斉明天皇
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皇極天皇 斉明天皇 | |
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『御歴代百廿一天皇御尊影』より「斉明天皇」 | |
時代 | 飛鳥時代 |
先代 |
舒明天皇(第34代) 孝徳天皇(第36代) |
次代 |
孝徳天皇(第36代) 天智天皇(第38代) |
誕生 | 西暦594年 |
崩御 | 661年8月24日 |
陵所 | 越智崗上陵 |
漢風諡号 |
皇極天皇(第35代) 斉明天皇(第37代) |
和風諡号 | 天豊財重日足姫天皇 |
諱 | 寶(宝) |
父親 | 茅渟王(敏達天皇皇孫) |
母親 | 吉備姫王(欽明天皇皇孫) |
皇配 |
高向王 舒明天皇 |
子女 |
漢皇子 天智天皇 間人皇女 天武天皇 |
皇居 |
皇極天皇: 1. 飛鳥板蓋宮 斉明天皇: 1. 飛鳥板蓋宮 2. 飛鳥川原宮 3. 飛鳥後岡本宮 4. 飛鳥田中宮 5. 朝倉橘広庭宮 |
女帝。皇極天皇が重祚して斉明天皇。 |
宝皇女 | |
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第34代天皇后 | |
皇后 | 630年3月1日(舒明天皇2年1月12日)(大后) |
配偶者 | 舒明天皇 |
高向王 |
舒明天皇の皇后で、天智天皇・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・天武天皇の母である。推古天皇から1代おいて即位した女帝(女性天皇)になる。
諱・諡号
諱は寶女王(たからのひめみこ/たからのおおきみ、新字体:宝女王)、または寶皇女(読みは同じ、新字体:宝皇女)。後者の諱の表記の方が一般化しているが、これは後世の尊称とみられている。
『日本書紀』及び『藤氏家伝』によると孝徳天皇に譲位した後、重祚する前は皇祖母尊(すめみおやのみこと)と呼ばれた[注釈 1]。また『万葉集』の中皇命(なかつすめらみこと)を斉明天皇とする説もある[注釈 2]。
和風諡号は天豐財重日足姬天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと、新字体:天豊財重日足姫天皇)。漢風諡号の「皇極天皇」「斉明天皇」は代々の天皇と共に淡海三船によって名付けられたとされる[注釈 3]。
略歴
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後に舒明天皇2年1月12日(630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。
舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、 舒明天皇が崩御する。
皇極天皇としての即位
舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、推古天皇の時と同様、中継ぎの女帝として皇極天皇元年(642年)1月15日、皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行った。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。
皇極天皇元年1月29日(642年3月5日)には安曇比羅夫が百済の弔使を伴って帰国。同年4月8日(5月12日)には追放された百済の王族、翹岐が従者を伴い来日した。同年7月22日(8月22日)に百済の使節、平智積(へいちしゃく)らを饗応し、健児に命じて、翹岐の目の前で相撲をとらせた。これが記紀上初の相撲節会の記述となる。同年7月25日(8月25日)、蘇我蝦夷が雨乞いのため大乗経典を転読させたが、微雨のみで効果がなかったため29日にやめるが、8月1日(8月31日)、天皇が南淵の河上にて跪き四方を拝み、天に祈ると雷が鳴って大雨が降る。雨は五日間続いたと伝わる。このことを民衆が称えて「至徳まします大王」と呼ばれた。同年9月3日(10月1日)、百済大寺の建立と船舶の建造を命じる。9月19日に宮室を造ることを命じる。同年12月21日(643年1月16日)、小墾田宮に遷幸。
皇極天皇2年4月28日(643年5月21日・50歳)には、更に飛鳥板蓋宮に遷幸。11月1日(12月16日)、蘇我入鹿が山背大兄王を攻め、11月11日に王は自害。
乙巳の変
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが皇極天皇がいる中で宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変・大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に大王位を譲った。日本史上初の天皇の譲位(退位)とされる。
新大王の孝徳天皇より、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号が奉られた。
孝徳天皇の時代
- 白雉2年3月15日(651年4月10日) - 十師たちを呼んで設斎。
- 白雉4年(653年)、皇祖母尊は中大兄皇子と共に、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に遷幸。
- 白雉5年10月1日(654年11月15日)、中大兄皇子と共に、病に罹った孝徳天皇を見舞うべく難波長柄豊碕宮に行幸。10月10日、孝徳天皇が崩御。12月8日に大坂磯長陵に葬り、行宮に戻る。
