折口信夫 折口信夫の概要

折口信夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 18:49 UTC 版)

折口 信夫おりくち しのぶ
誕生 1887年2月11日
大阪府西成郡木津村
死没 (1953-09-03) 1953年9月3日(66歳没)
東京都新宿区信濃町
墓地 石川県羽咋市
職業 民俗学者国語学者歌人
言語 日本語
国籍 日本
最終学歴 國學院大學国文科卒業
ジャンル 民俗学詩歌
ウィキポータル 文学
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折口の成し遂げた研究は、「折口学」と総称されている。柳田國男の高弟として民俗学の基礎を築いた。みずからのの青(あざ)[注 2]をもじって、靄遠渓(あい・えんけい=青インク、「靄煙渓」とも)と名乗ったこともある。

歌人としては正岡子規の「根岸短歌会」、後「アララギ」に「釈迢空」の名で参加し、作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離し、アララギを退会する。1924年大正13年)北原白秋と同門の古泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。

経歴

「折口信夫生誕の地」の碑と文学碑(大阪市浪速区敷津西1丁目)

1887年2月11日大阪府西成郡木津村(現:大阪市浪速区敷津西1丁目・鷗町公園)に父秀太郎、母こうの四男として生まれる。

1890年木津幼稚園に通う。1892年木津尋常小学校(現在の大阪市立敷津小学校)に入学する。1894年叔母えいから贈られた『東京名所図会』の見開きに初めて自作歌を記す。感謝の念篤く『古代研究』に、この叔母への献詞を載せている。

1896年大阪市南区竹屋町、育英高等小学校に入学する。1899年4月大阪府第五中学校(後の天王寺中学)に入学する。中学の同級生には武田祐吉(国文学者)、岩橋小弥太(国史学者)、西田直二郎などがいた。

1900年夏に大和飛鳥坐神社を一人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという説がある。富岡多惠子によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性[2]があるという。

1901年15歳になったこの年に父親から橘千蔭『万葉集略解』[注 3]を買ってもらう[3]。『文庫』『新小説』に投稿した短歌一首ずつが入選する。

1902年成績が下がる。暮れに自殺未遂。1903年3月自殺未遂。作歌多し。

1904年3月卒業試験にて、英会話作文・幾何・三角・物理の4科目で落第点を取り、原級にとどまる。この時の悲惨さが身に沁みたため、後年、教員になってからも、教え子に落第点は絶対につけなかった。同じく後年、天王寺中学から校歌の作詞を再三頼まれたが、かたくなに拒み続けたと伝えられる。大和に3度旅行した際、室生寺奥の院で自殺を図った若き日の釈契沖に共感、誘惑に駆られる。

1905年3月天王寺中学校を卒業する。医学を学ばせようとする家族の勧めに従って第三高等学校受験に出願する前夜、にわかに進路を変えて上京し、新設の國學院大學予科に入学する。藤無染と同居する。この頃に約500首の短歌を詠む。

1907年國學院予科修了、本科国文科に進んだ。この時期國學院大學において国学者三矢重松に教えを受け強い影響を受ける。また短歌に興味を持ち根岸短歌会などに出入りした。1910年7月國學院大學国文科を卒業する。卒業論文は「言語情調論」。1911年10月大阪府立今宮中学校の嘱託教員(国漢担当)となる。

1912年8月伊勢熊野の旅に出た。1913年12月「三郷巷談」を柳田國男主催の『郷土研究』に発表し、以後、柳田の知遇を得る。1914年3月今宮中学校を退職し、上京する。折口を慕って上京した生徒達を抱え、高利貸の金まで借りるどん底の暮らしを経験したという[4]

1916年國學院大學内に郷土研究会を創設する。この時30歳。『万葉集』全二十巻(4516首)の口語訳上・中・下を刊行する。1917年1月私立郁文館中学校教員となる。2月「アララギ」同人となり選歌欄を担当する。一方で、國學院大學内に郷土研究会を創設するなどして活発に活動する。1919年1月大學臨時代理講師となる。万葉辞典を刊行する。

1921年7~9月柳田國男から沖縄の話を聞き、最初の沖縄・壱岐旅行。1922年1月雑誌「白鳥」を創刊する。4月國學院大學教授となり、穂積忠の師匠となる[5]

1923年6月慶應義塾大学文学部講師となる。第2回沖縄旅行。1924年1月亡師三矢重松の「源氏物語全講会」を遺族の勧めで再興する。後慶應義塾大学に移し没年まで続ける。またこの年には「アララギ」を去って北原白秋らと歌誌『日光』を創刊する。

