悼王 (楚)とは? わかりやすく解説

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悼王 (楚)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/11 14:49 UTC 版)

悼王 熊疑
第17代王
王朝
在位期間 前402年 - 前381年
都城
姓・諱 熊疑
諡号 悼哲王[1]
生年 不詳
没年 悼王21年(前381年
声王

悼王(とうおう)は、悼哲王(とうてつおう)ともいい、中国戦国時代の王。[2]粛王宣王の父。

生涯

楚の声王の子として生まれた。声王6年(紀元前402年)に声王が賊に暗殺されたため、その後を嗣いで楚王に即位した。

悼王2年(紀元前400年)、の三晋の軍が楚に侵攻してきたが、三晋の軍は乗丘まで進軍して撤退した[3]。悼王3年(紀元前399年)、鄭に楡関を返還した[4]。悼王4年(紀元前398年)、楚の郎荘平君が軍を率いてに侵攻した。鄭の皇子・子馬・子池・子封が軍を率いて楚軍を迎撃しようとした。しかし楚軍が氾を渡り会戦しようとすると、鄭軍は蔑に逃げ込んだ。楚軍は蔑を包囲し、鄭軍とその4将軍を降伏させた。楚軍が郢に凱旋すると、鄭の太宰欣がまた鄭で反乱を起こし、鄭の駟子陽中国語版を滅ぼした[5]。悼王5年(紀元前397年)、楚は鄭の4将軍とその兵民を鄭に帰した。軍が津や長陵を包囲して攻め落とした。悼王は長陵の報復のために平夜悼武君(昭王の子の平夜文君の子)に軍を率いて晋に侵攻するよう命じた。楚軍は郜を降し、滕公をとどめて凱旋した。悼王7年(紀元前395年)、韓・魏が郜の役の報復のために軍を率いて楚の武陽を包囲した。魯陽公(平王の子の子期中国語版の曾孫)が軍を率いて武陽を救援し、楚軍と韓・魏軍が武陽の城下で戦ったが、楚軍は大敗した。の人が叛いて王子定を陳に迎え入れるなど、楚の領邦の城は多くが離反した。悼王は平夜悼武君に命じての陳淏に援軍を求めさせた。斉の陳疾目は車1000乗を率いて武陽で楚軍に従った。三晋の軍と楚軍は再び会戦した。斉軍は嵒まで達して撤退した[1]。悼王9年(紀元前393年)、楚軍は韓を攻撃して負黍を奪った。悼王11年(紀元前391年)、趙・魏・韓の軍の侵攻を受け、楚軍は大梁・楡関で敗れた。悼王は秦に厚く賄賂を贈って仲介を頼み、趙・魏・韓と講和することができた[3]

この頃、魏では将軍の呉起が宰相の公叔中国語版と対立し、武侯とも折り合いが悪くなって出奔し、楚を頼った。悼王は呉起を宰相に任用した。呉起は国政や軍制の改革をおこない、軍の強化を図ったが、楚の門閥貴族たちとの対立を深めた[6]

悼王21年(紀元前381年)、薨去した[3]。王の死後まもなく、呉起は反対派の貴族ら70余家の軍に襲われ、悼王の遺体の前で射殺された。王の遺体にも矢が突き刺さっていたという[6]。悼王の子の粛王が王位を嗣いだ[3]

脚注

  1. ^ a b 清華簡』「繋年」23章
  2. ^ 史記』楚世家による。同書六国年表では、類とする。
  3. ^ a b c d 『史記』楚世家
  4. ^ 『史記』六国年表
  5. ^ 『清華簡』「繋年」23章による。『史記』楚世家ではこの年に楚がを攻撃したとするが、『史記会注考証』が指摘するように周は鄭の誤りとみられる。『史記』六国年表では、楚は鄭を攻撃し鄭を包囲した、鄭人が駟子陽を殺したとしている。
  6. ^ a b 『史記』孫子呉起列伝
先代
声王
前402年 - 前381年
次代
粛王



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