志賀直哉 関連人物

志賀直哉

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関連人物

武者小路実篤
学習院中等科以来の友人。直哉らとともに『白樺』を創刊する。その後、直哉に続いて我孫子に住居を構える。2人の我孫子在住時を描いた「和解」の中で、直哉は武者小路[注 11]を「彼は実際相手の内にあるよきものを抽(ひ)き出す不思議な力を持っていた。又彼は心と心の直接に触れ合う妙味をよく理解していた」と評している[138]。武者小路が「新しき村」の建設のために我孫子を去った後も2人の交流は続いた。「暗夜行路」の冒頭には「武者小路実篤兄にささぐ」という献辞が記されている。晩年、直哉から手製の杖を贈られるが、そのとき武者小路は「歩く時この杖をつかうと志賀が一緒にいる気がすると思った」との言葉を残している[11]
夏目漱石
直哉は学習院高等科の頃から漱石の愛読者であり、1906年(明治39年)、東京帝国大学の英文学科に入学後、漱石の講義を聴講した。漱石は翌年3月に東大を退職しているので、漱石の東大における最終年度の教え子になる。直哉は東大で他の授業には殆ど出なかったが、漱石の講義だけは熱心に聴いており、武者小路実篤は「志賀や正親町や木下は夏目さんの講義に随分感心し、又よろこんでいた。殊に志賀はすっかり夏目さんずきになって、よく夏目さんの云った言葉を彼に話した」(「或る男」九十九章)という。1913年(大正2年)、処女創作集『留女』を漱石に贈ると、漱石は同年7月の『時事新報』紙上で「作物が旨いと思ふ念より作者がえらいといふ気が多分に起り候」と賞賛[139]、同年12月に翌年の朝日新聞の長編連載を依頼した。一般的には無名に近い新人だった当時の直哉にとって異例の抜擢であり、漱石が彼の才能を極めて高く評価していたことを示す。直哉はそれまで書きかけていた「時任謙作」を出すつもりでいたが、書き悩んで1914年(大正3年)7月、漱石の元を訪れて辞退した。漱石は「徳義上は別として、芸術上には忠実である。自信のある作物でなければ公にしないと云ふ信念がある為であらう」[140]と理解を示し、直哉には手紙で「御心配には及びません。他日、あなたの得意なものができたら、そのかわリ、ほかへやらずにこちらへください」[141]と、寛容に返事している。直哉はそれから三年間作品を発表せずに漱石との約束を果たそうとしたが、その間に漱石は亡くなってしまう。だが、その後も直哉は執筆を放棄せず、「時任謙作」はやがて『暗夜行路』となって1937年(昭和12年)にようやく完成した。長編には不向きな作家であった直哉が「漱石依頼の長編」にこれほどのこだわりを見せたあたり、漱石の感化は極めて強いものであったと言える。直哉は「敬意を持ってゐたのは夏目漱石位のもので、鴎外でも藤村でも秋声でも眼中になく、先輩といふものは一人も作らず」[142]等、色々なところで漱石に敬意を表している。武者小路実篤と同様、文壇に師を持たない主義であったため、いわゆる漱石門下とは区別されることが多いが、事実上の弟子とする見解もある[141]
柳宗悦
芥川龍之介
1922年(大正11年)7月27日小穴隆一と我孫子の志賀家を訪ねている。当時スランプだった芥川は、休筆から活動再開に至った直哉の話を聞きにきたが、直哉は「冬眠してゐるやうな気持ちで一年でも二年でも書かずにゐたら」再び書けるようになると答える。芥川は「さういふ結構なご身分ではないから」と返した[143]。その数年後、芥川は東京で直哉と会ったが、直哉から、芥川の作品には読者への隠し事で読者を釣る点や、描写に技巧が見え透ける点があると指摘される。その際、芥川は「芸術というものが本統に分っていないんです」と返答した。芥川の死後、直哉は「沓掛にて」の中で「芥川君は始終自身の芸術に疑いを持っていた」と芥川を振り返りつつ、芥川の自殺については「(腹立たしく思えた乃木希典有島武郎の自殺と異なり)芥川君の場合では何故か『仕方ない事だった』というような気持がした」「芥川君の死は芥川君の最後の主張だったというような感じを受けている」と述べている[144]
網野菊
尾崎一雄
小津安二郎
志賀文学のファンだった。日中戦争に従軍した際、岩波文庫版の『暗夜行路』を読み感銘を受ける[145]。戦後、雑誌『映画春秋』の座談会で直哉と知り合う。映画『月は上りぬ』(監督:田中絹代)のシナリオを執筆した際には直哉からアドバイスを受けてその一部を書き直す[146]。その後も親交は続き、里見弴も含めた3人で旅行をすることもあった[147]笠智衆によると小津は直哉に「心酔」しており、「志賀先生の前に出ると、子ネコみたいに」なっていたという[148]。里見弴も、小津は「志賀の前ではコチコチになって」いたと語っている[149]
上司海雲
東大寺別当。直哉が奈良に住んでいた頃に知り合う。海雲は「あんなすぐれた人は仏教界にもどこにも見当たらない」と直哉を絶賛し、直哉が亡くなるまでの40年間親しい関係が続いた。直哉も奈良を去り東京へ帰った後も、武者小路実篤や里見弴と同じ頻度で手紙を書いている[150]。直哉のサロンの一部は上司海雲に引き継がれていった(観音院サロン)。
小林多喜二
1931年(昭和6年)11月はじめに上高畑の志賀家を訪問している。多喜二は直哉の作品から文学を学び、以前から手紙で交流していた。直哉はプロレタリア文学に批判的だったが、このときの邂逅はなごやかなもので、直哉の息子・直吉と3人であやめ池の遊園地に遊び一晩泊めている[151]。多喜二の死後は、彼の実母に香典と弔文を贈っている[152]
小林秀雄
里見弴
太宰治
小説「津軽」の中で「日本の或る五十年配の」「神様、といふ妙な呼び方をする」作家についての批判を書いている[153]。直哉は雑誌の座談会で、太宰の「斜陽」について、貴族の娘の言葉遣いに閉口したと発言。これを受けて太宰は「如是我聞」で「おまへの『うさぎ』には『おとうさまは、うさぎなどお殺せなさいますの?』とかいふ言葉があった筈」と反発した。これは随筆「兎」の中の末娘貴美子の「飼ってしまえばお父様屹度お殺せになれない」の不正確な引用で、直哉は「如是我聞」を読んだ貴美子を「お殺せにならないで少しも変じゃない」となぐさめた[154]。直哉は随筆「太宰治の死」の中で「私の言った事が心身共に弱っていた太宰君には何倍かになって響いたらしい。これは…太宰君にとっても、私にとっても不幸な事であった」と、太宰を批判したことに対する後悔の念を表している[155]
谷崎潤一郎
中野重治
世田谷新町の家を訪問したことがあり、直哉に畏敬の念を抱いていた。直哉も中野の人柄に好感を持っており、戦後、中野が「新日本文学会」を結成した際、賛助会員となっている。しかし中野が皇室や直哉の友人の政治家(安倍能成)に批判的な文章を発表したことに「不純な印象」を持ち、脱会している[156]
広津和郎
柳宗悦
阿川弘之
戦後、谷川徹三の紹介で直哉に弟子入り。以後直哉が亡くなるまで頻繁に志賀邸に出入りし葬儀も取り仕切った。全集の監修や直哉関連の随筆・著作も多い。
福田蘭童
直哉が大洞台の山荘に住んでいたころに出入りしていた。釣りや尺八など多才な人物で、直哉も親しみを持っていた。直哉の死後、『志賀直哉先生の台所』(現代企画室、1977年)を出版、直哉が虫を食べたなどのエピソードを書いている。ただし、阿川弘之は直哉や志賀家の人々の言葉遣い、とりあげられたエピソードの信憑性に疑問を持っており「問題の書」と評している[157]