重祚
孝徳天皇の崩御後、斉明天皇元年(655年)1月3日、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に即いた(史上初の重祚)[注釈 4]。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。『日本書紀』によれば、しばしば工事を起こすことを好んだため、労役の重さを見た人々が批判した。
斉明天皇元年には、高句麗、百済[注釈 5]、新羅[注釈 6]が使を遣わして朝貢してきた。また、蝦夷と隼人も衆を率いて内属し、朝献した。
有間皇子の変に際して、蘇我赤兄は天皇の3つの失政を挙げた。 大いに倉を建てて民の財を積み集めたのが一、長く溝を掘って公糧を損費したのが二、船に石を載せて運び積んで丘にしたのが三である。なお、研究者の中には、これらの工事を飛鳥盆地とその周辺を宮都として整備する構想の一環であったとする見解もある(→飛鳥京)[1]。
対外政策
対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。
蝦夷平定
『日本書紀』では、北方の蝦夷に対し、三度にわたって阿倍比羅夫を海路の遠征に送って「後方羊蹄(シリベシ)」に至り、政所を置き郡領を任命して帰った[2]とある。さらに「幣賄弁島(へろべのしま)」まで出兵し、能登馬身龍が戦死するも粛慎 (みしはせ)に勝利したと伝える。「後方羊蹄」については、余市説[注釈 7][3](後志国余市郡)、末期古墳のある札幌・江別説(石狩国札幌郡)や恵庭・千歳説(胆振国千歳郡)[注釈 8]のほか、松浦武四郎の尻別川流域説など諸説ある。「幣賄弁島」については粛慎の本拠地である樺太とする説[4]や、奥尻島とする説などがある。北海道ではなく、青森に比定する説も強く、定説は存在しない。
遺伝子分析の結果[5][6]から、ニヴフやギリヤークと言った人々とオホーツク文化人遺跡で発掘された遺骨の調査により、オホーツク文化人がニブフ、ギリヤーク人と類縁である。粛慎 (みしはせ)がオホーツク文化人と推測する説があるが、確証はなく、推論の域を出ない。詳細は粛慎 (みしはせ)の項を参照。
朝鮮半島への軍事介入
在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、日本軍は朝鮮半島南部に上陸し、白村江の戦いを戦ったが、唐と新羅の連合軍に敗北した。
直木孝次郎は斉明天皇のこれらの動向について、記紀における神功皇后の三韓征伐説話のモデルになったのではないかと推測している[7]。
注釈
- ^ 斉明天皇は孝徳天皇の姉であるが義理の母でもある。皇極天皇2年(643年)に亡くなった斉明天皇の母の吉備姫王も吉備島皇祖母命(きびのしまのすめみおやのみこと)と呼ばれ、天智天皇3年(664年)に亡くなった舒明天皇の母の糠手姫皇女も嶋皇祖母命と呼ばれた。
- ^ 間人皇女とする説もある。
- ^ 諡号に「皇」が含まれるのは異例であるが、上記の「皇祖母尊」の影響が考えられる。
- ^ この62歳での即位は光仁天皇と並ぶ高齢記録だが、斉明天皇は重祚であるため最高齢記録として捉えられることは稀である。
- ^ 百済の大使は余宜受、副使は調信仁で、総員100余人であった。
- ^ 新羅は弥武を人質にし、別に12人を才伎人にしたが、弥武は病死。
- ^ 地方史研究所編「余市」に瀧川政次郎「後方羊蹄」=余市説
- ^ 北海道歴史家協議会編「歴史家―第四号」河野廣道 胆振鉏=勇払又は江別、後方羊蹄=江別と苫小牧の間とする説など。
出典
- ^ 木下正史『古代の漏刻と時刻制度』(吉川弘文館、2020年)P363-375.
- ^ 苫小牧駒澤大学:駒大在学生応援:インターネット講座■ 第4回 北海道と胆振地方の古代史(アーカイブ)
- ^ 余市町でおこったこんな話 その158「『余市』の刊行と阿倍比羅夫(その2)」|まちの紹介 |北海道余市町ホームページ
- ^ 西鶴定嘉『樺太史の栞』( 樺太庁、1941年)
- ^ 消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」北大が調査。朝日新聞2009年2月4日
- ^ オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー 北海道新聞2012年6月18日朝刊
- ^ 直木孝次郎『神話と歴史』(吉川弘文館、2006年)
- ^ 奈良県立図書情報館長・帝塚山大学特別客員教授 千田稔 (2014年4月8日). “斉明天皇(3)「狂心」と非難された無謀な運河開削”. 産経WEST. 産経新聞. 2016年2月3日閲覧。
- ^ “帝斉明天皇の陵墓と特定 奈良・牽牛子塚古墳” (日本語). 47NEWS (共同通信). (2010年9月9日) 2010年9月9日閲覧。
- ^ a b 河内祥輔 『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年)P54-60
- ^ a b 佐藤長門「七世紀における倭王権の展開過程」(初出:『国学院大学研究紀要』39号、2001年/所収:佐藤『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年 ISBN 978-4-642-02471-6)
- ^ 『善光寺縁起ものがたり』光竜堂、2009年4月1日、144-154頁。
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