捕虜 その他

捕虜

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その他

脚注

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参考文献

  • ライラ・アハメド 著、林正雄・本合陽・森野和弥・岡真理・熊谷滋子 訳 『イスラームにおける女性とジェンダー―近代論争の歴史的根源』法政大学出版局〈叢書ウニベルシタス〉、2000年8月。ISBN 4588006703 
  • アル・マーワルディー 著、湯川武 訳 『統治の諸規則』慶應義塾大学出版会、2006年5月。ISBN 4766412389 

関連文献

日本人捕虜
ビルマのイギリス軍の管理する捕虜収容所における学徒兵の体験。
1956年の第4回菊池寛賞を受賞した。

秦郁彦『日本人捕虜』上下二巻、原書房、1998年ISBN 4-562-03071-2

白村江の戦いからシベリア抑留まで取り扱った日本人捕虜に関するノンフィクション。
連合艦隊参謀長福留繁中将が捕虜になった事件に関するノンフィクション。
日本人捕虜の尋問
日本軍の暗号解読や日本人捕虜の尋問のためにイギリス軍が設けた日本語習得の学校について。
  • 中田整一『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』講談社、2010年 のち文庫
カリフォルニア州にアメリカ軍が設けた尋問所「トレイシー」について。

・山本武利『日本兵捕虜は何をしゃべったか』文藝春秋、2001年、ISBN 4-16-660214-4


 日露戦争のロシア兵捕虜

・松山大学編『マツヤマの記憶─日露戦争100年とロシア兵捕虜』成文社、2004年

・宮𦚰昇『ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ』愛媛新聞社、2005年

・吹浦忠正 『捕虜の文明史』新潮社、1990年、ISBN 4-10-600387-2

独ソ戦におけるソ連人の捕虜
  • ユルゲン・トールヴァルト『幻影 ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語松谷健二(訳)、フジ出版社、1978年
祖国をスターリンの圧制から解放しようと寝返ったソ連人捕虜の物語。
ドイツ人の捕虜
ドイツ人捕虜のあいだで伝説となったドイツ軍医を描いた小説。
  • ジェームズ・バクー『消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所 死のキャンプへの道』申橋 昭(訳)、光人社、1993年
人道主義的な扱いを期待して西側連合国の捕虜となったドイツ人の悲惨な運命について。
第一次世界大戦の青島攻略戦で捕虜となったドイツ軍人に関するノンフィクション。
日本軍の捕虜となった英連邦諸国兵士
  • 笹本妙子『連合軍捕虜の墓碑銘』草の根出版会、2004年。(米軍兵士も含む)
  • ジェームス・クラヴェル『キング・ラット チャンギー捕虜収容所』山手書房、1985年
日本軍のシンガポール・チャンギー連合軍捕虜収容所を題材にした小説
  • フランク・エバンス『Roll Call at Oeyama - P.O.W. Remembers 大江山の点呼 - 捕虜は思い出す』私家本、1985年、日本語訳は未出版
日本軍によって香港で捕虜となったウェールズ出身のイギリス軍兵士の自伝。
日本軍の捕虜となった米軍兵士
  • サミュエル・B・ムーディ『Reprieve from Hell』Pageant Press、1961年、日本語訳は未出版
鳴海町(現:名古屋市)にあった鳴海捕虜収容所(日本車輌製造での勤労に従事させていた)で、懲罰として53時間「気を付け」の姿勢を取らされた体験を持つ著者による回想記。この「53時間の『気を付け』」は、「最も長い時間同じ姿勢でいた記録」として『ギネス世界記録』に掲載された。

