改易 江戸時代以降の改易

改易

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江戸時代以降の改易

江戸時代に改易・減封された大名

順番は年代順。石高等は特に出典表記のないものは『廃絶録』による[61]。「※」の付いたものは廃絶録にない人物。

大名 領地 禄高 年代 改易理由 対処・その後
木曾義利 下総阿知戸藩 1.0万石 1600 事件:上松義豊の殺害 関ヶ原の戦い以前だが、家康によって改易されている
小早川秀秋 備前岡山藩 51万石 1602 無嗣断絶 死去
武田信吉 常陸水戸藩 15万石 1603 無嗣断絶 遺領は異母弟徳川頼将が相続
大島光義 美濃関藩 1.8万石 1604 所領分知 遺領を分知したため大名格を失い旗本に
堀鶴千代 越後蔵王堂藩 3.0万石 1606 無嗣断絶 遺領は後見人堀直寄に還付
西尾吉次 武蔵原市藩 1.2万石 1606 無嗣断絶 酒井重忠の子・西尾忠永を婿養子として相続
松平忠吉 尾張清洲藩 52万石 1607 無嗣断絶 遺領は異母弟徳川義利が相続。後に藩庁を名古屋に移転(尾張藩
天野康景 駿河興国寺藩 1.0万石 1607 出奔:殺人犯引渡し拒否 天野康宗が旗本として存続
稲葉通孝 豊後臼杵藩内分 1.4万石 1607 無嗣断絶 内分遺領は兄稲葉典通に還付。稲葉通照が旗本として存続
津田信成 山城御牧藩 1.3万石 1607 乱暴狼藉 除封
稲葉通重 美濃清水藩 1.2万石 1607 乱暴狼藉 配流(常陸筑波)
龍造寺高房 肥前佐賀藩 35.7万石 1607 無嗣断絶 遺領と龍造寺氏の家督は鍋島勝茂が相続
筒井定次 伊賀上野藩 20万石[62] 1608 訴訟:家老の直訴[注釈 16] 配流(鳥居忠政/藤堂高虎預け)後に豊臣方の疑いで切腹
前田茂勝 丹波八上藩 5.0万石 1608 乱心:家臣多数を殺害 配流(堀尾忠晴預け)弟前田正勝が旗本として存続
中村一忠 伯耆米子藩 17.5万石 1609 無嗣断絶 除封
木下勝俊/木下利房 備中足守藩 2.5万石 1609 御家騒動[注釈 17] 浪人、勝俊は京都東山に隠棲、利房は功あって足守藩主に復帰
松平忠頼 遠江浜松藩 5.0万石 1609 事件:殺人被害[注釈 18] 死去、松平忠重は旗本を経て1622年に佐貫藩主等に復帰
水野忠胤 三河水野藩 1.0万石 1609 引責:松平忠頼殺害事件 切腹
皆川広照 信濃飯山藩 4.0万石 1609 失脚:松平忠輝乱行非難 蟄居、後に赦免され常陸府中藩1万石に再封
小笠原吉次 常陸笠間藩 3.0万石 1609 連座:私曲[注釈 19] 配流、武蔵に隠棲
桑山清晴 和泉谷川藩 1.0万石 1609 将軍の勘気 蟄居、旧領は父桑山元晴の養老料だったため、父に還付
堀忠俊 越後高田藩 30万石 1610 御家騒動:堀直清堀直寄 配流(鳥居忠政預け)
小川光氏 豊後日田藩 2.0万石 1610 無嗣断絶 死去(※従来は幕領代官と見られていた[63]
浅野長重 下野真岡藩 2.0万石 1611 他藩相続のため 真壁藩5万石を相続
金森長光 美濃上有知藩 2.0万石 1611 無嗣断絶 死去、家老3人は旗本へ
平岩親吉 尾張犬山藩 12.3万石 1611 無嗣断絶 死去、養嗣子早世
有馬晴信 肥前日野江藩 4.0万石 1612 事件:岡本大八事件 切腹[注釈 20]、家康の恩赦で子有馬直純が相続
松平忠清 三河吉田藩 3.0万石 1612 無嗣断絶 急死、弟松平清昌は旗本として存続
山口重政 常陸牛久藩 1.5万石 1613 公命違反[注釈 21] 配流(武蔵国)蟄居、1628年に牛久藩再興
大久保忠佐 駿河沼津藩 2.0万石 1613 無嗣断絶 死去
里見忠重 上野板鼻藩 1.0万石 1613 勤務怠慢 浪人、子孫は越後高田藩に仕える[注釈 22]
石川康長 信濃松本藩 8万石 1613 連座:大久保長安事件 配流(毛利高政預け)
高橋元種 日向延岡藩 5.0万石 1613 連座:富田信高改易 配流(立花宗茂預け)
石川康勝 信濃奥仁科藩 1.5万石 1613 連座:石川康長改易 浪人、大坂夏の陣で戦死
富田信高 伊予宇和島藩 12万石 1613 訴訟[注釈 23] 配流(鳥居忠政預け)、次男は後に旗本
浅野長晟 備中足守藩 2.5万石 1613 他藩相続のため 幸長の死により紀州藩を相続
大久保忠隣 相模小田原藩 5.5万石 1614 公命違反[注釈 24] 配流(井伊直孝預け)
佐野信吉 下野佐野藩 3.9万石 1614 連座:富田信高改易 配流(小笠原秀政預け)久綱・公當は旗本として存続
里見忠義 安房館山藩 12万石 1614 公命違反[注釈 25] 転封、伯耆国倉吉藩3万石に移転
井伊直孝 上野白井藩 1.0万石 1615 他藩相続のため 幕命で兄直勝安中藩に移して彦根藩を相続
奥平信昌 美濃加納藩 5.0万石分 1615 所領収公:隠居料返納 死去により加納藩10万石中5万石の隠居料を返納
豊臣秀頼 摂津大坂藩 65.74万石 1615 豊臣家滅亡・大坂の陣 自刃
古田重然 不明 1.0万石 1615 豊臣方加担が発覚 切腹
池田忠雄 淡路洲本藩 6.3万石 1615 他藩相続のため 忠継が急死したため、備前岡山藩を相続
織田信重 伊勢林藩 1.0万石 1615 御家騒動[注釈 26] 除封
福島高晴 大和宇陀松山藩 3.0万石 1615 豊臣方密通を家臣が密告 浪人、伊勢山田に蟄居
大須賀忠次 遠江横須賀藩 6.0万石 1615 他藩相続のため 叔父榊原康勝の死去により館林藩11万石を相続
松平忠輝 越後高田藩 45万石 1616 将軍の勘気[注釈 27] 配流九鬼守隆金森重頼諏訪頼水預け)
藤田信吉 下野西方藩 1.5万石 1616 無嗣断絶 死の経緯は諸説あり[注釈 28]
大久保忠為 美濃大垣新田藩 1.0万石 1616 不明[注釈 29] 死去
