文京区の町名
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:21 UTC 版)
旧本郷区の町名
発足時の町名
本郷区には明治11年(1878年)の区成立の時点では66か町が存在した(「一丁目」「二丁目」等はそれぞれを1町と数える)。以後、1960年代の住居表示実施まで町名町界の大規模な変更はなかった。区成立以降、東京市成立(明治22年・1889年)までの主な変更は以下のとおりである。
- 明治19年(1886年)神田区宮本町の一部を本郷区に編入し、湯島二・三丁目とする(これ以前は湯島一〜六丁目のうちの二丁目と三丁目は欠番であった)。
- 明治22年(1889年)市制町村制施行に際し、下駒込村の大部分及び日暮里村の飛地本郷区に編入。2年後の明治24年(1891年)、当該編入区域の一部が駒込神明町および駒込動坂町となる(残余は駒込片町、駒込浅嘉町、千駄木林町、千駄木坂下町、千駄木町、駒込富士前町にそれぞれ編入)。なお下駒込村の一部は下谷区に編入された。
以上により、明治24年(1891年)での本郷区内の町丁数は差引66であった。下表はそれら66か町の一覧である。
- 本郷の冠称について
「本郷」を冠称する町名(本郷一〜六丁目を除く)については、明治44年(1911年)に冠称を廃止している(例:本郷区本郷真砂町→本郷区真砂町)。
町名(1878年現在) | 成立年 | 廃止年 | 現町名 | 備考 |
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本郷一丁目 | 江戸期 | 1965(「本郷」の地名は存続) | 本郷2・3 | |
本郷二丁目 | 江戸期 | 1965(「本郷」の地名は存続) | 本郷2・3 | |
本郷三丁目 | 江戸期 | 1965(「本郷」の地名は存続) | 本郷2・3 | |
本郷四丁目 | 江戸期 | 1965(「本郷」の地名は存続) | 本郷4・5 | |
本郷五丁目 | 江戸期 | 1965(「本郷」の地名は存続) | 本郷5 | |
本郷六丁目 | 江戸期 | 1965(「本郷」の地名は存続) | 本郷5 | |
本郷金助町 | 江戸期 | 1965 | 本郷3 | |
本郷春木町一丁目 | 江戸期 | 1965 | 本郷3 | |
本郷春木町二丁目 | 江戸期 | 1965 | 本郷3 | |
本郷春木町三丁目 | 江戸期 | 1965 | 本郷3 | |
本郷本富士町 | 1872 | 1965 | 本郷7 | |
本郷元町一丁目 | 江戸期 | 1965 | 本郷2 | |
本郷元町二丁目 | 江戸期 | 1965 | 本郷1 | |
本郷東竹町 | 1869 | 1933 | 本郷2・3 | 1933本郷1(現・本郷2・3)に編入 |
本郷西竹町 | 1869 | 1933 | 本郷2・3 | 1933本郷1(現・本郷2)に編入 |
本郷真砂町 | 1869 | 1965 | 本郷1・2・4 | |
本郷弓町一丁目 | 1872 | 1965 | 本郷1 | |
本郷弓町二丁目 | 1872 | 1965 | 本郷2 | |
本郷菊坂町 | 江戸期 | 1965 | 本郷4・5 | |
本郷台町 | 江戸期 | 1965 | 本郷5 | 1872までは本郷菊坂台町 |
本郷田町 | 江戸期 | 1965 | 本郷4・5、西片1 | 1872までは本郷菊坂田町 |
本郷森川町 | 1872 | 1965 | 弥生1、西片2、本郷6・7[4] | |
本郷龍岡町 | 1874 | 1965 | 湯島4 | 1874茅町一丁目の一部から下谷龍岡町として成立。1878本郷龍岡町に改称。 |
湯島一丁目 | 江戸期 | 1965(「湯島」の地名は存続) | 湯島1 | |
湯島二丁目 | 1886 | 1965(「湯島」の地名は存続) | 湯島1、本郷3 | もとは神田区宮本町の一部 |
湯島三丁目 | 1886 | 1965(「湯島」の地名は存続) | 湯島1 | もとは神田区宮本町の一部 |
