志賀直哉 系譜

志賀直哉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/24 00:28 UTC 版)

系譜

志賀家に伝わる家系図によれば、近江国志賀城主の1万石の大名、志賀直為が一族の祖であるという。ただし直哉は「ほんとうかどうか、怪しいもんだよ」と言っている。直為の二代あとの志賀甚兵衛直久は上総国土屋利直の家来となっており禄高200石の侍に格下げされている。その跡継ぎの志賀三左衛門直之の代に土屋家から相馬中村藩に養子に入った相馬忠胤の側近として一家で相馬に移住。以後志賀家当主は代々三左衛門を名乗る。直之から七代あとの当主が直哉の祖父直道である[112]

祖父・志賀直道
1827年、磐城国相馬中村の城下町に生まれる。明治維新後は福島県大参事という役職についていたが、困窮していた相馬家から請われ、月給25円の家令(事務、会計)を勤める。二宮尊徳の弟子でもあり、相馬家立て直しのため、開田、米穀販売事業を始め、相馬藩の産米を古河市兵衛の小野組糸店が扱ったことをきっかけに、小野組に金を預けて相馬家の資産を増やし、古河に資金提供して足尾銅山経営にも関わった(のち渋沢栄一も参加)[113]。相馬家の親戚である織田子爵家、松前家、室賀家、菅沼家、佐竹家も経済支援した[113]。気性の激しい妻・留女と対照的に、無口で温厚な性格だった。相馬事件では、旧藩主を毒殺した疑いで告訴され70余日拘留されたが、拘留中の出来事は一切話さなかったという。晩年は禅学に親しんだが食道癌を発症し数え80歳で死去[114]
祖母・留女(るめ)
相馬家の家臣・木村惣左衛重基の娘。直道に嫁いでからは自家製の味噌やどぶろくを近所に売って家計を支えた。働き者で気性も激しかった。直哉の妹の英子によれば、文盲であったという[115]
父・志賀直温
磐城国宇多郡中村(現在の福島県相馬市)に生まれる。16歳のとき山岡鉄舟の元に剣術修行に出たのを皮切りに各地の私塾を転々とし1876年(明治9年)6月、慶應義塾を卒業。1880年(明治13年)第一国立銀行に就職。1885年(明治18年)同行を退職後、文部省会計局の下級役人となる。1890年(明治23年)文部省を非職(休職)。1893年(明治26年)40歳で文部省を非職満期(正式に辞職)となると、相馬藩士の青田綱三と総武鉄道会社の創立に参加し会計を担当。のちに専務取締役を務める。帝国生命保険武蔵電気鉄道、相模水力電気、札幌木材、豊前採炭、日本醋酸の7社に取締役として関与[116]。実業家として成功しても無駄遣いはせず、蓄財に努め、志賀家を栄えさせようとした。晩年は交詢社に毎日通い牧野伸顕や松方正作(松方正義次男)と碁を打つという優雅な生活だった[117]
母・銀
亀山藩の上屋敷があった江戸下谷の御成道に、6人兄弟の五女として生まれる。16歳で直温と結婚。姑の留女に息子の直哉を取り上げられるなど苦労する。1895年(明治28年)13年ぶりに妊娠するが悪性のつわりのため8月30日に数え33歳で死去。
養母・浩(こう)
天童藩織田家に仕えた漢学者高橋元次の娘。23歳で直温の後妻として嫁ぎ、一男五女をもうける。仲たがいした直哉と直温を和解させようと気苦労を重ねた[118]。実子の直三によれば、「継母の継子いじめってことは世の中にあるけれど私の場合はそれが逆になってしまった」と嘆いていたという[119]。晩年、直哉の住む奈良に転居するが、直三の行状に悩まされ[120]、脳溢血で死去[121]
妹・英子(ふさこ)
東京府立第三高女卒業後、海軍士官の実吉敏郎(海軍の軍医総監実吉安純の息子)と結婚。
弟・直三
幼稚舎から大学予科まで慶應義塾で学ぶ。学生時代から飲酒・夜遊びと不良行為が絶えず留学させられる。アメリカでマサチューセッツ工科大学、イギリスでケンブリッジ大学に入学するがどちらもすぐに退学し、競馬や女遊びに耽溺。6年後、義兄の実吉敏郎に連れ戻される。帰国後、伯爵副島道正の娘・順子(のぶこ)と結婚。文部省社会教育課で教育映画製作の仕事に就く。直温亡き後は相続を巡って直哉たちと反目、以後放蕩の限りを尽くし、奈良に引っ越した実母・浩の家や直哉の家にも高利貸しや暴力団が押し掛けることとなる。昭和8年、直三は詐欺罪で2年3ヶ月に渡る収監となり、出所前に浩が死去。その後直三は華道・慈草流の家元、茶道・宗徧流では志賀幽荃を名乗り、風雅の世界に生きる。自伝『阿保傳』(新制社、1958年)を出版している[122]
妹・淑子(よしこ)
英子と同じ第三高女卒業後、元会津若松藩の家臣・山際家出身の山際太郎と結婚。
妹・隆子
英子と同じ第三高女卒業後、第三代住友総理事の鈴木馬左也の長男愨太郎と結婚。
妹・昌子
聖心女子学院卒業後、鈴木馬左也の三男乾三と結婚。
妹・禄子
香蘭女学校卒業後、大倉商事の社員(のちに社長、会長)伊藤英次郎と結婚。結婚式では亡くなった直温の代わりに直哉が父親役を務めた。