関連項目

事件

注釈

  1. ^ 捕虜の定義は、1907年のハーグ陸戦条約附属規則では第1条〜第3条、1929年の俘虜の待遇に関する条約では第1条、1949年のジュネーヴ第3条約では第4条にある。
  2. ^ 例:ハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)では、prisonniers de guerre(フランス語)の訳語に「俘虜」[2]を用いている。
  3. ^ マーワルディーによると、多神教徒から来る財として戦利品であるファイロシア語版(fay‘)[8]ガニーマアラビア語版(ghanīma)[9]について述べている。ファイはウマイヤ朝カリフウマル2世によってムスリム全体のために保有される征服地の土地として分配不可能な不動産を指し、ガニーマは分配可能な動産を指す。マーワルディーは、うち、ガニーマの種類として、戦争捕虜、敵方の婦女子の捕虜、不動産および動産の4つを上げている。
  4. ^ 姫路収容所については、公式史料には現れていない施設が近年新たに見つかっている。[1]

参照

  1. ^ 1949年のジュネーヴ第3条約 第4条A(1)
  2. ^ 俘虜』 - コトバンク
  3. ^ ただし日露戦争期から「捕虜」という用語が軍史料で使われることもあり、俘虜と捕虜の比率は変化している。
  4. ^ 甲5套大日記 裁判所伺 水夫末松善藏外1名処分の件”. www.jacar.archives.go.jp. 2022年8月31日閲覧。
  5. ^ 石川1等軍医正 賊の捕虜になった者の殺害に関する通知の通報”. www.jacar.archives.go.jp. 2022年8月31日閲覧。
  6. ^ マーワルディー『統治の諸規則』(2006)pp.312-
  7. ^ 『イスラム世界』27・28号, 社団法人日本イスラム協会, 1287.3. p.43-66.
  8. ^ ファイ』 - コトバンク
  9. ^ ガニーマ』 - コトバンク
  10. ^ マーワルディー『統治の諸規則』(2006)pp.324-325
  11. ^ ブハーリー『真正集』遠征の書、第61章2節。
  12. ^ アハメド(2000)pp.123-125
  13. ^ 東京新聞』特報2004年11月1日付
  14. ^ a b c d 才神時雄 『松山収容所』中央公論社、1969年。 
  15. ^ 「陸軍大臣ヨリ 松山及丸亀二俘虜収容所設置ノ旨通知」(明治37年2月12日)『俘虜ニ関スル書類綴』大本営陸軍副官部、防衛研究所所蔵。
  16. ^ a b c 宮脇, 昇 『ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ』(Shohan)愛媛新聞社、Matsuyama-shi、2005年。ISBN 4-86087-038-7OCLC 122987011https://www.worldcat.org/oclc/122987011 
  17. ^ 鈴木敏夫 『日露戦争裏面史』私家版、2003。 
  18. ^ 宮脇昇 (2012). “日露戦争の捕虜収容所をめぐる競合規範の間隙」”. 『政策科学』 19巻4号. 
  19. ^ 例えば、喜多義人「日本はロシア捕虜をいかに扱ったか--捕虜収容所の生活と待遇」『正論』(通号 391) (臨増) [2004.12] ,pp.282~293は、厚遇論である。
  20. ^ Kupchinskīĭ, F. P. (Shōwa 63 [1988]). Matsuyama Horyo Shūyōjo nikki : Roshia shōkō no mita Meiji Nihon. Tōkyō: Chūō Kōronsha. ISBN 4-12-001686-2. OCLC 20252101. https://www.worldcat.org/oclc/20252101 
  21. ^ a b c Miyawaki, Noboru; 宮脇昇 (2005). Roshia-hei horyo ga aruita Matsuyama : Nichi-Ro Sensō ka no kokusai koryū. 宮脇昇 (Shohan ed.). Matsuyama-shi: Ehime Shinbunsha. ISBN 4-86087-038-7. OCLC 122987011. https://www.worldcat.org/oclc/122987011 
  22. ^ a b 『マツヤマの記憶 日露戦争100年とロシア兵捕虜』Matsuyama Daigaku,松山大学.、成文社、Yokohama-shi、2004年。ISBN 4-915730-45-XOCLC 123012888https://www.worldcat.org/oclc/123012888 