坂崎直盛 石見津和野藩 4.0万石 1617 事件:千姫事件 自害(家臣に殺されたとも)
池田利隆 播磨姫路藩 39万石 1617 所領収公:嫡男光政幼少 鳥取藩22万石へ移封
本多正重 下総舟戸藩 1.0万石 1617 所領収公 死去、2,000石を収公されて大名格を失う
松平定行 遠江掛川藩 3.0万石 1617 所領収公:本家の加増 松平定勝が桑名藩に移ったため掛川を返納
伊奈忠政 武蔵小室藩 1.3万石 1618 所領収公:嫡男熊蔵幼少 熊蔵は小室2,800石に減封、大名格を失う
村上忠勝 越後村上藩 9万石 1618 御家騒動[注釈 30] 配流(松平康重預け)
近藤政成 信濃近藤藩 1.0万石 1618 所領収公:嫡男重直幼少 重直は5,000石に減封、残りは伯父堀親良に付与
関一政 伯耆黒坂藩 5.0万石 1618 御家騒動 養子関氏盛は旗本として存続
福島正則 安芸広島藩 49.82万石 1619 幕法違反:城の無断修理 高井野藩4.5万石へ減封
土岐定義 摂津高槻藩 2.0万石 1619 所領収公:嫡男頼行幼少 死去、頼行は守谷藩1万石へ減封
伊奈忠勝 武蔵小室藩 1.3万石 1619 無嗣断絶 早世、弟伊奈忠隆は旗本として存続
市橋長勝 越後三条藩 4.13万石 1620 所領収公:養嗣子長政幼少 死去、甥長政は仁正寺藩2万石へ減封
田中忠政 筑後柳河藩 32.5万石 1620 無嗣断絶 死去、田中吉興が近江・三河・上野で併せて2万石で再封
由良貞繁 常陸牛久藩 1.0万石 1621 無嗣断絶 死去、由良忠繁は1,000石与えられ旗本として存続
最上義俊 出羽山形藩 57万石 1622 御家騒動:最上騒動 若年により恩赦、大森藩1万石へ減封
織田長益 大和国内 1.0万石 1622 所領収公:隠居料返納 死去
本多正純 下野宇都宮藩 15.5万石 1622 将軍の勘気:釣天井事件 配流(佐竹義宣預け)本多正之は旗本として存続
本多正勝 下野小山藩 1.0万石 1622 連座:本多正純改易 配流(佐竹義宣預け)後に食録1,000石を付与される
成田泰之 下野烏山藩 2.0万石 1622 無嗣断絶 甥成田房長に跡を継がせることを希望したが許されず
松平忠直 越前福井藩 67万石 1623 将軍の勘気:不行跡 配流(竹中重義預け)忠昌が相続、子光長高田藩[注釈 31]
西尾嘉教 美濃揖斐藩 2.5万石 1623 無嗣断絶 死去、弟西尾氏教は旗本して存続
田中吉官 近江三河内 2.0万石 1623 連座:組中の罪[注釈 32] 浪人、後に恩赦されて2,000石で旗本に
青山忠俊 上総大多喜藩 4.5万石 1623 将軍の勘気[注釈 33] 蟄居、後に食禄1,000石を賜る。子宗俊は1648年に再封
内藤清政 安房勝山藩 3.0万石 1623 無嗣断絶 死去、1626年に甥内藤正勝が2万石で再封
本多紀貞 上野白井藩 1.0万石 1624 無嗣断絶 死去
福島正則 信濃高井野藩 4.5万石 1624 幕法違反:無断火葬 死去、正利[注釈 34]3千石・孫正勝2千石で旗本として存続
高台院 河内国内 1.6万石 1624 所領収公 死去、木下利次に3,000石を付与
仁賀保挙誠 出羽仁賀保藩 1.0万石 1625 所領分知 死去、長男7千石・次男2千石・三男千石に分知し、大名格失う
滝川正利 常陸片野藩 2.0万石 1625 所領収公:病弱無嗣 自主的に所領返上、養嗣子滝川利貞は旗本に
根津信直 上野豊岡藩 1.0万石 1626 無嗣断絶 死去
本多忠刻 播磨姫路新田藩 10万石 1626 無嗣断絶 死去、弟本多政朝が継ぐ
松平重忠 遠江横須賀藩 4.0万石 1626 無嗣断絶 死去、松平重直が婿養子となって3万石で継ぐ
蒲生忠郷 陸奥会津藩 60万石 1627 無嗣断絶 死去、弟蒲生忠知が継いで伊予松山藩20万石に減封
蒲生忠知 出羽上山藩 4.0万石 1627 他藩相続のため 伊予松山藩主になった
松下重綱 陸奥二本松藩 5.0万石 1628 所領収公:嫡男長綱幼少 死去、長綱は三春藩3万石に減封
徳永昌重 美濃高須藩 5.07万石 1628 勤務怠慢:遅延[注釈 35] 配流(酒井忠勝戸沢政盛預け)[注釈 36]
別所吉治 但馬八木藩 1.5万石 1628 勤務怠慢:仮病[注釈 37] 浪人、子別所守治が赦免され旗本
内藤正勝 安房勝山藩 2.0万石 1629 所領収公:嫡男重頼幼少 死去、子重頼は5,000石で旗本として存続
桑山貞晴 大和御所藩 2.63万石 1629 無嗣断絶 死去、弟桑山栄晴は3,000石で旗本として存続
近藤秀用 遠江井伊谷藩 1.07万石 1631 所領分知 死去、貞用5,550石・三男用将5千石に分知し、大名格を失う
酒井直次 出羽左沢藩 1.2万石 1631 無嗣断絶 死去
織田長則 美濃野村藩 1.0万石 1631 無嗣断絶 死去
三浦重勝 下総三浦藩 3.3万石 1631 無嗣断絶 死去
池田政綱 播磨赤穂藩 3.5万石 1631 無嗣断絶 死去、弟池田輝興が継ぐ
脇坂安信 美濃脇坂藩 1.0万石 1632 事件:刃傷被害[注釈 38] 浪人
加藤忠広 肥後熊本藩 52万石 1632 不明[注釈 39] 配流(酒井忠勝預け)出羽丸岡藩1万石に減封
最上義俊 出羽大森藩 1.0万石 1632 無嗣断絶 死去、弟最上義智は5,000石で旗本として存続
徳川忠長 駿河府中藩 55万石 1632 将軍の勘気:不行跡 配流(安藤重長預け)・自ら自害
鳥居忠房 甲斐谷村藩 3.8万石 1632 連座:徳川忠長改易 配流(鳥居忠恒預け)
朝倉宣正 遠江掛川藩 2.5万石 1632 連座:徳川忠長改易 配流(松平清匡預け)
長谷川守知 美濃長谷川藩 1.0万石 1632 所領分知 死去、嫡男正尚に千石・三男守勝3千石に分知。大名格喪失
酒井重澄 下総生実藩 2.5万石 1633 将軍の勘気:不敬 配流(水野勝成預け)後に自害、子重知は旗本として存続
