捕虜 法律

捕虜

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/16 15:10 UTC 版)

法律

条約

国内法

日本

敵に投降すること

例えば、日本陸軍で適用された陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号)では、

  • 第40条 司令官其ノ尽スヘキ所ヲ尽サスシテ敵ニ降リ又ハ要塞ヲ敵ニ委シタルトキハ死刑ニ処ス
  • 第41条 司令官野戦ノ時ニ在リテ隊兵ヲ率イ敵ニ降リタルトキハ其ノ尽スヘキ所ヲ尽シタル場合ト雖六月以下ノ禁錮ニ処ス
  • 第77条 敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

と定めて、濫りに投降することを制限していた。

しかしながら同時にこれは、然るべき場合においては投降することが認められていたことをも意味している。

日清・日露戦争

日清戦争中の捕虜殺害を描いた図

日清戦争においては、日本軍、清軍ともに捕虜の殺害は横行しており、処遇は劣悪であった。清国の捕虜となって終戦後に身柄送還によって生還した日本兵は一名だけだった。

日露戦争第一次世界大戦などでは、戦時国際法を遵守して捕虜を厚遇したことが知られている。ただし前述の経緯から、非白人の捕虜に対しては、白人の捕虜ほど厚遇はされなかった。そういう差別があったため、あくまで近代国家を目指す日本の欧米に向けたポーズでしか無かったという指摘もある。

日露戦争の捕虜(ロシア側の捕獲した日本軍捕虜)

ロシア側で捕虜となった日本の将兵の処遇も後世と異なっていた。日露戦争では開戦直後の1904年2月21日に俘虜情報局が設置され、両国の俘虜の名前が交換され、官報での公表や家族への通知も行われた。旅順要塞降伏後、日本人捕虜101人(陸軍80名、海軍17名、民間人4名)が解放されたが、彼らは「旅順口生還者」と呼ばれ、冷遇されることは無かった。海軍捕虜の一人であった万田松五郎上等機関兵曹(第三次閉塞作戦で「小樽丸」に乗り込み、捕虜となる)は、解放後に上京し、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将に面会して作戦状況の報告を行い、記念に金時計を授与されている。また、陸軍においても開戦直後の1904年2月19日、義州領事館に所在して情報収集活動をしていた韓国駐在陸軍武官・東郷辰二郎歩兵少佐はロシア騎兵部隊の包囲を受けて部下の憲兵5名(中山重雄憲兵軍曹、坪倉悌吉憲兵上等兵、古賀貞次郎憲兵上等兵、牛場春造憲兵上等兵、山下栄太郎憲兵上等兵)とともに降伏、捕虜になった。日露戦争における捕虜第1号となった東郷らはノヴゴロド近郊メドヴェージのロシア軍歩兵第199連隊駐屯地に設けられた収容所へ移され、約1800名の日本側将卒・軍属・船員達とともに俘虜生活を送った後、戦後の1906年2月14日に帰国したが、東郷は任務遂行中に捕虜になった不注意で軽謹慎30日の処分を受けたのみであり、後に少将まで進級している。なおメドヴェージからの帰国後に将校の多くが俘虜審問委員会にかけられ、そのうち輸送船金州丸に乗船していた陸軍5名と海軍3名の計8名が免本官となり、うち5名は位階勲等を返上させられている。これは航行中にロシア艦隊から包囲を受け、将校が降伏交渉のため全員でロシア艦に赴き、その間に船が攻撃を受けて下士卒多数を死亡させた責任を問われたもので、降伏行為そのものを軍法会議で裁かれるには至らなかった。

日露戦争の捕虜(日本側の捕獲したロシア軍捕虜)