  23. ^ 資料公開”. Researchmap. 2022年8月4日閲覧。
  24. ^ a b 『2005年度 松山ロシア兵捕虜収容所研究』松山市、2006。 
  25. ^ 『明治三十七八年戦役業務詳報』陸軍省、1906。 
  26. ^ a b 日露戦争で収容「捕虜でなく人間」 ロシア兵の手紙、母国の新聞に”. 神戸新聞 (2019年5月8日). 2019年5月8日閲覧。
  27. ^ 大日本陸軍副官部『明治37年12月ヨリ明治39年5月マテノ分 俘虜ニ関スル書類綴』
  28. ^ Highlights from the Archives”. fanningtheflames.hoover.org. 2022年8月19日閲覧。
  29. ^ 例えば北海道大学スラブ研究センター 日露戦争捕虜収容所関係絵葉書帖 – Hokkaido University Library (hokudai.ac.jp)
  30. ^ 例えば松山で646日を過ごしたエカテリーノスラフ艦長のセレツキー海軍中佐の手記が残っている。646 дней въ плieну у японцевъ / Г. Селецкiй, In-house reproduction:Reprinted by xerography. Ogirinally published: С.-Петербургъ : В. Березовскiй, 1910
  31. ^ 【松山編】松山に残るロシアとの絆 ー映画化により注目されるスポットを巡るー | IRC|株式会社いよぎん地域経済研究センター”. www.iyoirc.jp. 2022年8月23日閲覧。
  32. ^ 二之丸史跡庭園 | 恋人の聖地 | 松山城”. www.matsuyamajo.jp. 2022年8月19日閲覧。
  33. ^ 誓いのコイン:坊っちゃん劇場 - BOTCHAN THEATER”. www.botchan.co.jp. 2022年8月19日閲覧。
  34. ^ [2] 捕虜は1904年9-10月に松山に収容された後、1905年に善通寺収容所に転送された。善通寺収容所で撮影された写真が後世に残っている。徳島の写真家と元ロシア兵捕虜のひ孫 100年の時経て交流 県内収容時の写真が縁 | BUSINESS LIVE (shikoku-np.co.jp)
  35. ^ ビーツでまちおこし! 姫路とロシア兵の縁とは… | おでかけトピック | 兵庫おでかけプラス | 神戸新聞NEXT”. www.kobe-np.co.jp. 2022年8月19日閲覧。
  36. ^ 平井屯 (1985). “「郷土の帰化植物」”. 『松前史談』 創刊号. 
  37. ^ 愛媛県の姫だるまがマトリョーシカの起源?神㓛天皇がモデルとされる説も” (日本語). DO?GO!愛媛. 2022年8月19日閲覧。
  38. ^ 森一, 恩地; 浩二郎, 道堯; 典生, 堀池 (2006). “愛媛Gianotti病顛末記”. 肝臓 47 (11): 518–523. doi:10.2957/kanzo.47.518. https://www.jstage.jst.go.jp/article/kanzo/47/11/47_11_518/_article/-char/ja/. 
  39. ^ 秦郁彦「南京事件」中公新書,p193
  40. ^ 『日本兵捕虜は何をしゃべったか』 山本武利 2001
  41. ^ p.153『日本軍は本当に残酷だったのか』丸谷元人 2014年
  42. ^ World War II -- prisoners of war POWs Japan”. 2022年4月8日閲覧。
  43. ^ “捕虜の1割が死亡 全国にあった収容所のこと、書き残す [戦後75年特集:朝日新聞デジタル”]. (2020年10月7日). https://www.asahi.com/articles/ASNB542GNN9TUTIL01Y.html 
  44. ^ 北、韓国兵捕虜を「奴隷化」 子孫の代まで搾取 人権団体報告”. AFP (2021年2月25日). 2021年2月24日閲覧。
  45. ^ “日本でもモザイクなしで… ウクライナ公開のロシア兵捕虜の動画は「国際法違反」人権団体が声明”. バズフィード. (2022年3月18日). https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/demomozaikunaside-ukurainanorosiahaga?bfsource=relatedmanual 


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