堀尾忠晴 出雲松江藩 24万石 1633 無嗣断絶 死去
竹中重義 豊後府内藩 2.0万石 1634 事件:密貿易[注釈 40] 切腹
蒲生忠知 伊予松山藩 20万石 1634 無嗣断絶 死去
高木正成 安房・上総内 1.0万石 1635 所領収公 死去、3,000石減知
菅沼右京[注釈 41] 美濃加納藩 10万石 1635 無嗣断絶 早世(4歳)
鳥居忠恒 出羽山形藩 24万石 1636 無嗣断絶 死去、弟鳥居忠春高遠藩3万石に入封
京極忠高 出雲松江藩 24.4万石 1637 無嗣断絶 死去、先祖の功績で恩赦、甥京極高和龍野藩6万石に減封
本多政武 大和高取藩 2.5万石 1637 無嗣断絶 死去
松倉勝家 肥前島原藩 6万石 1638 引責:島原の乱 斬首[注釈 42]、養子の弟松倉重利も配流(生駒正俊預け)
寺沢堅高 肥前唐津藩 12.3万石 1638 引責:キリシタン蜂起 減知4万石
片桐孝利 大和竜田藩 4.5万石 1638 無嗣断絶 片桐為元末期養子として1万石に減封
真田熊之助 上野沼田藩 3.0万石 1638 無嗣断絶 早世(7歳) 本家真田信之に還付
佐久間三五郎 信濃飯山藩 3.0万石 1638 無嗣断絶 早世(9歳)
成瀬之虎 下総栗原藩 1.5万石 1638 無嗣断絶 早世(5歳)
本多犬千代 下野榎本藩 2.8万石 1640 無嗣断絶 早世(5歳)
池田輝澄 播磨山崎藩 6.5万石 1640 御家騒動:脱藩[注釈 43] 蟄居、池田光仲預けで鳥取藩内鹿野で堪忍料1万石
生駒高俊 讃岐高松藩 17.3万石 1640 御家騒動:生駒騒動 配流・出羽矢島藩1万石[注釈 44]に減封
三枝守昌 安房三枝藩 1.0万石 1640 所領分知 死去、嫡男守全7千石・次男諏訪頼増3千石の分知で大名格を失う
池田長常 備中松山藩 6.5万石 1641 無嗣断絶 死去、弟池田長信は1,000石旗本として存続
堀直定 越後村上藩 10万石 1642 無嗣断絶 早世(7歳)
那須資重 下野那須藩 1.7万石 1643 無嗣断絶 死去、末期養子許されず。父那須資景が旗本として存続
加藤明成 陸奥会津藩 40万石 1643 御家騒動:会津騒動 配流、嫡男加藤明友に堪忍料・石見吉永藩1万石
加藤明利 陸奥二本松藩 3.0万石 1643 乱心 先年死去(1641年)この年に子加藤明勝は3,000石で旗本に
一柳直家 伊予川之江藩 2.86万石 1644 無嗣断絶 婿養子直次を後継とする届け出を怠る。直次は小野藩主に
松下長綱 陸奥三春藩 3.0万石 1644 乱心 配流(山内忠義預け)子松下長光は旗本として存続
松平清道 播磨姫路新田藩 3.0万石 1644 無嗣断絶 早世(11歳)
池田輝興 播磨赤穂藩 3.5万石 1645 乱心:妻女を殺傷 配流(池田光政預け)子池田政種は3,000石で旗本に
杉原重長 但馬豊岡藩 2.74万石 1645 無嗣断絶 前年死去、末期養子を不許可だったが、外孫重玄が1万石で再封
皆川成郷 常陸府中藩 1.9万石 1645 無嗣断絶 死去、弟皆川秀隆は5,000石で旗本に
柳生宗矩 大和柳生藩 1.25万石 1646 所領分知 死去、嫡男三厳8,500石・次男宗冬4,000石に分知して、大名格失う
寺沢堅高 肥前唐津藩 8.3万石 1647 無嗣断絶 酒狂いで自害
松平忠憲 信濃小諸藩 4.5万石 1648 無嗣断絶 前年死去、この年に弟松平康尚那須藩1万石に再封
菅沼定昭 丹波亀山藩 3.8万石 1648 無嗣断絶 前年死去、この年に弟定実7,000石・定賞3,000石で旗本として存続
古田重恒 石見浜田藩 5.5万石 1648 無嗣断絶 横死
真田信重 信濃埴科藩 1.7万石 1648 無嗣断絶 死去、所領は父真田信之に還付
稲葉紀通 丹波福知山藩 4.5万石 1649 苛政:住民殺害 謀反の噂があって前年自殺、この年に詮議(病のためとされた)
織田信勝 丹波柏原藩 3.4万石 1650 無嗣断絶 死去、叔父織田信当は旗本として存続
本多勝行 大和国内 4万石 1650 無嗣断絶 早世(12歳)父政勝に遺領還付[注釈 45]
内藤信広 上総・安房内 1.5万石 1650 連座:キリシタン家臣死刑 前年死去、減知7千石、嫡男信光5,000石、ニ男三男四男に各千石分知
松平定政 三河刈谷藩 2.0万石 1651 事件:幕閣の批判[注釈 46] 永蟄居(兄松平定行預け)子定知らは旗本として存続
平岡頼資 美濃徳野藩 1.0万石 1653 御家騒動:廃嫡[注釈 47] 死去、子平岡頼重が旗本として存続
杉原重玄 但馬豊岡藩 1.0万石 1653 無嗣断絶 早世(17歳)大叔父杉原義正は旗本として存続
※加藤忠広 出羽丸岡藩 1.0万石 1653 無嗣断絶 死去
宮城豊嗣 但馬清富藩 1.3万石 1653 無嗣断絶 死去
片桐為次 大和竜田藩 1.0万石 1655 無嗣断絶 早世(14歳)弟且昭は3,000石で旗本に[注釈 48]
日根野吉明 豊後府内藩 2.0万石 1656 無嗣断絶 死去、御家騒動があって末期養子の願いを取り下げた
山崎治頼 讃岐丸亀藩 4.5万石 1657 無嗣断絶 早世(7歳)叔父山崎豊治に5千石付与し存続、後に交代寄合[注釈 49]
北条氏重 遠江掛川藩 3.0万石 1658 無嗣断絶 落馬死[注釈 50]。義兄北条繁広は旗本として存続
生駒高俊 出羽矢島藩 1.0万石 1659 所領分知 死去。長男高清8千石・次男俊明2千石に分知。大名格喪失
堀田正信 下総佐倉藩 10万石 1660 事件:幕閣の批判[注釈 51] 配流(弟脇坂安政酒井忠直蜂須賀綱通預け)[注釈 52]
上杉綱勝 出羽米沢藩 30万石 1664 無嗣断絶 死去。外甥上杉綱憲を末期養子として15万石に減知
松平重利 下野皆川藩 1.05万石 1665 無嗣断絶 早世(7歳)