1925年5月処女歌集『海やまのあひだ』を刊行。1927年6月國學院の学生らを伴い能登半島に採訪旅行し、藤井春洋の生家を訪う。1928年4月慶應義塾大学文学部教授となり芸能史を開講する。

1929年、川田順斎藤茂吉前田夕暮松村英一北原白秋らが設立した日本歌人協会(東京市本郷区駒込)の会員となる[6]

1932年文学博士の称号を受ける。日本民俗協会の設立にかかわり、幹事となる。1935年11月大阪木津の折口家から分家する。第3回沖縄旅行。1940年4月國學院大學学部講座に「民俗学」を新設する。愛知県三沢の花祭り、長野県新野雪祭りを初めて見る。

1941年8月中国へ旅し、北京にて講演を行う。12月8日太平洋戦争に突入、藤井春洋応召。1942年『天地に宣る』を出版。1944年藤井春洋、硫黄島に着任。春洋を養嗣子として入籍。1945年3月大阪の生家が戦災により焼失する。大本営より藤井春洋の居る硫黄島の玉砕発表。8月15日敗戦の詔を聞くと箱根山荘に40日間籠もる。

1948年4月『古代感愛集』により日本芸術院賞を受賞[7]。12月第一回日本学術会議会員に選出。1949年7月能登一ノ宮に春洋との父子墓を建立する。1950年と翌51年は宮中御歌会選者。

1953年7月初め箱根仙石原の別荘[注 4]に行くも健康すぐれず。8月31日衰弱進み慶應義塾大学病院に入院する。9月3日胃癌により永眠。養子として迎えた春洋(戦死)とともに、気多大社がある石川県羽咋市一ノ宮町に建立した墓に眠る。折口家の菩提寺願泉寺(大阪市)に分骨が納められている。

柳田國男との関係

柳田國男との間には以下のようなエピソードがあった。

1915年(大正4年)の『郷土研究』誌に載った論文で、互いに似通った折口と柳田の論文が前後して載せられるという事件があった。折口が昨年のうちに送ったものが採用されず、柳田の「柱松考」が3月号、折口の「髯籠の話」が4-5月号に載ったというものだが、それを後に振り返って折口が言った「先生の「柱松考」を先に見ていれば、わたしは「髯籠の話」など書かなかった」という言葉に、潔癖さ、厳しさが表れている。

そして柳田も「(折口君という人は)真似と受け売りの天性嫌いな、幾分か時流に逆らっていくような、今日の学者としては珍しい資質を具えている」とその点では認めていた。ただし「マレビト」を認めない柳田と折口の間に論争があったのも事実である[8]。両者は国学発展の祖に当たる賀茂真淵本居宣長と同じく、教えを受けながらも正当だと思ったところは譲らず、真理の追求を磨く学者の関係を持っていたといえる。なお『遠野物語』(現行版は角川ソフィア文庫)に折口の跋文(おくがき)がある。

柳田は、折口より12歳年上で、1945年(昭和20年)夏の敗戦時には、共に60歳を越えていた。戦後にのぞみ、重い口調で柳田は折口に話しかけたという。「折口君、戦争中の日本人花が散るように潔く死ぬことを美しいとし、われわれもそれを若い人に強いたのだが、これほどに潔く死ぬ事を美しいとする民族が他にあるだろうか。もしあったとしてもそういう民族は早く滅びてしまって、に囲まれた日本人だけが辛うじて残ってきたのではないだろうか。折口君、どう思いますか」その問いにしばらく両者深く思い沈んでいたという。折口には、18年間共にした養嗣藤井春洋硫黄島玉砕という重い出来事があった。その追悼の念は徹底的であり、敗戦の詔を聞くと四十日間に服し、自分の死ぬまで遺影前の供養を欠かさなかったという。第二次大戦太平洋戦争大東亜戦争)で失った戦死者の鎮魂は大きな課題で、戦没者が生前に殉じる価値を見出そうとした皇国などといった概念も昭和天皇人間宣言とともに潰え果てたのである。柳田も日本人のといった問題意識は共有していて、折口はその問題を、晩年の論考「民族史観における他界観念」に収斂させていくこととなる[9]

柳田が民俗現象を比較検討することによって合理的説明をつけ、日本文化起源に遡ろうとした帰納的傾向を所持していたのに対し、折口はあらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に日本文化の起源があると想定し、そこから諸現象を説明しようとした演繹的な性格を持っていたとされる。