日露戦争で日本側の捕虜となったロシア将兵は約7万人に及び、日本各地29か所の寺院境内や軍用地などに設けられた捕虜収容所に収容された。1904年2月の開戦時には、陸軍史料によれば松山と丸亀が候補地であった[15]。実際、1904年3月に松山(大林寺、衛戍病院、城北バラック他)、6月に丸亀(塩屋別院)に収容所が開設された。その後、姫路、福知山、名古屋、似島、浜寺、大里(門司近郊)、福岡、豊橋、山口、大津、伏見(東福寺本圀寺妙法院智積院)、小倉、習志野、金沢、熊本、仙台、久留米、佐倉、高崎、鯖江、善通寺(現在の海岸寺付近)、敦賀、大阪(天下茶屋附近)と次々と開設され、樺太で開戦すると樺太戦の捕虜収容のために弘前、秋田、山形にも開設された[16]。29の収容所のもとで、収容施設数は全国で221に及び[注釈 4]、例えば松山では16か所に収容施設が分散していた。収容施設は、急増する捕虜に対応するため、収容能力の比較的高い寺院に限らず、軍施設(衛戍病院、練兵場の仮設バラック)、公共の建物(公会堂、県庁、開院前の病院施設)、民有建物(屋敷、私立学校)など多岐にわたった[17]。それぞれの施設に通訳と衛兵がついた。収容施設の内外を分けるものは、既存の塀(土塀、竹垣など)であることが多く、外からのぞき見する者、密売する者もおり、捕虜の中には脱走を企てる者もいた[16]

1899年のハーグ陸戦条約に基づき、捕虜は概して人道的に取り扱われた[18]。家族を戦場で失ったり経済状況の悪化もあり、一般市民の間では当初捕虜に対して厳しい処罰感情があった。対して収容所行政及び警察は秩序を重視し、市民による捕虜に対する暴力や暴言を取り締まった。当時の捕虜収容が厚遇か冷遇かという「処遇論争」の余地が存在するが[19]、国際法、あるいはロシア側の捕虜収容行政と比較すれば、総合的に考察して少なくとも冷遇とは言いにくい。むろん帰国した捕虜たちが本国で発行した書籍(例えば、1905年2月に早期帰国し、春以降の自由散歩制度を体験していないクプチンスキーの著作[20])では、収容所行政を批判する記述も少なくない。しかし、第一に、衣食住の異文化理解の壁、第二に、帰国後の本国世論への著者の社会的配慮などを差し引かなければならない。第三に捕虜の内部では、戦争継続を支持する派と、革命派あるいは反ロシア的感情をもつ者に分かれており、前者は結果的に捕虜収容行政に畢竟批判的となり、ロシア人以外の少数民族を含め後者は迎合的であったとも考えられる。逆に収容所行政の政策評価についても、公式史料や新聞史料の客観性が吟味されねばならない。

厚遇の論拠として、国際法の規定を越えた明らかな厚遇の事例が多く存在することは事実である。具体的には、将校・兵卒別に各地で遠足が執り行われている。例えば松山収容所では地元の協力により、道後温泉の入浴をはじめ、市内の学校、梅津寺三津浜の海水浴、石手川での水浴、伊予鉄道を利用した彩浜館(郡中)・砥部焼見学等の遠足が収容所によって行われた[21]。1905年の春に入ると、「宣誓」を行った将校には、時間と距離を限定しつつ監視なしで散歩させる自由散歩制度が各収容所で適用された。例えば松山では公会堂から半径4kmの広大な区域が自由散歩区域とされている。名古屋では自由散歩で自転車を運転していた捕虜将校が事故を起こしているほどである[22]。芝居の見物や登楼も各所で行われた[23]。陸軍省発行の『俘虜取扱顛末』によると、最終的な自由散歩許可者は、松山で陸軍79名、海軍78名の計157名、他の名古屋、静岡、山口、伏見、小倉、金沢、熊本、仙台、高崎、鯖江、弘前、秋田、山形の13の収容所をあわせた14の収容所では、陸軍408名、海軍235名、文官5名の計648名であった[24]。また一部の将校には、収容施設外に民家を借りて居住する「民家居住制度」が適用され、ガネンフェリド陸軍少将をはじめ民家に移る将校もいた(妻子との同居も許可された)。『俘虜取扱顛末』によれば民家居住制度の適用者は、松山の18名をはじめとして、伏見13名、弘前5名、名古屋2名、静岡1名の計39名である[24]。この2つの制度は、日清戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦の日本収容の外国人捕虜にはほとんど適用されておらず、遠足も日露戦争と第一次世界大戦のみである。そのため、これら二つの制度の目的のいかんにかかわらず(厚遇そのものが目的か、戦術的に捕虜を分断するためのものか、あるいは収容所行政上の利点があるのか)、処遇の度合いとして考えるならば、日露戦争の捕虜将校は相対的に厚遇であったと言える歴史的根拠となる。加えて、松山収容所で開催された捕虜と市民の自転車競走会(1905年8月5日)などの企画は、厚遇の事例である[14]

