戊辰戦争 概要

戊辰戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 08:22 UTC 版)

概要

戊辰戦争中の薩摩藩の藩士(着色写真)。フェリーチェ・ベアト撮影

戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。

  • 日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争(原口清[3]
  • 将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争(石井孝[4]

石井はさらにこれを次の三段階に分けた。

  1. 「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城
  2. 「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・奥羽越列藩同盟(遅れた封建領主の緩やかな連合体)との戦争」(東北戦争)
  3. 「封禄から離れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」(箱館戦争

薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。また旧幕府はフランスから、奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。戦争が早期に終結したため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。

戊辰戦争開始までの経緯および個々の事象については、幕末明治維新、および個々の語句を参照。

鳥羽・伏見の戦い

戊辰戦場址碑
戊辰戦争で新政府軍が用いた錦旗(錦の御旗)の模写図。

開戦に至る経緯

四侯会議の崩壊以後、薩摩藩は長州藩と共に武力倒幕を志向するようになり、朝廷への工作を活発化させた。慶応3年(1867年10月13日14日討幕の密勅が薩摩と長州に下される。

(訳文)詔を下す。源慶喜(徳川慶喜)は、歴代長年の幕府の権威を笠に着て、一族の兵力が強大なことをたよりにして、みだりに忠実で善良な人々を殺傷し、天皇の命令を無視してきた。そしてついには、先帝(孝明天皇)が下した詔勅を曲解して恐縮することもなく、人民を苦境に陥れて顧みることもない。この罪悪が極まれば、今にも日本は転覆してしまう(滅んでしまう)であろう。 朕(明治天皇)今、人民の父母となってこの賊臣を排斥しなければ、いかにして、上に向かっては先帝の霊に謝罪し、下に向かっては人民の深いうらみに報いることが出来るだろうか。これこそが、朕の憂い、憤る理由である。本来であれば、先帝の喪に服して慎むべきところだが、この憂い、憤りが止むことはない。お前たち臣下は、朕の意図するところをよく理解して、賊臣である慶喜を殺害し、時勢を一転させる大きな手柄をあげ、人民の平穏を取り戻せ。これこそが朕の願いであるから、少しも迷い怠ることなくこの詔を実行せよ[5]

これを受け、西国東国で同時挙兵する構想が練られた。

しかし、10月14日に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上、翌15日に勅許された(大政奉還)。『討幕の実行延期の沙汰書』が10月21日、薩長両藩に対し下され、討幕の密勅は延期となった。既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために討幕の名分が立たず、薩摩側も東国に於ける挙兵の中止命令を江戸の薩摩藩邸に伝えざるを得なかった。慶喜は10月24日には征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。朝廷は上表の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集までとの条件付ながら緊急政務の処理を引き続き慶喜に委任し、将軍職も暫時従来通りとした。つまり実質的に「大政奉還」は「空文」と化し実質として慶喜による政権掌握が続くこととなってしまった。慶喜の狙いは、公議政体論のもと徳川宗家が首班となる新体制を作ることにあったと言われる。

土佐藩士・乾退助(板垣退助)はこうなることを予見し、これより先の10月8日に、後藤象二郎の献策による大政奉還論に真っ向から反対した。

大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。徳川氏、馬上に天下を取れり。然(しか)らば馬上に於いて之(これ)を復して王廷に奉ずるにあらずんば、いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。無名の師は王者の與(くみ)せざる所なれど、今や幕府の罪悪は天下に盈(み)つ。此時に際して断乎(だんこ)たる討幕の計に出(い)でず、徒(いたづら)に言論のみを以て将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり[6]。乾退助

しかし、土佐藩の最高指導者である山内容堂は「退助また暴論を吐くか」と笑って取り合わず、徳川恩顧の上士の中で大政奉還論が主流を占めると、過激な武力討幕論は遠ざけられ、反対意見を貫いたことで乾は全役職を剥奪され失脚した[7]