注釈

  1. ^ 当時、田中正造が政府や議会に鉱毒問題を繰り返し訴えていたが、これに呼応し、東京キリスト教青年会会館などで田中を支援する演説会が度々開かれるようになり、主催者は鉱毒地の視察を呼びかけた。内村も演説会に登壇した(阿川、上 1997, p. 106-107)。
  2. ^ 発表は『金の船』1920年(大正9年)1月号。
  3. ^ 発表は『中央文学』1918年(大正7年)3月号。
  4. ^ 門下の阿川弘之は、これを処女作としている(阿川、下 1994, p.376)。
  5. ^ 妹英子への手紙で、以下のように不満を漏らしている。「戦争初めはそれ程でもなかつたが、段々不愉快になり、京都の師団団員で近所のものが大分とられ三十越した知つてゐる人などがとられ出すと、非常に重苦しくなり閉口した…『石原莞爾』といふ本を買つて来て少し読んだが、人生といふものが戦争だけのものであるといふ印象で甚だ不愉快だ、いやな世の中になつたものだ」(阿川、下 1994, p. 87)
  6. ^ シンガポール陥落に関しては谷崎潤一郎も『シンガポール陥落に際して』という文でそれを讃美していたが、その後の谷崎は『細雪』発禁によって戦争に非協力的な作家という印象が強くなった。同様に直哉もシンガポール陥落後はほとんど沈黙していたため、戦後の「鈴木貫太郎」などで展開した戦争批判も敗戦による変節を示すものとは言えない。
  7. ^ 横捨身技の名人と言われた柔道家の永岡秀一十段のこと。
  8. ^ 以下の表に加え、内幸町において新築の家に転居、松江において最初に住んだ家から別の家に転居、我孫子時代に一時東京四谷の九里四郎の家を借りてそこに転居している。これらの転居と最初の石巻町の家を含めると「転居二十三回」となる(貴田 2015, pp. 153–154)。
  9. ^ 丸谷才一はエッセイ「日本語への関心」(1974年刊行の『日本語のために』に収録)において、「志賀が日本語で書く代表的な文学者であつたといふ要素を考へに入れるとき、われわれは近代日本文学の貧しさと程度の低さに恥ぢ入りたい気持ちになる。(中略) 彼を悼む文章のなかでこのことに一言半句でも触れたもののあることをわたしは知らないが、人はあまりの悲惨に眼を覆ひたい一心で、志賀のこの醜態を論じないのだらう」と述べている。
  10. ^ 三島由紀夫は「日本への信条」(愛媛新聞 1967年1月1日に掲載)において、「私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と述べている。
  11. ^ 作中では武者小路は「M」として登場している。

出典

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  152. ^ 年譜”. 有限会社ゆとり・多喜二ライブラリー. 2018年1月22日閲覧。
  153. ^ 津軽青空文庫、2018年2月8日閲覧。
  154. ^ 阿川、上 1997, p. 85-86.
  155. ^ 「太宰治の死」(文芸 1948年10月1日)。『志賀直哉随筆集』(岩波文庫、1995年)に所収
  156. ^ 阿川、下 1997, p. 181-187.
  157. ^ 阿川、下 1997, p. 254.






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