戦国時代 (日本)
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戦国大名
戦国大名は、そのほとんどが守護大名・守護代・国人を出自とする。国司(北畠氏)や公家(土佐一条氏)を出自とする者もいた。まれに低身分から戦国大名(豊臣秀吉など)となった者もおり、当時の風潮だった下克上の例とされることが多い。
戦国大名は、領国内に一元的な支配を及ぼした。この領国は高い独立性を有すると、地域国家と呼びうる実態を持っていた。こうした戦国大名による地域国家内の支配体制を、大名領国制という。戦国大名は、領国内において必ずしも超越的な存在ではなかった。戦国大名は、地域国家内の国人・被官層を家臣として組織化していったが、実のところ、この国人・被官層が戦国大名の権力基盤となっていた。戦国大名は、家臣である国人・被官層が結成した一揆関係に支えられて存立していたのであり、国人・被官層の権益を守る能力のない戦国大名はしばしば排除された。
地域別
奥羽
奥羽地方の戦国大名は、鎌倉時代から代々土地を所有してきた由緒ある一族が、そのまま戦国大名化した者が多い。例外は若狭武田氏末裔を名乗る蠣崎氏で、津軽海峡沿いの中小豪族を統一した。
奥羽地方は、関東の騒乱にほとんど巻き込まれることなく、当然中央の政争の影響もほとんど見られない。戦乱といえば、15世紀前半から南部氏が仙北・鹿角に出兵(この鹿角争奪戦は永禄頃まで続く)、伊達氏の河北地方への侵食など領地争いが目立つ。篠川公方や雫石御所も滅ぼされるなど、東北地方といえど、平穏無事ではなかった。また、1522年伊達稙宗が奥州探題・大崎氏らを差し置いて陸奥守護職に就くなど下克上の芽は見られる。
とは言え、奥羽地方の特に南部では領主間の婚姻が盛んであった上、大名に後継者が不在の場合には一族の庶流出身者よりも他の大名家から養子を迎えることが多かったのが特徴的である。極端なケースでは伊達晴宗の嫡男が外祖父の岩城重隆の跡を継ぎ(岩城親隆)、蘆名盛氏に敗れて人質として差し出された二階堂盛義の嫡男が当主の急逝によって急遽蘆名氏の養嗣子として当主になる(蘆名盛隆)といったものがあった。このため、諸大名の確執が合戦に発展した場合でもどちらかが壊滅する前に双方と血縁関係にある第三者が仲介して和解に至るケースが多かった[106]。
1542年には伊達稙宗父子が家督の位置付けを巡って争いを起こして、血縁関係にある奥羽諸大名を巻き込んだ大乱(天文の乱)へ発展した。この乱の過程で、伊達晴宗は国人一揆との契約関係を再確認することで、他の奥羽諸大名に先駆けて戦国大名としての体制を確立することに成功した。
これ以降、家督の相続を巡って相克のあった蘆名・田村・岩城・最上・南部などの諸家では、国人一揆と大名の契約関係の一元化により戦国大名化を果たした。どの戦国大名も従来の大名に替わって室町幕府に「郡検断」「軍勢催促」「段銭徴収」等の諸権力を公認されることで各地域の中心勢力を形成する。彼らは新しい中央政権たる豊臣秀吉の奥州仕置によって既得権益を追認された。
16世紀第4四半期の時点で、安東氏が秋田、三戸南部氏が糠部、奥州探題大崎氏が大崎、葛西氏が登米、羽州探題最上氏が最上・村山、伊達氏が信夫・伊達・置賜・刈田・柴田・宮城、蘆名氏が会津・耶麻・大沼・河沼・西蒲原・安積・岩瀬、二本松氏(畠山氏)が安達、田村氏が田村、石川氏・白河結城氏が白河、相馬氏が行方・宇多・標葉、岩城氏が楢葉・岩城・磐前・菊田・多賀において安堵を実行した発給文書が残っている。
一般的に奥羽地方南部は戦国時代の末期(1580年代)に伊達政宗が登場して軍事的才能をもって地域統合を果たしたとされることが多い。だが、実際にはその直前に常陸国の佐竹義重がこの地域の諸大名を傘下に置いて地域統合を確立しつつあった。政宗の家督継承は佐竹氏が北上して伊達氏と勢力圏が接する状況下で行われ、佐竹氏傘下の諸大名に圧迫された正室の実家(田村氏)の救援に乗り出したことで佐竹義重の奥州支配と対決することになり、やがて自らがその地位を取って代わることになったのである[106]。
関東
関東では、京都で応仁の乱が起きる以前より、享徳の乱・長享の乱・永正の乱の3つの大乱が立て続けに起こっており、古河公方と関東管領山内上杉家・その庶流の扇谷上杉家が3つ巴になって覇権を争った。
今川氏親の叔父で興国寺城主伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、伊豆国の堀越公方である足利政知の死去に伴う内乱に乗じて、1493年に実質堀越公方の足利茶々丸を滅ぼし伊豆を平定。その子孫が北条氏を自称した。この北条氏と上杉氏が関東の覇権を巡って戦い、1546年河越夜戦により上杉氏の勢力が衰えた。1552年、北条氏が古河御所を制圧して古河公方を掌握。山内上杉氏が上野を追われ長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ったことから北条氏と長尾氏(のちに上杉氏を継ぐ)とが関東を巡って争った。
関東管領を継承した上杉謙信は一時は北条氏の居城小田原城を攻囲するも奪えなかった。この上杉氏・北条氏の争いは全関東の諸豪族を二分すると、北条氏康と里見義堯(上杉陣営)による国府台合戦など、各地で戦いを引き起こした。1579年、上杉謙信が死ぬと常陸の佐竹氏、安房の里見氏、下野の宇都宮氏などが北条氏の侵攻に抵抗したが、北条氏の勢力拡大を抑えることができなかった。更に奥州支配を進める伊達氏によって佐竹義重は南北両方面での戦いを余儀なくされた。
1582年の甲州征伐で織田氏、徳川氏、後北条氏が武田氏の甲斐・信濃・駿河へ侵攻するが、同年に発生した本能寺の変の後に後北条氏は織田氏との同盟を破棄して甲斐・信濃へ侵攻(神流川の戦い)、さらに旧武田領を巡り徳川氏、上杉氏、後北条氏、真田昌幸らの間で天正壬午の乱が発生し、甲斐・南信濃を徳川氏、北信濃を上杉氏、上野を後北条氏、沼田領を真田氏が領することで一応の和睦を見た。