湯島四丁目 | 江戸期 | 1965(「湯島」の地名は存続) | 湯島1・2 | |
湯島五丁目 | 江戸期 | 1934(「湯島」の地名は存続) | 本郷3 | 1934当時の湯島二丁目に編入 |
湯島六丁目 | 江戸期 | 1965(「湯島」の地名は存続) | 本郷3 | |
湯島新花町 | 1872 | 1965 | 湯島2 | |
湯島三組町 | 江戸期 | 1965 | 湯島2・3 | |
湯島天神町一丁目 | 1869 | 1965 | 湯島2・3 | |
湯島天神町二丁目 | 1869 | 1965 | 湯島3 | |
湯島天神町三丁目 | 1869 | 1965 | 湯島3 | |
湯島梅園町 | 1869 | 1965 | 湯島2・3 | |
湯島天神下同朋町 | 江戸期 | 1965 | 湯島3 | 1911湯島同朋町に改称 |
湯島切通坂町 | 1869 | 1965 | 湯島2〜4 | |
湯島切通町 | 江戸期 | 1965 | 湯島4[5] | |
湯島両門町 | 1869 | 1965 | 湯島4、本郷7 | |
妻恋町 | 江戸期 | 1965 | 湯島1〜3 | |
駒込東片町 | 1869 | 1964 | 向丘1、西片2、本駒込1[6] | |
駒込西片町 | 1872 | 1964 | 西片1・2 | |
駒込曙町 | 1869 | 1966 | 本駒込1・2 | |
駒込浅嘉町 | 江戸期 | 1966 | 本駒込1・3、向丘2 | 1891下駒込村の一部を編入 |
駒込追分町 | 江戸期 | 1965 | 向丘1・2 | |
駒込肴町 | 江戸期 | 1965 | 向丘1・2 | |
駒込蓬莱町 | 1872 | 1965 | 向丘2 | |
駒込千駄木町 | 江戸期 | 1965 | 千駄木1・2・5、向丘2 | 1891下駒込村の一部を編入 |
駒込千駄木林町 | 1869 | 1965 | 千駄木3・5、向丘2[7] | 1891下駒込村の一部を編入、1911駒込林町に改称 |
駒込千駄木坂下町 | 江戸期 | 1965 | 千駄木2・3 | 1891下駒込村の一部及び日暮里村の飛地を編入、1911駒込坂下町に改称 |
駒込片町 | 江戸期 | 1966 | 本駒込1〜3 | 1891下駒込村の一部を編入 |
駒込吉祥寺町 | 1872 | 1966 | 本駒込3 | |
駒込富士前町 | 江戸期 | 1966 | 本駒込2・3・5 | 1891下駒込村の一部を編入 |
駒込上富士前町 | 江戸期 | 1966 | 本駒込2・5・6 | |
丸山福山町 | 1872 | 1964 | 白山1、西片1 | |
丸山新町 | 江戸期 | 1964 | 白山1 | |
根津宮永町 | 江戸期 | 1965 | 根津1・2 | |
根津八重垣町 | 1869 | 1965 | 根津1・2 | |
根津須賀町 | 1869 | 1965 | 根津1 | |
根津西須賀町 | 1872 | 1965 | 弥生1 | 1965いったん根津一丁目となるが、1967町界変更が行われ弥生一丁目の一部となる |
根津片町 | 1872 | 1965 | 根津2 | |
根津藍染町 | 1872 | 1965 | 根津2 | |
根津清水町 | 1872 | 1965 | 根津1 | |
向ヶ丘弥生町 | 1872 | 1965 | 弥生1・2 | 1965弥生一・二丁目及び根津一丁目となるが、1967町界変更が行われ、東京大学農学部東側の地区が根津一丁目から弥生一丁目に再変更された |
駒込神明町 | 1891 | 1966 | 本駒込3〜5 | もとは下駒込村の一部 |
駒込動坂町 | 1891 | 1966 | 千駄木4・5、本駒込3・4 | もとは下駒込村の一部 |
湯島一〜六丁目の町域変遷
「湯島」の町名は江戸期から存在したが、時期によって町域や「丁目」の数に変動がある。幕末期には湯島一・三・四・五・六丁目があり、二丁目は欠番であった。湯島聖堂の東方に一丁目があり、以下、東から西へ順に三・四・五・六丁目があった。これらの町域は現行の湯島一丁目と本郷三丁目(南部)にあたる。
