文禄・慶長の役 概要

文禄・慶長の役

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 07:13 UTC 版)

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、天正20年/万暦20年/宣祖25年[注 11]1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年[注 11]1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、対馬を侵略した朝鮮による応永の外寇以来の朝鮮半島国家との戦争であった[21]


注釈

  1. ^ 1709年の初筆を1760年に模写したもの。
  2. ^ ただし晋州城攻略は実施した。
  3. ^ a b c 毛利家文書では七番隊とされる。しかし、松浦古事記等には六番隊と同じグループに書かれており、毛利輝元は実際には六番隊と行動を共にしていた。徳富蘇峰等も先駆衆を六軍とする。
  4. ^ a b c 毛利家文書では八番隊とされる。松浦古事記には隊に番号が付けられておらず、朝鮮国都表出勢衆を3つのグループに分けていた。
  5. ^ a b c 毛利家文書には書かれてない諸部隊。松浦古事記による。
  6. ^ 「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II」より、ルイス・フロイスらが「百方手を尽くして」情報収集した結果、「もっとも信頼でき、かつ正確」だと判断した数字。死因については「敵によって殺された者はわずかであり、大部分の者は、まったく、労苦、飢餓、寒気、および疾病によって死亡したのである」と記している。
  7. ^ a b c d ウィキソース(中国語)
    自倭亂朝鮮七載,喪師數十萬,糜餉數百萬,中朝與屬國迄無勝算,至關白死而禍始息。
  8. ^ 朝鮮の人口推移:1392年(554万人)、1522年(1061万人)、1591年(1409万人)、1637年(1063万人)、1822年(1621万人)、1910年(1742万人)。Estimated data are from Kwon and Sin, "Choson." Composite recorded data are from the Hogu ch'ongsu (1789); Choson Wangjo Sillok entries and T'akchiji entries are from the Seoul National University edition of the Hogu ch'ongsu; records from 1864 to 1924 are from Zensho, Chosen. The Journal of Economic History, Vol. 68, No. 1 (Mar., 2008), pp. 244-282
  9. ^ ルイス・フロイスは朝鮮人の被害について、日本のものと比べ次のように記している。『朝鮮人の死者については知り得なかったが、死者と捕虜を含め、その数は日本人のそれとは比較にならぬほど膨大であった。なぜならば、都その他の地方に連れて行かれた者を除き、この下(しも)にいる捕虜の数は、数えきれぬほど多いからである。』完訳フロイス日本史5 第44章より。
  10. ^ 19世紀末の歴史家であるジョージ・H・ジョーンズ英語版によって推定された軍人と民間人の犠牲者は100万人である。合計10万人以上の日本側の死者数と仮定すると、朝鮮・明側の死者数は90万人と推定できる
  11. ^ a b 日本・中国(明)の元号や朝鮮の帝王紀年英語版
  12. ^ 出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。
  13. ^ a b 朝日新聞2006年6月28日夕刊文化面「『倭乱』と東アジア 韓国の国際シンポから 上」より。スオープ准教授(中国軍事史)は「日本と朝鮮の間の戦争だとの見方はやめるべきだ」として「明(中国)を中心とした東アジアの支配体制・秩序への秀吉の挑戦。これは日本と中国の戦争だ。秀吉軍の侵攻直前に明で内乱が起きたため、明はすぐに兵を送ることができなかったが、朝鮮の要請ではなく、自分の利益のために参戦した」と述べた。また「『明軍は弱い』というイメージは明を倒した清により作られたもので、当時は武器も優秀で精強だった。一方の秀吉軍は戦乱で鍛え上げられた世界最強の軍団。両者の激突は16世紀世界最大の戦争だった」とも述べている。
  14. ^ ここでの高麗はコリアと同じ意味。
  15. ^ 後述する素行の朝鮮属国説も参照(動機に関する諸説
  16. ^ 出兵とすると「秀吉の朝鮮侵略戦争」(世界史用語集、山川出版社)などとの説明が必要になるため、征伐が避けられるのとは逆の理由で回避される。ただ、これはかなり最近の話で、朝鮮出兵はまだかなり用いられている。
  17. ^ 教科書の用語ではこの名称は使われていないが、日本史リブレットなどの副読本には登場。