ロシア兵捕虜といっても当時のロシア帝国の範囲は広く、ロシア人に限らず、今日のウクライナ人、ベラルーシ人、ポーランド人、フィンランド人、ドイツ人、タタール人等、諸民族が捕虜となっていた。捕虜内部で民族間対立がみられたため、収容所のなかで施設を民族別に分けることもあり、また各宗派(正教、カトリック、プロテスタント、仏教など)の宣教師・司祭・神父が曜日を決めて祈祷に訪問している[22]。捕虜将校の多くは、ロシアの貴族であり経済的な余裕があったため、捕虜収容所内の酒保での注文、直接の注文、自由散歩時の購買により、「捕虜景気」[14]と呼ばれる好景気が生まれる場合もあった。そのためか、奉天会戦(1905年3月)の結果、多数の捕虜が来ることが判明すると、上述の捕虜収容所以外でも岡崎、高田、和歌山、浜田等が収容所設置を願い出た。しかし浜田以外は衛戍地でないため収容所が設置されず、また浜田も交通が不便であるとして、収容所は結局設置されなかった[25]


兵庫県姫路市に設けられた収容所の例では約2200人の捕虜が暮らしており、捕虜には新しい衣類が支給されたほか、条件付きながら運動や市内散策も許されるなど比較的物資に恵まれる自由な環境にあった。収容されていた一軍曹は、母国への手紙に「規律もなければ、教練もなく、何もすることがない」と収容時の様子を記している[26]。同時に一方では、日本人について「今ではあらゆる面で私たちを捕虜でなく、同等の人間に対するような態度で接してくれます。収容所でのたまにある作業の際には、(日本人の)下級労働者たちは門に入るとすぐに帽子をとります」「ものすごく腰の低い人たちです」などと記している[26]。姫路収容所では所内で球技をする捕虜の写真が残っており、また1905年11月(講和条約発効後)に市内で観劇する写真が残されている。

静岡では捕虜将校がテニスをしている写真が残っている[27]。また松山では中学を訪問した際に捕虜がテニスをしている[21]

捕虜収容所の「厚遇」ぶりを日本政府は対外的に宣伝しようとしていた。加えて国内の雑誌(『軍国画報』『軍事画報』『日露戦争実記』『日露戦争写真画報』 『風俗画報』など)でも捕虜収容所を大きくとりあげ捕虜の写真を掲載した。加えて国内外で英語・日本語併記で捕虜収容所の写真を掲載した絵葉書や立体写真が発行されている[28]。収容所には、中立国フランスの公使ポサリューをはじめアメリカ赤十字社のマッギー婦人(Anita Newcomb McGee)、国内外の新聞・雑誌記者、地元関係者、宗教関係者、学校の教師・生徒らが慰問に訪れている。巡業中の力士が収容所を慰問することもあった[16]。収容所、訪問者に加えて捕虜将校たちも写真を撮影することが多く、日露戦争は写真史料を後世に大量に残すこととなった初めての戦争であった[29]。また日露戦争後の1906年、松山収容所の収容施設の見取り図がフランスの雑誌に掲載されている。