豊臣秀吉が惣無事令を発した後の1590年、後北条氏の家臣による真田領への侵攻が惣無事令違反とされ、豊臣氏を中心とする21万人の連合軍を前に北条氏直は小田原城に籠城するも敢え無く落城し後北条氏は滅亡(小田原征伐)、ここに豊臣秀吉による全国統一が完成した。この時、北条陣営に付いた関東の多くの領主が所領を没収され、小山氏や千葉氏のような鎌倉時代以来の名家も姿を消している。1590年8月には関東に移し替えとなった徳川家康が江戸城に入城した。
その後、1600年の関ヶ原の戦いを経て1603年に徳川家康は江戸に幕府を開き、豊臣政権から江戸幕府成立の過程において、佐竹氏や里見氏、宇都宮氏などの旧来の勢力は転封あるいは改易によって関東の地から姿を消す。以後1867年の大政奉還・江戸無血開城まで264年間に渡り江戸幕府の下で政治・経済の中心として江戸の街は繁栄する。明治維新後は東京奠都を経て首都機能を担い今日に至っている。
北関東
北関東でも、享徳の乱・長享の乱・永正の乱の3つの大乱の影響を受けていた。下野宇都宮氏、佐竹氏、結城氏が3つ巴になって覇権を争った。
1506年に、永正の乱に誘発され古河公方家の内紛が勃発。古河公方足利政氏と嫡子高基間の対立であり、政氏には下野の小山成長、常陸の佐竹義舜、下野の那須資房などが支持し、高基には岳父である下野の宇都宮成綱、下総の結城政朝、下野の那須資親、常陸の小田成治・政治父子といった足利高基の古河公方擁立を狙う宇都宮成綱を中心とした血縁関係のある勢力が中心となって支持した。内紛は関東南部や奥州にも影響を与えており、南奥の岩城由隆、白河顕頼が政氏を支持し、奥州の伊達稙宗、相模の北条早雲・氏綱父子、下総の千葉勝胤・昌胤父子は高基を支持している。古河公方足利家と緊密な関係である武家でも内紛が誘発されており、山内上杉家の内紛や下野宇都宮氏の永正の内訌が発生。さらには上那須氏や白河結城氏でも内紛が発生。この頃の北関東は混沌としており各地で戦闘が勃発した。
戦国時代前期は宇都宮錯乱を克服した下野宇都宮氏の宇都宮成綱、佐竹の乱を克服した常陸佐竹氏の佐竹義舜が北関東の覇権を巡って争い、竹林の戦い・縄釣の戦いにより佐竹氏の勢威は一時衰えた。古河公方家の内紛も足利高基が勝利し3代目古河公方に就任しており、宇都宮成綱に擁立された形となった。下野宇都宮氏は勢威拡大と近隣勢力の弱体化により宇都宮成綱の代に北関東の覇権を制し[107]影響力を及ぼした。永正の乱に関わった政氏支持の勢力は一時減衰し、高基支持の勢力は後北条氏が北関東に進出してくるまで増大していくことになった。また、1514年、宇都宮氏の宇都宮成綱が断絶中の上那須氏に介入し再興させようとしたが上那須氏を乗っ取られることを危惧した下那須氏の那須資房は早急に上那須氏を取り込み統一那須氏となっている。
下野宇都宮氏は宇都宮成綱が没すると徐々に不穏な情勢になり、大永年間に大永の内訌が勃発。不満を抱いていた重臣の芳賀氏、塩谷氏、笠間氏や同盟国の結城氏が手を結び、1523年に結城政朝は猿山合戦で宇都宮忠綱を破り追放し、宇都宮興綱を当主に擁立した。下野宇都宮氏は衰退し、後北条氏による北関東進出辺りまで家臣団による専横が続いていくことになる。この頃になると結城氏の結城政朝・政勝父子や小田氏の小田政治の躍進が目立つようになる。
古河公方は当時の関東においては上位権力であり、覇権を確立するためには古河公方の威光は必要不可欠であった。そのため宇都宮成綱(足利高基を擁立)、北条氏康(足利義氏を擁立)、上杉謙信(足利藤氏を擁立)は古河公方の擁立を行った。しかし、戦国時代後期になると関東諸大名の古河公方への求心力は衰え、上位権力は形骸化している。
佐竹氏、統一那須氏、小山氏、下野宇都宮氏は内紛の発生により後北条氏に大きく後れを取ることになった。その結果、関東諸勢力は北条氏政の北関東侵攻に対し、関東管領となった越後の上杉謙信を頼っていくことになる。そんな中、佐竹氏は度重なる内紛の中で着実に克服し、佐竹義昭の代には勢力を回復。1558年、佐竹義昭は宇都宮城を乗っ取った壬生綱房・綱雄父子の手から取り戻そうとしている芳賀高定に協力し、奪還の手助けを行った。その後は宇都宮広綱に娘の南呂院を嫁がせて婚姻同盟を結んでいる。
戦国時代後期にはついに後北条氏が北関東へ進出。佐竹氏、宇都宮氏、小山氏らは上杉謙信を盟主とし敵対し一方、結城氏、那須氏、小田氏、壬生氏などが後北条氏側に付き二分となり、各地で戦闘が起こった。佐野氏、皆川氏、由良氏などは勢力をうまく変えて生き残りを図った。壬生氏は当時壬生綱房の弟の徳雪斎周長を中心とした勢力が宇都宮氏の傘下に降るなど分裂しており、鹿沼城壬生氏が宇都宮方、壬生城壬生氏が北条方について対立していたが1576年に壬生綱雄の子壬生義雄が徳雪斎を討ち再統一を果たした。
1579年、上杉謙信が没すると、関東諸将は頭角を現した佐竹義重を盟主にして北条氏直の侵攻に抵抗した。沼尻の合戦などで後北条氏と戦うが徐々に不利になっていった。佐野氏は佐野宗綱が討死した後後北条氏による介入を受け後北条氏の一門を新当主に迎え入れざるを得なくなり、さらに小山氏の小山秀綱は小山祇園城を後北条氏に攻略されてしまった。そうした中、佐竹氏は会津の方へも勢力の拡大を行っており、蘆名氏を傘下に収めたりしていたが、奥州から伊達氏の伊達政宗が南下してきており、南北から挟撃されるなど厳しい状況になっていた。宇都宮氏も下野国南部が後北条氏に制圧され、宇都宮領が前線となった結果、那須氏、壬生氏、皆川氏らによる挟撃や北条軍による宇都宮城侵攻など過激化しており、宇都宮国綱は宇都宮城から防衛に優れる多気山城へ本拠を移すなど深刻な状況になっていた。