さらに、予定された正式な諸侯会議の開催が難航。雄藩5藩(薩摩藩、福井藩尾張藩、土佐藩、広島藩)は、業を煮やして12月9日に朝廷に働きかけ、公家岩倉具視奏上により明治天皇が王政復古の大号令を煥発した。その内容は、幕府廃止と新体制樹立を宣言されたもので、新体制による朝議では、薩摩藩の主導により慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変(蛤御門の変)以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。こうして、禁門の変では孝明天皇がいる御所に向かって砲撃をし、朝敵の宣告を受けていた長州藩主・毛利敬親は、明治天皇により朝敵の認定を解除された。

慶喜は辞官納地を拒否したものの、表向きは「恭順し配下の暴発を抑えるため」と称し、二条城から大坂城に移った。しかし、実際には経済的・軍事的に重要拠点である大坂を押さえ、その後の政局において幕府側が優位に立とうと策略したと見られる。さらに12月16日、慶喜は各国公使に対し王政復古を非難、条約の履行や各国との交際は、天皇ではなく自分の権限下にあると宣言。新政府内においても山内容堂(土佐藩)・松平春嶽(福井藩)ら公議政体派が盛り返し、徳川側への一方的な領地返上は撤回され(新政府の財源のため、諸侯一般に経費を課す名目に改められた)、年末には慶喜が再上洛のうえ議定へ就任することが確定するなど、乾らが憂慮した通り辞官納地は事実上骨抜きとなりつつあった。

江戸において、旗本御家人を中心とする幕臣佐幕派諸藩を挑発するため、薩摩藩士・西郷隆盛らは、はじめ乾が土佐藩邸に匿い、のち薩土討幕の密約に基づき薩摩藩邸に移管していた、相楽総三ら勤王派浪士達を用いて、出流山をはじめとする関東各地での挙兵や江戸の撹乱作戦を開始。毎夜のように、鉄砲までもった無頼の徒が徒党を組んで江戸の商家に押し入った。日本橋公儀御用達播磨屋、蔵前の札差伊勢屋、本郷の高崎屋といった大店が次々と襲われ、家人や近隣の住民が惨殺されたりした。そして、必ず三田の薩摩藩邸に逃げ込んだ。江戸の市民はこのテロ集団を「薩摩御用盗」と呼んで恐れ、夜の江戸市中からは人が消えたという。三田の薩摩藩邸を根城としていたテロ集団、後の赤報隊は、総勢500名ほどとされ、そのうちの多くは、金で買われた文字通りの、人別帳からも外された無頼の徒であり、強盗、殺戮、放火などを好んでやるような輩であった。幕府は庄内藩に江戸市中取締を命じたが、時の政治状況をわきまえ、テロ集団を刺激しないようにした。そのため、テロ活動は益々激化し、江戸だけでなく、野州相模甲州といった周辺地域まで拡大していった[8]12月23日には江戸城西ノ丸が焼失。これは薩摩と通じた奥女中の犯行と噂された。同日夜、江戸市中の警備にあたっていた庄内藩の巡邏兵屯所への発砲事件が発生、これも同藩が関与したものとされ、ついに堪忍袋の緒が切れた老中稲葉正邦は庄内藩、岩槻藩鯖江藩などから成る幕府軍を編成し、江戸の薩摩藩邸を襲撃させる。12月25日、幕府軍は三田の薩摩藩邸を包囲、薩摩藩が下手人の引き渡しを拒否したのを受けて、薩摩藩邸を砲撃した(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。この事件の一報は、江戸において幕府側と薩摩藩が交戦状態に入ったという解釈とともに、大坂城の幕府首脳のもとにもたらされた。

一連の事件は大坂の旧幕府勢力を激高させ、勢いづく会津藩桑名藩らの諸藩兵を慶喜は制止することができなかった。慶喜は朝廷に薩摩藩の罪状を訴える上表(討薩表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下の幕府歩兵隊・会津藩・桑名藩を主力とした軍勢(総督・大多喜藩松平正質)を京都へ向け行軍させた。