主な引用文献

  1. ^ 岩橋小弥太によると、本来の読み方は「のぶを」であって、國學院在籍時から「しのぶ」と名乗るようになったという[1]
  2. ^ この痣から、中学時代は「インキ婆々」というあだ名がついていた[1]
  3. ^ 江戸後期の歌人加藤千蔭の筆名、1800年(寛政12年)『万葉集』二十巻を注釈した著述で、明治以降も度々刊行された。折口が読んだのは明治33年版。
  4. ^ 没後に別荘は、國學院大學の厚生施設「叢隠居」に改修された。
  1. ^ a b 岩橋小弥太「折口信夫博士の思出」、『國學院雑誌』69巻11号(1968年11月) p.25
  2. ^ 富岡多惠子『釋迢空ノート』
  3. ^ a b 芳賀日出男『折口信夫と古代を旅ゆく』慶應義塾大学出版会 2009年
  4. ^ 加藤守雄『わが師 折口信夫』118頁
  5. ^ 穂積忠』 - コトバンク
  6. ^ 日本歌人協会』《文芸年鑑 昭和5年版》、409頁https://dl.ndl.go.jp/pid/1077746/1/211 
  7. ^ 「朝日新聞」1948年4月29日(東京本社発行)朝刊、2頁。
  8. ^ 折口信夫『古代研究I』12~13頁
  9. ^ 折口信夫『古代研究I』14~20頁
  10. ^ 折口信夫『歌の話・歌の円寂する時 他一篇』解説岡野弘彦(岩波文庫、2009年)
  11. ^ 『殉教』解説高橋睦郎新潮文庫、1982年、改版2004年)
  12. ^ 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
  13. ^ 『わが師 折口信夫』 204-205頁には「土間に下りていた折口先生の表情がみるみる蒼白になった。じっとうつむいたまま、立ちすくんでいられる。…“柳田先生はいつもぼくをいじめなさる。ぼくのだいじにしている弟子を、みんなとってしまわれる”ほとんど泣きべそをかくような声であった」という記述がある
  14. ^ 『わが師 折口信夫』 208頁。
  15. ^ 東筑高校校歌について考える 東京東筑53期の会ホームページ、福岡県立東筑高等学校の作詞については折口によるものではないという異説がある
  16. ^ 『折口信夫の記』P230, 岡野弘彦、中央公論社, 1996、『折口信夫の晚年』P76ほか、岡野弘彦、中央公論社, 1977
  17. ^ a b 『新潮日本文学アルバム 26 折口信夫』より
  18. ^ 『朝日新聞』1957年2月28日(東京本社発行)朝刊、11頁。
  19. ^ 『歴史教育』第3巻第8号、歴史教育研究會。1928年12月
  20. ^ 『土俗と伝説』第1巻第1-2号、文武堂。1918年8月
  21. ^ 『郷土科学講座1』、郷土科学研究会。1931年9月
  22. ^ 上代文化研究会公開講演会筆記
  23. ^ 『上代文化』第7号、上代文化研究会。1931年12月
  24. ^ 『東京日日新聞』、東京日日新聞社。1933年12月
  25. ^ 改造』第14巻第1号、改造社。1933年1月
  26. ^ 『表現』第2巻第4号、表現社。1933年4月
  27. ^ 第一放送。1946年6月。
  28. ^ 『民俗学の話』、共同出版社。1949年6月
  29. ^ 関東地区神職講習会講演筆記。1946年8月
  30. ^ 神社新報社、1947年10月
  31. ^ 『思索』第3号。1946年。
  32. ^ 神社新報』第27号、神社新報社。1947年
  33. ^ 神社本庁創立満一周年記念講演会筆記
  34. ^ 『神社新報』第27号、神社新報社。1947年
  35. ^ 『古典の新研究』第1輯、角川書店。1952年10月
  36. ^ 「木島日記」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
  37. ^ 「木島日記」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
  38. ^ 「木島日記」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
  39. ^ 「木島日記 乞丐相」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
  40. ^ 「木島日記 乞丐相」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
  41. ^ 「木島日記 乞丐相」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
  42. ^ 「木島日記 もどき開口」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
  43. ^ 「木島日記 もどき開口 上巻」 大塚 英志 - 星海社”. 星海社. 2023年4月25日閲覧。
  44. ^ 「木島日記 もどき開口 下巻」 大塚 英志 - 星海社”. 星海社. 2023年4月25日閲覧。
  45. ^ 「木島日記 上」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
  46. ^ 「木島日記 中」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。
  47. ^ 「木島日記 下」 大塚 英志 - KADOKAWA”. KADOKAWA. 2022年1月30日閲覧。


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