豊臣秀吉による小田原征伐が行われると佐竹義重、結城晴朝、宇都宮国綱、などはそれに従い、宇都宮仕置で所領を安堵された。しかし、小山氏、小田氏、壬生氏、大掾氏などといった勢力は姿を消した。その一方で大関高増、大田原晴清、岡本正親、水谷正村などは豊臣大名として独立し、那須資晴も一度は改易されたが、大関高増ら働きにより那須資景が当主になることを条件に豊臣大名に復帰できた。由良国繁は後北条氏に従い小田原城に籠っていたが嫡子の由良貞繁が豊臣方として参陣したため罪は問われず豊臣大名として残れた。徳川家康の投降に応じた皆川広照も秀吉に許され豊臣大名として残れた。その一方で、宇都宮氏は浅野長政、石田三成ら豊臣政権の内部争いに巻き込まれ、石高の偽装などを理由に1597年に改易された。佐竹氏も連座改易させられそうになったが石田三成の尽力により改易から免れた。
中部
甲信
甲斐国・信濃国では守護権力が弱体化し、有力国人が割拠する状態となっていた。
甲斐国では、甲斐源氏の流れを汲む甲斐守護武田氏が上杉禅秀の乱に荷担して没落していたため、戦国時代に至るまで国内での抗争状態に陥っていた。一方、信濃国では、信濃府中(現在の松本地方)に信濃守護小笠原氏、北信に村上氏・高梨氏、東信に海野氏、安曇に仁科氏、諏訪に諏訪氏、木曾に木曾氏などの国人領主が割拠していた。
やがて、武田信虎が甲斐一国を統一し、甲府を本拠地と定め隣国との和睦も達成して信濃侵攻を開始するが、嫡男の晴信(信玄)や重臣らによる謀反で1541年には駿河国へ追放される。
武田信玄は、信濃侵攻を本格化し、甲相駿三国同盟を背景に諏訪攻略をはじめ、小笠原氏、村上氏らは駆逐され信濃は武田領国化された。信玄は信濃守護を兼ね、北信豪族を庇護した越後の長尾(上杉氏)とは10年余に亘って甲越対決(川中島の戦い)を幾度も繰り広げた。
その後、武田氏は甲相駿同盟を破棄して桶狭間の戦い後に弱体化した今川氏領国への駿河侵攻を行い、やがては尾張の織田氏・三河の徳川氏とも対峙する。信玄の晩年期には大規模な西上作戦を発動し徳川氏の三河へ侵攻するも、野田城攻略中の信玄の急死により途上での退却を余儀なくされた。
1575年、三河の長篠城を巡り武田勝頼軍と織田信長・徳川家康連合軍の間で発生した長篠の戦いで大敗を喫した武田氏は領国の動揺を招き、1582年、武田氏に臣従していた木曽谷領主木曾義昌の織田信長への寝返りに際して征伐軍を送ったものの敗退し、武田氏の親族衆穴山信君の離反を招き、織田氏の同盟者の徳川家康、北条氏政からも領国への侵攻を受け、十分な迎撃も出来ず織田信忠軍に追われた武田勝頼・武田信勝父子は天目山で自害し武田氏は滅亡した(甲州征伐)。
武田氏の滅亡により甲斐・信濃は織田信長の家臣滝川一益らに分配されるが、本能寺の変が発生すると後北条氏が侵攻して滝川氏は後退し(神流川の戦い)、さらには空域化した武田遺領を巡り徳川氏や後北条氏、上杉氏、真田昌幸らによる争い(天正壬午の乱)が起こり、甲斐・信濃は乱を制した徳川氏が、北信濃は上杉氏が領した。豊臣政権により徳川氏が関東に転封されると信濃諸豪族も関東へ移るが、この中で武田遺臣の真田氏など近世大名化した例も見られる。また、保科氏は将軍徳川秀忠の庶子・保科正之が継ぎ、小笠原氏は豊前小倉藩で九州の押えを任じられるなど徳川政権下では重く用いられている家は多い。
北陸
越後国を上杉(長尾)氏、越中国を神保氏や椎名氏、能登国を畠山氏、越前国を朝倉氏、加賀国を一向一揆らが、それぞれ支配していた。
越後国では、上杉氏から実権を奪った守護代長尾氏が台頭。その長尾氏から誕生した長尾景虎(上杉謙信)は、1576年までに北陸地方をほぼ制圧した。
越中では、神保氏が当初敵対していた一向一揆と結ぶも、越後上杉氏、守護畠山氏、能登畠山氏の連合軍により征伐された。
能登は守護の畠山氏が、長氏らの重臣たちの専横に苦しみ、内紛を繰り返した。1576年には、越後上杉氏の軍門に降り滅亡した。
越前では斯波氏を追い落とした朝倉氏が一向一揆を退けて、本拠の一乗谷に京の貴族を迎えるなど栄華を極めていた。やがて朝倉氏は1573年に織田信長の侵攻を受け浅井長政の援軍を受けて戦うも刀根坂の戦いで敗れ朝倉義景が自害し朝倉氏は滅亡する。その後前波吉継を城代として織田氏の庇護下に入るが富田長繁と浄土真宗本願寺勢力が結託して越前一向一揆が発生、一揆の持ちたる国となるも坊官下間頼照の専横への反発等の内部混乱に乗じて織田軍が侵攻し一揆は2年で平定された。
加賀国では守護冨樫氏を滅ぼした加賀一向一揆が「本願寺王国」を形成し、100年間の自治を行った。加賀国の一向一揆は上杉氏らとも争ったが、織田信長の家臣の柴田勝家軍に敗れ100年に渡る自治は終わった。その後一向一揆は石山本願寺と信長の間で10年に渡って争いを続けた(石山合戦)。
東海・濃尾
美濃国に土岐氏が、尾張国と遠江国に斯波氏が、三河国に松平氏が、駿河国に今川氏が、一国一円割拠していた。
美濃国では、土岐氏の内部争いが展開されていた。斎藤利政(斎藤道三)はその隙を突いて主君の土岐頼芸に取り入り、1542年にはその主君を追放して美濃国を手中に収めた。その後、織田信秀およびその支援を受けた土岐頼芸、朝倉孝景が美濃へ侵攻するが、籠城戦からの急襲で織田軍に大打撃を与えるなどして持ち堪えた(加納口の戦い)。後に斎藤道三は織田信秀の嫡男織田信長へ娘を嫁がせ織田氏と和睦するが、1555年に道三の子の斎藤義龍が挙兵し1556年に長良川の戦いで道三は義龍に討たれる。1561年に当主は義龍の子斎藤龍興が継ぐ。信長は5年の歳月をかけて美濃を攻略し1567年に稲葉山城を岐阜城と改称し翌年の上洛に向けて新たな拠点とした。
尾張国は、朝倉氏の離反で越前を失った斯波氏の本拠となっていた。この斯波氏が朝倉氏との越前回復戦争に敗れた上に、京都での政争にも敗れて力を失った。やがて国内では、守護代・織田氏の傀儡的存在となる。1554年には、その織田氏の権力抗争に巻き込まれて切腹した斯波義統を最後に、尾張守護の斯波氏は断絶し、以後織田氏が尾張を治めた。織田信長は上・下の守護代2家が両立する織田一族の中では下守護代家の庶流に過ぎず、郡奉行として本家を支える立場でしかない身の上ながら、上下両守護代の内紛に乗じて尾張国主の座を奪った。桶狭間の戦いに勝利した後、今川氏から独立して松平氏の旧領の三河を回復した松平元康(徳川家康)と結ぶことで美濃攻略に専念。5年の歳月をかけて美濃国を斎藤龍興から奪うと、稲葉山城を岐阜城と改名し新たな本拠として天下の経営に乗り出した。