臣慶喜、謹んで去月九日以来の御事体を恐察し奉り候得ば、一々朝廷の御真意にこれ無く、全く松平修理大夫(薩摩藩主島津茂久)奸臣共の陰謀より出で候は、天下の共に知る所、殊に江戸・長崎・野州・相州処々乱妨、却盗に及び候儀も、全く同家家来の唱導により、東西饗応し、皇国を乱り候所業別紙の通りにて、天人共に憎む所に御座候間、前文の奸臣共御引渡し御座候様御沙汰を下され、万一御採用相成らず候はゞ、止むを得ず誅戮を加へ申すべく候。 — 討薩表(部分)

戦闘の勃発

小枝橋にて激突する幕府軍と新政府軍。絵の左側に幕府陸軍の日の丸と桑名藩の九曜紋。右側に薩摩藩の旗 、右下に長州藩の旗 が見える。
豊後橋で発生した戦闘

慶応4年(1868年)1月2日夕方、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃、事実上戦争が開始される。翌3日、慶喜は大坂の各国公使に対し、薩摩藩と交戦に至った旨を通告し、夜、大坂の薩摩藩邸を襲撃させる。藩邸には三万両余りの軍資金が置かれていたが、藩士・税所篤が藩邸に火を放ったうえでこれを持ち出し脱出したため、軍資金が幕府の手に渡る事は無かった。同日、京都の南郊外の鳥羽および伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍は戦闘状態となり、ここに鳥羽・伏見の戦いが開始された。両軍の兵力は、新政府軍が約5,000人、旧幕府軍が約15,000人と言われている。

新政府軍は武器では旧幕府軍と大差なく、逆に旧幕府軍の方が最新型小銃などを装備していたが、初日は緒戦の混乱および指揮戦略の不備などにより旧幕府軍が苦戦した。また、新政府が危惧していた旧幕府軍による近江方面からの京都侵攻もなかった。翌1月4日も旧幕府軍の方向への後退が続き、同日、仁和寺宮嘉彰親王征討大将軍と為し錦旗節刀を与え出馬する朝命が下った。薩長軍は正式に官軍とされ、以後土佐藩も錦旗を賜って官軍に任ぜられた。逆に旧幕府勢力は賊軍と認知されるに及び、佐幕派諸藩は大いに動揺した。こういった背景により5日、藩主である老中・稲葉正邦の留守を守っていた淀藩は賊軍となった旧幕府軍の入城を受け入れず、旧幕府軍は淀城下町に放火しさらに八幡方向へ後退した。6日、旧幕府軍は八幡山崎で新政府軍を迎え撃ったが、山崎の砲台に駐屯していた津藩が旧幕府軍への砲撃を始めた。旧幕府軍は山崎以東の京坂地域から敗北撤退し大坂に戻った。

この時点では未だに総兵力で旧幕府軍が上回っていたが、6日夜、慶喜は自軍を捨てて大坂城から少数の側近を連れ海路で江戸へ退却した。慶喜の退却により旧幕府軍は戦争目的を喪失し、各藩は戦いを停止して兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

鳥羽・伏見の戦いの与えた影響

戊辰戦争の銃はスナイドル銃、Starr carbine、ドライゼ銃

1月5日、山陰道鎮撫総督・西園寺公望及び東海道鎮撫総督・橋本実梁が発遣された(西国及び桑名平定)。7日、慶喜追討令が出され、次いで旧幕府は朝敵となった。10日には藩主が慶喜の共犯者とみなされた会津藩・桑名藩・高松藩備中松山藩伊予松山藩・大多喜藩の官位剥奪と京屋敷没収、3月7日姫路藩が追加された[9]。また、藩兵が旧幕府軍に参加した疑いが高い小浜藩大垣藩宮津藩延岡藩鳥羽藩には藩主の入京禁止の処分が下され、これらの藩も「朝敵」とみなされた。ただし、大垣藩は1月10日の時点で藩主が謝罪と恭順の誓約を出していたことから、13日に新政府軍(中山道総督)の先鋒を務める事を条件に朝敵から外す確約を与えられて4月15日に正式に解除、更には戊辰戦争の功によって賞典禄まで与えられている。なお、同藩の場合、新政府参与に同藩重臣(小原忠寛)がおり、彼のとりなしを新政府・大垣藩双方が受け入れた事が大きい[10]