ロシア兵捕虜の遺したもの

第一次世界大戦のドイツ兵捕虜が多くの現物史料や文化的遺産を残したのに比べて、ロシア兵捕虜の場合は収容期間が最も長い場合でも700日弱であり、捕虜の手記はロシア側で残されたものの[30]、現物史料は比較的少ない。捕虜将校が最も多かった松山でも、戦災と冷戦時の反ソ感情を経て現在に残るのは、弘願寺(収容施設)の壁の落書き(愛媛県立博物館所蔵)[14]、長持、軍刀、スプーンとフォーク等に限られると考えられていた[21]。加えて伏見収容所(京都)の東福寺塔頭にはバラライカをはじめ手紙、スケッチなどが残されているが、そうした例は僅かに過ぎない。しかし近年、休眠史料が再発見されることがある。例えば、短期間ながら収容施設であった松山衛戍病院(現在の松山城二之丸史跡庭園)の大井戸で1985年に発掘されたロシア帝国の10ルーブル金貨に、2000年代になってからの再調査によりカタカナの人名が手彫りされていたことが判明した[31]。それは、松山収容所の捕虜の名前と、手当をしていた看護婦の名前であった[32]。戦場における敵・味方の関係を離れた人間同士の関係に立脚した人道的見地から、この歴史をもとに松山で演劇が2010年代に上演された[33]。また戦場で敵・味方として遭遇しながらも生き延びるために水と外套を互いに差しだすなどして助けあい、日本軍負傷将校とロシア兵捕虜として松山に向かう同じ船で再会したことが当時の全国紙でも美談として紹介・報道されている[34]。また日露戦争後に奉納された絵馬でもこの逸話は描かれている。敵・味方を分けるのが戦場であるならば、戦場から離れた捕虜と地元・周囲の人間は未だなお敵・味方なのか、それとも人間同士として関係を築けるのか。当時多く報道されたこれらの美談には、「戦時」において捕虜を人間として見る心理的葛藤がみられ、人道規範と戦争還元主義の2つの規範の競合がみられる。

そのほか現在に継承されているものとして、姫路のビーツ(赤かぶら)栽培[35]、松山のハワイセリあるいはオランダガラシ[36]、などが遺産として伝承されている。またロシアのマトリョーシカの一部の形態が、松山の姫だるまに類似しているという指摘がある[37]

また遺産ではないものの相関関係がある事象の研究として、B型肝炎のウィルスの分子時計による研究がある。1973年に松山で流行したGianotti病の検査の結果、ゲノタイプの中の、日本にはないとされていたD型の遺伝子型であった。主にこの遺伝子型は欧州方面に分布するにもかかわらず、D型が日本に流入したのはいつであったのか。その推論として、分子生物学的方法により、日露戦争期前後の時期にまでさかのぼることができると推定し、ロシア兵捕虜の滞在がその遠因となっているかもしれない、という医学的研究もある[38]

第一次世界大戦

シベリア出兵

この戦いは国家対国家の正式な戦争ではなかったこと、日本側の軍人、民間人が虐殺行為を受けることがしばしばあったこと(尼港事件)もあいまって、捕虜の厚遇などは全く見られなくなる。特にボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民からなる非正規軍、パルチザンの存在が兵士たちを困惑させ、時には虐殺行為すら生じた。これが日本軍における捕虜の処遇においての転換点となった。

日中戦争・第二次世界大戦初期

日中戦争ノモンハン事件では、人事不省の状況などで捕虜となった日本兵が捕虜収容所からの脱走や停戦後の捕虜交換で生還する例があったが、その一部は帰国後に自決を強要されたり懲罰的に戦死に追い込まれたりすることもあった。このため捕虜の中には身柄送還を拒否してソ連や中華民国に亡命、帰化する者もいた。そもそも投降より自決を選んだ兵士も多く、捕虜になるよりも死を選ぶようになる。

また、南京事件では民間人を便衣兵認定してから殺害する行為が問題とされた(南京事件論争)。便衣兵認定とは軍服を着用しない人間をゲリラ扱いする行為のこと[39]

太平洋戦争

沖縄戦での日本兵捕虜
バターン死の行進で死亡したアメリカ・フィリピン兵捕虜

日本軍兵士自身の投降については戦陣訓により厳しく戒められるようになった。その原因は敢闘精神の不足と敵への情報の漏洩を恐れたことと言われる。捕虜となれば本人や家族が厳しく糾弾されるため兵士は戦死よりも捕虜になることを恐れ、しばしば自決や玉砕の動機となった。日本軍は竹永事件などきわめて少数の例外のほか組織的投降を行わず、個人の投降者も稀であった。このことは欧米と比べとても異質であるため海外から見た日本軍のイメージに大きな影響をあたえている。

一方で、捕虜となった際に敵による尋問や強要を切り抜けるための教育がなされなかった上、捕虜となったことを日本軍に通知されることを極度に恐れた日本兵捕虜は、氏名や階級などを偽ったり、投降前や投降直後の態度とは一転して積極的な対敵協力者になる例が多くあった。また集団心理から恐慌状態となり、カウラ事件のように絶望的な反乱を起こした例もあった。

