抗生物質 ポスト抗生物質時代と新規薬剤の開発

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抗生物質

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/15 06:46 UTC 版)

ポスト抗生物質時代と新規薬剤の開発

抗生物質は数多くの命を救ってきたが、耐性菌の出現により既存の抗生物質が効かない事例も上述の通り生じており、WHOは抗生物質による感染症の治療ができなくなる「ポスト抗生物質時代」の到来を危惧している[151][152]。そのため、耐性菌にも有効な新たな薬剤の開発が今後も継続的に必要と予想される[46]。海洋やヒトのマイクロバイオームなどの土壌以外の環境から抗生物質を探索する試みもなされているが[31]、他にもゲノムマイニングが新たな抗生物質資源探索の手法として期待されている[18][94]。例えば、2014年に公表された研究では、ヒトマイクロバイオームから得られたメタゲノムを探索することで、ラクトバシラス属菌が産生するラクトシリンと呼ばれる未知の抗生物質を分離することに成功している[153]。同様に、2016年には、ヒトの鼻腔においてStaphylococcus lugdunensisの産生するルグドゥニンと呼ばれる環状ペプチドが抗生物質として作用することが明らかにされた。ルグドゥニンは黄色ブドウ球菌に代表されるグラム陽性菌の発育を抑制する作用を持ち、ルグドゥニン産生性のS. lugdunensisの存在下では黄色ブドウ球菌のラット鼻腔における増殖が抑制された[154][155]。一方、抗体製剤、プロバイオティクスファージ療法のように、抗生物質に依存しない代替製剤の開発も進められている[46]

2020年現在、こうした細菌感染症に対する新規薬剤の研究は中小企業が中心的な役割を担っており、2020年に発表された総説[156] において分析された314の事業の内、中小企業の事業は81%を占めていた。この総説では新規抗生物質・抗生物質代替製剤の開発事業を次のように分類している。第1の分類は古典的抗生物質を含めた細菌の細胞に直接作用するものであり、187 (46%) の事業がこれに属する。33の事業はファージに関連するもので、細菌に直接作用する。次の分類は抗病原性剤を用いるもので、これも33の事業が該当する。例えば細菌の菌密度に応じて遺伝子発現を調節する仕組みであるクオラムセンシングを阻害する薬剤などがこれに含まれる。29の事業は抗体に関連したもので、毒素の中和抗体などが該当する。27の事業はワクチンであり、32の事業は他の薬剤、典型的には他の抗生物質を強化するもので、βラクタマーゼ阻害薬のような薬剤がこれに該当する。21の事業は微生物叢の操作を目指すもので、特に腸内微生物叢の調整を目的とする。プロバイオティクスがこれに該当する他、便微生物移植によるClostridium difficile感染症の治療が試験されている。他に、免疫賦活剤や既存薬の転用、ナノ粒子を用いた製剤なども開発が進められている[156]

ファージ療法

細菌とそれに付着したファージの電子顕微鏡像

1910年代に発見されたファージ、あるいはバクテリオファージと呼ばれるウイルスは、細菌に感染してこれを殺してしまう。ファージ療法はこのファージを利用して病原性細菌を殺す手法である[151]。ファージの細菌感染症治療における可能性は1930年代から1940年代頃には認識されていたが、西側諸国では当時発見された抗生物質にとって変わられてしまい、その後は旧ソ連など東側諸国でのみ研究と実用が進んだ。しかしながら60年以上が経過した近年、抗生物質に対して耐性を示す病原性細菌の出現により、再び脚光を浴びている[157]。ファージ自体の利用のみならず、ファージが産生するエンドライシンと呼ばれる細菌を溶かす酵素も研究が進められている。ファージは細菌種に対し特異性を示すため、個々のファージ療法は特定の細菌種のみを対象とする。多くの研究事業が緑膿菌黄色ブドウ球菌を対象とするが、Clostridium difficileの様なその他の細菌種、あるいは複数の細菌種を標的とする治療法も開発が進められている[156][158]

抗病原性剤

抗病原性剤を用いる手法は細菌の産生する病原因子の産生や活性を抑制することを目的としており、細菌の発育自体には影響しない。例えば、大腸菌の尿路感染には細菌が尿路の上皮細胞に付着する、細胞接着が重要な役割を果たす。そのため、細胞接着に関わる分子の機能を阻害する薬剤は、尿路感染を防ぐことができるかもしれない[158]。また、クオラムセンシングは細菌が周囲の菌体と特定の遺伝子の発現量を同期したりするために用いられる情報伝達の手段である。このクオラムセンシングに関与する分子も新規製剤の標的として研究が進められている[158][159]