駿河国では今川氏親が斯波氏から遠江の支配権を奪い、1526年には分国法・今川仮名目録を定めて領国支配力を高めていった。その子の今川義元の代には松平氏の三河も支配下に治め、1554年には甲斐国の武田氏や関東の北条氏と三国同盟(善徳寺の会盟)を結び西進政策を強化し、尾張の一部へも勢力を伸ばしていた。1560年、桶狭間の戦いにおいて義元が戦死し、今川氏真が跡を継いだものの弱体化し、後に徳川氏、武田氏の駿河侵攻を受け滅びる。
三河国では松平氏が松平清康の代で版図を雄飛させるが、1535年の守山崩れによって清康が家臣に殺されると、事態は一変。駿河の今川氏からの後援無しに家命を保てないほど弱体化してしまった。松平氏の人質として幼少期に今川氏へ渡った松平元康は、元服後は今川氏の先鋒武将として桶狭間の戦いの緒戦にも参加していたが、桶狭間の戦い後に今川領国の動揺に乗じて1565年には三河を平定、徳川家康と改名して今川氏から独立して織田氏と同盟を結ぶ。甲斐の武田氏と密約を結んで今川領を東西から侵食、1569年に今川氏を滅ぼした(駿河侵攻)。その後、武田信玄が西上作戦を開始すると三河の徳川所領は侵食されてゆき、1573年の三方ヶ原の戦いでは徳川・織田両軍は敗戦を喫した。三河領も奪われかねぬ窮地に陥るも、信玄の死で武田軍の西進が頓挫する。
1575年には、長篠の戦いで織田・徳川連合軍が鉄砲の力を利用して武田軍を破ると、1582年の甲州征伐への参戦協力の功により、徳川氏は信長から武田領の遠江、駿河を得た。しかも同年、本能寺の変で織田信長が死ぬと織田領である甲信に侵攻し、勢力下に治めている。
1590年、豊臣秀吉により天下が定まると、秀吉より関東への移封を命ぜられたため徳川家康は武蔵国の江戸を本拠とした。やがて家康は秀吉の死後に発生した関ヶ原の戦いの勝者となって江戸幕府を開くことになる。
畿内近国
室町幕府・足利将軍
室町期に在京していた守護大名たちは応仁・文明の乱後、その大半が在国するようになったが、長享・延徳年間の六角征伐(鈎の陣)には多くの大名が参集し、将軍を頂点とした武家秩序は維持されていた[109]。明応2年(1493年)の足利義稙による河内親征の最中、京都で細川政元がクーデターを起こし新たに義澄を将軍位に就けた。一旦は幽閉された義稙だが、その後北陸へ逃亡し、義稙系と義澄系による抗争が勃発した[110]。この2つの将軍家による争乱の中、地方に亡命した将軍や前将軍がその地方の政争に影響を与え、畿内の政治抗争と地方の政治抗争が相互に影響を与え合うことになった[111]。
戦国期においても列島規模で足利将軍の求心力が維持されていたのは、官途・官位といった栄転を欲しがる戦国大名の強い名誉欲のためでもあった[112]。戦国大名たちは、全国的な武家秩序の中に自らを位置づけることを必要とし、そこから脱退する発想は持っていなかった。そのため構成メンバーの入れ替えがあったとしても、将軍を頂点とする権威秩序は維持・再生産され続けた[113]。永禄8年(1565年)、足利義輝は永禄の政変により討死したが、この現職将軍の死に対して朝廷・公家衆、大名から民衆まで中央・地方を問わず追悼の意思が示された。戦国時代末期においても、将軍は依然として「天下諸侍之御主」であった[114]。
細川氏
細川氏は室町幕府内で斯波氏、畠山氏とともに三管領として活動していた重臣で、斯波・畠山の両氏が幕府内での存在感が低下していく中、室町後期には管領職をほぼ独占し抜きんでた地位を獲得した[115]。明応3年(1492年)、細川政元は河内国に足利義稙が河内国に遠征し京都を留守にしていた最中、クーデターを決行し新たに若年の足利義澄を将軍位に据え幕政を主導した。しかし永正4年(1507年)、後継者争いのもつれから政元は暗殺され、細川家もまた分裂し、高国派と澄元派による抗争が引き起こされた。この京兆家の抗争の中、阿波細川氏の内衆であった三好氏が細川政権内で徐々に頭角を現していった。
和泉国では室町期以来、和泉細川氏の上守護・下守護家によって支配されていたが、義稙の還京後は高国流の細川高基・細川勝基と、政長流畠山尚順の子の細川晴宣による両守護によって統治が行われた[116]。その後、大物崩れ後の晴元政権期には細川元常とその息・細川晴貞による単独守護制に移行した。だが、その頃から守護代の松浦守が台頭。江口の戦いで晴元が近江国へ逃亡すると、細川元常も連座して没落した。以後、松浦氏が三好氏と連携しながら和泉国を統治するようになった[117]。
三好氏
三好氏の畿内での活動は、応仁・文明の乱時に阿波国守護・細川成之勢の一員として三好之長の上洛が確認されるが[118]、永正3年(1506年)に細川京兆家の後継者・細川澄元勢の先陣として之長が上洛して以降、中央政界で活動するようになった[119][120]。三好氏はその後、之長嫡男の元長[121]、庶流の政長[122]が澄元‐晴元派の主力として畿内で活躍し、天文年間になると元長嫡男の長慶が三好家の家督を相続した。
長慶は政長と共に晴元派の有力武将として活躍し、太平寺の戦いや舎利寺の戦いなどで武功をあげるが、天文17年(1548年)には政長との対立が表面化。晴元が政長を擁護し、長慶が細川氏綱陣営に転じたため幕府をも揺るがす事態となった[123]。その後、天文18年(1549年)の江口の戦いで長慶勢が政長を討ち取り、晴元が将軍の義輝や義晴と共に近江国に出奔した結果、三好氏単独で中央政権を担うことになった[124]。