  18. ^ 日本語読み:じんしんわらん、朝鮮語読み:イムジンウェラン(임진왜란)。
  19. ^ 日本語読み:ていゆうわらん、朝鮮語読み:チョンユウェラン(정유왜란)。
  20. ^ 日本語読み:ていゆうさいらん、朝鮮語読み:チョンユヂェラン(정유재란)。
  21. ^ 日本語読み:じんしんそこくせんそう、朝鮮語読み:イムジンチョグクチョンジェン(임진조국전쟁
  22. ^ 後述するが、『懲毖録』によると景轍玄蘇も朝鮮との交渉において言及した。ただし徳富蘇峰は『近世日本国民史』では売言葉に買言葉で玄蘇の本音ではないと寸評している[32][33][34]
  23. ^ これらは『高麗史』や『成宗実録』の記述に基づくものである。済州島の島民も倭寇に加わった(または倭寇と偽って海賊行為を働いていた)という説もあるが、韓国の研究者は高麗賤民や済州島海民の倭寇参加の事実に抵抗している。
  24. ^ 倭寇というものの、高麗賤民もしくは済州島海民を主体とする集団であったという説が有力。(前期)倭寇の8-9割は朝鮮人であったという朝鮮人説には異説もあるが、いずれにしても日本側から出征した勢力はわかっておらず、前者でなければ正体不明。
  25. ^ ただし、これについて日本側には外寇があったという記録がない。
  26. ^ 李承晩による竹島の占領を除く場合。
  27. ^ 村井 1993, p.218
    且つ聞く、倭人、中原に言いて曰く、「朝鮮は我に服事す、我まさに其の上に序すべし」と云えりと。乃ち厚待の恩を念わず、反りて驕心を生じ、班を上国に争う。其の言此の如く、唇のこれより大いなるは莫し。交隣の道、亦まさに節あるべく、永く絶つ能わざると雖も、此の時に及びては、裁制するが当なり
    中宗39-4壬辰

    すでに1540年(天文9年)の時点で、日朝貿易に従事する大内義隆が明の北京へ派遣した湖心碩鼎ら第18次遣明使が、「日本は朝鮮を服事(服属)させているから、席次は朝鮮より上にすべし」と要請していた[37]

  28. ^ ただし朝鮮においては、当時よりこの文禄・慶長の役を倭寇の最大最後のものと考えたことは注意が必要である。彼らは倭軍と称するものと倭寇とを区別しなかった。この認識の誤りは当時の対応の失敗だけでなく、(後に訂正されるまで)その後の韓国史学会の認識の誤りも生み出した。
  29. ^ a b 琉球王国は2年1貢や、1年1貢で、回数が多いほど重用され、冊封体制内での待遇が良いことをさす。他の冊封国では3年1貢が多い。
  30. ^ 毎年元旦の正朝使、明皇帝の誕生日の聖節使、明皇太子の誕生日の千秋節使、および正朝廃止後は冬至節。
  31. ^ 正学あるいは官学とも言う。
  32. ^ 編者注:「○○説」と自らの学説・主張を名乗らない学者が多く、後世の学者それぞれによって命名・分類されたため、各説の呼ばれ方には微妙に違いがある。また表記の都合で、似たような説はまとめて表記した。
  33. ^ 福岡藩の朝鮮通信の応接役で、柳成龍の『懲毖録』の日本版の序文を書いている人物。
  34. ^ ルイス・フロイスは『日本史』第55章で「信長は、日本六十六ヵ国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成して支那を武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」と記している。
  35. ^ この日付は岩沢愿彦の考証による推定。
  36. ^ 宗氏の一族で、対馬国守護代を務めた。宗義智とは意見が合わず、後に暗殺された。
  37. ^ これは島津氏、後北条氏、伊達氏など諸大名の平定と同じやり方で、帰順すれば許すが、逆らったり無視した場合は大軍を派すというのが、秀吉の常套手段だった。
  38. ^ ここで言う「これまでの国王」とは足利将軍家を指す。秀吉と足利義昭の間にはもとより主従関係はなく、秀吉は将軍位を求めなかったので、簒奪とは言えず、日本の情勢に疎かったことが窺える。
  39. ^ 海路不慣れで道が分からないの意味。
  40. ^ 柳成龍の『懲毖録』による。代々の柚谷氏は朝鮮との交渉役の家柄であったのに、懲毖録では康広が朝鮮を侮辱した言動が書かれている。日本側記録に康広の処刑の話はなく、一族(康広の息子と思われる)柚谷智広は戦役後の国交回復交渉に携わって朝鮮で獄死した。
  41. ^ 宗義調は隠居してすでに死去。子の宗義智が継いでいた。
  42. ^ 宗氏のいつものやり口で無関係の囚人を引き渡した。
  43. ^ 柳成龍の『懲毖録』によるとこれが朝鮮が手にした最初の日本製の火縄銃だということだが、兵器廠に死蔵され顧みられなかった。
  44. ^ a b 宣祖は側室の仁嬪を寵愛し、その息子の信城君を溺愛していたが、群臣は光海君に従っていた。鄭澈(西人派)は仁嬪の弟の金公諒が専横の傾向があるので排除しようとしたが、李山海(東人派/北人派)の子を通じてその話が金公諒に漏れ、仁嬪が国王に泣きついたことから、宣祖は激怒して鄭澈の官職を剥ぎ、追放に処した。