一柳直興 伊予西条藩 2.5万石 1665 勤務怠慢/失政[注釈 53] 配流(前田綱紀預け)
池田政直 播磨福本藩 1.0万石 1665 所領分知 死去。弟政武7,000石・政済3,000石分知
京極高国 丹後宮津藩 7.82万石 1666 訴訟/御家騒動[注釈 54] 配流(南部重信預け)子達も配流
水野元知 上野安中藩 2.0万石 1667 乱心:妻女を殺傷 配流(水野忠職預け)子水野元朝は旗本として存続
高力隆長 肥前島原藩 3.7万石 1668 失政 配流(伊達綱村預け)子高力忠弘は旗本として存続
奥平忠昌 下野宇都宮藩 11万石 1668 幕法違反:家臣に殉死者 死去。減知2万石
酒井忠解 出羽大山藩 1.0万石 1668 無嗣断絶 死去。末期養子は不許可。遺領は鶴岡藩に還付
池田邦照 播磨新宮藩 1.0万石 1670 無嗣断絶 早世(13歳)弟池田重教は3千石で旗本として存続
伊達宗勝 陸奥一関藩 3.0万石 1671 御家騒動:伊達騒動 配流(山内豊昌預け)宗興も配流(小笠原忠雄預け)
土井利久 下総古河藩 10万石 1675 無嗣断絶 早世(10歳)叔父土井利益を7万石で再封
土井利益 常陸・下総内 1.0万石 1675 他藩相続のため 古河藩を相続
新庄直矩 常陸麻生藩 2.3万石 1676 無嗣断絶 早世(17歳)末期養子は不許可で、父直好を1万石で再封
黒田長寛 筑前直方藩 4.0万石 1677 他藩相続のため 福岡藩を相続して支藩解消
土井利直 下総大輪藩 1.0万石 1677 無嗣断絶 死去。末期養子が不許可で減知5,000石。養子土井利良は旗本で存続
池田恒行 播磨山崎藩 3.0万石 1678 無嗣断絶 早世
土屋直樹 上総久留里藩 2.0万石 1679 乱心 所領収公。子逵直は3,000石で旗本として存続
戸川安風 備中庭瀬藩 2.0万石 1679 無嗣断絶 早世(9歳)戸川達富は5,000石で旗本として存続
堀通周 常陸玉取藩 1.2万石 1679 乱心 所領収公。弟堀利雄を養子として3,000石で旗本として存続
永井尚長 丹後宮津藩 7.36万石 1680 事件:刃傷被害[注釈 55] 死亡。弟永井直円大和新庄藩1万石で再封
内藤忠勝 志摩鳥羽藩 3.5万石 1680 事件:刃傷沙汰[注釈 55] 切腹
加賀爪直清 武蔵高坂藩 1.0万石 1681 不正:領地改[注釈 56] 配流(山内豊昌預け)→閉門(兄石川総良預け)
酒井忠明 上野伊勢崎藩 2.0万石 1681 他藩相続のため 厩橋藩を相続
松平光長 越後高田藩 26万石 1681 御家騒動:越後騒動 配流(松平定直預け)→1687年赦免、堪忍料3万石[注釈 57]
真田信利 上野沼田藩 3.0万石 1681 勤務怠慢[注釈 58] 配流(奥平昌章預け)[注釈 59]
酒井忠能 駿河田中藩 4.0万石 1681 将軍の勘気[注釈 60] 逼塞→配流(井伊直興預け)後に赦免され旗本
松平直矩 播磨姫路藩 15万石 1682 連座:松平光長改易 閉門→所領収公:減知7万石、日田藩に再封
松平近栄 出雲広瀬藩 3.0万石 1682 連座:松平光長改易 閉門→所領収公:減知2万石
板倉重通 武蔵岩槻藩 6.0万石 1682 失脚[注釈 61] 所領収公:減知1万石、坂木藩に転封
本多政利 播磨明石藩 6.0万石 1682 苛政[注釈 62] 所領収公、岩瀬藩1万石に再封
本多利長 遠江横須賀藩 5.0万石 1682 失政[注釈 63] 所領収公、村山藩1万石に再封
桑山一尹 大和新庄藩 1.1万石 1682 不敬[注釈 64] 閉門(弟一慶・一矩預け)
稲葉正往 摂津・河内内 3.0万石 1683 他藩相続のため 小田原藩を相続
徳川徳松 上野館林藩 25万石 1683 無嗣廃絶 夭折
土方雄隆 陸奥窪田藩 1.8万石 1684 御家騒動[注釈 65] 配流(榊原政邦預け)[注釈 66]別の弟雄賀は旗本として存続
有馬豊範 筑後松崎藩 1.0万石 1684 連座:土方雄隆改易 閉門(有馬頼元預け)所領は久留米藩に還付
稲葉正休 美濃青野藩 1.2万石 1684 事件:大老暗殺[注釈 67] 死去
松平重治 上総佐貫藩 1.5万石 1684 勤務怠慢[注釈 68] 配流(保科正容預け)子勝秀は旗本として存続
松平綱昌 越前福井藩 52.52万石 1686 乱心:家臣殺害 蟄居(江戸鳥越の福井藩邸)前藩主昌明が25万石に減封で再任
溝口政親 越後沢海藩 1.0万石 1687 乱心:酒乱[注釈 69] 配流(兄加藤明英預け)
那須資徳 下野烏山藩 2.0万石 1687 幕法違反[注釈 70] 配流(津軽信政預け)1698年に恩赦。1,000石で旗本に。
佐久間勝親 信濃長沼藩 1万石 1688 将軍の勘気[注釈 71] 閉塞(丹羽長次預け)
大久保忠増 上総・常陸内 1.0万石 1688 昇進:若年寄就任 所領収公、後に小田原藩を相続
堀田正英 常陸北条藩 1.3万石 1688 所領収公[注釈 72] 死去。二男正矩3,000石・三男正章2,000石で旗本になった
喜多見重政 武蔵喜多見藩 2.0万石 1689 勤務怠慢[注釈 73] 配流(松平定重預け)
坂本重治 相模深見藩 1.0万石 1689 勤務怠慢[注釈 74] 逼塞→減知7,800石
本多忠周 陸奥白河藩 1.0万石 1689 勤務怠慢[注釈 74] 逼塞→減知3,000石
山内豊明 土佐中村藩 3.0万石 1689 将軍の勘気[注釈 75] 配流(青山忠重預け)所領は土佐藩に還付。1692年に恩赦。
鳥居忠則 信濃高遠藩 3.0万石 1689 引責:のぞき[注釈 76] 閉門→自害。嫡男忠英能登下村藩1万石に再封
遠藤常久 美濃八幡藩 2.4万石 1692 無嗣廃絶 早世(7歳)遠藤胤親を末期養子として上総常陸内に1万石で再封
松平忠弘 陸奥白河藩 15万石 1692 御家騒動:白河騒動 蟄居→減知5万石で山形藩に再封