永禄元年(1558年)には、足利義輝と和睦し[125]、三好氏は全盛期を迎えた。畿内を宗家の長慶・義興が、阿波三好氏が四国をそれぞれ統治。当時日本最大の国際港湾都市である堺や、河内十七箇所も掌握した[126]。一方で、三好氏は一族の相次ぐ死に見舞われた[127]。永禄7年(1564年)には長慶も死去し、十河一存長男の三好義継と三好三人衆が政権を引き継いだが、永禄の政変後には、義輝帰還後の幕府内で頭角を現していた松永久秀との抗争に突入した。その後、義継も三人衆から離反し久秀と共闘。義昭と信長の上洛後、義継は河内国の半国守護に補任された[128]。
松永氏
天文18年(1549年)の江口の戦い以降、三好政権の中で台頭してきた松永久秀は[129]、足利義輝帰洛後の永禄3年(1560年)には幕府御供衆に就任。さらに三好義興と同時期に朝廷から従四位下補任、将軍からは桐紋を拝領するなど三好本宗家に匹敵するほど家格を上昇させ[130]、幕府内でも重要な位置を占めるようになっていた[131]。永禄の政変後には三好三人衆と対立し苦境に立たされたが[132]、永禄11年(1568年)に上洛を果たした足利義昭に恭順し、大和国の領有が認められた[128]。
畠山氏
畠山氏は、応仁・文明の乱以前から義就流と政長流に分かれて抗争状態にあった。細川政元が起こした明応の政変により政長流の政長が敗死したが、嫡男の尚順は紀伊国に逃れて細川政元や義就流畠山氏と戦い続けた[133]。永正元年(1504年)、尚順は義就流の畠山義英と和睦し、永正5年(1508年)の足利義稙の将軍復位とともに政権に復帰し政治的地位を回復した。その後義英との和睦は破綻。永正10年(1513年)に両者は河内国観心寺で激突し敗れた義英は没落した[134]。その尚順も永正17年(1520年)に国人らにより紀伊国から追放され[135]、享禄5年6月(1532年)には堺公方府内の抗争により、義就流の畠山義堯が自害するなど畠山氏の権力は動揺した[136]。
天文年間の河内国は、守護代の木沢長政と遊佐長教が政長流と義就流の当主を守護として推戴する半国守護体制によって統治されていた[137]。天文11年(1542年)の太平寺の戦いによる長政の敗死後は、紀伊国に出奔していた政長流の畠山稙長が長教と和解。稙長は河内・紀伊・越中国守護に復帰し、河内国半国守護体制解消は解消された[138][139]。しかし河内国の支配については長教に依存しており[140]、天文15年(1546年)の足利義輝の加冠の儀には、長教が稙長の代理として参加するなど、長教の政治的地位は一段と上昇していた[141]。天文18年(1549年)の江口合戦後には、政長流の畠山政国が紀伊国に出奔し、長教が名実ともに河内国の実権を掌握することになった[142]。また細川晴元の没落に伴い、晴元方に与していた義就流の畠山在氏も没落し、義就流は事実上の終焉を迎えた[143]。
天文20年(1551年)、長教は畠山氏被官の萱振賢継に暗殺され[144]、代わってその萱振氏を粛清した安見宗房が台頭し[145][139]、政国嫡男の畠山高政が新たな当主として擁立された[146]。永禄年間には三好氏との抗争に敗れ、高政と宗房は河内国からの没落を余儀なくされるが[147][148]、永禄11年(1568年)の足利義昭と織田信長の上洛後、高政は三好義継と共に河内国の守護に任ぜられた[149]。元亀4年(1573年)6月、義昭と信長の対立が畠山氏にも波及した。高政の弟で当主となっていた畠山秋高は信長と協調していたが、義昭方に与していた長教の子・遊佐信教との対立の結果殺害され、守護大名としての畠山氏は終焉を迎えた[150]。
戦国期の守護大名らの多くは畠山氏のように在地から浮き上がり、さらに実権を握った守護代もまた被官人に実権を奪われていった。しかし戦国期においても守護は守護代に擁立され、守護代は被官に擁立される政治秩序は変わることはなく、守護‐守護代の家格は維持され続けた[151]。また、戦国期においても守護大名は奉公衆や寺院などの戦国領主に対しての軍事動員権を保持していた[152]。このような有力国人・国衆が守護・守護代を権威として推戴し、実権を掌握する状況は丹後一色氏・但馬山名氏など畿内・近国でも多く見られた[153][154]。播磨国の赤松氏もやはり幕府・守護体制に規定された権力で、守護公権によって求心力を維持していた[155]。
六角氏・京極氏・浅井氏
六角氏は宇多源氏佐々木氏に連なる、平安時代より続く南近江の名族である[156]。戦国期初頭には2度に渡る六角征伐の結果、六角高頼は山内就綱に近江国守護の座を奪われることになったが、明応3年(1494年)には就綱を合戦で破り守護に返り咲いた[157]。一方、湖北では同じく宇多源氏佐々木氏の庶流、京極氏が坂田郡・浅井郡・伊香郡の分郡守護を務めており[158]、両者は対立関係にあった。
大永3年(1523年)、「梅本坊の公事」により高清と京極高吉が尾張国に没落し、国人衆に推戴された京極高延が家督を継承した[159]。だが、この政変を好機として大永5年(1525年)に六角定頼が北近江に侵攻[160]。以降、永禄年間初頭まで京極氏と浅井氏は六角氏に従属することになった[161]。この間、天文期には定頼が12代将軍・足利義晴を近江国桑実寺で庇護。義晴の京都復帰後も管領に準ずる立場で幕政を差配し、天文15年(1546年)の足利義輝の将軍就任時の元服儀礼では烏帽子親を務めるなど[162]、一地域権力を超えた政治定期地位を獲得していた[163]。他方、北近江でも天文3年(1534年)に浅井亮政が京極氏より権限を移譲され、湖北を代表する領主に成長していた[164]。
京極氏から権限を委譲された後も六角氏に従属していた浅井氏だが、永禄3年(1560年)、浅井久政から当主の座を引き継いだ浅井長政が野良田で六角義賢を破り、六角氏からの干渉を排除することに成功した[165]。六角氏はその後、永禄6年(1563年)に起きた観音寺騒動により国人領主の支配に動揺を来し[166]、永禄11年(1568年)の足利義昭と織田信長の上洛戦に敗れ大名の座から転落した[167]。
