にひなへする」以外に「たてまつる」「なむ」と訓読することもできる。
  5. ^ 肥後和男は、この物語は新嘗の歴史にとってきわめて重要な伝承で、清浄にして神聖な材料を供物に用いることや、旧暦の十月一日が新穀のできる時期であることから新嘗にふさわしい時期であることなど、古代における新嘗祭のやりかたを伝えている、と述べた[4]。また、真弓常忠はこの記述について「少なくとも大嘗祭の原像を伺う資とすることができる」と述べ、また、ここでは天照大神の御名は見えず、天皇は高皇産霊尊を祀っていることを指摘し、天照大神という人格神が形成される以前の段階を現わしているという説を述べている[5]
  6. ^ 神代(記紀神話)を除く。
  7. ^ 飛鳥浄御原令あるいは大宝律令において明文化されたと考えられている。
  8. ^ 養老令』(757年)の「神祇令」仲冬条には「上卯(かみのう)に相嘗祭(あいんべのまつり)、寅日に鎮魂祭、下卯(しものう)に大嘗祭(おおんべのまつり)」とある。また、それ以前の記録では『日本書紀』に、新嘗祭を舒明天皇11年(639年)「乙」の日に、皇極天皇元年(642年)「丁」の日にそれぞれ行ったことが書かれている。これらの記事は新嘗祭を「卯」の日に行うという慣例が、律令以前にすでに出来上がっていたことを示すものであると考えられる[12]
  9. ^ 真弓常忠は「陰暦十一月の二の卯の日は冬至の前後にあたり、持統天皇の大嘗祭が冬至であったことによって判るように、元来は冬至の日に行うのが本旨であろう」と推測している。
  10. ^ 新嘗祭は明治6年以降新暦を採用し続けているが、同時に一旦は新暦を採用した神嘗祭が、イネの生育の問題から明治12年(1879年)以降は月遅れを採用して新暦10月17日に行われるようになったため、神嘗祭と新嘗祭の間隔は約1ヶ月縮まっている。
  11. ^ 昭和23年(1948年)7月20日公布。
  12. ^ ただし改暦以降も、大嘗祭は(新暦)11月の二回目の卯の日に行われたために、大正・昭和の大嘗祭が行われた大正4年(1915年)と昭和3年(1928年)は11月23日は休日とはならなかった。
  13. ^ a b 『神祇令』(701年)には「大嘗は、世毎に一年、国司事を行え。以外は年毎に所司事を行え」とあるので、『神祇令』の段階では即位の時の大嘗祭と年中行事としての新嘗祭を、どちらも大嘗祭と呼んでいたことがわかる[14]
  14. ^ 14世紀後半に成立。
  15. ^ 珍なふ(うずなう)は(神が)承諾する、の意味。
  16. ^ 稲作の起源について、記紀神話においては、ニニギノミコトが天上界から地上に降りる(天孫降臨)に際し、天照大神がこれに稲穂を授けたことを起源とする(斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅)。
  17. ^ 宮中祭祀に近侍した星野輝興掌典は「新嘗祭における神々への御礼は、奉幣を以て行われてあるのでありますから、新嘗祭即ち宮中神嘉殿に於ける新嘗祭は、御礼を主としたものでは無いということができると存じます」「陛下の召上り給う時の御模様は、(中略)皇孫御降臨の節、皇祖よりお授けになった斎庭の稲穂をお受け遊ばすものと解し奉る外ないように拝されます」と述べている[18]
  18. ^ 現代語に残存するところでは「オコナフ」(行う)・「アキナフ」(商う)・「ウベナフ」(諾う)の「ナフ」であり、これを語尾につけて「贄」を動詞化したもの。
  19. ^ ここでの「嘗める」は、「試みる」の意。
  20. ^ 「行立」は生きつつ立ち、立ちつつ行くの意。
  21. ^ 神霊の動座に際し、「オーシー」と唱えること。
  22. ^ 宮中祭祀に近侍した星野輝興掌典によると「陛下が新穀を聞食されるに当たって、(中略)いよいよ召上がるに当り、サバ(散飯)をサバの神へ奉られる」といい、「サバ」は、散飯、生飯、左波、三把、最把、最花などと表記するが、もとは梵語である。インドでは餓鬼に中国では鬼神に施すためとされた。わが国でもむかしから陛下も散飯(サバ)をとられることが『侍中要群』『江家次第』『禁秘御抄』『建武年中行事』等にも散見できる」[18]という。

出典

  1. ^ a b 真弓常忠 (2019), p. 40.
  2. ^ a b 西角井正慶 (1958), p. 584.
  3. ^ 工藤隆 (2017), p. 112.
  4. ^ 肥後和男 (1955), pp. 12–13.
  5. ^ 真弓常忠 (2019), p. 144.
  6. ^ 工藤隆 (2017), p. 47、104.
  7. ^ 松前健 (2003), p. 78.
  8. ^ 工藤隆 (2017), p. 17.
  9. ^ a b 入江相政『宮中歳時記』
  10. ^ “知っておきたい「新嘗祭」貴重映像で解説”. 日テレNEWS24. 日本テレビ放送網. (2017年11月22日). https://news.ntv.co.jp/category/society/378590 2019年12月9日閲覧。 
  11. ^ a b c 『神社のいろは』扶桑社
  12. ^ 工藤隆 (2017), pp. 129–130.
  13. ^ 国民の祝日に関する法律
  14. ^ 工藤隆 (2017), p. 43.
  15. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 52–53.
  16. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 53–54.
  17. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 57–59.
  18. ^ a b 星野輝興 (1987).
  19. ^ a b 真弓常忠 (2019), p. 60.
  20. ^ 工藤隆 (2017), p. 8.
  21. ^ 真弓常忠 (2019), p. 45.
  22. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 45–47.
  23. ^ 真弓常忠 (2019), p. 47.
  24. ^ 折口信夫 (2019).
  25. ^ 工藤隆, p. 206.
  26. ^ 柳田国男『稲の産屋』、1953年
  27. ^ 三品彰英 (1973).
  28. ^ 工藤隆 (2017), p. 204.
  29. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 49–50.
  30. ^ 真弓常忠 (2019), p. 50.
  31. ^ 真弓常忠 (2019), pp. 50–51.
  32. ^ 真弓常忠 (2019), p. 52.
  33. ^ http://www.isejingu.or.jp/sp/topics/03tl4gk2.html [リンク切れ]
  34. ^ 出雲大社教教務本庁『出雲大社教布教師養成講習会』1989年9月全427頁中328頁





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