はとこ・志賀直方
直道の兄、志賀直員正斎の孫。直哉の作品にしばしば「叔父直方」として登場している。直哉にとっては4歳上の又従兄になるが、両親が病死し、直道の養子となったために戸籍上は叔父である。直哉とは兄弟のように育ち、直哉と同時期に学習院に編入している。中等科卒業後は陸軍士官学校へ進み日露戦争に出征、右目を失う重傷を負う。軍籍を離れたのちは大日本連合青年団理事として政治活動をしながら、志賀家のもめごとの仲裁にあたった[123]
妻・康子(さだこ)
勘解由小路資承の長女(庶子)で武者小路実篤の母方の従妹。10歳から華族女学校に学ぶ。中等科の同級生にのちに女優になる東山千栄子がいた。家の事情で卒業2年前に退学[124]。1908年(明治41年)、勘解由小路家の縁戚で男爵家の軍人川口武孝と結婚、娘・喜久子をもうけるが、夫が病死し未亡人となる[125]。武者小路夫妻の紹介で直哉と見合いし結婚。喜久子は武者小路夫妻が養女にしている[126]。癇癪もちで時に暴力をふるう直哉を辛抱強く支えた。直哉の門人たちにも慕われており、河盛好蔵は「日本三名夫人の一人(他二人は小泉信三辰野隆の妻)」と評した[127]
長女・慧子(さとこ)
我孫子に移住してから一年後の1916年(大正6年)6月7日に東京の病院で生まれる。直哉と絶縁中の直温も初孫の誕生を喜び、病院に顔を見にいき、出産費用も出した。我孫子に帰ってからも祖母の留女にまた東京に連れてくるよう言われ、汽車で上京したが帰宅後、様子がおかしくなり、7月31日、腸捻転で急死した。直哉は赤ん坊を汽車に乗せたのが原因と思い込み、以後子供の扱いに厳しくなる[128]
次女・留女子(るめこ)
1917年(大正6年)7月23日我孫子で誕生。汽車に乗せずに済むように自宅出産で生まれた。直哉は祖母の留女に名付けを頼んだが、良い名を思いつかないので自分の名はどうかと言われたので、子の字をつけて留女子となった。直哉は今度こそ無事に育てようと外出や食べ物を制限し、その過保護ぶりは周囲でも有名だった。奈良女子高等師範学校附属高等女学校卒業後、1940年に男爵長與又郎の長男と結婚するが9か月で離婚し、柳宗悦の妻で声楽家の柳兼子の紹介で、ピアニスト(のち国立音楽大学学院長[129])の土川正浩と再婚し、二人の娘をもうける[130][131]
長男・直康
1919年(大正8年)6月2日に生まれ、36日後の7月8日丹毒で早逝[132]
三女・寿々子
1920年(大正9年)5月31日に生まれる。留女子と同じ奈良女高師附属女学校卒業。身長172センチの大柄な娘だった。妻・康子の同級生東山千栄子の甥で、身長186センチでベルリンオリンピックバスケットボールで出場し、農林省に勤務する中江孝男(祖父は鉱山開発などを行った中江種造、母親は料理研究家の中江百合子)と結婚。孝男は農林省退官後、祖父が大阪に起こした中江産業の役員となり、寿々子も関西に移住した。息子二人をもうけた[133]
四女・万亀子
1922年(大正11年)1月19日に生まれる。奈良女高師の附属幼稚園から附属小学校、附属女学校を卒業。柳宗悦の次男で美術史家の柳宗玄と結婚。娘一人、息子二人をもうける[134]
次男・直吉
1925年(大正14年)5月26日に奈良で誕生。奈良の小学校から5年生に進級する際、学習院に編入する。一人息子の将来に期待する直哉は「今大学なんか出て一体何になるかね」と大学進学をさせず高等科も中退させる。商人や月給取を嫌っていた直哉は、直吉に出版社をさせることを考え、岩波書店の小林勇の口利きで岩波に入社させ出版人の修行をさせる。しかし、小林から出版社経営の難しさを理由に反対されてあきらめている。直吉は日劇ダンシングチームのメンバーで台湾銀行初代ロンドン支店長の娘、佐藤福子と恋愛結婚。息子3人をもうける。岩波では、父親の志賀直哉全集編纂や日本古典文学大系の編集を担当、常務取締役まで勤め上げた[134]。2019年5月21日、心不全で死去[135]
五女・田鶴子
1929年(昭和4年)10月13日に奈良に生まれる。日本女子大学附属豊明小学校から附属高等女学校に進学するが、直哉は「女の子が学校の勉強なんか大してする必要なし」という考えで、終戦前後の勤労奉仕も「馬鹿々々しい」と休ませて出席日数不足で退学する。子爵実吉安純の孫で三井化学の社員(のちに日本揮発油社長)山田伸雄と結婚。一男一女をもうける[136]
六女・貴美子
1932年(昭和7年)11月19日に奈良に生まれる。香蘭女学校に進むが病弱で欠席しがちだったために熱海へ引っ越したのを機に退学、伸び伸びと育てられた。戦後派らしい物怖じしない性格で、周囲からは島津貴子になぞらえ「志賀家のおすたさん」と呼ばれていた。男爵安場保和の孫で、AP通信・朝日新聞社で電気通信関係の仕事をしていた安場保文と結婚、一男一女をもうけた[137]