義昭と信長の上洛戦に反抗した六角氏に対し、既に織田氏と同盟関係にあった浅井氏は親信長の立場を取っていた[168]。しかし元亀元年(1570年)の信長による越前侵攻時に反信長に転じ[169]三好三人衆、朝倉氏、本願寺らとともに信長包囲網を形成し抵抗した[170]。だが天正元年(1573年)9月には信長攻められ、小谷城で久政、長政共に自刃した[171]。
天皇・朝廷

戦国時代、地方の武士たちは連歌や蹴鞠など天皇・貴族による雅な世界、文化に対して大変強い憧れを抱いていた[172][173]。彼らは中央の貴族たちから文化財を得ることを強く望んでおり[174]、貴族たちも地方の大名たちに歌道や蹴鞠を伝授するなどして「地方稼ぎ」を行っていた[175]。こうして天皇を頂点とする宮廷で育まれた都の文化が地方へ伝播・浸透してゆき[176]、結果、文化というソフト・パワーが天皇制を存続させる事になった[177]。
また京都の貴族たちは、戦国期でも在地において荘園領主(本所)としての役割を担っていた。農民らも実力(暴力)を行使して在地を支配しようとする武士ではなく、本所による支配を望んでいた[178]。文亀元年(1501年)、和泉国佐野の市場で和泉国守護(細川氏)方の武士が「この間活計せしむるか、おのれ(いままで良い目を見やがって、この野郎)」と喚きながら、本所の九条政基が在荘し直務していた日根荘の荘民に斬りつける出来事があった。荘園は本所によって保護され、守護が立ち入ることの出来ない場所であった。そのため農民たちにとって荘園は「良い目を見る」ことの出来る憧れの場所であった[179]。
永正17年(1520年)、細川澄元方の武将・三好之長が四国から渡海し京都に侵攻した。戦乱に巻き込まれる事を恐れた山城国伏見荘の荘民は、本所である伏見宮貞敦親王に在国を求め、貞敦親王もこの要請を受けて伏見荘に下向した。織豊期の事例だが、天正14年(1586年)の島津氏による大友領国への侵攻の際には、凄惨な乱暴と略奪が島津氏によって行われ、豊後国臼杵だけでも女性・子供含めて約三千人が拉致され、奴隷として売り払われていったとされる[180]。このように武家勢力の軍事作戦は、地域社会に深刻な影響を与えるものであった。そのため、戦乱を避けるための回路を有しているか否かは重要な意味を持っていた。伏見荘の事例のように本所という正当な領主が在国していれば、武士らは容易に手出し出来ず、荘民は武士の暴力から逃れることが出来たのであった[181]。このように荘民らは武士ではなく貴族による荘園の支配を望み、貴族も本所としての責務を果たそうとしていた。
山陽・山陰
初期は大内義興と尼子経久との対立があった。大内義興は、勘合貿易を掌握して勢力を伸張、一時は中国九州7ヶ国に覇を唱え、将軍を奉じて周辺諸大名を従えて上洛をも成し遂げた。尼子経久は守護代ながら月山富田城を奪って守護を追放し、出雲等の山陰に基盤を作る一方、大内氏と何度か交戦するも決着が着かなかった。
両勢力の接点にあった安芸国では国全体の国人が一致団結して惣を築いていたが、強国に挟まれていた関係上、国人の一人である毛利元就が集団の統率者となり戦国大名化した。元就は尼子氏と大内氏の間で外交的にはバランスを保っていたが、後に尼子氏を裏切り大内氏に付き、尼子晴久が吉田郡山城へ向けて進軍。元就は大内義隆に援軍を要請し援軍到着後尼子氏を撃破する(吉田郡山城の戦い)。
陶晴賢の謀反(大寧寺の変)によって大内義隆が死亡すると、8ヶ国守護となった尼子晴久と、大内義長を傀儡とする陶氏が共に力を持ち拮抗するが、陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に討たれ、大内氏は毛利氏に攻められ滅亡する。更には出雲国においても尼子晴久の急死によって尼子氏は衰え、毛利氏に攻められ、難攻不落と讃えられていた今の島根県安来市にあった月山富田城に篭城するが兵糧攻めにあい開城した(月山富田城の戦い)。これにより毛利氏は中国の覇者となる。
元就の孫・毛利輝元は織田信長に追放された将軍・足利義昭を庇護し、天下統一を目指す信長の西国侵攻に対する最大の抵抗勢力となる。また、尼子氏再興を目指す山中幸盛(山中鹿之助)が度々挙兵するも、これを退ける。だが、織田軍の中国方面軍の羽柴秀吉が攻めて来ると、三木城(三木合戦)、鳥取城、高松城が次々と落とされた。
しかし、本能寺の変が発生すると、輝元は秀吉と和睦し、秀吉も軍を返し(中国大返し)、命拾いした。その後、毛利氏は豊臣氏の配下となり、四国攻め、九州征伐、小田原征伐などで活躍し、輝元も五大老に就任する。1589年に輝元は海運の利を活かせる広島城の築城を開始し、江戸時代を通じて城下は安芸広島藩42万6000石の拠点として発展した。豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成が対立して発生した関ヶ原の戦いにおいて、輝元は西軍の総大将を務め、戦後に周防、長門の2か国の36万9000石に封じられた。
この他の主要戦国大名としては、備前の浦上氏(浦上村宗)、同じく備前の宇喜多氏(宇喜多直家)などがいる。浦上村宗は播磨赤松氏の重臣であったが、赤松政則の死を機に下克上し赤松領国の播磨国・備前国・美作国を奪う。零落した細川高国を奉じて上洛も果たしたが、三好氏に敗れて戦死した。浦上氏は宗景の代に入ると重臣・宇喜多直家の離反によって崩壊する。備前国を手中にした宇喜多直家は羽柴秀吉が播磨姫路城に入ると降伏、自身の嫡子宇喜多秀家を秀吉に人質にするなどした。秀家は関ヶ原の戦いで西軍の先鋒を務めたが、戦後に西軍の中心武将と見られて流罪となり、大名としての宇喜多氏は滅んだ。
四国