また、投降を認めないことにより、不利になった戦場の味方をあえて見捨てて降伏させるという決断が不可能になり、作戦の自由度を大きく削ぐという問題も生じている。キスカ島撤退作戦が「奇跡の作戦」として特筆されているが、裏を返せば他の撤収作戦は失敗していることと、救出を諦め守備兵の降伏を認めるという選択肢が当時の日本軍には無かったことをも意味している。

海軍乙事件のように、遭難した高級将校がゲリラに捕縛され、後に解放され帰還した事件で、これを敵の捕虜となったと看做すかどうかということのみが重要議題となり、機密文書を奪われたという重大事についての議論がおざなりになるという、滑稽な事態も起きている。

なお、大本営の「機密戦争日誌」や「陸支密大日記」等には捕虜による軍事機密の漏洩に触れた個所はなく、「捕虜」「俘虜」といった言葉すら殆ど登場しない。こうした捕虜そのものが日本軍に存在しないという前提は、参謀本部の情報管理を杜撰なものにした[40]

連合国側は、開戦直後から日本にジュネーヴ条約の相互適用を求めた。日本は陸・海軍の反対でジュネーヴ条約を批准しておらず、調印のみ済ませていた。日本側は外務省陸軍省などの協議の結果、ジュネーヴ条約を「準用」すると回答した。回答を受けたイギリス並びにアメリカ側は「批准」と同等と解釈した。そのため、捕虜とした連合国兵士の処遇については戦時中から連合国側から不十分と非難されていた。

太平洋戦争では、特に緒戦において連合国軍軍隊の大規模な降伏が相次ぎ、日本側は相当数の捕虜を管理することとなった。大規模な捕虜が出た戦いとしては、フィリピンの戦い(8.3万人)、蘭印作戦(8.2万人)、シンガポールの戦い(8万人)、香港の戦い(1.1万人)などがある。これら多数の捕虜の処遇について、必ずしも十分な保護が与えられず、バターン死の行進サンダカン死の行進などの事件が生じた。その原因は捕虜への考え方の違いもさることながら、日本の予想人数を大幅に超えたことや、日本軍自身の兵站が十分ではなかったことや、劣勢のため捕虜の保護が十分ではなかったことがあげられる。また、捕虜の処遇を軽視していたため、俘虜管理部の軍での地位は低く、ジュネーヴ条約の内容について管理者に指導することもなかった。

戦後にポツダム宣言により、捕虜を不当に処遇した軍人等が連合国による東京裁判軍事法廷で裁かれ、処刑される者が多かった。代表的な人物として、比島俘虜収容所長(1944年3月-)となった洪思翊中将などがいる。その他、憲兵にも戦犯とされた者が多かった。東京裁判は判決で、日本の捕虜になったアメリカ・イギリス連邦の兵士132,134人のうち35,756人(約27%)が死亡したと指摘している。安全な日本本土の収容所に限れば、大船収容所で死亡者は8人(0.8-1.6%)だった[41]

  捕虜死亡率
(%)
日本捕虜の中国人 約100%[42]
ドイツ捕虜のロシア人 57.5%
ユーゴスラビア捕虜のドイツ人 41.2%
ソビエト連邦捕虜のドイツ人 35.8%
日本捕虜のアメリカ人 33.0%
ドイツ捕虜のアメリカ人 1.19%
西ヨーロッパ諸国捕虜のドイツ人 32.9%
日本捕虜のイギリス人 24.8%
チェコスロバキア捕虜のドイツ人 5.0%
ドイツ捕虜のイギリス人 3.5%
フランス捕虜のドイツ人 2.58%
アメリカ捕虜のドイツ人 0.15%
イギリス捕虜のドイツ人 0.03%

太平洋戦争で捕虜となった連合国将官としては、アメリカ陸軍のジョナサン・ウェインライト中将、エドワード・P・キング少将、ウィリアム・シャープ少将(いずれもフィリピンの戦い)、イギリス陸軍のアーサー・パーシバル中将(シンガポールの戦い)、クリストファー・マルトビイ少将(香港の戦い)、オランダ陸軍のハイン・テル・ポールテン中将、ペスマン少将(いずれも蘭印作戦)などがいる。