11日には改めて諸大名に対して上京命令が出された。これはそれまでの諸侯による「公平衆議」の開催を名目にした上京命令とは異なり朝敵とされた「慶喜追討」を目的としていた。これによって新政府はこれまで非協力的な藩に対して、恭順すれば所領の安堵などの寛大な処分を示す一方で、抵抗すれば朝敵(慶喜及び旧幕府)の一味として討伐する方針を突きつける事になった。特に西日本では慶喜討伐令と上京命令と鎮撫軍の派遣の報を立て続けに受ける事になり、所領安堵と追討回避のために親藩譜代藩も含めて立て続けに恭順を表明し、鳥羽・伏見の戦いに関わったとして「朝敵」の認定を受けた藩ですら早々に抵抗を諦めて赦免を求める事となった。1月末には藩主が慶喜とともに江戸に逃亡した桑名藩ですら、重臣や藩士達が城を新政府軍に明け渡し、3月には近畿以西の諸藩は完全に新政府の支配下に入った[11]

1月、長州軍が大坂城を接収、大坂は新政府の管理下に入った。同日、東山道鎮撫総督に岩倉具定が任命された。11日、神戸事件が起こり条約諸国と新政府が対峙するが、交渉は成立し25日に条約諸国は局外中立宣言を行い、日本は内戦状態と認定された。20日、北陸道鎮撫総督・高倉永祜が発遣された。また、神戸事件に誘発される形で、堺事件も発生した。

幕府及び旧幕府勢力は近畿を失い薩長を中心とする新政府がこれに取って代わった。また旧幕府は国際的に承認されていた日本国唯一の政府としての地位を失った。また新政府の西国平定と並行して東征軍が組織され、東山道東海道北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始した。

西国および東海の状況

西日本では、新政府軍と佐幕派諸藩との間では福山藩(藩主急逝により態度表明が遅れた)を除きほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。東海地方および北陸地方では尾張藩が勤皇誘引使を諸藩代官へおくり勤皇証書を出させ日和見的立場から中立化に成功した。これらの西国の藩に対し、銃兵と砲兵以外の騎士や弓槍兵、従者を禁止し、新政府の中央司令による軍事編成介入により一挙の近代軍化を強制して諸藩は従わざるを得なかった[12]

東海

鳥羽・伏見の戦直前の1月2日、新政府は近江方面から旧幕府軍に京都を挟み撃ちにされることを警戒して橋本実梁に大津防衛を命じて、先発として大村藩兵が3日に大津に入る。旧幕府軍は大津侵攻を回避したために京都を挟み撃ちにされる危険性が減少した5日、新政府は改めて橋本を東海道鎮撫総督に任じた。ところが、東海道沿いの佐幕藩として新政府に警戒されていた彦根藩がこの段階で尊王に藩論を転換させて大津防衛の援軍を派遣しており同藩への出兵の必要性がなくなったことから、9日には大津にて桑名藩の征討に移った。膳所藩水口藩の協力もあって大津など南近江一帯が新政府の掌握下に置かれると、本格的な東進が開始され、22日四日市に東海道軍が到着すると桑名藩は戦わずに開城した。藩主の座から追われた松平定敬は国許には帰らず箱館まで戦争を続けた。尾張藩では20日、藩主の父・徳川慶勝の「朝命により死を賜る」との命により御年寄列渡辺新左衛門在綱を含む3重臣及び11藩士が処刑されるという青松葉事件がおき、藩論は尊王に一本化された。2月になると東海道鎮撫総督は東海道先鋒総督兼鎮撫使と改められて東進を開始。東海道最大の雄藩である尾張藩が東海道の諸藩、代官旗本領へ勤王誘引使を送り、勤王証書を提出させ2月末までに小田原藩以西の全ての藩が恭順。国学者のネットワークから遠州駿州で報告隊も結成された。大きな混乱もなく駿府に進むがここで資金不足が露呈する。