注釈

  1. ^ 当時、田中正造が政府や議会に鉱毒問題を繰り返し訴えていたが、これに呼応し、東京キリスト教青年会会館などで田中を支援する演説会が度々開かれるようになり、主催者は鉱毒地の視察を呼びかけた。内村も演説会に登壇した(阿川、上 1997, p. 106-107)。
  2. ^ 発表は『金の船』1920年(大正9年)1月号。
  3. ^ 発表は『中央文学』1918年(大正7年)3月号。
  4. ^ 門下の阿川弘之は、これを処女作としている(阿川、下 1994, p.376)。
  5. ^ 妹英子への手紙で、以下のように不満を漏らしている。「戦争初めはそれ程でもなかつたが、段々不愉快になり、京都の師団団員で近所のものが大分とられ三十越した知つてゐる人などがとられ出すと、非常に重苦しくなり閉口した…『石原莞爾』といふ本を買つて来て少し読んだが、人生といふものが戦争だけのものであるといふ印象で甚だ不愉快だ、いやな世の中になつたものだ」(阿川、下 1994, p. 87)
  6. ^ シンガポール陥落に関しては谷崎潤一郎も『シンガポール陥落に際して』という文でそれを讃美していたが、その後の谷崎は『細雪』発禁によって戦争に非協力的な作家という印象が強くなった。同様に直哉もシンガポール陥落後はほとんど沈黙していたため、戦後の「鈴木貫太郎」などで展開した戦争批判も敗戦による変節を示すものとは言えない。
  7. ^ 横捨身技の名人と言われた柔道家の永岡秀一十段のこと。
  8. ^ 以下の表に加え、内幸町において新築の家に転居、松江において最初に住んだ家から別の家に転居、我孫子時代に一時東京四谷の九里四郎の家を借りてそこに転居している。これらの転居と最初の石巻町の家を含めると「転居二十三回」となる(貴田 2015, pp. 153–154)。
  9. ^ 丸谷才一はエッセイ「日本語への関心」(1974年刊行の『日本語のために』に収録)において、「志賀が日本語で書く代表的な文学者であつたといふ要素を考へに入れるとき、われわれは近代日本文学の貧しさと程度の低さに恥ぢ入りたい気持ちになる。(中略) 彼を悼む文章のなかでこのことに一言半句でも触れたもののあることをわたしは知らないが、人はあまりの悲惨に眼を覆ひたい一心で、志賀のこの醜態を論じないのだらう」と述べている。
  10. ^ 三島由紀夫は「日本への信条」(愛媛新聞 1967年1月1日に掲載)において、「私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである」と述べている。
  11. ^ 作中では武者小路は「M」として登場している。

出典

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