病原性因子を標的とする戦略も種特異性が高く、緑膿菌黄色ブドウ球菌Clostridium difficileが標的とされている[156]。細菌を殺すことのない抗病原性剤は抗生物質にとって代わることを期待されているわけではなく、抗生物質のような他の薬剤を補完することを期待されている。それでもなお、実用には長い時間が必要とされる[158]

微生物叢の操作

ある環境から採取された微生物の遺伝情報を分離培養なしに調査する技術であるメタゲノミクス技術の発展に伴い、ヒトマイクロバイオームと人の健康の関連性が知られる様になった。このヒトマイクロバイオームを操作する事でも感染を予防・治療することが可能であると考えられている。この場合、操作の標的となるのは腸内微生物叢であり、特にClostridium difficile感染が対象とされる[156][158]

プロバイオティクス

プロバイオティクス (probiotics) は抗生物質の対義語として提唱されてきた用語で、「宿主の健康に良い影響をもたらす生きた微生物」と定義される。古典的には健常者の腸内に多く存在する細菌種が調査されてきており、BifidobacteriumLactobacillusに属する乳酸菌が代表的である。プロバイオティクスの効果は抗生物質関連下痢症で示されている一方、Clostridium difficile感染においては効果が認められなかった。また、プロバイオティクスとしての摂取を止めても糞便からこれらの細菌が排出される人はごく一部にすぎないとする報告も複数なされている[160][161]。プロバイオティクスの効果は、場合によっては同じ種でも株ごとに異なり、さらに摂取する被験者の年齢や個人差にも影響を受けることが知られている。この様な背景から、異なる研究を横断的に分析するメタアナリシスシステマティックレビューを行ってもなお効果の有無について矛盾した結果が得られることがあり、プロバイオティクスの効果については議論が続いている[162]。また、疾患・患者ごとに効果のあるプロバイオティクスが異なる可能性が指摘されることから、特定の個人に有効な菌を選択的に使用する、より個別化された使用法の開発も提唱されている[161][162][163]

畜産業においては飼料添加物としての抗生物質の使用が耐性菌の出現を防ぐ目的で禁じられてきており、抗生物質の代わりの成長促進剤としてプロバイオティクスが注目されている。例えば日本では2014年現在、飼料の安全性の確保及び品質の改善に関する法律に基づき、11品目(28菌株)がプロバイオティクスとして指定されている[163][164]

便微生物移植

偽膜性腸炎の病理像

便微生物移植は健常者の糞便、または糞便に由来する腸内微生物を、腸内微生物叢の恒常性が破綻した患者の腸に移植することで、患者の腸内微生物叢の正常化する治療法である[165]。欧米で導入が進められており、再発性のClostridium difficile感染症における治療時の選択肢として使用される他、日本でも臨床研究が進められている[165][166]。一方で、移植便に耐性菌が含まれていたために患者が敗血症で死に至った事例が報告されており、移植便の適切なスクリーニングが重要と考えられている[166][167]


注釈

  1. ^ ワクスマンはBiological Abstractsの編集長の問いかけに対し答える形で抗生物質 (antibiotic) という名詞を定義したが、その年については曖昧であり、1941年[13] とする場合と1942年[14] とする場合がある[15]。他に1945年に提唱したとする文献もある[11]。また、抗生 (antibiosis) の形容詞形としてのantibioticはワクスマンがantibioticを名詞として使用する前から利用されていた[15]
  2. ^ ただし、ドーマクはナチスの圧力を受けて一度受賞を辞退し、1947年に改めて受賞した[40]
  3. ^ 細胞壁は動物細胞以外の細胞、すなわち植物、真菌、細菌の細胞に存在するが、細胞壁を構成する成分は各々異なる。植物にはセルロースヘミセルロースペクチンが、菌類にはキチンが、細菌にはペプチドグリカンが含まれる[49]。逆にマイコプラズマのように細胞壁を持たない細菌も存在する[50]
  4. ^ 例えばブラストサイジンSは高濃度でイネに薬斑と呼ばれる淡黄色の斑紋を生じる[123]

出典

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