東山道(中山道)

1月9日、岩倉具定が東山道鎮撫総督に任じられ、21日に京都を出発した。なお、大垣藩は鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍に属していたが、直後に新政府に対して異心が無いことを表明して東山道軍の先鋒となっている。東山道(中山道)筋の諸藩は定府大名が多く、江戸の居住そのものが旧幕府への加担としての疑惑を持たれたことから、沿道諸藩は対応に苦慮した。だが、多くの藩では国元では抵抗を行わず、藩主が鎮撫総督に恭順の意思を示したことで一旦下された謹慎や所領没収などの処分は解除されている。むしろ、北関東に入ると、諸藩への対応よりも同地において発生した世直し一揆などの動きへの対応に迫られることになった。

丹波・山陰道

すでに鳥羽・伏見の戦中の1月5日、新政府は西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に進軍させていた。これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順及び鳥羽・伏見に敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩篠山藩田辺藩福知山藩などが次々と新政府軍に降伏。そのまま丹後国に入り宮津藩を開城させたのち、因幡国を通って出雲国に進み、2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。

四国の状況

薩土討幕之密約紀念碑
密約が締結される前段階として京都「近安楼」で会見がもたれたことを記念する石碑
京都市東山区(祇園)

公議政体派から勤皇を旨とする武力討幕派へ藩論を統一した土佐藩士・板垣退助の迅衝隊を主力部隊として、丸亀藩多度津藩が協力して、讃岐国の旧幕府方高松藩に進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。27日には残る伊予松山藩も開城し、四国を無血開城させて勤皇支持に統一された。

ところが、翌28日になって伊予松山城に近い三津浜に堅田大和・杉孫七郎率いる長州藩軍が上陸した。これは征討府における土佐藩と長州藩の合意に基づく出兵だった。しかし、この情報を知らされていなかった土佐藩本国の部隊は同藩が四国進出を目論むものと考えて激しく反発して協力を拒絶した。新政府内部の調整によって最終的に四国に関しては土佐藩に一任することとなり、3月3日に長州藩軍は三津浜から撤退して本州に帰還した[13]

中国路の状況

長州藩兵は上京の途中の1月9日に備後福山藩領に侵入し福山城に砲撃を加え、籠城する福山藩兵と銃撃戦を開始するが、家老・三浦義建及び御用係・関藤藤陰は長州に恭順の意を示したことから、勤王の誓詞を提出させた。また新政府の征討令を受けた備前藩が15日に備中松山藩に派兵するが、執政・山田方谷は城を無血開城した。姫路藩は藩主・酒井忠惇(老中)が慶喜とともに江戸へ脱走して留守で、在藩家臣が降伏している。

九州の情勢

1月14日、長崎奉行河津祐邦は秘かに脱走し、佐賀藩大村藩・薩摩藩・福岡藩などの諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは澤宣嘉が派遣され、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。日田代官所にあった西国郡代窪田鎮勝は17日に脱走。周辺諸藩が接収し、閏4月には日田県が設置された。老中・小笠原長行を世子とする唐津藩は討伐の対象となったが、松方正義がこれを抑え、藩主・小笠原長国が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。天草の幕府領も程なく薩摩・肥後藩によって接収されている。また、これとは別に薩摩藩は勤王と新政府への支持を表明する誓書の提出を対馬藩以外の九州全藩に求め、2月末までに唐津藩や鳥羽・伏見の戦いで敵対したとされた延岡藩、他の佐幕派である高鍋藩府内藩も含めた全藩がこれに応じており、この時点で九州諸藩は全て勤王に転じたと言える[14]。残された延岡藩の朝敵認定の解除問題も4月に藩主・内藤政挙が上京して短期の謹慎の後に赦免されたことで解決されることになった。