東四国(阿波・讃岐)は近畿に近いだけでなく、細川氏の勢力基盤でもあったから、近畿の政争にしばしば巻き込まれた。しかし、周囲に敵たる勢力は存在せず、長宗我部氏の四国統一戦までほぼ領主の顔ぶれは替わらなかった。
阿波は細川氏が支配した。後に、撫養の三好氏に実質的に取って代わられるが、細川氏自体は江戸時代まで阿波屋形として存続した。戦国時代には勝瑞城が阿波統治拠点となった。讃岐は東讃岐は守護代の安富氏が統括していたが、のち三好氏一族の三好長正(十河一存)を迎え入れた木田郡・植田一族の十河氏が三好氏の代官として勢力を伸ばし、早い段階で東讃岐を総括した。西讃岐は守護代の香川氏が毛利氏などと結んで当初は三好氏と対立するが、善通寺合戦後、三好氏の支配下に入った。しかし三好氏が衰えると織田氏へなびくようになる。
伊予は守護の河野氏が中予、伊予宇都宮氏が大洲一帯、西園寺氏が南予を割拠したといわれる。地理的に細長く山岳地帯が多い上に、中国・九州と近いために常に毛利氏・大友氏の干渉に晒されることになり、一国を統一し他国へ侵略するような勢力を持てずに終わった。しかし、長宗我部の侵略に際しては頑強に抵抗した。
土佐の守護は細川氏であるはずだが、七守護(土佐七雄)と称した豪族が土佐中央部に割拠、幡多郡に疎開してきた一条氏を盟主と仰いだ。一条氏は七守護の3倍強の力を持って土佐政治に関与した。のち、一条氏の援助によって再興成った長宗我部国親・長宗我部元親が七守護や一条氏を追放して土佐を統一する。そして土佐平定後10年かけて1585年に四国を統一した。淡路は守護・細川氏が統治していた。
のち、秀吉の四国攻めのため長宗我部氏は土佐一国に押し込められる。戦後処理を見てみると、秀吉は阿波に蜂須賀家政、讃岐に仙石秀久、伊予に小早川隆景と信任できる人物を集めている。
九州
九州の武家は平家方だったため、鎌倉幕府を開いた源頼朝の信頼は薄く、頼朝は、九州の抑えとして、関東では無名に近いが近臣として取り立てていた少弐氏、大友氏、島津氏を代官的存在として九州の守護とし、鎌倉時代、筑前・肥前・豊前は少弐(武藤)氏、筑後・肥後・豊後は大友氏、薩摩・大隅・日向が島津氏と九州の統括体制がなされ、その下に地頭として平安時代以来の松浦氏、秋月氏、蒲池氏、菊池氏などの元平家方の武家が盤踞していた。戦国時代当初、少弐、大友、島津の三氏は権益を守るべく、また地頭出自の諸国の国人豪族は自立するべく、戦いが展開していった。
しかし、少弐氏の勢力は九州探題に敵対したために室町時代後期には既に衰えており、宗像氏や麻生氏など筑前・豊前の国人は中国地方の大内氏の影響を受けた。少弐氏は肥前・対馬の兵を率いて大内氏掃討に何度も筑前に侵入するが、逆に大内氏の側についた龍造寺氏の下克上により滅ぼされた。この大内氏が陶氏によって滅ぼされると肥前は自立、筑前と豊前は大友氏の干渉を受けた。陶氏を滅ぼした毛利氏友族が両国に存在したため毛利氏と大友氏は北筑前にて戦いを展開する。
大友氏は豊後を拠点に南筑後の蒲池氏を筆頭とする筑後十五城が盤踞する筑後、さらに阿蘇氏や相良氏の肥後に勢力を伸ばした。陶氏が大内氏を滅ぼすと、これを支援し、豊前・筑前をも得た。また大友宗麟は同時にキリスト教を保護し南蛮貿易を盛んにした。しかし大友氏は島津氏との耳川の戦いで大敗、家臣や幕下の国人の離反が相次いで急速に衰えていく。それを機会に肥前では少弐氏に対する謀反で勃興した龍造寺氏が勢力を拡大、龍造寺隆信の代になってほんの一時期、大友・島津と肩を並べるまでに伸張したが、沖田畷の戦いで隆信が戦死すると急速に衰え、やがて重臣の鍋島直茂が替わった。
島津氏の戦国時代は一族内部の争いで始まった。しかし分家の島津忠良の子・島津貴久が本家を継いだ。祁答院氏、菱刈氏、肝付氏などの数多いた豪族と戦いに明け暮れ、その後、島津貴久の息子の島津義久の指揮の下、薩摩・大隅を統一。木崎原の戦い以後は伊東氏を平らげ、大友宗麟との耳川の戦いで大勝利を収め、薩摩・大隅・日向三州統一を完全なものにし、九州統一戦を開始した。残すは筑前・豊前のみというところで豊臣秀吉の中央軍の介入が始まり、降伏した。
軍事
戦国時代の諸勢力は、必ずしも全期間絶え間なく合戦に明け暮れていたわけではないが、少なくとも勢力間において発生する諸問題の解決に際して行使可能な手段として、武力、すなわち軍備の果たす役割に注目が集まる傾向にあったことは確かであり、諸勢力は軍備の整備・維持・向上に意を払っていた。
そして、これは戦国大名や国人・土豪層はもとより、宗教組織や、自治組織においても同様である。宗教組織は、依然として僧兵組織の維持や、戦闘拠点となりうる寺院の造営に力を振り分けた。あるいは、自治組織においても、矢倉や塀、環濠のような防御施設の構築、牢人の傭兵化を行った。彼らの中には、特殊な戦闘技術を発達させ、忍者集団となったものもいる。
さらには、一部の公家も限定的とはいえ、必ずしも自衛目的のみとは言えない軍事活動に自ら携わるなど、あらゆる階層を通じて、ある種の“力に対する信奉”があったことは注目される。
合戦
戦国時代における合戦には、大名同士の示威行動や小競り合いといった、低強度の武力闘争から、領地支配を巡っての軍同士の衝突、城を舞台にした攻城戦、籠城戦、戦国時代に含めるか否かは別として、少なくとも戦国時代の延長線上にはある関ヶ原の戦いのように、連合勢力同士の会戦・決戦といった、後の国家総力戦にある程度擬し得る戦争形態、さらには、外征戦争である文禄・慶長の役まで、多様な戦争形態が見られる。
武力紛争の総数から見れば、その大部分は、隣接する非友好的な勢力が互いに、領地、あるいは、影響を及ぼし得る勢力圏の境境付近において繰り広げる小競り合い・抗争レベルの応酬であった。この中には、敵兵力に対して実力を行使するだけでなく、隣接勢力に対する嫌がらせの意味も含め、日常的な焼討ちや、稲薙ぎ・麦薙ぎといった耕作妨害も含まれており、結果として、そのエスカレーションが、大規模な軍事行動を誘引する面もあった。