本多政利 陸奥大久保藩 1.0万石 1693 事件:殺人[注釈 77] 配流(酒井忠真水野忠之預け)→押込
水谷勝美 備中松山藩 5.0万石 1693 無嗣断絶 死去。養嗣子も1ヶ月後に死去。弟勝時は旗本として存続
堀田正虎 下野大宮藩 2.0万石 1694 他藩相続のため 福島藩を相続
織田信武 大和宇陀松山藩 2.8万石 1695 乱心:家臣殺害[注釈 78] 自害。嫡男織田信休を2万石に減封
本多重益 越前丸岡藩 4.3万石 1695 失政[注釈 79] 配流(池田仲澄預け)後に旗本
西郷寿員 下野上田藩 1.0万石 1695 勤務怠慢 減知5,000石
小出重興 和泉陶器藩 1.3万石 1696 無嗣断絶 死去。弟重昌を末期養子としたがこれも死去した[注釈 80]
森長武 美作津山新田藩 2.0万石 1696 所領収公 死去。末期養子の弟森長基が乱心し、支藩解消
小出英及 但馬出石藩 4.5万石 1696 無嗣断絶 早世(3歳)
森長成 美作津山藩 18.6万石 1697 無嗣断絶 前年死去。末期養子衆利が乱心。父長継西江原藩2万石に再封
水野勝岑 備後福山藩 10.1万石 1698 無嗣断絶 早世(2歳)親戚水野勝長が継ぎ、西谷藩1万石に再封
小笠原長胤 豊前中津藩 8.0万石 1698 苛政 閉門(小笠原忠雄預け)弟長円を4万石で減封
伊丹勝守 甲斐徳美藩 1.0万石 1698 乱心 自害。所領収公
戸田忠真 不明 1.0万石 1698 昇進:寺社奉行就任 所領収公
伊達村和 陸奥中津山藩 3.0万石 1699 事件:土器町事件[注釈 81] 逼塞(伊達綱村預け)従者2名死罪。所領は仙台藩に還付
浅野長矩 播磨赤穂藩 5.0万石 1701 事件:赤穂事件 切腹。相続は許されず、弟長広は旗本として存続
丹羽氏音 美濃岩村藩 1.9万石 1702 訴訟/失政 閉門。高柳藩に減封
松平忠充 伊勢長島藩 1.0万石 1702 乱心※[注釈 82] 幽閉。嫡男康顕5千石・二男尚慶に1千石を分知して旗本に
松平近憲 出雲松江新田藩 1.0万石 1704 他藩相続のため 松江藩を相続。
阿部正喬 武蔵・相模内 1.0万石 1704 他藩相続のため 忍藩を相続。
松平頼職 越前高森藩 3.0万石 1705 他藩相続のため 紀州藩を相続するが急死。所領収公
松平頼方 越前葛野藩 3.0万石 1705 他藩相続のため 紀州藩を相続。所領収公
井伊直朝 遠江掛川藩 3.5万石 1705 乱心/幕法違反[注釈 83] 強制隠居・減知1.5万石。分家直矩を養嗣子として与板藩に再封
前田利昌 加賀大聖寺新田藩 1万石 1709 事件:織田秀親を殺害 切腹。遺領は大聖寺藩に還付
本多忠孝 播磨姫路藩 15万石 1709 無嗣断絶 早世(13歳)分家本多忠良が末期養子となり村上藩5万石に再封
松平宗胡 越前高森藩 2.0万石 1711 無嗣断絶 早世(8歳)
屋代忠位 安房北条藩 1.0万石 1712 失政:万石騒動 逼塞・所領没収[注釈 84]
毛利元次 周防徳山藩 4.5万石 1716 訴訟:前年の万役山事件 配流(戸沢正庸預け)所領は萩藩に還付[注釈 85]
小笠原長邕 豊前中津藩 4.0万石 1716 無嗣断絶 早世(6歳)弟長興安志藩1万石で立藩
毛利元矩 長門長府藩 5.0万石※ 1718 無嗣断絶 早世(15歳)親戚匡広が3.8万石で再封
浅野長経 安芸三次藩 5.0万石 1719 無嗣断絶 早世(13歳)弟長寔が再封
黒田長清 筑前直方藩 5.0万石 1720 無嗣断絶 継高福岡藩をすでに相続していたため遺領を還付して支藩解消
浅野長寔 安芸三次藩 5.0万石 1720 無嗣断絶 早世(10歳)遺領は広島藩に還付
松平宗昌 越前松岡藩 5.0万石 1721 他藩相続のため 松平吉邦の死去により福井藩30万石を相続
本多忠村 大和郡山藩 12万石 1722 無嗣断絶 早世(11歳)弟忠烈が5万石で再封
本多忠烈 大和郡山藩 5.0万石 1723 無嗣断絶 早世(8歳※)
内田正偏 下野鹿沼藩 1.3万石 1724 乱心:妻に斬りかかる 強制隠居・蟄居・減知3,000石、嫡男正親小見川藩に移封
蜂須賀宗員 阿波富田藩 5.0万石 1725 他藩相続のため 兄の死去で、実父蜂須賀綱矩のもとに戻り支藩解消
水野忠恒 信濃松本藩 7万石 1725 事件:刃傷沙汰[注釈 86] 配流(秋元喬房預け)蟄居(叔父水野忠穀預け)[注釈 87]
京極高寛 但馬豊岡藩 3.5万石 1726 無嗣断絶 早世(10歳)弟高永が1.5万石で再封
松平浅五郎 美作津山藩 10万石 1726 無嗣断絶 早世(14歳)従兄長煕が養子となり5万石で再封
松平明矩 陸奥白河新田藩 1.0万石 1727 他藩相続のため 松平基知の養子となって支藩解消
松平義真 陸奥梁川藩 3.0万石 1729 無嗣断絶 早世(16歳)
佐竹義堅 出羽久保田新田藩 1.0万石 1732 他藩相続のため 佐竹義峯の養子となって支藩解消
井伊直定 近江彦根新田藩 1.0万石 1734 他藩相続のため 井伊直惟の養子となって支藩解消
松平乗邑 下総佐倉藩 6.0万石 1745 失脚:専横[注釈 88] 強制隠居・蟄居・老中罷免・減知1万石
植村恒朝 上総勝浦藩 1.1万石 1751 幕法違反[注釈 89] 配流(植村家道預け)後に恩赦、養子寿朝は旗本として存続
安藤信尹 美濃加納藩 6.5万石 1755 御家騒動:安藤騒動 強制隠居・減知1.5万石
本多忠央 遠江相良藩 1.0万石 1758 失政:郡上一揆 配流(松平長孝預け)若年寄罷免
金森頼錦 美濃八幡藩 3.8万石 1758 失政:郡上一揆 配流(南部利雄預け)子頼興は旗本として存続
松平定静 松山新田藩 1.0万石 1765 他藩相続のため 伊予松山藩15万石を相続
田沼意次 遠江相良藩 5.7万石 1786 失脚/汚職[注釈 90] 強制隠居・謹慎・老中辞職・減知2万石
稲葉正明 安房館山藩 1.3万石 1786 連座:田沼意次失脚 減知3,000石
田沼意次 遠江相良藩 3.7万石 1787 失脚/汚職[注釈 90] 相良城破却・減知2.7万石、子意知は移封
小堀政方 近江小室藩 1.63万石 1788 汚職・苛政(伏見騒動) 配流(大久保忠顕預け)奉行罷免、甥政優は旗本として存続
松前章広 蝦夷松前藩 無高 1807 失政 松前領(東)/西蝦夷地の没収、代わりに9,000石を付与
酒井忠全 播磨姫路新田藩 1.0万石 1817 無嗣断絶 早世(3歳)
仙石久利 但馬出石藩 5.8万石 1835 御家騒動:仙石騒動 閉門・減知2.8万石
林忠英 上総貝淵藩 1.8万石 1841 失脚[注釈 91] 強制隠居・若年寄罷免・減知8,000石
水野忠邦 遠江浜松藩 7万石 1845 失脚:天保の改革失敗 強制隠居・減知2万石
堀親寚 信濃飯田藩 2.7万石 1845 連座:水野忠邦失脚 強制隠居・老中罷免・減知1万石
本郷泰固 駿河川成島藩 1.0万石 1859 勤務怠慢[注釈 92] 強制隠居・若年寄罷免・減知5,000石、大名格失う
久世広周 下総関宿藩 6.8万石 1862 引責:坂下門外の変 強制隠居・減知1万石
井伊直憲 近江彦根藩 35万石 1862 連座:故井伊直弼糾弾 減知10万石
間部詮勝 越前鯖江藩 5.0万石 1862 失脚[注釈 93] 強制隠居・減知1万石
酒井忠義 若狭小浜藩 11.35万石 1862 失脚:寺田屋事件余波 強制隠居・京都所司代解任・減知1万石
久世謙吉 下総関宿藩 5.8万石 1862 連座:広周失脚[注釈 94] 減知1万石
安藤鏻之助 陸奥磐城平藩 5.0万石 1862 連座:信正失脚[注釈 94] 減知2万石
松平頼徳 常陸宍戸藩 1.0万石 1864 引責:天狗党事件関与 切腹、明治になり父松平頼位が再封
堀親義 信濃飯田藩 1.7万石 1864 勤務怠慢[注釈 95] 逼塞・役職解任、減知2,000石
戸田忠恕 下野宇都宮藩 7.78万石 1865 勤務怠慢[注釈 96] 減知2.78万石

明治時代

大名 領地 禄高 年代 改易理由 対処・その後
松平喜徳 陸奥会津藩 23万石 1868 新政府への反逆 久留米藩有馬慶頼永預[64]、後に斗南藩松平容大預け
林忠崇 上総請西藩 1.0万石 1868 新政府への反逆 閉門(小笠原長国預け)→明治5年赦免、東京府士族300石、義弟忠弘継ぐ[65]
黒田長知 筑前福岡藩 47万石 1871 太政官札贋造事件 閉門・免官、福岡藩知事の後任は有栖川宮熾仁親王[66]

注釈

  1. ^ 所帯改易・所職改易という[7]。ただし世襲的に継承していた所職からの得分を失うため、変更といっても、没収に近い意味合いである。
  2. ^ 身柄は配流先の大名に預けられるが、江戸時代の配流地先は主に東北か四国に決まっていた。
  3. ^ 数え方による。下記『廃絶録』をもとに表にした関ヶ原で改易された大名はもっと多い。藤野保自身も別の資料では82の大名と言っている[14]
  4. ^ 大名や武士が急病危篤になってから急遽養子を願い出ること[22]
  5. ^ a b 元和3年(1617年)の洪水によって広島城の石垣や堀、楼などが損壊したので、正則はその修復の許可を幕府の取次役である本多正純を通して申請していたが、正純は敢えてこのことを将軍に報告せず、しかも正則には修復だから正式な許可はいらないと曖昧に答えていた。正則は将軍の許可を得ないまま修築作業を始めて罪に問われることになり、元和5年(1619年)4月に正則は弁明のために江戸へ参勤すると共に、修復箇所を破壊して謹慎の態度を示したので一段落するかと思われたが、5月に将軍秀忠は諸大名を率いて上洛すると(正則を江戸に留めて)子福島忠勝に上洛と弁明とを求め、6月2日になって福島氏の改易が突然発表された[23]
  6. ^ ただしこの3か条については、明確な記録はなく、後世の作り話であるらしい[30]
  7. ^ 元和4年(1618年)、家老の加藤美作加藤右馬允が対立した御家騒動(牛方馬方騒動)の際には、豊臣方への加担の嫌疑がかかったにもかかわらず、加藤忠広は幼少を理由に改易を免れている。忠広の義理の母は家康の養女(水野忠重の娘)で、妻は秀忠の養女(蒲生秀行の娘)であり、姉は秀忠の弟・頼宣の妻という、重縁の関係であった[32]
  8. ^ 大坂の陣後に子の増田盛次が大坂方に与したことを咎められ切腹した。
  9. ^ 改易の経緯には諸説あり、処分未定のまま病死、あるいは無嗣断絶したためともいう[41]
  10. ^ 慶長15年(1610年)に領内再検地、幕府の了解を得て高直しにより36.9万石。
  11. ^ 毛利輝元の約120万石の所領内から20万石を分知したもの。
  12. ^ 毛利輝元の減封の後の36.9万石の所領内から5万石を分知したもの。
  13. ^ 後に石直しにより6万石。
  14. ^ 後に結城秀康に仕官した。
  15. ^ ただし石高が確定するのは2代藩主・佐竹義隆の代からである。
  16. ^ 原因については諸説ある。定次の悪政、漁色、大酒、訴訟等を理由に、大名の不品行を家老中坊秀祐が幕府に直訴した。
  17. ^ 勝俊と利房は共に西軍に属して所領没収されており、父木下家定が亡くなって遺領が出ると、これを巡って兄弟で争った。
  18. ^ 水野忠胤の家臣により殺害された。喧嘩両成敗により、喧嘩・殺傷沙汰は被害者も咎を負う。
  19. ^ 専横を糾弾されて、尾張藩の家老平岩親吉と対立した。
  20. ^ キリシタンであったため、形式だけで切腹せず家臣の介錯により討たれたとの記録もある。
  21. ^ 嫡男重信大久保忠隣の養女との無断婚姻。
  22. ^ 義弟酒井忠勝の庄内鶴岡に国替えの際に同行し、以後は400石を拝領。
  23. ^ 義弟坂崎直盛と、罪をおかして逃亡中の妻の甥坂崎左門をかくまった件の争い、敗訴。
  24. ^ 石川康通の娘を養女として山口重政の嫡男と無断縁組したことや、幕命を受けて京で苛烈なキリシタン狩りを行い、寺々を放火した件、大久保長安事件の連座とするなど、改易の理由については諸説あり。
  25. ^ 城郭補修・浪人召抱えなどを咎められた。ただし大久保忠隣に連座ともいう。
  26. ^ 織田信包の遺言で領地を継承した弟信則を不服として、幕府に訴えたが、逆に不届きとされて除封された。
  27. ^ 大坂の陣における遅参・不手際、旗本殺害、参内の懈怠など。理由は複数あり。秀忠は家康の死を待って改易に踏み切った。
  28. ^ 諏訪温泉で死去したが、自殺とも、諏訪部定常によって殺害されたともいう。
  29. ^ 一族の大久保忠隣の改易に連座か。
  30. ^ 家老河野氏房の殺害未解決事件の隠蔽を、被害者の子息が訴える。
  31. ^ 配流先で生まれた次男松千代は3,000石、三男熊千代は2,000石に封じられ旗本となる。
  32. ^ 田中吉官は小姓頭だっために配下の組中の三宅藤五郎の罪に引責した。
  33. ^ 家光に対する度重なる諫言。
  34. ^ 正利は無嗣断絶する。
  35. ^ 大坂城二の丸石垣築造工事の完成がおくれたため、監督不行届をもって領地を没収された。
  36. ^ 徳永昌勝も配流(溝口宣勝預け)1648年に恩赦で赦免され2,000石旗本に。親子の訴訟のための改易だったともいう。
  37. ^ 仮病で、狩り遊びに興じていて、参勤交代を懈怠したことが露見して改易された。
  38. ^ 池田長幸の所領分知に関して三男長純に過半を与えることに反対した弟長頼を除いて遺言を作成したがために、長頼は激怒して長純とその舅脇坂安信と脇坂安経に刃傷に及び安経を殺害した。長頼は切腹。長純・安信は傷を負ったが、喧嘩両成敗により改易となった。
  39. ^ 謀反とも御家騒動ともいうが諸説ある。室賀正俊のもとに将軍の日光参拝を狙った陰謀があると投書するものがあり、調べると加藤光広の家臣前田五郎八というものだったので、光広とその父の忠広は池上本門寺にて蟄居を命じられた。忠広は関与を否定し、光広は若年のため改易どまりとされ、忠広は1万石に減封、光広は100石与えられたという話。または、正室は嫉妬深い人間で、側室が江戸で男子を産んだことに怒り、自分が産んだ嫡子光広の地位が脅かされるとして、家臣前田五郎八に殺害させようとしたという話。
  40. ^ 長崎代官末次平蔵らの告発で、唐船に対する私的課税、海外渡航証の独断での発給、私貿易船の派遣、収賄などの不正を訴えられた。パオロ・ドス・サントス事件も参照。
  41. ^ 菅沼忠隆(奥平忠隆)の嫡男。元服前に死んだ。
  42. ^ 江戸時代の大名で唯一の斬首。
  43. ^ 池田輝澄は新参の家老小川四郎右衛門を重用したので、これに旧来の家老伊木伊織らが反発して伊木派の物頭衆らが脱藩する事態となった。結局、家臣18名が切腹を命じられ、輝澄も家中不取締の科で所領を収公されて、堪忍料1万石だけが与えられた。
  44. ^ 高俊の死後、分知により交代寄合旗本となる。
  45. ^ 遺領は1653年に(政勝の従兄弟で義理の兄弟にあたる)政長に3万石・本多政信に1万石に分知された。
  46. ^ 突如剃髪して、所領を返上して幕閣を非難した上書を提出。江戸市中を托鉢して四国に向かったので、幕府は謀反を警戒しつつもこれを狂気と判断した。
  47. ^ 嫡男頼重を廃して、庶子での継承を願い出たが、頼資の不行跡を理由にいずれの子の相続も認めず、所領没収。頼重に1,000石だけ与えられた。
  48. ^ 且昭は貞就を養子とするが、貞就に子がなく断絶。
  49. ^ 幕末成羽藩を立藩。
  50. ^ 落馬の原因になった黒馬を家臣が主人の恨みとして殺したが、その悪評のため、末期養子が許されなかったという。
  51. ^ 将軍補佐と老中に諫書を提出して幕閣の失政を非難。自身の所領を返上して困窮の旗本を救済するよう願って無断で帰国した。その後も、密かに石清水八幡宮を詣でて将軍家綱の継嗣誕生を祈願するなど、幕法を軽視した勝手な行動が見られて、2回配流先を変えた。
  52. ^ 1680年、徳川家綱死去の報を聞き、幕法に反して殉死した。
  53. ^ 女院御所造営助役の役目を怠慢し、参勤交代に遅参した。住民殺害などの失政もあった。
  54. ^ 高国が襲封後、弟京極高勝の擁立をはかった父高広から親不孝と悪政を幕府に訴えられた。
  55. ^ a b 増上寺での徳川家綱の法会奉行を務めていたが、警護役の内藤忠勝が乱心して、突然斬り掛かってきて永井尚長は殺害された。巷説に、内藤忠勝はある修験者から名刀を力づくで奪って佩用していたが、この修験者が恨んで怨詛したため、忠勝は乱心したという。
  56. ^ 知行地境界問題で領地改があった際に、記述の誤りが見つかり、不正であるとして所領を収公された。
  57. ^ 本来の養嗣子松平綱国は同罪とされて配流され、同じく後に赦免された。それとは別に、徳川光圀の周旋によって松平直矩の三男が養子となって家を継ぎ、この長矩津山藩を立藩した。
  58. ^ 本家の松代藩に対抗して、表高が3万石である所を、信利は強引に実高14.3万石を出して幕府に申告。幕府が再度検地をしたところ、実高は6万石に過ぎなかった。申告高に応じて参勤交代の行列規模、御手伝普請が命じれるため、高い年貢をかけられた領民は疲弊した。災害で破損した江戸の両国橋の架替の助役を命じられたが、橋材の納入を怠った。同じ頃、領民が悪政を幕府に直訴し、日頃の不行跡と領内への悪政、納期遅滞を理由に改易された。
  59. ^ 子もそれぞれ配流となる。後に子真田信音が旗本となるが断絶。
  60. ^ 親戚の酒井忠明が徳川綱吉から逼塞を命じられた際に、酒井忠能が報告に上がったときに、前将軍時の在国中の苛政と職務怠慢を咎められて改易された。