注釈

  1. ^ ただし、仙台藩主伊達慶邦は既に、8月26日に新政府への謝罪降伏の手配を指示し、8月29日には熊本藩陣中へ仙台藩士2人を派遣して仙台藩の降伏交渉を始めさせている[23]

出典

  1. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508/ 2020年12月3日閲覧。 
  2. ^ 原口 1963, p. 239.
  3. ^ 原口 1963, p. 267.
  4. ^ 石井 1968, p. 46.
  5. ^ 「詔。源慶喜、籍累世之威、恃闔族之強、妄賊害忠良、数棄絶 王命遂矯 先帝之詔而不懼、擠万民於溝壑而不顧、罪悪所至 神州将傾覆焉 朕、今、為民之父母、是賊而不討、何以、上謝 先帝之霊、下報萬民之深讐哉。此、朕之憂憤所在、諒闇而不顧者、萬不可已也。汝、宜体 朕之心、殄戮賊臣慶喜、以速奏回天之偉勲、而、措生霊于山嶽之安。此 朕之願、無敢或懈」
  6. ^ 『明治功臣録』明治功臣録刊行會編輯局、大正4年(1915年)
  7. ^ 『板垣退助君戊辰戦略』上田仙吉編、明治15年刊(一般社団法人板垣退助先生顕彰会再編復刻)
  8. ^ 原田伊織『明治維新という過ち・完結編』講談社2018年
  9. ^ 水谷憲二 2011, p. 178.
  10. ^ 水谷憲二 2011, p. 220-224.
  11. ^ 水谷憲二 2011, p. 8-12, 22-24, 55.
  12. ^ 保谷 2007, p. 115-127.
  13. ^ 水谷憲二 2011, p. 391-394.
  14. ^ 水谷憲二 2011, p. 399-403.
  15. ^ 梁田戦争をご存知ですか(足利市公式サイト)
  16. ^ 水谷憲二 2011, p. 194-197.
  17. ^ 神奈川県企画調査部県史編集室(編)『神奈川県史 通史編4 近代・現代(1)』神奈川県弘済会、1980年、73-80頁。
  18. ^ 『復古記 第十二冊』390頁417頁 復古外記 奥羽戦記 第六 (編著者:太政官、豊原資清 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)5月8日) (2018年10月15日閲覧。)
  19. ^ 『二本松藩史』148頁151頁 「齋藤淺之助翁談話」 (編著者・出版者:二本松藩史刊行會 再版発行:昭和2年(1927年)1月10日) (2018年10月11日閲覧。)
  20. ^ a b 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第十二冊』417頁418頁 復古外記 奥羽戦記 第六 (編著者:太政官、豊原資清 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)5月8日) (2018年10月16日閲覧。)
  21. ^ 石井孝, 『戊辰戦争論』, 2008年
  22. ^ 新潟県立図書館「越後佐渡デジタルライブラリー」『越後国上杉景勝家督争合戦』
  23. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第13冊』459頁463頁 復古外記 平潟口戦記 第三 明治元年8月29日 「廿九日、伊達慶邦、使ヲ肥後藩ノ營ニ遣シ、情ヲ陳シ、帰順ノ事ヲ請フ。」 (編著者:太政官、長松幹、藤川三渓 出版者:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)6月27日) (2018年10月17日閲覧。)
  24. ^ 保谷 2007, p. 274.
  25. ^ 保谷 2007, pp. 274-275.
  26. ^ 『田名部町誌』(1935年)
  27. ^ 野口信一 2010, p. 240-246.
  28. ^ 磯田道史 『素顔の西郷隆盛』 新潮新書 2018年 ISBN 978-4-10-610760-3 176頁






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