1945年(昭和20年)9月2日に調印された降伏文書では「下名ハ茲ニ日本帝国政府及日本帝国大本営ニ対シ現ニ日本国ノ支配下ニ在ル一切ノ連合国俘虜及被抑留者ヲ直ニ解放スルコト並ニ其ノ保護、手当、給養及指示セラレタル場所ヘノ即時輸送ノ為ノ措置ヲ執ルコトヲ命ズ」とあり、俘虜の取扱いは日本と連合国との間で重要な事項とされた。そのため、1945年(昭和20年)12月1日に発足した第一復員省にも大臣官房俘虜調査部(初代部長は坪島文雄中将)が置かれた。

第二次世界大戦主要国別捕虜数
ドイツ 9,451,000人
フランス 5,893,000人
イタリア 4,906,000人
イギリス 1,811,000人
ポーランド 780,000人
ユーゴスラビア 682,000人
ベルギー 590,000人
フランス植民地 525,000人
オーストラリア 480,000人
アメリカ合衆国 477,000人
オランダ 289,000人
ソビエト連邦 215,000人
日本 40,000人

内海愛子・笹本妙子を中心とするPOW(Prisoner of War=戦争捕虜)研究会によれば、太平洋戦争中、連合国将兵約14万が日本軍によって捕虜とされた。国籍はイギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、英領インドなど。占領地に捕虜収容所が造られ、捕虜は日本軍が使用する鉄道、道路、飛行場などの建設作業に従事させられた。また労働力不足を補う要員として捕虜3万5000超が日本に連行された。日本各地に捕虜収容所が約130造られ、捕虜は炭鉱、造船所、工場その他で働かされた。病気、飢え、暴力などのために死亡した捕虜は約1割で、戦後、収容所関係者はBC級戦犯に問われた[43]

第二次世界大戦後

日本国憲法第9条自衛権を放棄していないという日本国政府見解はあったものの、人道に関する国際条約(いわゆるジュネーヴ4条約)の国内法制については、有事法制研究においても所管省庁が明確でない法令(第3分類)とされており、自衛隊法第76条の規定により防衛出動を命ぜられた自衛隊による捕虜の取扱い等を具体的に定める法制は未制定であった(自衛官の身分証明書にも、アメリカ軍のIDカードにあるような「ジュネーブ条約上の身分証明書」(Geneva Conventions Identification Card)の文言はない)。

この変則的な状態を解消するため、2004年(平成16年)に行われた一連の事態対処関連法制の整備に際して、国際人道法の的確な実施のための法制として、「武力攻撃事態及び存立危機事態における捕虜等の取扱いに関する法律」(平成16年6月18日法律第117号)(以下「捕虜取扱い法」という。)が制定された。捕虜取扱い法は、その第1条で「この法律は、武力攻撃事態又は存立危機事態における捕虜等の拘束、抑留その他の取扱いに関し必要な事項を定めることにより、武力攻撃又は存立危機事態を排除するために必要な自衛隊の行動が円滑かつ効果的に実施されるようにするとともに、武力攻撃事態及び存立危機事態において捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(以下「第三条約」という。)その他の捕虜等の取扱いに係る国際人道法の的確な実施を確保することを目的とする。」と謳っている。

その主な内容は、捕虜等の人道的な待遇の確保、捕虜等の生命身体健康及び名誉に対する侵害又は危難から常に保護すること、その他捕虜等の取扱いに係る国の責務を定めた「総則」、捕虜等の拘束、抑留資格の確認等に関する手続、権限等を規定した「拘束及び抑留資格認定の手続」、「捕虜収容所における抑留及び待遇」、捕虜等の抑留資格認定及び抑留中の懲戒処分に対する不服申立ての審理手続等を規定する「審査請求」、捕虜等の送還等について規定する「抑留の終了」、及び捕虜等の拘束及び抑留業務の目的達成に必要な範囲での自衛官による武器の使用の規定、捕虜等が逃走した場合の再拘束の権限並びにそのために必要な調査等に関する規定を設けた「補則」等からなっている。

また捕虜取扱い法の附則により自衛隊法が改正され、捕虜取扱い法の規定による捕虜等の抑留及び送還その他の事務を行う自衛隊の機関として、(武力攻撃事態又は存立危機事態に際して)臨時に捕虜収容所を設置することができるようになった(自衛隊法第24条第4項、第29条の2第1項)。 この捕虜収容所の所長は、第三条約の規定を踏まえ幹部自衛官が任じられる(第三条約第39条第1項、自衛隊法第29条の2第2項)。