明治3年(1870年)、湯島三丁目が同四丁目に編入。これにより「湯島」は二丁目と三丁目が欠番となった。明治19年(1886年)、本郷区と神田区の境界が変更され、神田区宮本町の一部が本郷区に編入。当該編入区域が新しい湯島二丁目および三丁目となった[8]。このとき成立した湯島二丁目は湯島聖堂の所在地で、東京教育博物館(国立科学博物館の前身)があった。三丁目は昌平坂学問所の跡地で、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)および東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)があった。現在の東京医科歯科大学および同大学附属病院の敷地にあたる。
昭和9年(1934年)、湯島五丁目の全部と湯島六丁目の一部を湯島二丁目に編入。これにより湯島一〜六丁目のうちの五丁目は欠番となった。この時五丁目から二丁目に変更された区域は現行の本郷三丁目南部にあたり、順天堂大学および順天堂医院の所在地である。昭和40年(1965年)、住居表示実施に伴い、従前の湯島一〜四丁目に周辺の町域を加えた広範な区域を新たな湯島一〜四丁目とした。
弥生地区の町域変遷
本郷区(のち文京区)向ヶ丘弥生町は「弥生時代」、「弥生土器」の名称の由来となった地名として知られ、町名変更に反対する行政訴訟が起こされたことでも知られている。当地区では昭和40年(1965年)4月1日に住居表示が実施された。この際、向ヶ丘弥生町の大部分と森川町のごく一部をもって弥生一・二丁目が成立、向ヶ丘弥生町の残余の区域は根津一丁目となった。これに伴い、東京大学農学部東側一帯の住宅地の住所が向ヶ丘弥生町から根津一丁目に変更されたが、この変更に対しては地元住民からの強い反対があり、行政訴訟が起こされた。その結果、昭和42年(1967年)1月1日付けで町域が再変更され、根津一丁目の一部が弥生一・二丁目に編入された。根津一丁目から編入されたのは現行の弥生一丁目2〜6番街区および弥生二丁目13〜20番街区である。前者は昭和40年までは根津西須賀町であった区域、後者は旧向ヶ丘弥生町の一部である。なお、「弥生時代」の名称の由来となった土器の正確な出土地点はわかっていないが、東京大学浅野地区にある弥生二丁目遺跡がそれであると推定されている。 [9]
- ^ 『角川日本地名大辞典東京都』の「小石川区」の項(p.276)には区発足時の町丁数は80町とあり、同書p.985には77町とある。しかし、明治22年(1889年)の東京市成立時の小石川区の町丁数は75であり、これに新小川町一〜三丁目と巣鴨一〜四丁目を加えると、区発足時の町丁数は少なくとも82となる。
- ^ 本節の記述は『文京区史』巻三(文京区役所編集・発行、1968)、pp.269 - 272によった。
- ^ 編入先町名について、『角川日本地名大辞典』と『文京区史』では食い違いがある。ここでは後者によった。
- ^ 『角川日本地名大辞典 東京都』は編入先を「弥生1丁目、西片1丁目、本郷6〜7丁目」とするが、「弥生1丁目、西片2丁目、本郷6〜7丁目」が正当。
- ^ 『角川日本地名大辞典 東京都』は編入先を「湯島3丁目」とするが、「湯島4丁目」が正当。
- ^ 『角川日本地名大辞典 東京都』は編入先を「向丘1丁目、西片2丁目」とするが、「向丘1丁目、西片2丁目、本駒込1丁目」が正当。
- ^ 『角川日本地名大辞典 東京都』は編入先を「千駄木3・5丁目」とするが、「千駄木3・5丁目、向丘2丁目」が正当。
- ^ この境界変更の実施時期については、明治18年または明治20年とする資料もあるが、ここでは『文京区史 巻3』(1968発行)pp.187 - 188によった。
- ^ 東京大学埋蔵文化財調査室のサイトを参照。
- 1 文京区の町名とは
- 2 文京区の町名の概要
- 3 旧本郷区の町名
- 4 現行行政地名
- 5 参考文献
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