  45. ^ 金誠一はこのとき「必ず来寇があるとは限らない」という曖昧な否定論を述べた。翌年4月23日、日本軍が席巻する中で彼は慶尚右兵使の職務にあったが、解任逮捕された。しかし再び東人派の援護で、直後に慶尚右招諭使に任命されて、義兵の徴募に当たった。徳富 1935, p.398
  46. ^ 対馬の士は対外上は朝鮮陪臣でもあり、柳川調信は先の引見で朝鮮国王より嘉善大夫の爵位を授与されていた。参謀本部 1924, p.18
  47. ^ 。またこのとき、加藤清正が傷心の秀吉に外征を勧めて自らが先鋒を務めることを請うたという話があるが、これは清正の立場や前後の事情から考えて明らかに辻褄が合わず、鶴松死亡説(鬱憤説)に沿って作られた寓話か、加藤家傳が清正の役割を大きく誇張して書いたものと思われる。また、同年8月13日に清正が領国に対して36か条に及ぶ準備を指示する書状(「渋沢栄一文書」所収、東京大学史料編纂所所蔵影写本)には、大規模な軍事作戦に対する危機感を顕わにしている(中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」)。
  48. ^ 文禄の役における島津勢15,437人のうち6,565人 (43%) が人夫・水夫であった学研 編『文禄・慶長の役 : 東アジアを揺るがせた秀吉の野望』学研〈歴史群像シリーズ35〉、1993年、74頁。ISBN 4056002789 
  49. ^ 動員されたが出征していないため一般的に軍の合計には加えない。しかし元来はこれらもすべて渡海する計画であった。
  50. ^ 生駒親正の弟。生没年不明。
  51. ^ 大塩正貞の子。旧字で「大鹽與一郎」。生没年不明。
  52. ^ 長崎奉行に出世。
  53. ^ 慶長の役では軍目付。
  54. ^ 佐竹氏は出撃を命じられ、代わりに佐竹義久が出陣した。
  55. ^ 伊達政宗は出撃を命じられて、自主的に3,000人と出陣した。
  56. ^ 鍋島勢は1万で、波多党は鍋島配下とされたが、命令に背いて独自の大名として動き、再び秀吉の勘気に触れた。
  57. ^ 豊臣秀勝は巨済島で病死したので織田秀信に替わる。
  58. ^ しばしば陸上部隊としても活動。兵員の半分ほどは水主。
  59. ^ この敗戦の責任を問われ、4月25日に朝鮮側が斬首刑に処した。朝鮮史編修会 1937, p.442
  60. ^ この計画の創案者は李鎰自身であった。
  61. ^ そのような事実があったかどうかは不明。『加藤家傳』など加藤清正が先鋒であったとする書籍もあり、日朝交渉にかこつけて小西行長が抜け駆け的に単独突入をしたという説もあるが、概ね清正を立派な武人、行長を小人として描くのは典型的な江戸時代から好まれた“ストーリー”であり、徳富蘇峰は小西行長が一番隊で、加藤清正は二番隊であったのは純然たる事実として、否定する。また、中野等は豊臣秀吉が渡海せずに主戦場にいなかったこと、小西行長が関ヶ原の戦いで滅んだことなどで、文禄・慶長の役における加藤清正が実像を超えて肥大化していることを指摘する。
  62. ^ 開戦前に郡県に準備ないという理由で、徴兵に反対した人物。
  63. ^ 朝廷に不幸が訪れる不吉の前兆のこと。の武帝(蕭衍)の故事により「熒惑 南斗に入れば、天子 殿を下りて走る」と言われる。
  64. ^ 御史台の官僚のなかで君主を諫める役職のこと。
  65. ^ ただし明には上奏していないために非公式である。
  66. ^ 朝鮮側の記録は加藤清正を講和反対派と勝手に決めつけて、このときも景応舜は加藤清正に捕まって殺されたという記述があるが、事情を考えれば戦乱の中でその後どうなったのか分からないわけであって殺害者を特定できるというのはおかしい。
  67. ^ 朝鮮国王が出す勅令のこと。君主からの直接命令であり身分の違いなく絶対的服従を要求される。
  68. ^ 李山海の弾劾によって辞職させられた西人派の前領議政。尹根寿、尹晛は兄弟。
  69. ^ 『西征日記』では村民の隠していた船を数隻見つけたとあり、『懲毖録』では家屋を壊して筏としたとある。
  70. ^ 「乱民」や「叛民」とは朝鮮朝廷に逆らった朝鮮人民衆をさす。彼らの論理では日本軍は賊軍であるので、賊軍に従う民衆の意味。
  71. ^ 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II』第38章
  72. ^ 軍役の義務のない知行のこと。投降しても朝鮮国王の生活費は保証すると約束したことを意味する。
  73. ^ なお、ここでいう「三国」とは日本・朝鮮・支那のことであり、もっと一般的な唐・天竺・本朝のことではない。
  74. ^ 東殿局は大谷吉継の生母。東殿局と客人局の両名とも北政所付きの侍女で、侍女を介して北政所に情勢を説明するための手紙であったと考えられている。
  75. ^ この戦闘は閑山島海戦(1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍対李舜臣指揮の朝鮮軍)・幸州山城攻防戦(1593年2月、宇喜多秀家指揮の日本軍対権慄指揮の朝鮮軍)と合わせて韓国では「壬辰倭乱の三大捷」と呼ばれている。
  76. ^ 朝鮮人は女真族のことを「野蛮人」という意味をこめて「オランケ(兀良哈)」と呼んでいた。これが転じて日本人は女真族を「オランカイ」と呼んだ
  77. ^ 清正の報告内容は「オランカイは朝鮮の倍ほどの広さで、これを通って明に入るにはモンゴルも通らねばならないので無理である」「オランカイは畑地ばかりで雑穀しかとれず、兵糧米が手に入る見込みはない」「オランカイには日本の守護のような統治者がおらず、伊賀者・甲賀者のように砦を構え、まるで一揆国のようである」というものである[254]
  78. ^ 旧参謀本部・日本戦史においても、日本側戦死者を1600人としている[257]
  79. ^ 豊臣秀吉の死後まもなく、徳川家康を敵対勢力に想定して、毛利輝元は増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家の四奉行と連携し、不測の事態に備えて上方方面に大軍を終結させるなど、軍事衝突さえ起こりかねない状況下にあった[344]
  80. ^ いずれも漢城占領後に渡朝した。
  81. ^ 柳成龍は日本軍の火縄銃(朝鮮では鳥銃)を大きな脅威としている。
  82. ^ 有効射程は口径や装薬量により異なるが概ね200m程度とされる。
  83. ^ なお、他言語版に見られる日本水軍を強化するために秀吉がポルトガルガレオン船を二隻雇って戦争に参加させようとしたとする逸話は、1586年にイエズス会準管区長ガスパル・コエリヨを大阪城で謁見した際の打診であり、九州征伐の頃のことであって、文禄の役開戦後の朝鮮水軍の活動を受けてのものではない。
  84. ^ なお、フロイスには誇張癖があり(『フロイスの日本覚書』(松田毅一、E・ヨリッセン著)より、ヴァリニャーノのフロイス評)、彼は朝鮮には渡っていないので伝聞に基づいていること、また日本の大陸侵攻について「無謀な企て」と否定的に記していることに留意が必要[誰?]
  85. ^ ただし、朝鮮の「片箭(ピョンジョン)」という弓は遠距離用の短い矢を用いれば最大射程は450mに達するともいう。
  86. ^ これは奴婢や特権階級の第二夫人以下に生まれた子息の徴兵も含む内容であった。
  87. ^ 壮年男子は農耕やその他の経済活動に優先的に従事させる政策を採用したため
  88. ^ 朝鮮軍の組織には重大な欠陥があった。外国からの侵攻を受けた場合でも、地方の軍隊は管轄区域外に、独自の判断で救援に向かう事は許されず、王から新たに任命された将軍が新規に編成した部隊を率いて来援するのを待たねばならなかった。更に、任命された将軍は遠方から着任するため、任地における自軍の戦力や地理をよく知らない場合が多く、兵も僅かな常備軍しかなかったため、戦争が始まってから徴兵された新兵が大部分を占め訓練不足であった。
  89. ^ 義兵を束ねる諸将が両班層(貴族階級)であるのに対して、兵士の大部分が奴婢、李朝においては賤民身分に貶められていた僧侶などであったが、命を賭して貢献したにも関わらずその望みは叶えられず、戦争が終わると再び農奴身分へと戻され、僧侶もまた賤民のままとされた。文禄・慶長の役で官職を授けられた将軍も、戦役後には党派間の政争に組み込まれ、その多くは権力者らの猜疑心や妬みからその地位を追われ、果ては流刑か死刑かの不遇な生涯を送ることになった[390]
  90. ^ 日本名では「小琉球」または「呂宋国」。
  91. ^ Gómez Pérez Dasmariñas
  92. ^ (Juan Cobo)
  93. ^ a b 日本二十六聖人の1人。秀吉によって長崎で処刑された。
  94. ^ この前後に出征を命じられ、晋州城攻防戦に参加した。
  95. ^ Francisco de Tello de Guzmán
  96. ^ 米、牛、豚などの他、朝鮮の女人も要求している
  97. ^ 万石以上の知行のある大名としては唯一の戦死。
  98. ^ 不在の上杉景勝を除く。

出典

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    「その際はなはだ注目されるのは、その地は僻地であって、人が住むのには適しておらず、単に食料のみならず、事業を遂行する際のすべての必需品が欠けており、山が多く、しかも一方は沼地で、あらゆる人手を欠いた荒地であったことである」
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  144. ^ 宣祖修正實録 二十五年(1592年)、二十五年 四月、宣祖修正25年4月14日
  145. ^
    砬不知所爲, 直鞭馬進向州城, 軍不成列, 稍稍散匿。城中賊發角三聲, 一時出擊, 砬衆大潰, 而賊已四圍, 砬還趨結陣處, 人爭投水, 流屍蔽江。砬與汝岉馳射殺賊數十人後, 皆赴水死。砬有姊子從行欲走免, 砬怒曰: “汝何生爲?” 捽頭同溺焉。壯士脱免者數三人。
    宣祖修正實録 二十五年(1592年)、二十五年 四月、宣祖修正25年4月14日
  146. ^ 宣祖實録宣祖25年4月30日
  147. ^
    國初, 有僧人無學讖記, 歷言國家事, 壬辰年則曰: “缶聳雲根, 潭空月影, 有無何處去, 無有何處來” 云云。自戊子己丑年間, 行于世, 至壬辰盛行, 人莫能解其語。及倭寇卒至, 朝廷遣巡邊使申砬禦之, 砬到忠州敗軍, 全軍更沒於月落灘。所謂岳卽維缶降申也, 聳立也, 雲根石也。潭空月影, 卽月落灘溺死之言也。
    宣祖實録宣祖25年4月30日
  148. ^
    變初, 以申砬爲都巡察使, 領大軍, 禦賊于鳥嶺。砬不爲據險把截之計, 迎入於平原廣野, 左右彌滿, 曾未交鋒, 而十萬精兵, 一敗塗地。遂使京城不守, 乘輿播越, 痛哉
    宣祖実録
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  261. ^ 明史 卷238 "倭砲矢如雨,軍少卻。如松斬先退者以徇。募死士,援鉤梯直上。倭方輕南面朝鮮軍,承訓等乃卸裝露明甲。倭大驚,急分兵捍拒,如松已督副將楊元等軍自小西門先登,如柏等亦從大西門入。火器併發,煙焰蔽空。惟忠中砲傷胸,猶奮呼督戰。如松馬斃於砲,易馬馳,墮塹,躍而上,麾兵益進。將士無不一當百,遂克之。獲首功千二百有奇。倭退保風月樓。夜半,行長渡大同江,遁還龍山。甯及参將査大受率精卒三千潛伏東江間道,復斬級三百六十"
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  265. ^ https://sillok.history.go.kr/id/kna_12603017_005# 「朝鮮王朝実録」"云, 蓋提督混殺我國人, 以爲己功者, 盛行於中朝, 故有此云云。 "
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  276. ^ http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮王朝実録 "提督麾下李有升及勇士八十餘人被砍死"
  277. ^ a b http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮王朝実録 "○宋經略進住安州, 提督李如松進兵坡州, 戰于碧蹄驛, 不利, 退住開城。 提督引大軍而南, 柳成龍先行促辦糧草, 幸不乏供。 臨津氷解, 乃從上流薄氷上, 聯葛索布籬, 作梁以渡軍, 列邑士民始從山谷出, 竭力搬運, 事皆隨辦。 提督徐行至坡州, 持重不前。 査大受與我將高彦伯, 領兵數百, 先行偵探, 至京城西, 遇賊於碧蹄驛南礪石峴, 斬百餘級。 提督聞之大喜, 獨與親丁騎兵千餘馳赴之, 令大軍繼發。 賊先伏大兵於峴後, 只數百人據峴示弱。 提督卽麾兵進, 賊自峴而下, 兵未交, 賊兵猝起於後, 結陣山上, 幾萬餘。 天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。 提督麾下李有升及勇士八十餘人被砍死, 提督使査大受殿後, 奪路而出, 大軍繼至, 賊望見還走。 提督暮還坡州, 召李有升壻王審大, 拊背慟哭曰: "好男兒, 爲我死也。" 提督欲退住東坡, 柳成龍、兪泓、金命元等, 叩帳請見曰: "勝負, 兵家常事, 當觀勢更進, 奈何輕動?" 提督曰: "昨日吾軍無不利事, 但此地經雨泥濘, 不便住軍, 所以欲還東坡, 休兵更進耳。" 遂退陣東坡。 明日退住開城, 成龍等力爭不聽, 獨留査大受領兵數百, 與柳成龍守臨津。"
  278. ^ a b 中野2008, 104頁
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  296. ^ a b 『慶長二年陣立書』に基づくが、兵站を担当した兵数不詳の寺沢正成を含まない。(『文禄・慶長の役』/中野等 192頁)
  297. ^ 赤国(全羅道)不残悉一篇ニ成敗申付、青国(忠清道)其外之儀者、可成程可相動事。『慶長二年二月二十一日付朱印状』
  298. ^ 右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。『慶長二年二月二十一日付朱印状』
  299. ^ 慶長の役で全羅道への進発前には慶尚道へ戻って築城することが決まっていた証拠『八月二一日付、藤堂高虎宛、増田長盛書状』 http://tokugawa-tokugawa.blogspot.com/2015/12/blog-post.html
  300. ^ a b 来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』 度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるべく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候『慶長三年五月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』等
  301. ^ 旧参謀本部 1995, p. 278.
  302. ^ http://sillok.history.go.kr/id/wna_13009009_001 "而倭賊登山擧白旗, 天安大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。解摠兵等四將, 去夜發稷山前來, 唐兵亦多死者云。且提督卽刻發放各營, 使之盡數出陣江邊, 仍爲野營云, 且發令旗, 使擺遊擊, 抄領精兵二千五百, 迎擊於水原之路云。"『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  303. ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部
  304. ^ a b 「乱中日記」
  305. ^ http://sillok.history.go.kr/id/wna_13009009_004 "賊勢已迫, 京城闊大, 守禦未固, 沿江列守, 其勢最重。安危、成敗, 決於江上, 而但令崔遠守備, 凡事疎虞, 極爲寒心。"『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  306. ^ 大賊衝斥, 將迫都城, 天兵寡弱, 我軍潰散, 今日之事誠可痛哭。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  307. ^ 『懲毖録』柳成龍
  308. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13009009_001# "丙申/提督接伴使張雲翼啓曰: "卽刻自稷山戰所回來唐兵說稱: ‘天安、稷山之間, 不意倭賊先鋒, 皆着白衣, 遍野而來, 唐兵等初謂稱朝鮮人, 不爲進逼。 俄而倭先放砲, 唐兵一時跑馬廝殺, 交戰良久, 倭人中箭被棍死者, 幾至五六百, 斬級三十餘顆, 解副摠、楊叅政, 各手斬二級。 而倭賊登山擧白旗, 天安大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。 解摠兵等四將, 去夜發稷山前來, 唐兵亦多死者云。’ 且提督卽刻發放各營, 使之盡數出陣江邊, 仍爲野營云, 且發令旗, 使擺遊擊, 抄領精兵二千五百, 迎擊於水原之路云。 敢啓。" 傳曰: "知道。""『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  309. ^ https://sillok.history.go.kr/popup/print.do?id=wnb_13009001_002&gubun=kor 朝鮮王朝実録 "經理楊鎬使副總兵解生等, 大敗賊兵于稷山。 先是, 賊自陷南原, 乘勝長驅, 進逼京畿。 經理楊鎬在平壤聞之, 馳入京城, 招提督責不戰之狀, 與提督定計, 密選騎士之精勇者, 使解生、牛伯英、楊登山、頗貴領之, 迎擊于稷山, 諸軍及我人皆莫知也。 解生等伏兵於稷山之素沙坪, 乘賊未及成列, 縱突騎擊之, 賊披靡而走, 死者甚多。 又遣游擊擺賽, 將二千騎繼之, 與四將合勢追擊, 又破之。 是日, 經理、提督請上出視江上, 上不得已而行, 人心洶懼, 士庶皆荷擔而立, 內殿避兵西幸, 及捷報至, 京中乃稍定。"
  310. ^ 賊於初十日, 搶掠安城, 進犯竹山境。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  311. ^ 征韓録 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936356/117
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  316. ^ 蔚山高石城堅甚我師仰攻多損傷『明史・朝鮮伝』
  317. ^ 本月二十四日(和暦二十三日)平明, 總兵偕 高都督 進兵, 距 蔚山 十餘里駐兵。聞左協之軍, 已爲接戰, 問于摠兵, 則曰: ‘賊有四營, 已破東營, 諸營之賊, 今日必遁云。’ 臣等親進賊營五里許 牛巖山 上望見, 則外城則已破, 但山上有小城, 甚爲堅固, 諸軍不能進。午後, 盡招中協之兵進來, 而日暮不剋接戰。二十五日(和暦二十四日)早朝, 諸軍四面薄城, 賊無數放丸, 天兵及我軍, 多數死傷, 而無登城破城之具, 俄而退兵。二十六日(和暦二十五日), 楊經理 招都元帥 權慄 語之曰: ‘今日欲休天兵, 令本國軍兵進攻’ 云, 故 權慄 督諸軍進薄, 賊放丸如雨, 兵多死傷而退。自二十六日(和暦二十五日) 夕下雨, 至二十七日(和暦二十六日)終日風雨, 諸軍冒雨進攻。二十八日(和暦二十七日), 亦爲進兵, 死傷如前。二十九日(和暦二十八日), 欲聚柴草, 焚燒賊營, 而天兵及我軍, 死傷甚衆, 不能進到城下, 夜二更退來。『朝鮮王朝実録・宣祖実録』
  318. ^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936355/204 「日本戦史・朝鮮役」
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  338. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110008_007 『朝鮮宣祖実録』"遂進攻新寨, 以大砲打破城門, 大兵欲入之際, 茅遊擊陣, 火藥失火, 陣中擾亂, 倭賊望見開門, 迎擊左右, 伏兵四起, 大兵蒼黃奔潰, 死亡之數, 幾至七八千, 提督退晋州’ 云矣。"
  339. ^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110016_003 『朝鮮宣祖実録』”泗川之敗, 提督之軍, 過半致死”
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  343. ^ "是時, 東路天兵二萬四千, 我兵五千五百十四名; 中路天兵二萬六千八百, 我兵二千二百十五名; 西路天兵二萬一千九百, 我兵五千九百二十八名; 水路天兵一萬九千四百, 我兵七千三百二十八名, 共計十餘萬。資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。" 『宣祖実録十月十二日条』
  344. ^ 光成準治『関ヶ原前夜』日本放送出版協会 (2009)
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  357. ^ a b 小川隆章「李舜臣と文禄・慶長の役の海戦に関する考察」『環太平洋大学研究紀要』第20巻、環太平洋大学、2022年3月、83-88頁、CRID 1390573792568771072doi:10.24767/00000794ISSN 1882-479X 
  358. ^ 歴史群像』2010年4月号 158頁〜167頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング
  359. ^ a b c d e f 歴史群像』2010年4月号 166頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング
  360. ^ "舜臣謂諸將曰、「釜山、賊之根本也。進而覆之、賊必失據。」遂進至釜山・・" 李忠武公全書 巻之十三 附録五 『宣廟中興志』
  361. ^ "李舜臣等攻釜山賊屯、不克。"『宣祖修正実録』(宣祖二十五年八月戊子条)
  362. ^ 「釜山海之御兵糧も、山坂に而御座候間、五日路六日路、道中届かぬ可申候哉、川に付て船にてのほせ申儀も、今のつなきの御人数にては、難届候由申候・・・・・」 『(文禄二年)三月三日付・漢城在陣諸将連署状』 日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝) 文書第100号
  363. ^ 遊撃とのあいだで上記のような協定がなされると、ほどなく日本軍は朝鮮の都、ならびに他の幾つかの城塞をシナ人に明け渡し、関白から海路輸送されて来た豊富な食料と弾薬がある海辺地帯に退いた。 完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II P270
  364. ^ それらの城塞をできるかぎり堅固なものにしようと考え、日本で行うのと同様に、切断しない石を用い、壁も砦も白く漆喰を塗り、天守と呼ぶ高い塔を設け、一城ずつに丹誠を籠め、互いにその出来栄えを競い合った。関白から任命された三名の武将によって食糧と弾薬 ――それらは実に豊富で、一五九五年の九月まで十分持ち堪えることができるほどの量があり、彼らはその分配のために関白から任命されていた―― が分配され終ると、それらの城塞には・・・ 完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇II P276
  365. ^ 急度被仰出候、被越置候御城米之儀、彌古米ニ不成之様、手前兵糧ニ取替召遣、具数無相違、元程可積置候、釜山浦幷かとかい(加徳島)東萊・竹島等ニ有之分、莫大之儀候條、為御奉行、福島左衛門大夫・毛利民部大輔、被仰付候、手前御城米引加、惣人数多少ニ付令割符可積替候・・・ 『(文禄三年)五月二十四日付・豊臣秀吉朱印状』 日本戦史. 朝鮮役 (文書・補伝) 文書第175号
  366. ^ a b c d 歴史群像』2010年4月号 167頁「朝鮮出兵渡海作戦」学研パブリッシング
  367. ^ 番船唐島(巨済島)を居所に仕、日々罷出、日本通船、渡海一切不罷成ニ付而、五人之者申合、唐島へ押寄、昨日十五日夜半より、明末之刻迄相戦、番船百六拾餘艘切取其外津々浦々、十五六里の間、舟共不残焼棄申、唐人数千人海へ追いはめ、切捨申候、・・・ 七月十六日付、四奉行(前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家)宛、小西行長、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明、島津義弘・忠豊、連署状『征韓録』
  368. ^ 兵糧之儀ハ、日本之都へ相届候よりも、其方へは輙候・・・ 三月一三日付、立花宗茂宛、豊臣秀吉朱印状 (他に類似の、同日付、朝鮮在番諸将宛、豊臣秀吉朱印状が複数あり)
  369. ^ Colin McEvedy and Richard Jones, 1978, "Atlas of World Population History," Facts on Fileによる推計。1500年の時点では日本1700万、朝鮮は400万、明朝は1億1000万、満州は500万。なお鬼頭宏の推計では1600年の日本の人口は、1547万人。「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫, 2000年, 84頁。歴史上の推定地域人口を参照
  370. ^ 歴史上の推定地域人口を参照
  371. ^ 『文禄・慶長の役』/中野等 137頁
  372. ^ 文禄の役における島津勢15437人のうち6565人 (43%) が人夫・水夫である。(『歴史群像シリーズ35 文禄・慶長の役』/学研 74頁)
  373. ^ 『松浦古事記』巻之下(小瀬甫菴道喜撰)・六 名護屋御陣所の事 [2]
  374. ^ ノエル・ペリン「鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮」、川勝平太訳、中公文庫、1991年、63-64頁。1569年のイギリス枢密院の調査(フランスのスパイを通じて後世に伝わった)では、機密軍24000のうち銃保有数は6000であった。また、1589年にフランスに派遣されたイギリス軍は、四連隊、3600人の兵士より成っていたが、枢密院の理想では一連隊のうち銃砲兵が占める割合が60%であったものが30%にとどまっていた。どの連隊も銃にこと欠いており、ハンプシャー連隊などは、26挺しかなく、割合はわずか3%であった。兵器庫から300挺を補充したものの、全体で1100挺程度の装備であった。これに対して、1584年の日本で、龍造寺隆信軍が有馬晴信島津家久軍と対戦したときには、軍勢25000で、うち鉄砲隊は9000人であった。当時のイギリスと日本の断片的な比較であるが、人口を加味しても、日本の銃保有状況は圧倒的であった(ペリン同書,160-162頁)。また朝鮮の役の最中の1597年、フランセスコ・カルレッチの報告によれば、30万人の日本軍が朝鮮に出兵していたが、日本にはまだ多くの兵が残留しており、そのほとんどが1挺また2挺の銃を装備していた(ペリン同書,71頁)。
  375. ^ ノエル・ペリン前掲書、80頁
  376. ^ ”(火縄銃の)遠くまで発射する力と命中させる手際とは、弓矢に数倍する。(中略)弓矢の技は百歩に過ぎないが、鳥銃はよく数百歩に及び、(中略)とても対抗できない」”「懲毖録」柳成龍 朴鐘鳴訳 平凡社 東洋文庫 1979年 282-283頁
  377. ^ 「シナ軍の兵力について、多くの者は誇張しすぎているが、信用できる幾人かのキリシタンからの通信によると、少なくとも20万くらいはいた。しかもそれは同じく無数ともいえる朝鮮の軍勢を除いての数だということである」『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
  378. ^ 「ところで彼らの鉄砲(エスピンガルダ)はどのようにして発射されるのか不可解である。というのは、無数に発砲した後も、そのための死傷者が一人も出なかったからである」 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
  379. ^ ルイス・フロイスが1593年の平壌戦における明軍の装備に言及している。「(明の)兵士たちは身に適当な厚さの鋼鉄の鎧をまとい、同じく鋼鉄製の膝当てをつけていた。それらは馬上にあっても、足のあたりまで垂れ下がり」「従来発見されたものの中では最優秀を誇っていた日本軍の刀や槍をもってしても、なんら損傷を加え得なかった」「(日本軍の)刀や槍はたび重なる戦闘によって威力が鈍っており、他方シナ軍の武装はいとも堅固で、日本軍の刀を寄せ付けぬほどであった」 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』第41章
  380. ^ 『懲毖録』1979, p. 187.
  381. ^ 此自倭犯中國始有之。彼以此跳舞、光閃而前、我兵已奪氣矣。倭善躍、一迸足則丈餘、刀長五尺、則丈五尺矣。我兵短器難接、長器不捷、遭之者身多兩斷、縁器利而雙手使、用力重故也。今如獨用則無衛、惟鳥銃手賊遠發銃、賊至近身再無他器可以攻刺、如兼殺器則銃重藥子又多、勢所不能、惟此刀輕而且長、以備臨身棄銃用此。況有殺手當鋒、故用長刀備之耳。
  382. ^ 『朝鮮と日本の関係史』朴鐘鳴監修/明石書店 (2000) 192頁
  383. ^ 『懲毖録』1979, p. 14.
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  408. ^ 田中康二「国学者の歴史認識と対外意識-本居宣長『馭戒慨言』をめぐって-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4
  409. ^ 金時徳「フヴォストフ事件と『北海異談』-壬辰戦争の戦争史的な検討と『海国兵談』の利用を中心に-」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P49-84
  410. ^ a b c 合山林太郎「近世漢詩に描かれた壬辰戦争」井上泰至『近世日本の歴史叙述と対外意識』勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P459-477
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  412. ^ 李曁『松窩雑説』"原其設心, 不啻慘於兇賊之利刃, 甚可畏也。"
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  414. ^ 熱田公『日本の歴史11 天下一統』集英社






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