関連作品

映画

文学

漫画


注釈

  1. ^ 捕虜の定義は、1907年のハーグ陸戦条約附属規則では第1条〜第3条、1929年の俘虜の待遇に関する条約では第1条、1949年のジュネーヴ第3条約では第4条にある。
  2. ^ 例:ハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)では、prisonniers de guerre(フランス語)の訳語に「俘虜」[2]を用いている。
  3. ^ マーワルディーによると、多神教徒から来る財として戦利品であるファイロシア語版(fay‘)[8]ガニーマアラビア語版(ghanīma)[9]について述べている。ファイはウマイヤ朝カリフウマル2世によってムスリム全体のために保有される征服地の土地として分配不可能な不動産を指し、ガニーマは分配可能な動産を指す。マーワルディーは、うち、ガニーマの種類として、戦争捕虜、敵方の婦女子の捕虜、不動産および動産の4つを上げている。
  4. ^ 姫路収容所については、公式史料には現れていない施設が近年新たに見つかっている。[1]

参照

  1. ^ 1949年のジュネーヴ第3条約 第4条A(1)
  2. ^ 俘虜』 - コトバンク
  3. ^ ただし日露戦争期から「捕虜」という用語が軍史料で使われることもあり、俘虜と捕虜の比率は変化している。
  4. ^ 甲5套大日記 裁判所伺 水夫末松善藏外1名処分の件”. www.jacar.archives.go.jp. 2022年8月31日閲覧。
  5. ^ 石川1等軍医正 賊の捕虜になった者の殺害に関する通知の通報”. www.jacar.archives.go.jp. 2022年8月31日閲覧。
  6. ^ マーワルディー『統治の諸規則』(2006)pp.312-
  7. ^ 『イスラム世界』27・28号, 社団法人日本イスラム協会, 1287.3. p.43-66.
  8. ^ ファイ』 - コトバンク
  9. ^ ガニーマ』 - コトバンク
  10. ^ マーワルディー『統治の諸規則』(2006)pp.324-325
  11. ^ ブハーリー『真正集』遠征の書、第61章2節。
  12. ^ アハメド(2000)pp.123-125
  13. ^ 東京新聞』特報2004年11月1日付
  14. ^ a b c d 才神時雄 『松山収容所』中央公論社、1969年。 
  15. ^ 「陸軍大臣ヨリ 松山及丸亀二俘虜収容所設置ノ旨通知」(明治37年2月12日)『俘虜ニ関スル書類綴』大本営陸軍副官部、防衛研究所所蔵。
  16. ^ a b c 宮脇, 昇 『ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ』(Shohan)愛媛新聞社、Matsuyama-shi、2005年。ISBN 4-86087-038-7OCLC 122987011https://www.worldcat.org/oclc/122987011 
  17. ^ 鈴木敏夫 『日露戦争裏面史』私家版、2003。 
  18. ^ 宮脇昇 (2012). “日露戦争の捕虜収容所をめぐる競合規範の間隙」”. 『政策科学』 19巻4号. 
  19. ^ 例えば、喜多義人「日本はロシア捕虜をいかに扱ったか--捕虜収容所の生活と待遇」『正論』(通号 391) (臨増) [2004.12] ,pp.282~293は、厚遇論である。
  20. ^ Kupchinskīĭ, F. P. (Shōwa 63 [1988]). Matsuyama Horyo Shūyōjo nikki : Roshia shōkō no mita Meiji Nihon. Tōkyō: Chūō Kōronsha. ISBN 4-12-001686-2. OCLC 20252101. https://www.worldcat.org/oclc/20252101 
  21. ^ a b c Miyawaki, Noboru; 宮脇昇 (2005). Roshia-hei horyo ga aruita Matsuyama : Nichi-Ro Sensō ka no kokusai koryū. 宮脇昇 (Shohan ed.). Matsuyama-shi: Ehime Shinbunsha. ISBN 4-86087-038-7. OCLC 122987011. https://www.worldcat.org/oclc/122987011 
  22. ^ a b 『マツヤマの記憶 日露戦争100年とロシア兵捕虜』Matsuyama Daigaku,松山大学.、成文社、Yokohama-shi、2004年。ISBN 4-915730-45-XOCLC 123012888https://www.worldcat.org/oclc/123012888 
  23. ^ 資料公開”. Researchmap. 2022年8月4日閲覧。