  61. ^ 徳川宗家と自身の御家騒動による。
  62. ^ 前年、巡見使が領内を通過の際に領民が悪政を直訴したことによる。
  63. ^ 本多利長の不行跡と、領内への悪政、前年の巡見使への作法が不適切であるとして、不行き届きを幕府に咎められ改易された。
  64. ^ 東叡山寛永寺での徳川家綱の法会のときに不敬の行為があったとして改易された。
  65. ^ 弟林貞辰を養嗣子としようとしたが、兄雄信の子の土方内匠を推すものがあり、抗争となる。これが幕府に露見した。
  66. ^ 林貞辰は配流(藤堂高通預け)で、内匠は八丈島へ遠島となった。
  67. ^ 江戸城中において稲葉正休は大老堀田正俊を刺殺し、正休も居合わせた老中大久保忠朝阿部正武戸田忠昌に殺された。巷説では、堀田正俊の暗殺は徳川綱吉の命令であったとか、稲葉正休は懐中に書状をいれていて理由が述べられていたともいう。
  68. ^ 在任中に綱紀をみだしたとして領地没収。
  69. ^ 溝口政親の酒狂乱心を家臣が実兄加藤明英に訴え、明英が幕府に伺いを立てて改易となった。
  70. ^ 那須資弥は実子の存在を隠して、幕府に虚偽の申告をして津軽家より那須資徳を養嗣子にとっており、実子の生母がこれを幕府に直訴して露見して改易となった。
  71. ^ 側小姓に任命されたが、拒否して将軍徳川綱吉の怒りを買い、重ねて詐病で出仕を拒否して改易された。
  72. ^ 嫡男堀田正親を指名せず、遺領相続の際の不手際で8,000石没収された。
  73. ^ 側用人に昇進したが勤務が疎かになっていると責められ改易された。分家の喜多見重治の刃傷沙汰の連座ともいう。
  74. ^ a b 寺社奉行の同役の坂本重治本多忠周と共に怠慢があったとして職責を解かれて逼塞を命じられていたが、逼塞を解かれて減知を課された。
  75. ^ 将軍徳川綱吉の寵愛により奥詰から異例の昇進を重ねて若年寄となるが、病気を理由に辞職を願い出て綱吉の怒りにふれ、謹慎を命じられた。
  76. ^ 江戸城馬場先門を警備していた家臣高坂権兵衛が旗本長屋を覗き見した容疑で逮捕される不祥事が原因で、鳥居忠則は閉門となり、自害した。
  77. ^ 失政に加えて、本多政利が罪なき女性を殺害した罪で改易された。配流先でも行状は改まらず、不品行を重ねたので、その報告が遅れた酒井忠真は閉門を命じられ、政利は座敷牢に幽閉されることになった。
  78. ^ 諫言する家老2名とその一門を殺害して自害した。
  79. ^ 酒食に溺れ、家臣間の争いを放置したため、監督不行き届きで改易された。
  80. ^ 叔父小出有仍が旗本として存続。
  81. ^ 重陽の節句で登城して帰る伊達村和の行列を横切った御小姓組岡孝常を従者が抜刀して威嚇し、孝常の刀を奪い怪我をさせた。駕籠に乗っていた村和は傍観していたが、怒った孝常は槍をとって孝常の駕籠に迫って詫びを入れさせようとした。幕臣が止めて孝常を家に帰らせたが、後日双方が処罰された。
  82. ^ 松平忠充は暗愚な人物とされ、些細な理由で家臣を追放したりしていたが、家老3人を切腹させその子4人も死刑とするという乱行に及んだため、遺族が幕府に直訴して露見。乱心したと見なされて幽閉された。
  83. ^ 病を理由に参勤交代の延期を申し出たが、不審に思った幕府が調べたところ、乱心したのを家臣が隠蔽していることが露見した。
  84. ^ ただし後に恩赦があり、3,000石で旗本となる。家老2人が追放、検見役の家臣だけが死罪とされた。
  85. ^ 1719年、子毛利元堯が再封をゆるされる。
  86. ^ 江戸城で将軍徳川吉宗に拝謁して退出の際に、忠恒は突然、通りかかった長州毛利家の世子毛利師就を斬りかかった。師就は傷を負ったが、殿中であるため刀を抜かず鞘で防戦し、御目付長田元鄰が割って入って、戸田氏房が忠恒を取り押さえてことなきをえた。浅野内匠頭と違って、忠恒は理由を供述したが荒唐無稽な内容であったので「乱心」として処理された。幕法を守って刀を抜かなかった師就はお咎めなしとなった。
  87. ^ 水野忠穀に7,000石を付与して旗本とする。1765年大浜藩立藩。
  88. ^ 松平乗邑は幕政の責任者として享保改革を推し進めたが、強引な年貢増徴政策で恨まれており、徳川吉宗が隠退すると、突然、勝手掛老中を罷免されて失脚した。
  89. ^ 分家の植村千吉が義弟の朝比奈万之助に殺害されるという刃傷沙汰があったが、処罰を恐れ、病死と偽って報告し、それが露見した。
  90. ^ a b 側近政治で台頭した田沼意次は経済改革で成果を出したが、松平武元没後は権勢を増して賄賂を横行させたので、反田沼派が生成され、後盾の徳川家治が死去するとすぐに老中を失脚して幕府を追われ、前代未聞である二度の処罰を受けた。
  91. ^ 徳川家斉の側近として重用されて台頭。家斉隠居後も権勢を振るい、幕政改革を志向する勝手掛老中水野忠邦と対立するが、家斉が死去すると水野に粛清されて失脚した。
  92. ^ 将軍継嗣問題関連の処分ともいう。
  93. ^ 文久の改革で失脚。口実は失政だが、実際には井伊直弼の下で安政の大獄の弾圧の指揮をとったことによる報復人事だった。
  94. ^ a b 坂下門外の変の後の事後処理による。
  95. ^ 武田耕雲斎らの天狗党の乱に際して、堀親義は講武所奉行の地位にあったにもかかわらず、留守居の家臣が城に籠もって出撃せずに、清内路関所を通過させたので、これに引責した。
  96. ^ 天狗党の筑波山挙兵に際して討伐の出兵が遅れたために、一族から天狗党に同調する者が出ていたことと併せて、幕府の嫌疑を受けて処罰された。

出典

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