合戦においては武将が名乗りを上げ、それに敵武将が呼応する形で武将同士の一騎討ちで決着を付けることも多くあった。討ち取った武将の首は持ち帰り、これが多いほど手柄とされた。
1543年に大隅国の種子島にたどり着いたポルトガル人から種子島時尭が鉄砲(火縄銃)を買い取ったのが、日本への鉄砲伝来とされるが、鉄砲の戦闘への導入は大きな軍事的革命であった。これまでの騎馬、弓、槍、長束、刀剣といった武器に鉄砲が加わり、鉄砲隊を組織するようになった。1575年の長篠の戦いでは織田信長は多数の鉄砲を用意して武田勝頼を破っている。1584年の沖田畷の戦いでは島津家久・有馬晴信連合軍が数で勝る龍造寺隆信軍を鉄砲隊による奇襲で破り龍造寺隆信を戦死に追い込んでいる。
各勢力の軍事力には地域差が存在した。織田信長が統一戦のなかで積極的に大砲を使用したのに対して、豊臣秀吉はあまり大砲を使用しなかった。信長は主に技術水準の高い畿内とその周辺の勢力との戦いが多かったのに比べ、秀吉は外域の勢力との戦いが中心だった。そのため大砲を使用する必要性が薄かった[182]。文禄2年(1593年)、肥前・名護屋に参陣した陸奥の大名・南部信直は豊臣軍の軍事力に驚嘆し、やや自虐的に「このたびの御陣など見ずして在所にある人は、誠に虻、蚊にも劣りたるていにて候、唐土・天竺・日本三国のゆるぎたてる御弓矢、末世末代未来にもこれあるまじく候」と記している[183]。戦国・織豊期の軍事力の地域差は非常に大きかったのである。
城と築城
江戸時代の姫路城に見られるような、城郭全体に主要構造として石垣が及び、礎石建物で瓦葺屋根に漆喰塗籠という織豊系城郭や後の近世城郭の特徴[184]は織田信長の岐阜城や安土城などが築かれたころに登場したものである[185]。戦国時代に築城あるいは使用された城の大部分は、基本的に土を盛ったり掘削したりして築く「土の城」であり、石垣は部分的に用いられた程度であった[注釈 4]。
戦国時代の城は従来、室町時代に普及した詰の城として使われる「山城」と生活区域の「居館」との関係性と同じように、防御施設としての山城と山城の麓の「根小屋」[注釈 5]と呼ばれる居館の二元構造と考えられてきた[187][188]。1945年以前、日本の考古学調査は戦国時代の城跡では安土城の天主台と本丸部分で行われたのみで、考古学の対象となっていなかったが、1970年代に田中角栄によって提唱された日本列島改造論によって国土開発が積極的に行われるに当たって、中世の城跡も発掘調査の対象となった。そのころ行われた小谷城の発掘調査によって山上に礎石建物が出土したことから、山城に住居施設が存在したことがわかり、観音寺城や置塩城などでも同様の構造が判明した。なお、小谷城と観音寺城は山麓に居館があったことがわかっている。また、小谷城跡山上からは37,000点の陶磁器の出土があり、このうち食器や灯明に使う素焼きの小皿「かわらけ」が36,000点以上を占めており、小谷城では山上に生活施設があったことが推定されている。これらのことから、戦国時代後半には守護大名や戦国大名などは山麓だけではなく山上にも生活施設を設けて、機能によって使い分けていたと中井均は考えている[187]。また、石垣については従来1576年築城の安土城に始まるとされていたが、それ以前の15世紀後半にも高さ4メートルほどの石垣が積まれた城郭が築かれていたことがわっている[187]。
近年においては、各戦国大名がそれぞれ得意とし、特徴を持つ築城術を個々に扱った研究も進んでいる。これは各戦国大名固有の戦術ドクトリンとも密接に関連しており、甲斐武田氏領内における城を中心として見られる迎撃と射撃が補完し合う拠点としての丸馬出や、関東の後北条氏領内や九州北部地域の城を中心として見られる敵の侵攻経路を管制する竪堀、あるいは、火縄銃が多く流通した畿内を中心として見られる射撃拠点としての櫓や望楼を多く伴う城など、地域ごとにさまざまな縄張りへの工夫が見られる。16世紀末期になるとこれまでの軍事的拠点としての山城から、商業・経済の中心は平地や沿岸部に築城した平城の城下町へと移っていった[注釈 4]。
注釈
- ^ 一方で遠国の領主の中には両属的な対応を取った事例も確認できる。明応4年、陸奥の結城政朝は上洛の途次、経由地の越中で足利義材に挨拶を行った上で京都に上っている[19]。
- ^ ただし、伊勢氏(後北条氏)が大名格にまで身分を上昇させるのは北条氏康期以降である。それ以前は身分的には国人に過ぎず[21]、天文年間末期の古河公方・足利義氏擁立段階に至っても、後北条氏は古河公方を推戴することによってしか地域支配を貫徹しえない状況であった[22]。
- ^ 既に戦国時代最末期であるが、足利将軍の権威性は依然として健在だった。元亀3年、毛利輝元の攻勢を受け危機に陥っていた備前の浦上宗景は、義昭に芸備和睦の斡旋を願い出た。備前への侵攻作戦を目前にしていた毛利氏にとって、浦上氏との和睦は到底受け入れ難いものであったが、「今度芸備和平之儀、雖非本意候、京都御下知之条、不能違背、応上意候」と京都(将軍)の命令に背くことは出来ないとして和睦を受諾している[85]。
- ^ a b 「日本の近世城郭は16世紀第4四半期に原型が成立し、17世紀第1四半期にもっとも複雑化した。16世紀第3四半期までは日本の拠点城郭(戦国期拠点城郭)はそれぞれの地域性を色濃く備えた。そうした戦国期拠点城郭のプランに表れた地域性は、築城主体であった権力構造の反映であった。そうした地域性は巨視的に見れば城郭構造の求心・階層構造を指向したものと、並立的な城郭構造を指向したものに区分される。」[186]
- ^ 「根小屋」という用語について香川元太郎は、城の前に形成された家臣屋敷の集合集落としている[185]。
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