  24. ^ a b 『2005年度 松山ロシア兵捕虜収容所研究』松山市、2006。 
  25. ^ 『明治三十七八年戦役業務詳報』陸軍省、1906。 
  26. ^ a b 日露戦争で収容「捕虜でなく人間」 ロシア兵の手紙、母国の新聞に”. 神戸新聞 (2019年5月8日). 2019年5月8日閲覧。
  27. ^ 大日本陸軍副官部『明治37年12月ヨリ明治39年5月マテノ分 俘虜ニ関スル書類綴』
  28. ^ Highlights from the Archives”. fanningtheflames.hoover.org. 2022年8月19日閲覧。
  29. ^ 例えば北海道大学スラブ研究センター 日露戦争捕虜収容所関係絵葉書帖 – Hokkaido University Library (hokudai.ac.jp)
  30. ^ 例えば松山で646日を過ごしたエカテリーノスラフ艦長のセレツキー海軍中佐の手記が残っている。646 дней въ плieну у японцевъ / Г. Селецкiй, In-house reproduction:Reprinted by xerography. Ogirinally published: С.-Петербургъ : В. Березовскiй, 1910
  31. ^ 【松山編】松山に残るロシアとの絆 ー映画化により注目されるスポットを巡るー | IRC|株式会社いよぎん地域経済研究センター”. www.iyoirc.jp. 2022年8月23日閲覧。
  32. ^ 二之丸史跡庭園 | 恋人の聖地 | 松山城”. www.matsuyamajo.jp. 2022年8月19日閲覧。
  33. ^ 誓いのコイン:坊っちゃん劇場 - BOTCHAN THEATER”. www.botchan.co.jp. 2022年8月19日閲覧。
  34. ^ [2] 捕虜は1904年9-10月に松山に収容された後、1905年に善通寺収容所に転送された。善通寺収容所で撮影された写真が後世に残っている。徳島の写真家と元ロシア兵捕虜のひ孫 100年の時経て交流 県内収容時の写真が縁 | BUSINESS LIVE (shikoku-np.co.jp)
  35. ^ ビーツでまちおこし! 姫路とロシア兵の縁とは… | おでかけトピック | 兵庫おでかけプラス | 神戸新聞NEXT”. www.kobe-np.co.jp. 2022年8月19日閲覧。
  36. ^ 平井屯 (1985). “「郷土の帰化植物」”. 『松前史談』 創刊号. 
  37. ^ 愛媛県の姫だるまがマトリョーシカの起源?神㓛天皇がモデルとされる説も” (日本語). DO?GO!愛媛. 2022年8月19日閲覧。
  38. ^ 森一, 恩地; 浩二郎, 道堯; 典生, 堀池 (2006). “愛媛Gianotti病顛末記”. 肝臓 47 (11): 518–523. doi:10.2957/kanzo.47.518. https://www.jstage.jst.go.jp/article/kanzo/47/11/47_11_518/_article/-char/ja/. 
  39. ^ 秦郁彦「南京事件」中公新書,p193
  40. ^ 『日本兵捕虜は何をしゃべったか』 山本武利 2001
  41. ^ p.153『日本軍は本当に残酷だったのか』丸谷元人 2014年
  42. ^ World War II -- prisoners of war POWs Japan”. 2022年4月8日閲覧。
  43. ^ “捕虜の1割が死亡 全国にあった収容所のこと、書き残す [戦後75年特集:朝日新聞デジタル”]. (2020年10月7日). https://www.asahi.com/articles/ASNB542GNN9TUTIL01Y.html 
  44. ^ 北、韓国兵捕虜を「奴隷化」 子孫の代まで搾取 人権団体報告”. AFP (2021年2月25日). 2021年2月24日閲覧。
  45. ^ “日本でもモザイクなしで… ウクライナ公開のロシア兵捕虜の動画は「国際法違反」人権団体が声明”. バズフィード. (2022年3月18日). https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/demomozaikunaside-ukurainanorosiahaga?bfsource=relatedmanual 


「捕虜」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

捕虜のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



捕虜のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの捕虜 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS